表現別「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」の整理。映像・アニメ・小説版

主人公が見た世界を描いていく小説と、主人公がいない状況も撮りやすい映像では、物語の作り方が異なる。あらためてその違いを整理したい。

昨今だと一つの物語が様々な表現に変換されるから、無自覚だと元の表現の作法を引きずってしまうので危険だからだ。

キッカケは、とある事情で岩井俊二の名作「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」を今さら初めて見たことだ。

こちらを見て感動した後、今年の夏公開のアニメ版のサイトで設定を見て、さらにその脚本を担当した大根仁による小説版を読んで、

最後に岩井俊二が新たに書き下ろした「少年たちは花火を横から見たかった」を読んだ。

物語はいずれも面白かったが、興味深かったのは、元々映像作品として作られたものを、小説に落としていく工夫が見えたところだ。

小説は基本、主人公の見た世界を描写していく。状況を判断する外観の情報が少ないので、視点があっちこっち移動すると読者が混乱するからだ。その分、テキストなので心理描写は豊富にできる。

一方で映像は、心理描写は間延びしてしまうので苦手だが、外観情報が多いので、すぐに状況を伝えることができる。そのため、視点を切り替えていく群像劇が多くなる。カットバックによる演出が多いのも同じ理由だろう。

図解するとこのようになる。※漫画、アニメは別途説明。

「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」は元々映像用に作られているので、主人公がいない場面も多い。しかしこれを小説で表現するのはやっかいなのだ。

大根仁による小説版では、主人公がいない場面を、大胆にもアニメ版の脚本をほぼそのまま見せる、という方法を取っていて斬新だ。本のあとがきにもご本人が描写に苦労した点として書いている。

さらに、同じく主人公不在の場面を、岩井俊二の「少年たちは花火を横から見たかった」では、主人公が友達たちから後から聞いたという構成をとっている。これによって視点を主人公に集約している。

このように、表現別に苦手な部分、得意な部分があるため、表現を変換したときにそのギャップをどう埋めるか?というのは整理しておいた方が創作の時に対策をとりやすいだろう。

しかし「打ち上げ花火、下から見るか 横から見るか」は本当に名作だ。最近見たのでなんだけど、こんな素晴らしい映像はあるのかとふるえた。そしてこれを今アニメにしようと企画した川村元気も素晴らしい。アニメ版もヒットするだろうな。今年の夏が楽しみだ。


ちなみに関連して、図でも書いた漫画の情報量とアニメの特徴、あと映像が苦手なファンタジー性については余談なので興味がある方のみに。

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