ホロコーストの原因となった優生学.優勢思想であるアーリアン学説は疑似科学に関する資料PDF魚拓

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhsj/31/182/31_65/_pdf/-char/ja




1151147369さん

2023/4/20 0:46

6回答

ヒトラーはアーリア人を頂点とする優生思想によってドイツ第三帝国を作りましたが ゲルマン人も含まれてたんですか? またアーリア人もゲルマン人もロシアやフランスや広くヨーロッパに分布してたと思いますが その辺をヒトラーはどう考えていたんですか??

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回答(6件)

1251550310さん

2023/4/22 22:08

このアーリア人と言うのは遺伝子的にR1a R1bを指す人達のことを言います。皮肉にもヒトラーが言っていた劣等人種であるロシア人やポーランド人の方がアーリア人的であるんですよ。

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みーさん

カテゴリマスター

2023/4/20 21:13

アーリア人とは、イラン人やインド人のことなのですが(イランとはアーリア人の国という意味です)、ヒトラーはそれを無視、ゲルマン人がアーリア人だと言い張りました。 イラン人やインド人はコーカソイドですが、髪色や目の色は濃い人が多く(イランには金髪の人も少数ながらいるけど)、金髪青目が、アーリア人の特徴では全くありません。金髪青目をアーリア人の特徴とした、ヒトラーは大間違いでした。 ということで、思い込みで適当なことを言うのが、ヒトラーとナチスの性格なので、全く真に受ける必要はありません。 ゲルマン人はアーリア人ではありません。 なお、ドイツが大虐殺したロマ族の人びとは、インド北部から来た、まさにアーリア系の人びとでしたが、ドイツに「堕落したアーリア人だ。」などとされて、大虐殺されました。 ヒトラーとナチスの言っていたことなど、適当で良い加減なことばかりなので、全く、真に受ける価値もありません。大いに馬鹿にして、一切無視してやりましょう。





hog********さん

2023/4/20 20:36

ヒトラーは第一次大戦とドイツの無様な敗戦から着想を得て、民族を「闘争に優れたもの」と「軟弱なもの」に分け、前者を(ヒトラー流の)「アーリア人」とし、後者を「ユダヤ人」としました。で、負けたのはドイツ帝国の国民が純粋な「アーリア人」ではなかったからだ、「ユダヤ人」やユダヤ的なものに影響された軟弱な非純粋「アーリア人」が「背後からの一撃」を加えたせいだ、という説を唱えました。 「ドイツの邪魔をするやつ」=「非アーリア人、ユダヤ人」 「ドイツの味方、一員」=「ゲルマン人」 「理想のドイツの国民」=「アーリア人」 くらいに思ってください。現実の学問用語であるゲルマン人、アーリア人、ユダヤ人とは根本的に異なる概念です。(だからカッコで括りました) 無根拠で意味不明なトンデモ説ですがコレがまあ敗戦に打ちひしがれたドン底ドイツ人達にウケました。 ですので、フランスやロシアに居た「ゲルマン人」達が力を合わせ、非アーリア的な奴らを排除することでのみドイツは次の世界大戦を生き延びることが出来るのだーー!。邪魔するやつは軟弱者=ユダヤ人だー。スラブ人は勿論フランス人も邪魔するやつは非アーリア人だー!。というのが彼の考えです。「ゲルマン人」を「日本人」に、「ユダヤ人」を「○国人」に置き換えれば今でも似たようなことを言っている人は少なくありません。ある意味よくある陰謀論的考えではあります。





nih********さん

カテゴリマスター

2023/4/20 14:50

ヒトラーの言う「アーリア人」とは「アーリアン学説」に 基づいたアーリア人のことです。従って、インド・ヨーロッ パ語族の諸言語を使う全ての民族が「アーリア人」です。 「アーリア人」の中にゲルマン人は当然含まれます。 アーリア人⊃ゲルマン人です。尚、「アーリアン学説」は 疑似科学とされています。 ヒトラーは、ヨーロッパに広く分布していた「アーリア人」 を「純粋なアーリア人」と「雑種化したアーリア人」に 分けていて、ゲルマン人を「純粋なアーリア人」として います。 それ以外の「アーリア人」は「雑種化したアーリア人」と して下に見ています。ドイツやオーストリア以外のヨーロッ パに広く分布しているゲルマン人は混血が進んで雑種化して いると考えられるため、純粋なアーリア人とは見なされない でしょう。ヒトラーの考えではゲルマン人の中でもドイツ民 族が最も「純粋なアーリア人」で最上位に位置づけられます。 もちろん、ドイツ民族でも先祖や両親がユダヤ人と混血して いれば「汚染された」雑種になります。 しかし、現実問題として混血の判断や人種の「純粋さ」など は、DNAが遺伝と関わっていることが認められていなかった 当時の科学では調べようがありませんから、政治的都合で、 ユダヤ人の定義も決められることになります。 アーリアン学説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%AD%A6%E8%AA%AC





とほふしさん

2023/4/20 8:15

アーリア人というのは、ヒトラー時代には、いわゆる「コーカソイド」=「白人」を指す言葉で、当然、ゲルマン人も含まれています。より広く、インド・ヨーロッパ語族全体を指す場合もあります(インド人は南下して肌が浅黒くなっていますが)。 だから、ヒトラーがアーリア民族の優秀性ということを演説などで強調していたのは、セム語族のユダヤ人を除外するという意識があったのでしょう。セム語は旧約聖書などにも使われていた言葉です。 ヒトラーは、こういう細かい事について、わりとオタク的に拘った人物であり、日本と軍事同盟を結んだ際も、日本のアイヌ人=白人説を唱え、だから日本は準白人国だなどという妙な小理屈を述べています。まぁ当時の一般的なドイツ人の偏見に満ちた人種・民族観を持っていたのがヒトラーです。 同じゲルマン系のイングランド人やフランス人(の上層階級)は、国内や連邦内に非ゲルマン系の民族を抱えているので、異民族との混在には慣れており、ドイツ人ほどそういう拘りを持っていない。 しかし、今は伝統的かつ典型的なゲルマン民族国家である北欧三国やオランダなどにも有色人種の国民がいるようであり、複雑かつ微妙な問題が起きているらしい。しかし、この問題に触れるのは、現代の日本でも禁忌されているようであり、物言えば唇寒し4月の中空、といったところか。
回答(6件)

知りませんかさん

2023/4/20 2:04

いえ、ヒトラーとナチスのいう「アーリア人(アーリア人種)」とは”実在しない”超人類のことです。 インドヨーロッパ語族の言語学上のいち分類のアーリア人とは全く違います。 他の人種(=民族)よりすぐれた人種が存在し、それがアーリア人種であるという間違った概念を吹聴したのがナチスで、このアーリア人種を祖先にもつのがゲルマン人(ドイツ人)であり、だからこそアーリア人に最も近いドイツ人は「支配人種」であるという主張をして、ゲルマン人をアーリア人化するには、血の汚れを排除して純化することが必要であり、故にユダヤ人や黒人やロマをこの世から抹殺しなければならないと唱えました。 ヒトラーやナチスのいうアーリアン学説が完全なエセ科学であり、間違いです。現実のものではありません。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13278792388?sort=1&page=2

https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/germany/data.html


一般事情

1 人口

約8,482万人(2023年6月、独連邦統計庁)

2 面積35.7万平方キロメートル(日本の約94%)
(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランス、オーストリア、スイス、チェコ、ポーランド、デンマークの9か国と国境を接する)


3 首都

ベルリン(約386万人)(2023年、ベルリンーブランデンブルク統計庁)

4 言語

ドイツ語

5 宗教

カトリック(24.8%)、プロテスタント(22.7%)、ユダヤ教(0.1%)

6 国旗

1949年、基本法にて定められた黒赤金三色旗

7 国歌

戦前から引き継いだもの(ハイドン弦楽四重奏「皇帝」を使用)、但し歌詞は三番のみを使用
8 略史

年月 略史 378年 ゲルマン民族、ローマ帝国領内に侵入 911年 選挙王政による初代ドイツ国王コンラート一世即位 962年 神聖ローマ帝国成立(~1806年) 1701年 プロイセン王国成立(~1871年) 1871年 ドイツ帝国成立(いわゆる「ビスマルク憲法」制定) 1918年 ドイツ革命、ワイマール共和国成立 1933年 ヒトラー首相に就任、ナチ党の一党独裁制確立(~1945年) 1949年 西独基本法の成立、西独、東独の成立 1955年 パリ条約発効、西独主権を取得。西独、NATOに加盟。東独ワルシャワ条約機構に加盟 1961年 「ベルリンの壁」構築 1972年 東西両独、基本条約を締結、関係正常化 1973年 東西両独、国連加盟 1989年11月 「ベルリンの壁」崩壊 1990年7月 両独通貨・経済・社会同盟発足 1990年9月 両独間「統一条約」発効 1990年10月3日 統一

政治体制

1 政体

連邦共和制(16州:旧西独10州、旧東独5州及びベルリン州。1990年10月3日に東西両独統一)

2 元首

フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー大統領(2017年3月19日就任。2022年2月再選。任期5年)

3 議会

二院制(但し、連邦議会と比べ連邦参議院の権限は限られている。)(1)連邦議会定数 598議席(任期4年)。但し、調整議席を含め、現在736議席。小選挙区制を加味した比例代表制の直接選挙により選出。

ドイツ連邦共和国

ドイツ連邦共和国(Federal Republic of Germany)

基礎データ

ドイツ連邦共和国は、カトリック教会・プロテスタント教会・ユダヤ教会系の国で成人に対するお酒の販売の可能で居酒屋等で飲酒が可能なお酒をたしなむ国である。
ドイツ国民は、主にカトリック教会・プロテスタント教会・ユダヤ教会と関わりがあります。
対して本来のアーリア人は狭義の定義でアムダリヤ川周辺の地理的に不明であるがトゥーラーンと呼ばれる地域が出自のイスラム教徒のイラン系民族を指す言葉とされます。トゥーラン地域でもゾロアスター教徒は飲酒すると思われます。
アレビィー派のトルコがイスラム教徒の国にも関わらず飲酒が合法な例外を除きイラン等の多くイスラム教の国ではクアルーン等で飲酒も酒の販売も飲酒も禁じられています。


イスラム教における飲酒(イスラムきょうにおけるいんしゅ)の項目では、イスラム教徒の関係について記述する。

概論

イスラム教において飲酒は、クルアーンに飲酒を禁じる記述がある等、一般に禁止(ハラーム)とされている。現在のイスラム教国では、多くの国で飲酒が禁止されており、それらの国々では酒の醸造や販売も当然禁止されている。

但し、ウマル・ハイヤームの「ルバイヤート」などの詩歌では酒屋や酒場もしばしば登場しており、飲酒は宗教上は禁止でも歴史的には必ずしも遵守されていなかったことも伺われる。また、イスラム教において酒が禁じられているのは現世においてであり、天国には酒の流れる川があり、悪酔いの心配もなく自由に飲酒することができるとされている。

イスラム神秘主義では、酒はの偉大さを讃える比喩として重要である。神秘主義詩等では酒への称賛が詠まれているが、それらは酒への賛美ではなく、真の意味はへの称賛だとされる。

なお、トルコ等で少数派として存在するアレヴィー派においては、他派と異なり飲酒は合法とされている。

イスラム法と飲酒

イスラム法では飲酒を明確に禁止している。ただし、飲酒の禁止に至るまでには以下の経緯があり、酒に関して計4節がアッラーによって下されたとされる[1]。初めにメッカで、第16章67節『また、ナツメヤシとブドウの果実からも。お前たちはそれから酔わせるものと良い糧を得る。まことに、その中には思考する民への徴がある。』が下された。この時はまだ酒は禁止されていなかった。
次にマディーナで、ウマル・ブン・アル=ハッターブ、ムアーズ・ブン・ジャバルたちが預言者ムハンマドの許を訪れて、「アッラーの御使い様、酒と賭け矢について私たちに法判断を下してください。どちらも理性を去らせ、財産をなくさせるものです」と問うた。これに答える形で、第2章219節『彼らは酒[注釈 1] と賭け矢についておまえに問う。言え、「その二つには大きな罪と人々への益があるが、両者の罪は両者の益よりも大きい」。また彼らは、なにを(善に)費やすべきかとおまえに問う。言え、「余分なものを」と。こうしてアッラーはおまえたちに諸々の徴を明らかにし給う。きっとおまえたちは考えるであろう。』が下された。そこである人たちは「罪が大きい」という言葉より酒を遠ざけたが、またある人たちは「人々への益がある」という言葉より酒を飲み続けた。
アブドゥッラフマーン・ブン・アウフが預言者ムハンマドの弟子たちを食事に招いて、酒を飲ませた。日没の礼拝の時間が来たので人々は一人に礼拝の先導をさせ、彼はクルアーンを読誦したが「言え、不信仰者たちよ、おまえたちが仕えるものに私は仕える」と否定詞抜きに最後まで読んでしまった。そこでアッラーは、第4章43節(の冒頭)『信仰する者たちよ、おまえたちが酔っている時には、言っていることが分かるようになるまで、礼拝に近づいてはならない。』を下して、礼拝時の飲酒を禁じ給うた。そこで人々は礼拝の時には酒を遠ざけたが、ある人は夜の礼拝後に酒を飲んで、酔ったまま朝を迎え夜明け前の礼拝をし、その後また酒を飲んで、昼の礼拝時にはしらふに戻っていた。
ある時、マディーナの信者であるイトバーン・ブン・マーリクがメッカのクライシュ族の移住者であるサアド・ブン・アブー・ワッカースを含むムスリムたちを食事に招いた。彼らには焼いたラクダの頭部が振る舞われた。人々は食べ、酔うまで飲み、その状態で家柄の自慢を始め、詩を歌った。ある人たちが自分の一族を誇る歌を歌って、マディーナの信者たちを笑い者にした。そこで彼らの一人がラクダの顎の骨をつかみそれでサアドの頭を叩いて、重傷を負わせた。サアドは預言者に訴えた。すると、ウマルは、「アッラーよ、私たちに酒についてはっきりとした明証を示し給え」と言った。アッラーは第5章90-91節『信仰する者たちよ、酒と賭け矢と石像と占い矢は不浄であり悪魔の行いにほかならない。それゆえ、これを避けよ。きっとおまえたちは成功するであろう。/悪魔は酒と賭け矢によっておまえたちの間に敵意と憎しみを惹き起こし、おまえたちをアッラーの唱念と礼拝から逸らそうとしているにほかならない。これでおまえたちもやめる者となるか。』を下し給うた。そこでウマルは、「主よ、私たちは止めました」と言った。


日本においては実際処罰の対象がないことなどから、信仰の弱いイスラム教徒の飲酒も冠婚葬祭などみられることがあるが厳格なイスラム教徒は飲酒しない。[要出典]

クルアーンに記されている酒らしき飲み物を表す語句には「真白」、「強い飲み物」、「ハムル(ワイン)」があるが、酒の定義に関してイスラム法学者のあいだで古くから議論がある[2]。例えば、クルアーン成立後に開発された蒸留酒アラックはクルアーンで禁じられたハムルなのか、果汁が自然発酵して酒になった場合廃棄すべきか、などの疑問である。スンナ派4法学派のうち、オスマン帝国で支配的だったハナフィー派はもっとも酒に関して寛容な立場をとった[2]

イスラム文学と飲酒

イスラム文学における飲酒とのかかわりも様々である。

アブー・ヌワースは、禁酒がイスラム教において新説であると主張したり、禁酒を唱える宗教指導者たちの頂点に立つカリフが飲酒をしていることを暴露するなどして、自身の飲酒が合法(ハラール)であると強弁した。

ウマル・ハイヤームは「ルバイヤート」において、天国や地獄などのイスラム教の説く教義に対する不信感をしばしば露わにし、それらの対極にある現世での飲酒を讃えた。

神秘主義詩においては、酒はの隠喩であり、酒への称賛を通して神やイスラームへの称賛が行われた。

現代のイスラムにおける飲酒

現在ではイスラム原理主義の勢力の及ばないトルコ欧州アルバニアボスニア)、インド中央アジアなどでムスリムの公然とした飲酒文化が存続している。特に中央アジアの遊牧民にとっては馬乳酒は生活に欠かせないお酒となっている。とはいえ公式行事での飲酒は避けることが多く、日本を訪問したイスラム圏の元首王族などが皇居で催される宮中晩餐会や午餐会で乾杯を行う際は、通常用いられるシャンパンに替えて同色のりんごジュースジンジャーエールなどで代用することもしばしばあるという。アルコールを許容するかどうかについては個人差がかなりある[3]

アフガニスタン・イスラーム共和国

アフガニスタンでも公式に飲酒が禁止されているが、歴史的にゾロアスター教仏教が隆盛であったことから、飲酒は盛んであったと思われる。

パキスタン・イスラーム共和国

パキスタンではバングラデシュと同様、イスラム教徒の飲酒が禁止されている。 なお、外国人向けの酒類が少量製造されているが、トルコなどと比較すると出荷量は極端に少ない。イスラマバードにおいては、外国人向きに飲酒許可書も発行してくれる。また非イスラム教徒向きに豚肉を取り扱っている店舗もみられる。

バングラデシュ

イスラム教徒に対しての飲酒は違法であるが、外国人向きにパスポートの提示で購入することが可能とされる。

マレーシア

マレーシアではイスラム教徒の飲酒は禁止されており、発覚した場合は鞭打ち刑などの執行例がある。 しかし、多民族国家であるマレーシアでは、非イスラム教徒の場合は飲酒に限らず、豚肉食なども正式に認められている。

イラン・イスラーム共和国

イラン・イスラーム共和国では公式には飲酒は禁止されている。しかし、イラン革命以前は禁止されておらず、また現在でも実際は多くの国民がひそかに飲酒を楽しんでいる。歴史的に見てもイラン(ペルシア)では飲酒が盛んであり、酒をうたった多くの神秘主義詩があるほか、世俗的立場から飲酒の享楽をうたった詩人(ウマル・ハイヤームなど)もいる。

イラク

イラクでも公式に飲酒が禁止されている。しかし、アッバース朝の最盛期にはバグダードの宮中でも酒宴が行われていたとされる。

イエメン

イエメンでは公式に飲酒が全面禁止されている。ソマリアと同様、カートの栽培が盛んである。

クウェート

飲酒は全面禁止である。

インドネシア

国民の9割がムスリムであるインドネシアであるが、酒の販売は法律で認められている。多くの国民には飲酒の習慣がないが、ムスリム以外の少数民族の中には、独自の酒の文化もある。ビンタンなど、酒造企業もある。また、ムスリムの中でも戒律をさほど重視しない者もおり、経済成長や、日本欧米の食文化が流入していることも相まって、ムスリムでも飲酒を楽しむ者が増えつつある[4]

また非イスラム教徒向きに、豚肉を取り扱っている場合もある。

ただし、シャリーアに基づく自治を認められているアチェ州は例外であり、酒の販売は禁じられている。シャリーアは元来ムスリムのみが対象であったため、ムスリム以外が酒を販売することは許されていたが、2015年以降はシャリーアがムスリム以外にも適用されるようになったため、キリスト教徒が酒を販売したとして、鞭打ちに処される事例もある[5]

トルコ

国民の99%がイスラム教徒であるが、世俗化の影響もあって飲酒が非常に盛ん。一方で豚肉食は依然としてタブーである。

トルコ国内で生産されるアルコール飲料としてはトルコワイン(シャラプ)、エフェスなどのビール(ビーラ)、ラクが有名。ボザも消費されている。

飲酒以外のアルコール

工業や消毒におけるアルコールの使用は飲酒行為と見做されず、認可されることが多い。21世紀以降は各国の認証機関もこの立場を取っている[6]

しかし、非イスラム教圏を含む一部地域では「ムスリムはアルコールの使用が全て禁止」という認識が未だ残っており、現場の理解もまちまちである[6]。逆に、認証制度が出来たことによってアルコールを過剰意識してしまい、病院の消毒用アルコールを嫌がるケースも確認されている[7]

2009年のサウジアラビアではアルコールを使用したバイオ燃料の使用に反対するシャイフが登場した[8]

イスラム圏で開催されるスポーツイベントでは、通常行われる表彰式でのシャンパンファイトを自粛する、もしくは別の飲料で代用することが多い。例えばフォーミュラ1(F1)の場合は、シャンパンファイトにバラ水(ローズウォーター)を代用として用いている。

イスラム教における飲酒出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

従ってカトリック教会・プロテスタント教会のキリスト教徒とユダヤ教会のユダヤ教徒がいて多く飲酒文化のあるドイツ国民までアーリア人に含めてしまうナチスドイツの広義のアーリア人説を採用するアーリアン学説は宗教的にも民族的にも飲酒文化的にも問題ありだと私は思います。


アーリア人(アーリアじん、: Aryan, : Arier, サンスクリット: आर्य, ペルシア語: آریا‎ )は、民族系統の呼称。広義と狭義で対象が異なり、広義には中央アジアステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループを指し、狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。

概要

前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後はテュルクモンゴル民族の勃興と中央アジア北部インド西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。

現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人ペルシア人タジク人北部インドの諸民族などがあり[1]、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。

この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。

アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという[2]

これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)
イラン・アーリア人
広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念)
インド・アーリア人
狭義のアーリア人
ペルシア人
パシュトゥーン人
タジク人
北インド諸民族
最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種)
インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫


広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝ペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。

現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。 ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー1979年イラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。

尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムナチズムと結びつき、人種差別優生学を生み出した。しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。詳細はアーリアン学説の項を参照のこと。(インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、インド・ヨーロッパ祖語en:Proto-Indo-Europeansクルガン仮説を参照)。

本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。

本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
アーリア人出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


トゥーラーン (ラテン文字: Tūrān, ペルシア語: توران‎) またはツランは、ペルシア語中央アジア付近の地域のこと[1]

概要

トゥーラーンとはイラン神話の登場人物トゥール英語版)に由来し、トゥールの土地という意味である。またトゥーラーン人はアムダリヤ川以北に住む民族で、イラン人と対比される民族である。トゥーラーン人はゾロアスター教の根本教典『アヴェスター』に登場するので、紀元前15世紀頃には居たようである。古代のトゥーラーン人はイラン系民族だったが[2][3][4]、6世紀頃から7世紀ごろ、アムダリヤ川の北に居るテュルク系民族を指す様になった。11世紀に書かれた『シャー・ナーメ』でもイラン神話を踏襲しつつも、文化的にはトゥールはテュルク系民族としており[5]、中央アジアで古代のイラン人とつながりのないテュルク化が徐々に進んだという説もある[6][7]。20世紀の西洋ではトゥーラーンは中央アジアを指すようになり、アルタイ諸語及びウラル語族(現在は支持されていないが、当時はウラル・アルタイ語族と呼んだ)系民族を表すイデオロギー的な用語として使用された。トゥーラーンは人名としても使用され、中東地域で一般的に見られる姓である。ジャコモ・プッチーニのオペラ「トゥーランドット」もこれに由来する。

用語

古代文学

アヴェスター

トゥーラーン人に関し現存する最古の記録は約2,500年前(言語学者推定)に構成されたアヴェスターのフラワシヤシュト英語版)に見られる[8]。「アヴェスター」には様々な部族の名前が記されており、彼らは互いに近い地域に暮らしていた。Gherardo Gnoli教授によれば、ヤシュト人、アーリア人、トゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisは繰り返し現れるイラン系民族である[9]アヴェスターの賛美歌によれば、形容詞形であるトゥールヤー(Tūrya)はFraŋrasyan(シャー・ナーメではアフラースィヤーブと表記)のようなゾロアスター教の様々な敵と関連性がある。トゥールヤーという単語はガーサース英語版)には1回しか現れないが、アヴェスターの後半部分には20回も登場する。

トゥーラーン人はアヴェスターにおいて、SairimasやSainus、Dahisよりもより重要な役割を担っている。ゾロアスター自身はアーリア人に広く受け入れられたが、彼は周辺地域の他の部族にも説法をして回っていた[9][10]

メアリー・ボイスによれば、フラワシのヤシュト(143-144節)では、アーリア人(彼ら自身のことをアヴェスター人と呼んだ)の間だけでなくトゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisの間でも、正しい男女のフラワシが褒め称えられている。また、彼らの個人名にはイラン系民族の特徴が見られる[11]。トゥーラーン人とAiryaの間の敵対はフラワシのヤシュト(vv. 37-8)でも示されており、そこではフラワシはトゥーラーン人の集団に似た[12]Danusに対する戦争の援助を提供していると言われている。従って、アヴェスターでは、ゾロアスター教を信仰するようになったトゥーラーン人もいれば、拒否した者もいた。

ゾロアスター教の古代の拠点と同様に、トゥーラーンの正確な地理や場所は不明である[13]。アヴェスター後の伝統においては、トゥーラーン人はアムダリヤ川以北の地域に住んでいたと考えられており、アムダリヤ川はトゥーラーン人とイラン人を分け隔てていた。イラン人との絶え間ない抗争に見られる彼らの存在は、独立した国家や祖国の誇り、防衛に血を流す覚悟としてイラン人の定義を定める役割も担った[14]。アヴェスターやシャー・ナーメに見られるトゥーラーン人の一般的な名前にはアフラースィヤーブ[15]やアグラエスラ(Aghraethra)[16]、ビデラフシュ(Biderafsh)[17]、アルジャスパ(Arjaspa)[18]、ナムフワスト(Namkhwast)[19]が含まれる。アヴェスターに現れるものを含めたイラン系民族の名前はアヴェスターに現れる個人名の語源に関した概説書「Iranisches Personennamenbuch, I: Die altiranischen Namen. Faszikel l, Die Avestischen Namen」の中で、Mayrhofer教授により研究されている[20]

サーサーン朝後期と初期イスラム帝国時代

歴史における、遊牧系民族による北東部の境界への継続的な侵入によりトゥーラーン人の記憶が生き続けることとなった[14]。6世紀後、他の部族により西へと追いやられたテュルク系民族はイラン系民族と近接して暮らすようになり、トゥーラーン人と認識された[14][21]。テュルク系民族をトゥーラーン人と識別するようになったのは7世紀前半頃とされている。テュルク系民族は6世紀にイラン系民族と初めて接触した[22]

C.E. Boseworthは以下のように述べている[23]
イスラム時代初期、ペルシア人はホラーサーン北東部と、フェルドウスィーシャー・ナーメではフェリドゥーンの息子トゥールに割り当てられた土地とみなされていた、トゥーラーンの地域にあるアムダリヤ川より手前にあるすべての土地を自分たちの土地と考える傾向にあった。トゥーラーンの住民にはテュルク系民族が含まれていた。彼らはイスラム帝国建設以降の4世紀の間は本質的にヤクサルテス川を超えた地域で遊牧生活を送っていた人々であり、彼らの領土をさらに超えた地域には中国人が住んでいた (Kowalski, Minorskyの「Turan」を参照)。その後トゥーラーンは民族的、地理的用語として使用されるようになったが、この用語には常に曖昧さや矛盾が含まれていた。これは、イスラム帝国時代を通してトゥーラーンの土地はアムダリヤ川を超えるとすぐの地域であり、同時にその下流域はソグディアナ人やホラズム人のような、テュルク系民族ではなくイラン系民族である人々の故郷であったという事実から生じている。
テュルクという単語とトゥーラーン人という単語はイスラム帝国時代にほぼ同義語として使用されるようになった。シャー・ナーメ(王の書)では2つの用語を同等なものとして使用している。Tabariやハキーム・イーラーンシャーを含む他の作家もこれに続いている。はっきりとした例外としてアラブの歴史家アブル=ハサン・アリー・イブン・マスーディー(Abl-Hasan Ali ibn Masudi)がおり、彼は「アフラースィヤーブはテュルクの土地において誕生しており、歴史家や非歴史家が彼をテュルク人であるとみなす誤りを犯すのはこれが理由である。」と述べている[24]。10世紀までに、アフラースィヤーブの神話はカラハン朝に取り入れられた[15]サファヴィー朝時代には、シャー・ナーメから続く使用法の伝統により、トゥーラーンという用語はサファヴィー朝と対立するウズベク・ハン国の領域を指す用語として用いられた。

複数の言語学者が、トゥーラーンという単語はインド・イラン語派の語根トゥーラ(tura、強い、速い、剣(パシュトー語)を意味する)に由来していると述べており、パシュトー語でトゥーラーン(thuran)は「剣士」を意味する。他の関連として、古ペルシア語でトル (tor、闇や黒を表す)が指摘されており、これは新ペルシア語の「タール(tār)、パシュトー語のトル(thor)」との関連性がある。このケースでは、アールヤー(Ārya)に暮らすゾロアスターの「明るい」文明と対比して、中央アジアの遊牧民の文明を「昏い」文明であると表現するために用いられたと考えられている。
シャー・ナーメ

ペルシアの叙事詩シャー・ナーメでは、イーラーンアールヤー(Ārya)の土地を意味するように、トゥーラーンという単語(トゥールヤー 、Tūryaの土地を意味する)はイラン東部の境界、アムダリヤ川の対岸より先に居住する住民を表していた。シャー・ナーメに収録されている創世神話によれば、フェリドゥーン王は3人の息子を儲けた、サルムとトゥール、イーラジュペルシア語版英語版)であり、彼らは世界を三分し、小アジアはサルムにトゥーラーンはトゥールに、 イーラーンはイーラジュに与えられた。兄2人は1番年下の弟を殺害したが、彼らは弟の孫により復讐され、イーラーンの支配者となった。しかし、シャー・ナーメでは戦争は世代を超えて継続されたと記されており、トゥーラーンという単語は約150回使用され、イーラーンという単語は約750回使用されている。

シャー・ナーメには以下の文が記されている。
نه خاکست پیدا نه دریا نه کوه

ز بس تیغداران توران گروه

トゥーラーン軍の剣士の多くは
砂、海、山脈を見たことがない人々だ。

تهمتن به توران سپه شد به جنگ

بدانسان که نخجیر بیند پلنگ

力強い肉体を持ったロスタムはトゥーラーン軍との戦いに赴いた、
獲物を見つけたヒョウのごとく。
近代文学

地理20世紀初頭より、トゥーラーンという単語は西洋諸国の言語において中央アジアを表す一般的な用語として使用されてきた。トゥーラン・プレーンやトゥラン低地は 中央アジアの一部を表す地理学用語である。

トゥーラーン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



科学的な批判

しかし、近年になって言語学を初めとする各分野から科学的な反証が行われ、アーリアン学説自体がその信憑性を大きく失いつつある。明確にアーリアン学説を疑似科学であると厳しく批判する学者が大勢を占めた今日では、ほとんど棄却された仮説と言える。

現在、「アーリア人」はインドに移住してきたインド・アーリア人、イランに移住してきたイラン・アーリア人およびそれらの祖先のみを指す場合が多い。インド・イラン語をかつて話していた、また話している諸民族はしばしばアーリア人と呼ばれる。言語学・音声学研究者の神山孝夫は、この呼び名を「印欧人」全体の意味で用いるのは誤りであり、民族社会主義者が1930年代と40年代にユダヤ人に対して非ユダヤ人を敵対させるために用いたものであるから、なおのこと利用すべきではないと述べている[21]

アーリアン学説出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


名誉アーリア人(めいよアーリアじん、ドイツ語: Ehrenarier)とは、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の基準によれば、アーリア人種に属するとは認められなかったが、非公式にその一部であると見なされた、ミッシュリンク英語版)を含む人々の非公式な地位を表すためにナチス・ドイツで使用された用語[1]

「名誉アーリア人」の地位がナチスによって他の非北方人種(または更に少数だが、非インド-イラン/ヨーロッパ人種)に授けられた理由に関する一般的な説明は、それらの人々の貢献がドイツの経済や戦争遂行のために、または単に政治上またはプロパガンダ上の理由で価値があると見なされたためである[2]

ナチスの傀儡政権であるクロアチア独立国では、この用語は、国家に貢献していた一部のユダヤ人を迫害から保護するためにアンテ・パヴェリッチによって使用された[3]

主要な包含物ヒトラーは、日本人[4][5][6][7]フィン人マジャル人トルコ人はアーリア人であると宣言した[8][9]
アラブ人であり、イギリス委任統治領パレスチナムフティーであるアミーン・フサイニーは、ナチスから「名誉アーリア人の地位を与えられた」のに対し[10][11]、ヒトラーはアラブ人全体を「半猿」と見なしていた[12][13][14]
シュテファニー・ツー・ホーエンローエは、ハインリヒ・ヒムラーによって名誉アーリア人と宣言された[15]
ヒトラーの最初の個人運転手であり、非常に初期のナチ党員であるエミール・モーリスSSのメンバーだったが、モーリスの曽祖父はユダヤ人であったため、SSの男性は純粋なアーリア人の祖先を持つ必要があるというハインリヒ・ヒムラーの基準を満たしていなかった。 ヒムラーは彼を安全保障上のリスクと見なし、彼を取り除こうとしたが、ヒトラーはモーリスの側に立ち、1935年8月31日付の極秘の手紙で、ヒムラーにモーリスと彼の兄弟がSSに留まることを許可するよう要求した。 彼らは「名誉アーリア人」と見なされた[16]
作曲家フランツ・レハールの妻であるゾフィー・レハール(旧姓パシュキス)は、結婚してカトリックに改宗する前はユダヤ人だった。ヒトラーはレハールの音楽を愛好し、ナチスはそれを宣伝に利用していた。ヨーゼフ・ゲッベルスがレハールのために仲介した後[17]、レハール夫人は1938年に結婚によって「名誉アーリア人」の地位を与えられた[18]。このことは実質的に彼女の命を救った。戦時中、彼女を国外追放する試みが少なくとも1回行われたが、それは彼女の地位を理由に中止された。
ヒトラーの母を治療したエドゥアルド・ブロッホはユダヤ人であったが、1938年のアンシュルス後もゲシュタポの保護下に置かれ、1940年にはアメリカへの亡命を許可されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%AA%89%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA
名誉アーリア人出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://www.ifz-muenchen.de/heftarchiv/1998_2_1_steiner.pdf



名誉人種(めいよじんしゅ)とは人種差別政策を行っている政権・制度下において、本来ならば差別されるはずの人種を、差別されない側の人種として扱う制度である。

名誉人種として扱われる理由にはいくつかあり、外交関係や経済関係など実益的な理由によって、特定の国籍を名誉人種とするものや、権力者と個人的に懇意にしている人物が特例として扱われるものなどがある。

主な例

南アフリカ

南アフリカ共和国の白人」も参照

南アフリカ共和国で1948年から1994年まで実施されていたアパルトヘイト(アフリカーンス語で「分離」の意味)制度の下では、外国人を含めて、有色人種は総じて差別的な扱いを受けてきた。ただし印僑カラードは議会の議席など、黒人には認められない一定の権利が認められ、有色人種の中でも待遇の違いがあった。

日本国籍を有する者は、1961年1月19日から、経済上の都合から「名誉白人」扱いとされていた[1]。これは欧米諸国がアパルトヘイトを続ける南アフリカとの経済関係を人道的理由により縮小する一方で、日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国になっていたからである。国際的に孤立していた南アフリカと数少ない国交を持っていた中華民国台湾)籍の者は白人として扱われた[2][3]。また、香港からの華僑華人も名誉白人と扱われた[4][5]。ただしこれらの扱いはあくまで国策上の法的措置であり、民間における差別感情や、それにともなう差別行為が無かったわけではない。

1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して文化交流の禁止や経済制裁に動く中、日本は逆に南アフリカの最大の貿易相手国(アメリカ合衆国ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)[注 1]。アパルトヘイトに対する国際的な非難と世界的な経済制裁が強まる中、南アフリカとの経済的交流を積極的に続ける日本の姿勢もまた批判の対象となり、1988年国連総会で採択された「南アフリカ制裁決議案」の中で日本は名指しで非難された[6]

南アフリカにおける名誉白人という地位は日本国内においても問題視され、1988年の国会外務委員会においては、岩垂寿喜男が自らの質問の中で、三井物産社内報「三井海外ニュース」の「ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えない狡猾(こうかつ)さがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い」という一節や、日本・南ア友好議員連盟幹事であった石原慎太郎による「アメリカでは黒人を使って能率が落ちている。黒人に一人一票やっても南アの行く先が混乱するだけだ」といった発言を取り上げた。岩垂は「名誉白人ということは決して名誉な称号ではないと思います」と、これらの言説を批判した[7]

一方で、19世紀ゴールドラッシュ苦力としてやってきた中国系移民もアパルトヘイトの対象となったものの、中国語を話す他の華僑や華人と見分けのつかないことから投票権を除いて事実上名誉白人に準じた扱いを享受していた曖昧な法的地位ゆえに[8]、黒人経済権限付与計画や積極的差別是正措置が適用されず大きな問題となっていたが、2008年6月18日に南アフリカの高等裁判所において、中国系住民を黒人と同様に扱うという逆転的な名誉人種の適用を受けることとなった[9]

ドイツ

ナチス・ドイツでは一部のユダヤ人などが名誉アーリア人として扱われ、ホロコーストなどからも除外されていた。また、当時ナチスは、『我が闘争』(アドルフ・ヒトラー著)に書いてある通り、アーリア人こそが至高だと考えるアーリアン学説を掲げており、アジア人を含む異色人種をアーリア人に次ぐ二流民族と差別していた。ヒトラーが若い頃に書いた『我が闘争』では日本人も差別対象に含まれていたが、三国同盟を結んで日本が友邦になると一転して日本人を名誉アーリア人として整合性を図った。

その他

一方、平等を求める活動から逆に名誉黒人の称号を授与された白人の黒人権利擁護運動家などもいる。

脚注

[脚注の使い方]

注釈^ “参議院会議録情報 第112回国会 決算委員会 第6号”. 議事録 (国立国会図書館)。日本政府の対応については、外務省の当該答弁を参照。


出典^ 楠原彰『アパルトヘイトと日本』亜紀書房、1988年6月。ASIN 4750588113ISBN 978-4750588117
^ 伊藤正孝南ア共和国の内幕―アパルトヘイトの終焉まで中央公論新社中公新書〉、1992年5月。ASIN 4121902432ISBN 978-4121902436
^ 『中国年鑑』大修館書店、2009年。
^ South Africa: Honorary Whites, TIME, 19 January 1962
^ A Matter of Honour: Being Chinese in South Africa, Yoon Jung Park, Lexington Books, 2008 page 159
^ 河辺一郎『国連と日本』岩波書店、1994年。
^ 第112回国会 外務委員会 第6号 昭和六十三年四月十三日
^ “In South Africa, Chinese is the New Black”. WSJ. (2008年6月19日) 2017年11月24日閲覧。
^ “南ア裁判所、中国系住民を「黒人」と裁定 優遇措置の対象に”. AFP BB News. フランス通信社. (2008年6月20日) 2008年6月20日閲覧。

名誉人種出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




人種差別主義者とは、生来の受け継いだ性質が、生物学的に人間の行動を決定すると信じている人々です。 人種差別主義では、血筋が国民性や民族性の基準であると主張します。 人種差別主義者の枠組みの中では、人間の価値はその人の個性ではなく、いわゆる「人種的な共同国家」の一員であることによって決まります。 科学者を含む多くの知識人が、人種差別的な考え方を擬似科学的に支持しました。 ヒューストン・ステュアート・チェンバレンなどの19世紀の人種差別主義思想家は、アドルフ・ヒトラー世代の多くの人を感化しました。

反ユダヤ主義(誤った生物学的理論に基づいたユダヤ人に対する偏見や嫌悪)をはじめとする人種差別は、常にドイツ国家社会主義(ナチズム)の不可欠な要素でした。 ナチスは人類の歴史すべてを、さまざまな人種間での生物学的に定められた闘争の歴史であると捉えました。 ナチスは、マルクス主義、共産主義、平和主義、国際主義などの政治運動は、反国家主義であり、危険な人種に基づいたユダヤ主知主義を表すものだという仮定しました。1931年、親衛隊(シュッツシュタッフェル、ナチス国家のエリート精鋭護衛兵)は、隊員の適切な婚姻の「調査」を行って決定する人種および移住本部を創設しました。 ナチスは政権を握ると、1935年にニュルンベルク法を定め、ユダヤ人であることの推定上の生物学的な定義をまとめました。

ナチスの人種差別主義者は、精神障害者や身体障害者を、いわゆる最も優れた人種の遺伝的展望を汚すものとして、またその増殖を純粋なアーリア人種を生物学的に脅かすものとして捉えました。 1939年の後半、慎重に計画を立ててデータを収集したドイツ人医師たちは、彼らが遠回しに「安楽死」と呼んだ作業において、ドイツ全土の施設に収容されていた障害者を殺害し始めたのです。

人種に関するナチスの理論によると、ドイツ人とその他の北ヨーロッパ人は、より優れた人種である「アーリア人」と位置付けました。 第二次世界大戦中、ナチスの医師たちは偽りの人体実験を行い、アーリア人の優越性と非アーリア人の劣等性の物理的証拠を確認しようとしました。 無数の非アーリア人収容者をこれらの数々の実験で殺害したにもかかわらず、ナチスは人間の生物学的な人種差異理論の証拠を見つけることができませんでした。

第二次世界大戦中、ナチスの指導者たちはポーランドおよびソ連の東側占領地区で、「民族の大粛清」と彼らが呼んだ作業に着手しました。 この政策には、ヨーロッパ在住ユダヤ人のジェノサイドやスラブ人の主導的地位の撲滅など、いわゆる敵方「人種」の殺害と絶滅が含まれていました。 ナチスの人種差別主義からは、前例のない規模の殺戮が展開されました。

参考文献

Back, Les, and John Solomos, editors. Theories of Race and Racism: A Reader. London: Routledge, 2000.

Burleigh, Michael, and Wolfgang Wippermann. The Racial State: Germany 1933-1945. Cambridge: Cambridge University Press, 1991.

Hutton, Christopher M. Race and the Third Reich: Linguistics, Racial Anthropology, and Genetics in the Dialectic of Volk. Cambridge: Polity, 2005.

Mosse, George L. Toward the Final Solution: A History of European Racism. Madison: University of Wisconsin Press, 1985.

Wistrich, Robert S. Antisemitism: The Longest Hatred. London: Thames Methuen, 1991.

https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/nazi-racism-an-overview





「私が国家社会主義者になったのは、国民共同体のアイデアに鼓舞されたからです。ただ、この共同体に属する価値がないと見なされるドイツ人がこれほど多いとはまったく気づきませんでした。」
- ナチス青少年プログラムで活動していたドイツ女性の戦後の回想録

団結したグループを形成するために不可欠な要素は、そのメンバーに該当しない条件を定義することです。 ナチスのプロパガンダを広めた人々は、排除の対象となる人々を公に特定し、嫌悪や無関心を引き起こし、社会からつまはじきにすることを正当化して、ナチス政策に貢献しました。 ナチスのプロパガンダは「国民共同体」の虚像を、国民としての団結、国家の誇りや偉大性、これまでの厳しい社会階層化からの解放などを求めるドイツ国民に受け入れさせるのに重要な役割を果たしました。 しかし、ナチスの虚像の最も邪悪な面は、新しい共同体にすべてのドイツ人が歓迎されるのではないということでした。 プロパガンダは、新しい社会から除外される人々を定義し、「部外者」に対する処置を正当化する助けとなりました。 ユダヤ人、シンティ族、ロマ族(ジプシー)、同性愛者、政治的異分子、そして遺伝的に劣っていて「国民の健康」に有害であると見なされたドイツ人(精神病や知能障害、身体障害を持つ者、癲癇患者、先天性の聾唖者や盲目者、慢性アルコール中毒患者、薬物使用者など)がこれに該当しました。

反ユダヤのプロパガンダ

ナチスのプロパガンダは既存のイメージや固定観念を悪用して、ユダヤ人を寄留国を食い物にし、その文化を汚染し、経済を強奪し、労働者や農民を奴隷化する「異質な人種」として描き出しました。 こうした悪意に満ちた描写はナチ党が新たに独自にもたらしたものではありませんが、この時代には国家が支持するイメージとなったのです。 ナチス政権が報道機関や出版社を厳しく統制するようになった1933年以後、プロパガンダのメッセージはナチスに属さずその政党紙も読んだことがない多数のドイツ人を含む多様な対象に合わせて調整されました。 ナチスドイツにおける反ユダヤ主義の公衆への表示は、ポスター、新聞、映画、ラジオ放送などのさまざまな形態を取りました。 教育があり、中産階級に属するドイツ人には、粗雑な風刺のような表現は感情を害するだけで効果がないので、より控えめな言葉遣いや観点を用いました。 大学教授や宗教指導者などは、反ユダヤ主義をテーマにした講義や教会での説教を体面をつくって行いました。

その他の部外者

「国民共同体」のビジョンから除外されたグループはユダヤ人だけではありませんでした。 プロパガンダは、新しい社会から除外される人々を定義し、「部外者」に対する処置を正当化する助けとなりました。 ユダヤ人、ロマ族(ジプシー)、同性愛者、エホバの証人、そして遺伝的に劣っていて「国民の健康」に有害であると見なされたドイツ人(精神病や知能障害、身体障害を持つ者、癲癇患者、先天性の聾唖者や盲目者、慢性アルコール中毒患者、薬物使用者など)がこれに該当しました。

特定、隔絶、排除

プロパガンダは1935年9月15日にニュルンベルクで発令された反ユダヤ法の下地を整えるのに役立ちました。この布告に続き、ナチ党の性急な過激分子によるユダヤ人への暴力行為が数々発生しました。 ドイツ人の血統と名誉を守る法律は、ユダヤ人と「ドイツ人」またはその「血族」との結婚や婚外交渉を禁じました。また帝国市民法では、ユダヤ人は国の被統治者、二流市民とされていました。

この法律は、450,000人の「完全ユダヤ人」(父方と母方の4人の祖父母がユダヤ人でユダヤ教に属する者)、そして250,000人のその他のユダヤ人(ユダヤ教への改宗者と家系にユダヤ人がいる「雑種」と呼ばれる者)に適用されましたが、このようなユダヤ人の総数はドイツ人口の1%をわずかに上回るだけでした。 「ニュルンベルク法」発令の数か月前からナチ党のプレスは、公共のプールでユダヤ人が泳ぐことを問題視して、ドイツ人に人種汚染反対をけしかけました。

文化施設の統制

帝国文化評議会(Reich Chamber of Culture)による博物館などの文化施設の統制を通じて、ナチスは反ユダヤ主義プロパガンダを広める新たな機会を生み出していきました。 その最も顕著なものは、ミュンヘンのドイツ博物館で行われた「永遠のユダヤ人」と題された展示で、1937年11月から1938年1月の展示期間中、1日平均5,000人以上、合計で412,300人が訪れました。バイエルン国立劇場での特別上映は、博物館の展示テーマの反ユダヤ主義を繰り返し強調するものでした。 ナチスはまた、ユダヤ人と「退廃芸術」を関連付け、ミュンヘンでの関連展示の題材として、200万人の観客を動員しました。

この映画の最も悪名高いシーンは、病原菌を伝播し、大陸に押し寄せ、貴重な食料を食い尽くすネズミをユダヤ人にたとえたものです。 「永遠のユダヤ人(Der ewige Jude)」は、ユダヤ教の規律に基づいて家畜を屠殺する様子を映し出す陰惨な場面を通じて、粗雑で不潔な民族としてユダヤ人を特徴づけるとともに、東ヨーロッパのユダヤ人の異質性を強調するものでした。 映画の一場面では、髭を生やした「典型的」なポーランド在住のユダヤ人が、髭を剃り「西欧的な外見の」ユダヤ人に変貌していく様子が映し出されています。 こうした「仮面を剥ぐ」シーンによって、ドイツ人の観衆に、東欧のゲットーに住んでいるユダヤ人とドイツの住宅地に住んでいるユダヤ人の間にはなんらの違いもないことを示そうとしたのです。

「永遠のユダヤ人」の最後のシーンは、1939年1月30日にドイツ国会議事堂でヒトラーが行った有名な演説です。 ヒトラーは「ヨーロッパ内外の国際金融界のユダヤ人が国家を世界戦争に引き込めば、その結果はユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーロッパでのユダヤ人種の全滅である」と述べました。 この演説は「ユダヤ人問題」に対してその後登場する「最終的解決」の急進化の前兆となるもので、大量殺戮の前触れを予想させます。

ジェノサイドの売り込み

ドイツ人の大部分はユダヤ人に対する暴力行為を承認しませんでしたが、困難な時期になるとユダヤ人に対する反感が巻き起こり、ナチ党の忠誠者を超える範囲で広がっていきました。 ドイツ人の大部分がユダヤ人に対する差別を抵抗なく受け入れたのです。 亡命中のドイツ社会民主党指導者のために1936年1月に作成された報告書では、 「ユダヤ人がドイツ人とは別の民族だという感情は今日一般的なものとなっている」と述べていました。

この時期、ユダヤ人に対する新しい措置の設定に先立ち、プロパガンダキャンペーンはユダヤ人に対する暴力を許容する雰囲気を作り出し、計算されたまたは突発的なユダヤ人への暴力を引き起こし、社会の秩序回復手段として反ユダヤ人法の布告を抵抗なく受け入れることを奨励しました。 ユダヤ人を悪魔的に描き出すプロパガンダは、国家の非常時という状況のもとで大量移送、やがてはジェノサイドという過酷な措置をドイツ国民に容認させる準備となりました。

占領下ポーランドにおけるナチスのプロパガンダ

ナチス政権は、ユダヤ人を害獣や伝染病と結びつけるプロパガンダの普及をドイツ国内のみに限定しませんでした。 占領下のポーランドにおけるナチスのプロパガンダは、ユダヤ人を健康に対する脅威で隔離が必要な存在としてゲットーに監禁することを強調しました。ドイツの政策立案者たちは、ゲットーの住民に食料、水、医薬品の供給を制限することで、こうした主張を現実のものとしたのです。 ドイツが制作したポーランドの学童向け教育映画では、ユダヤ人をシラミやチフス菌の伝播者と見なしていました。 ワルシャワ地区の知事であったルートヴィヒ・フィッシャーは、ゲットーのユダヤ人がもたらす健康への悪影響をポーランド人に知らせるために、「3,000枚の大型ポスターと7,000枚の小型ポスター、50万冊のパンフレット」を配布したと報告しました。 このような恐怖を利用した政策は、ドイツ占領下のポーランドでゲットーに監禁されているユダヤ人への社会的援助を妨害したことは疑いようもありません。

https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/defining-the-enemy
敵の定義


1933年から1945年にかけて、ナチスドイツは約2万か所の収容所を開設し、数百万人の犠牲者を投獄しました。 これらの収容所はさまざまな目的に使われ、その中には強制労働収容所、一時的な中継地点としての通過収容所、そして大量殺戮を主な目的または唯一の目的とした絶滅収容所が含まれていました。 1933年に政権を握ったナチスは数々の拘留施設を建設し、いわゆる「国家の敵」を投獄して殺害しました。初期の強制収容所の囚人のほとんどは、ドイツ人の共産主義者、社会主義者、社会民主主義者、ロマ族(ジプシー)、エホバの証人、同性愛者、「反社会的」(社会的に逸脱した行動)と告発された人々でした。これらの施設は、収容者が物理的に1か所に強制的に集められていたことから、「強制収容所」と呼ばれました。

1938年3月のドイツによるオーストリア併合の後、ナチスはドイツ系およびオーストリア系ユダヤ人を逮捕すると、ドイツ国内のダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの各強制収容所に投獄しました。 1938年11月の「水晶の夜」と呼ばれる暴力的なポグロムの後、ナチスは短期間でユダヤ人の成人男性を大量に逮捕し、収容所に投獄しました。

1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻した後、ナチスは強制労働収容所を開設しました。そこでは数千人の囚人が疲労、飢え、病気により死亡しました。 ドイツ親衛隊が収容所の監視に当たりました。 第二次世界大戦中、ナチス強制収容所の体制は急速に拡大しました。 一部の収容所では、ナチスの医師たちが囚人に対して人体実験を行いました。
Column of Soviet prisoners of war from the Ukrainian front.
写真
ウクライナ前線からのソ連軍戦争捕虜の列。 (写真)

ウクライナ前線からのソ連軍戦争捕虜の列。 ハルキウ、ソ連、1942年6月18日。
Credits:

La Documentation Francaise

1941年6月のドイツ軍によるソ連進攻後、ナチスは戦争捕虜(POW)収容所の数を増やしました。 占領下のポーランドでは、アウシュビッツなどの既存の強制収容所にまた新しい複数の収容施設が建てられました。 ルブリンの収容所(後にマイダネク収容所と呼ばれる)は、1941年の秋に戦争捕虜収容所として建設され、1943年には強制収容所になりました。何千人ものソ連軍戦争捕虜の射殺やガス室での殺害がここで行われました。

「最終的解決」(ユダヤ人のジェノサイドまたは大量殺戮)を促進するために、ナチスはユダヤ人の人口が最も多いポーランドに絶滅収容所を建設しました。 絶滅収容所は効率的な大量殺戮を目的としていました。 最初の絶滅収容所であるヘウムノ収容所は1941年12月に開設され、そこではユダヤ人とロマ族がガストラックで殺害されました。 1942年、ナチスは総督府(占領下のポーランド内陸部)のユダヤ人を組織的に殺害するために、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ絶滅収容所を開設しました。

ナチスは殺害の効率を高め、その作業を執行者個人に関わりのないものにするために、ガス室(有毒ガスを充満させて内部の人々を殺害する部屋)を建設しました。 アウシュビッツ収容所の一部であるビルケナウ絶滅収容所には、4つのガス室が備えられていました。収容所への移送者数が最も多い時期には、毎日6千人ものユダヤ人がガス室に送られていました。
Deportation from the Westerbork transit camp. The Netherlands, 1943–1944.
写真
ヴェステルボルク通過収容所からの移送。 (写真)

ヴェステルボルク通過収容所からの移送。 オランダ、1943年〜1944年。
Credits:

US Holocaust Memorial Museum, courtesy of Trudi Gidan

詳細 (External website)

ナチス占領下の土地のユダヤ人は多くの場合、ポーランドの絶滅収容所に送られる途中に、オランダのヴェステルボルクやフランスのドランシーなどの通過収容所にまず移送されました。 通過収容所は通常、絶滅収容所に移送される前の最後の立ち寄り地点となりました。

数百万人もの人々がさまざまなナチス収容所に投獄され、虐待を受けました。 親衛隊の管理の下、ドイツ軍とその協力者は、絶滅収容所だけで300万人以上のユダヤ人を殺害しました。ナチス収容所に投獄された人々のうち、生き残ったのはほんのわずかでした。

https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/nazi-camps
ナチス収容所


ナチスは頻繁に婉曲的な言葉を使って、その犯罪の本質を覆い隠そうとしました。 ユダヤ人絶滅計画には「最終的解決」という名称が使われました。 ナチスドイツの指導者たちが「最終的解決」の実施を最終的に決定した時期は知られていません。 ユダヤ人のジェノサイド(大量殺戮)は、10年間にわたって過酷さを極めつつあった差別的処置の頂点を成すものでした。

アドルフ・ヒトラーの支配下で、ユダヤ人の迫害と分離は段階的に実施されました。 ナチ党が1933年にドイツで政権を握った後、国家支援による人種差別主義によって、反ユダヤ人主義の法律、経済的ボイコット、および「水晶の夜」ポグロムと呼ばれる暴動が起こりました。これらはすべて、社会からユダヤ人を組織的に孤立させ、国内から追放することを目的としていました。

第二次世界大戦の発端である1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻後、反ユダヤ人政策はヨーロッパのユダヤ人の投獄および最終的な殺害へとエスカレートしていきました。 ナチスはまず、総統府内(ドイツ民事政府の監督下にあった中央および東部ポーランドの領土)と監督保護地区(ドイツに併合されたポーランドの西部)に、ゲットー(ユダヤ人を隔離および管理するために設計された囲い込まれた場所)を建設しました。 ポーランドと西ヨーロッパに住むユダヤ人はこれらのゲットーに移送され、食糧も十分にない過密で不衛生な環境での生活を強いられました。

1941年6月のドイツ軍によるソ連侵攻後、親衛隊と警察部隊(移動虐殺部隊)はユダヤ人コミュニティ全体を標的とした大量虐殺作戦を開始しました。 1941年秋には、親衛隊と警察部隊は移動式ガストラックを導入しました。 排気管を改造して有毒な一酸化炭素ガスを密閉空間に送り込み、中に閉じ込められた人々を殺害するこれらのパネル張りのトラックは、進行中の射殺作戦を補完する手段として使用されました。

ソ連侵攻後4週間が経った1941年7月17日、ヒトラーは親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーに占領下のソ連の全治安問題の責任を担わせました。 ヒトラーは、認識されているすべての脅威を物理的に排除し、永遠のドイツによる統治を確立するために、ヒムラーに広範な権限を与えました。 その2週間後の1941年7月31日、ナチスの指導者ヘルマン・ゲーリングは、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒに、「ユダヤ人問題の完全な解決」を実施する準備を認可しました。

1941年秋には、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーはドイツ人将軍オディロ・グロボクニク(ルブリン地区の親衛隊および警察隊指導者)に、総統府内のユダヤ人を組織的に殺害する計画の実施を任命しました。 その後、この計画はハイドリヒ(1942年5月にチェコのパルチザンにより暗殺された)の名前にちなんで「ラインハルト作戦」と命名されました。 大量殺戮のみを目的とした3か所の絶滅収容所が、ラインハルト作戦の一環としてポーランドのベウジェツ、ソビボル、トレブリンカに建設されました。

マイダネク収容所は、総統府下内に住むユダヤ人の殺害拠点として、ときどき使用されました。 ここにはガス室が設けられ、主に強制労働者としては弱すぎて役に立たなかった数万人ものユダヤ人が殺害されました。 ウッチの北西およそ48kmにあるヘウムノ絶滅収容所では、少なくとも15万2,000人がガストラックで殺害されました。犠牲者のほとんどはユダヤ人でしたが、数千人のロマ族(ジプシー)も含まれていました。 1942年の春、ヒムラーはアウシュビッツ第2強制収容所(アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所)を絶滅収容所に指定しました。 アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所では、ヨーロッパ各国から連行された約100万人のユダヤ人が殺害されました。

ドイツの親衛隊と警察は、絶滅収容所にて有毒ガスによる窒息または射殺により270万人近くのユダヤ人を殺害したのです。 「最終的解決」の全体像は、ヨーロッパの全ユダヤ人をガス室や射殺などの方法で殺害することでした。 ホロコーストでは、約600万人のユダヤ人男性、女性、子供が殺害されました。これは、第二次世界大戦の前にヨーロッパに住んでいたユダヤ人の3分の2にも及ぶ数です。

参考文献

Aly, Götz. "Final Solution": Nazi Population Policy and the Murder of the European Jews. London: Arnold, 1999.

Arad, Yitzhak. Belzec, Sobibor, Treblinka: The Operation Reinhard Death Camps. Bloomington: Indiana University Press, 1987.

Breitman, Richard. The Architect of Genocide: Himmler and the Final Solution. New York: Knopf, 1991.

Browning, Christopher. The Origins of the Final Solution: The Evolution of Nazi Jewish Policy, September 1939-March 1942. Lincoln: University of Nebraska Press, 2004.

Cesarani, David, editor. The Final Solution: Origins and Implementation. London: Routledge, 1994.

Hilberg, Raul. The Destruction of the European Jews. New Haven, CT: Yale University Press, 2003.

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「最終的解決」: 概要


1945年、英米軍とソ連軍が強制収容所に入ると、ナチスによる大量殺戮を物語る、死体、骨、遺灰の山を発見しました。また、ユダヤ人とユダヤ人以外の何千人もの生存者も見つかりました。彼らは飢えと病に苦しんでいました。 生存者にとって、生活の再建は気が遠くなるほど困難なことでした。

解放後、多くのユダヤ人生存者は、ヨーロッパの一部に残る根強い反ユダヤ主義(ユダヤ人に対する嫌悪)と心に残るトラウマのために、以前住んでいた家に戻ることをためらいました。家に戻った人々は、自分たちの命が脅かされるのではないかと恐れていました。 たとえば戦後のポーランドでは、ポグロム(反ユダヤ主義者による集団的な暴力)が数多く発生しました。 その中でも最大規模のポグロムが1946年、キェルツェの街で起こりました。ポーランド人の暴徒が少なくとも42人のユダヤ人を殺害し、他にも多数のユダヤ人に暴力をふるったのです。

移り住む場所もない、家を失った何万人ものホロコースト生存者たちは、西側の連合国によって解放された他の西ヨーロッパ諸国へ移動していきました。 そこで彼らは、ドイツのベルゲン・ベルゼンをはじめとする数百か所の難民センターや難民キャンプに収容されました。 これらの施設は、連合国救済復興機関(UNRRA)と米英仏の占領軍によって管理されていました。

多数のさまざまなユダヤ人機関がこのようなユダヤ人難民を救済するために努力しました。 ホロコースト生存者に対して、アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会は食料や衣服を提供し、職業訓練を通じた復興のための機関(ORT)は職業訓練の機会を与えました。 難民たちも独自の組織を結成し、その多くがパレスチナのユダヤ人独立機関の設立に貢献しました。

最大規模の生存者組織であるSh'erit ha-Pletah(ヘブライ語で「生き残った者」)は、移住の機会を大幅に広げました。 しかし、既存の移住定数制限を超える米国への合法的な移住はまだ制限されていました。 英国はパレスチナへの移住を制限しました。 また、ヨーロッパの多くの国境では、このような家を失った人々の通過が拒否されました。

Jewish Brigade Group(英国軍のパレスチナ・ユダヤ人部隊)は1944年後半に結成されました。この部隊は、中央ヨーロッパに退去していた元パルチザン兵士と共に、ユダヤ人難民のヨーロッパからパレスチナへの脱出を支援することを目的とした組織、ブリハー(ヘブライ語で「逃亡」または「脱出」)を創設しました。 パレスチナに既に居住していたユダヤ人は、アリヤー・ベトと呼ばれる船による「違法な」移住計画を立てましたが、 英国当局によってこれらの船のほとんどは捕らえられ、送還されました。 1947年に英国は、4,500人のホロコースト生存者を乗せてパレスチナに向かった船、Exodus 1947号をドイツに強制送還しました。パレスチナへの移住を拒否されたほとんどのユダヤ人難民は、地中海にあるキプロス島の仮収容所に収容されました。

1948年5月にイスラエルが建国されると、ユダヤ人難民は新たな独立国に流入し始めました。 1953年までに約17万人ものユダヤ人難民がイスラエルに移住しました。

1945年12月、米国のハリー・トルーマン大統領は、ナチス政権による難民の米国移住の定数制限を緩和する指示を出しました。 この指示に基づいて、41,000人(そのうち約28,000人がユダヤ人)を超える難民が米国に移住しました。 1948年に米国議会は難民法を通過させ、1949年1月1日から1952年12月31日までの間に米国に移住した難民は約40万人に上りました。難民法に基づいて米国に移住した約40万人の難民のうち約68,000人がユダヤ人でした。

ヨーロッパのユダヤ人難民の中には、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、西ヨーロッパ、メキシコ、南米、南アフリカに移住した者もいました。

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ホロコーストの余波



ナチスと優生思想

 弱いポケモンを淘汰しようとするミュウツーの信念は、前述の通り、優生思想を想起させます。

 改めて説明すると、優生思想とは、望ましい性質をもった人間の出生を促し、望ましくない性質をもった人間の出生を妨げようとする思想です。一般的には、知性の優れた人間を創造することや、不健康な人間を淘汰することが、その目的に掲げられます。またそうした目標を達成するための手段として、望ましい性質をもった人間同士の生殖が奨励されたり、望ましくない性質をもった人間の生殖が禁止されたり、最悪の場合、そうした人間の抹殺までもが行われたりします。

 優生思想は、歴史の中で様々な惨禍を引き起こしてきました。その代表格として挙げられるのが、ナチス政権下のドイツで行われた障害者への暴力です。

 1933年、ドイツで政権を奪取したナチ党は、遺伝病子孫予防法という法を成立させ、40万人の身体・精神障害者を強制的に断種しました。もともとナチ党は、国家を優れた国民によって構成することに異様な関心を持っており、青い目・金髪・長身のいわゆる「アーリア人」と呼ばれる遺伝子的特徴を望ましい性質として位置づけました。それに対して障害者は、望ましくない性質を持つ人々として、後世に残すべきではないと捉えられてしまったのです。

 こうした思想は、第二次世界大戦中に過激化していきます。1939年、ヒトラーはナチ党高官に対して、知的障害者・精神障害者・遺伝性疾患患者・同性愛者・路上生活者などを安楽死させることができる、という権限を与えました。これを受けて、ベルリン市内のティーアガルテン通り四番地に、一酸化炭素ガスによって対象者を中毒死させる施設が設立され、大量虐殺が始まります。この地名に由来し、この事件は一般に、「T4作戦」と呼ばれます。
結局、カトリック教会からの猛烈な反発を受けて、この作戦は中止されるのですが、それまでにおよそ7万人が殺されたと記録されています。さらに、その後も精神科医や看護師によって安楽死は続けられ、他の殺害方法も合わせると最終的に20万人以上が殺されたと言われています。

 一連の事件は、優生思想が引き起こした最悪の出来事として、広く知られています。しかし、それは決して過ぎ去った昔の話ではありません。私たちの社会には依然として優生思想の空気――すなわち、生き残るべき人間を選別し、劣った人間は淘汰したいという願望――が漂っています。そしてそれが、時として凶悪な事件として顕在化し、多くの犠牲者を出しているのです。

ヒトラーと植松聖の共通点

 2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で、元職員による大量殺人事件が起こり、世間に衝撃を与えました。この事件は一般に「相模原障害者施設殺傷事件」と呼ばれます。犯人の植松聖は、入居している知的障害者19人を刺殺し、職員を含む26人に重軽傷を負わせました。

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 注目を集めたのは、植松が犯行に至った動機です。もともとそこで働いていた植松は、その心中を次のように語りました。重度障害者への社会保障は「税金の無駄遣い」であり、「重度障害者を安楽死させれば、その分のお金が循環し、世界平和につながる」ため、自らの犯行は「全人類の為」であった――すなわち彼は、被害者に対して個人的な怨恨があったわけではなく、公益のために犯行に及んだと考えていたのです。

 障害者への社会保障が税金の無駄遣いである、というロジックは、まさにナチ党が障害者を差別するために用いたものでした。植松は「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っており、識者の間では両者の思想的な連関が指摘されました。もっとも植松自身は、その後、この言葉を「軽い冗談だった」と言い、訂正しています。ただ、それが冗談で済まされない発言であることは言うまでもありません。

https://bunshun.jp/articles/-/67554
20万人以上の罪なき人々を虐殺……ヒトラーが取り憑かれた「優生思想」と、やまゆり園事件犯人の「冗談では済まされない」発言

『親ガチャの哲学』より#2

戸谷 洋志



歴史記述

人類の歴史記録は、時代と地域によって文明、支配者、宗教、政治経済などの切り口が複合的に組み合わさり、今日の歴史記述が成り立っているといえる。

ただその中には、当時の支配者が自らの政権や文化を正当化するために、事実と異なるあるいは脚色された記述もある。また歴史認識に重要な影響を与える史料が現代まで残されていない場合がある。 このため、様々な史料を歴史学科学的に多面的に分析しながら仮説・検証を重ねていく作業が継続的に行われている。

リストとしての歴史記述

歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板は、や戦利品など収入や配給または役人の給与など、行政上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて人口調査や地名人名なども加わるようになった。また古代エジプト呪詛文書は、敵対する部族などの名称や首長の名前、また居住する地名などを記している。

このように、初期の歴史記述は何らかの目的に特化したリストとして始まった。やがて治世者の業績なども加わりつつ積み重ねられたこれらのリストは、「歴史」を想定していなかったとしても、積み重ねられた結果として重要な「歴史記述」となった。

時間感覚

しかし、何をどこまでリストに記述するかという点に関しては、文明毎に異なる時間に対する認識が影響した。インドを中心としたヒンドゥー文明サーサーン朝などアーリア人の古文明は体系化した歴史記述を残していない。それに対し、中国は膨大な歴史記述を残しており、梁啓超は、中国は歴史学が突出して発達し他の国に例が見られないと語っている。

このような差異が生じた原因は様々だが、時間すなわち歴史を「循環的(円環的)」と見るか「直線的」と見るかがひとつの要因に挙げられる。古代の「歴史記述」に頓着しなかったインドの時間感覚は「循環的」に分類され、『マヌ法典』によると人間の1年は神々の1日とし、神々の12,000年がマハーユガとされ、1000マハーユガが(カルパ)と定義され、この時間サイクルで世界は創造と破壊を繰り返す。これは人間の時間感覚では43億2000万年に相当する。これに輪廻(カルマ)の概念が加われば、人間界のできごとなど一瞬でしかなく、これらを体系的に記述することに意味を見出さなかったものと推測されている。

https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%B7%E5%8F%B2