「特別養子縁組」。この制度は、子どもを望む夫婦が事情を抱えた親の元から子どもを迎え入れ我が子として育てていくものです。50年前、制度創設のきっかけをつくったのが宮城県石巻市の開業医、菊田昇医師です。自らの「ある違法行為」を公表することで法整備につなげました。いったい当時、何が起きていたのでしょうか。
「赤ちゃんあっせん事件」を起こした菊田昇医師とは
菊田昇医師をよく知る人が東京にいます。産婦人科の医師で養子縁組をあっせんする認定NPOの理事・星野寛美さんです。今から40年前、菊田医師を支える市民活動に参加していました。
認定NPO「環の会」理事 星野寛美さん:
「(Q菊田昇医師はどんな人だった)すごいパワフルでしたね。子どもの命を救うためには、養子縁組をして実の子として戸籍に入れるように実子特例法が必要だとすごいパワーで話していたのを印象深く覚えている」
石巻市で産婦人科医院を開業していた菊田医師。50年前、地域紙に養子縁組の広告を掲載すると「赤ちゃんあっせん事件」として全国に反響を起こしました。
菊田医師は、1960年頃から、予期せぬ妊娠で産まれた赤ちゃんを子どもを望む夫婦に引き渡し、10年あまりの間に、100件の縁組を成立させていました。その際、戸籍上も実の親子となるよう行っていたのが、出生証明書の偽造でした。
「私が処罰されるのは微々たること」なぜ法を犯したのか
自らの違法行為をあえて公表することで法整備の必要性を訴えたのです。
菊田昇医師(1975年取材):
「赤ちゃんの命を助けるためには、法律は形式的に犯さないといけない。子どもの命が助からない場合はやらざるを得ない。私が処罰されるのは微々たること」
開業医として高額所得者に名を連ねていた菊田医師でしたが収入を支えていたのは、依頼の絶えない中絶手術だったと言います。
菊田医師を小説で描いた作家の石井光太さんは、「自らへの怒り」が原動力の一つになっていたと推測します。
作家 石井光太さん:
「石巻に戻って、個人で菊田医院をやったときに中絶が経営の柱になっていたという、いわゆる業ですよね。長者になって有名になる自分を非常に許せなかった」
菊田医師が目指したものとは
赤ちゃんが犠牲になる事件が後を絶たない中、子どもが「実の子」として幸せな家庭に入れる制度をつくることで、救われる命が増えると菊田医師は信じていました。
作家 石井光太さん:
「菊田昇という人が目指したのは特別養子縁組で、子どもを育てる先のことだと思う。単純に親にぽんと渡すのではなく、その子の未来をもっと社会全体で考えて守っていこうという信念の元、社会全体で子どもの未来をつくらないといけないよねということ」
長い議論の末、1987年に法改正が実現し、翌年から、実の親子関係を結べる特別養子縁組制度の運用が始まりました。この制度が、普通養子縁組と異なるのは、裁判所での審理を経て戸籍上も「実の親子」となる点です。子どもが生涯にわたり安定した家庭を得ることができるとして、今では国が普及に力を入れています。
ただ、当時の菊田医師に対しては、出生証明書の偽造により医業停止の行政処分が確定しました。
「こんな重い賞は予想外です」
一方で、1991年には、赤ちゃんの人権を守る活動が評価され、国際生命尊重会議で世界生命賞を受賞します。
菊田昇医師:
「夢のようなこと、こんなに重い賞をいただけるのは予想外です」
この4か月後、病でこの世を去りました。65歳でした。
制度が始まってから35年。国内ではいま、年間500組前後の特別養子縁組が成立していると言われています。
仙台でも、当事者同士の交流の輪が広がっています。
「教本がない、だからみんな悩む」
月に1度、市内で開かれている「よーし・えんぐみカフェ」主催者の一人、佐々木啓子さん。特別養子縁組で3人の子どもを迎えました。
この日は、子どもに生い立ちを伝える「真実告知」がテーマ。
佐々木啓子さん:
「教本がない、だからみんな悩むし、子どもの反応が怖いという気持ちがある」
川端文香さん:
「真実告知が、漢字4文字で熟語になっている時点で身構える。生い立ちを話すくらいでいいやん」
大阪からオンラインで参加した川端文香さんは、2人の子どもを迎えました。長女には、上の唇がわれる先天性の病気がありましたが、全力で支えたいと迷わず迎え入れました。周りの人たちも特別養子縁組を前向きにとらえてくれたと言います。
「どこから産まれたではない」幸せのカタチとは
川端文香さん:
「私が産んでいないと言っても、いじわるを言う人に当たったことがない。良かったねと反応する人や、すごいねって私の後ろにオーラが見えるという人もいる」
13歳と10歳になる子どもたちには、幼いころからありのままを伝えています。
川端文香さん:
「(長男が)ぽろっと産んだお母さんに会いたいと言い出した。成長した自分を見てほしいって。ここまで大きくなったの見て褒めてほしいというので。あの子から反応が出るのがまれだった」
50年前、菊田医師が出した小さな新聞広告をきっかけに生まれた「特別養子縁組」という家族のカタチ。
川端文香さん:
「どこから産まれたではなく、どこで生きていくか、どこで自分が育っていくかの方が大事なのではないか」
特別ではなく当たり前の幸せのカタチです。
【前編】「日本は子殺し天国で対策をしていない」医師が出した新聞広告から始まった特別養子縁組 3人の子ども迎え入れた夫婦は「託された責任感は重かったが今は普通の家族」はこちら