もし映画「沈黙 -サイレンス-」の神さまが松岡修造のようにしゃべったら。

映画「沈黙 -サイレンス-」を見てきた。ざっくり言うと、キリスト教を信じるだけで拷問・殺される江戸時代、宣教師が熱心に伝道するほど人は苦しむ、という矛盾に対し、心の中で神に問いかけても何も言ってくれない(沈黙)。神から見捨てられたと感じた宣教師はキリスト教を捨てるが、最後に「沈黙」の意味を知る。

原作が好きなので重いと知りつつ見に行き、やっぱり重い上に音響も沈黙なシーンが多く、ポップコーンを食べるのにも気をつかうので沈黙はやっぱり辛い。拷問される殉教者に、神様が「頑張れ!」と松岡修造ばりに大声で連呼してもらったほうが食べやすいが、そんな神さまもうさんくさい。

この沈黙の意味、原作ではラスト二行で表現され、それによって全ての意味がひっくり返る、という小説「イノセント・ラブ」級の素晴らしいどんでん返し構成なのだけど、映画でも見事に表現されていた。見事な映画だ。

ただ主人公が最後に持っているアイテムに違和感があったので原作を読み返したら、やはり映画オリジナルの演出だった。原作通りなら最後には何も持ってないのが正解だと思うが、キリスト教圏に気をつかったのだろうか。本来ならあそこは何も持ってない、として映画を見た方が良いかも。

以降はネタバレっぽいヒントを含むが、この映画は意識が高いというか、通常の表現よりも次元の高いことをやってのけてる。「見えないものを表現したいのに、見えるものでなければ表現できない」という制作の永遠のジレンマに対し、通常は割り切って、雄弁なセリフや見えるキャラクターを立てて表現する。

しかしこの映画は、見えないもの、聞こえないものをそのまんま「沈黙」で表現しようとしているし成功している。キリスト教がテーマなのに、キリストというキャラもあまりでて来ない。

似ているなと思ったのは、最近大阪で見た「ミュージックフェスティバル チームラボジャングル」だ。真っ黒い空間に光が様々に走るがステージはないし、キャラクターもでて来ない。チームラボの猪子さんによると、観客自らが主役であることを感じてほしいからあえてキャラクターを排したそうだ。

通常、物語や漫画はまずキャラを立てるのが鉄則だけど、その弊害もある。主人公というスーパーキャラクターに、登場人物も読者も依存してしまう。例えばドラえもんがいる限りのび太は依存してしまい大人になれない。

映画「沈黙 -サイレンス-」も、なぜキャラがたった神さまが出てこずに沈黙を守るのか?と考えたときにテーマが見えてくる。沈黙と言いながら実はずっと松岡修造ばりにしゃべってたやん…という展開は必見。

前半、主人公は心の中で様々な葛藤を声にするが、後半になるにつれ静かになっていく。そして最後のエンドロールは波音や虫の音しかしない。だんだんと「沈黙」していく。

それにしてもこの映画のメッセージは深すぎるので、細かくは興味のある方にだけ余談で。

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