金髪碧眼と白い民族衣装のクルタ族の特徴から考えるハンターハンターのクラピカちゃんアーリア人クル族説及びユダヤ人追放エッセネ派説。

ドット絵ナチ卍デザインの恋と愛さんの記事良かったですよ。
色恋ネタならナチスドイツのヒトラーとユダヤ人の恋愛が、もし上手く言っていたらホロコーストおこらなかったのでは等の仮説は考えられますね、失恋でもビジネス恋愛でも適度な距離感持った暴力の振るわれない人間関係なら悪くはありませんからね。
トー横のハウルさんが東京リベンジャーズ見て東京リベンジャーズの東京卍会所属でタイムリープ繰り返しながら人生やり直し落ちるとこまで落ちた主人公が東京卍会で自分だけでなく身近な身内だけでも救えるように行動しているの見て、トー横のハウルさんは東京新宿歌舞伎町で卍会本当に  作って東京新宿歌舞伎町の治安良くしようと活動していたと、青汁王子さんのトー横ハウルさんの取材見る限り思いますけど、東京新宿歌舞伎町で卍会のトー横のハウルさんが事件おこし死亡した事理由にトー横ハウルさんの卍会なかった事にするのは、問題ではないでしょうか。
さて、ナチスドイツはユダヤ人をアーリア人同化政策で迫害した事が問題となりましたけどハンターハンターのクラピカちゃんがアーリア人系統でいうところのクル族系統本当にクルタ族いるかもしれないと私が思う理由として、Wikipediaのアーリア人系統のクル族の記事読んでいると、森に住むクルタ族が、虐殺された話と似たような内容の話が出てくるのですよね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E6%97%8F


この項目では、古代インドの部族クル族について説明しています。リベリアの民族集団については「クル族 (リベリア)」をご覧ください。

クル族が領域を固定化した地域(クル国

クル族(クルぞく、サンスクリット語 कौरव Kaurava, 「クル कुरु Kuru の子孫」の意)は、古代インドの文献に現れる、インド・アーリア人の一部族の名称。

十王戦争に勝利したバラタ族は、インド・アーリア人の諸部族における覇権を確立した。そして次第に、十王戦争において戦った相手であるプール族と融合し、支配階層を形成して、クル族と呼ばれるようになったのである。

後期ヴェーダ時代

クル族は次第に領域を固定化して、その領域はクル国(あるいはクルクシェートラ)と呼ばれるようになり、ブッダの時代には十六大国のひとつに数えられるようになっていった。パンチャーラ族とも連携し、ガンジス川流域に支配を広げていった。

リグ・ヴェーダ』の編纂はクル族の指導下で始まったと考えられ、鉄器を最初に用い始めた部族でもあると考えられている。への言及は、「黒い金属」として、『アタルヴァ・ヴェーダ』に最初に見られるが、『アタルヴァ・ヴェーダ』はクル族(あるいはクル国)の王パリークシタ英語版)の名も挙げている。また、ブラーフマナには、パリークシタの息子であるジャナメージャヤ英語版)王の名も見られる。

『マハーバーラタ』に於ける記述

詳細は「カウラヴァ」を参照

クル族(カウラヴァ)はインド叙事詩マハーバーラタ』の物語の中心となる一族である。パーンダヴァと対比される場合は、盲目王ドゥリタラシュートラ英語版)とガーンダーリー英語版)との間に生まれた100人の王子を指す。長男のドゥルヨーダナを首領とし、次男のドゥフシャーサナや、叔父のシャクニ、御者の息子カルナなどが中心となって、パーンダヴァと激しく対立した。

ドゥルヨーダナは、パーンダヴァを罠にはめて謀殺しようとした。さらに正式に継承された彼らの王国を詐欺を使った賭博によって奪い取り、森に追放した。これが原因で、王国の返還を求めるパーンダヴァとの間に戦争が起こり、カウラヴァクルクシェートラの戦い英語版)で全滅した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E6%97%
クル族出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』8F



カウラヴァサンスクリット: कौरव Kaurava)は、インド叙事詩マハーバーラタ』の物語の中心となる一族名である。「クルの子孫たち」を意味し、パーンダヴァと対比される場合には、盲目王ドゥリタラシュートラ英語版)とガーンダーリー英語版)との間に生まれた100人の王子を指す。彼らは長男のドゥルヨーダナを首領とし、次男のドゥフシャーサナや、叔父のシャクニ、御者の息子カルナなどが中心となってパーンダヴァと激しく対立した。

カウラヴァの百王子は大変奇妙な生まれ方をした。ガーンダーリーはドリタラーシュトラの子を身ごもったが、2年もの間子供は生まれなかった。しかもガーンダーリーが苦労して生んだのは、鉄のように硬い肉塊であった。 ガーンダーリーは最初それを捨てようとしたが、ヴィヤーサ仙が現れて制止した。ヴィヤーサは人々に指示し、肉塊に冷水を注がせた。すると肉塊は100個の小さな塊に分かれた。さらにそれをギー(インドの乳製品)で満たした壷に1つずつ入れ、保管させた。時が満ちて、その壷の中から100人の王子たちと1人の娘ドゥフシャラー英語版)が誕生した。

長男のドゥルヨーダナが生まれたとき、様々な不吉な兆しが現れたため、王の側近や賢者たちはその子供を捨てるよう助言した。しかしドリタラーシュトラは親の情からその言葉に従わなかった。

カウラヴァたちは幼い頃、パーンダヴァのビーマにひどくいじめられ、深く怨むようになった。とりわけ劣等感の強いドゥルヨーダナにとってパーンダヴァは常に脅威であり、悩みの種であった。彼は悩みを手っ取り早く摘み取ろうとするあまり、パーンダヴァを罠にはめて謀殺しようとした。さらに正式に継承された彼らの王国を詐欺を使った賭博によって奪い取り、森に追放した。

これが原因で、王国の返還を求めるパーンダヴァとの間に戦争が起こり、カウラヴァはクルクシェートラの戦い英語版)で全滅した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A1
カウラヴァ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


クル国サンスクリット語 कुरु Kuru、英語: Kuru Kingdom)は、古代インド十六大国(Mahajanapada)のうちのひとつ。クル国の位置した地域は、クル・クシェートラと呼ばれる、十王戦争に勝利したバラタ族プール族と連合し形成したクル族の活動領域が中心であり、現在のハリヤーナ州からデリー、そしてガンジス川上流域にあたる。クル族中心の部族共和制を採っていたと考えられる。パンチャーラ国の隣国である。

歴史

後期ヴェーダ時代

アタルヴァ・ヴェーダ』には、国王パリークシット英語版)のことが述べられている。また、『アイタレーヤ・ブラーフマナ英語版)』や『シャタパタ・ブラーフマナ』には、その息子の国王ジャナメージャヤ英語版)が言及されている。

後期ヴェーダ時代の文献には、クル国はパンチャーラ国と並び描かれることが多く、両国は緊密な関係にあったと推測されている。

叙事詩時代

マハーバーラタ』には、クル・ジャンガラクル・ラーシュトラ、そしてクル・クシェートラという三つの領域が述べられている。クル・ジャンガラ[要出典]は、現在のハリヤーナ州中部から西部にかけての地域(ヒサール県英語版)・ハーンシー英語版)・ロータク県英語版)付近)を指す。
クル・ラーシュトラ(Kururashtra)は、ガンジス川ヤムナー川に挟まれた地域を指す。ハスティナープラを中心都市として有する。
クル・クシェートラ(Kurukshetra)は、現在のハリヤーナ州北部の地域(カルナール県英語版)・ターネーサル英語版)・クルクシェートラ県英語版)・カイタル県英語版)付近)を指す。


『マハーバーラタ』の中に含まれている聖典『バガヴァッド・ギーター』は、クル・クシェートラにおけるパーンダヴァ五王子カウラヴァ百王子とのクルクシェートラの戦い英語版)を舞台としている。

初期仏典時代

クル国は、仏教の聖典『アングッタラ・ニカーヤ』の中で、十六大国のひとつに数えられている。しかし、ブッダの生きた時代には、領域はかなり縮小しており、政治的な勢力も小さいものであったと推測されている。しかし、首都とされるインドラプラスタ英語版)(サンスクリット語 इन्द्रप्रस्त、パーリ語 इन्दपत्त インダパッタ)や、他にもハスティナープラ(サンスクリット語 हस्तिनापुर、パーリ語 हत्थिनीपुर ハッティニープラ)など、発達した大きな都市を擁していた。

ユディシュティラの末裔と称する国王ダナンジャヤが、仏典においては言及されている。王族の一部には、仏教を信仰した者もいたことが伝えられている。ブッダはクル国においても教えを広め、『マハーサティパッターナ・スッタ』、『マハーニダーナ・スッタ』、『アーネンジャサッパーヤ・スッタ』、『マーガンディヤ・スッタ』、『ラッタパーラ・スッタ』、『サンマサ・スッタ』、『ドゥティヤ・アリヤーヴァーサ・スッタ』などは、クル国における説法の記録とされている。

文化

クル国においては、口承されていたヴェーダを、聖典として編纂する事業が始まった。

考古学的には、紀元前12世紀から紀元前9世紀頃の、黒色土器と赤色土器を用いた文化を有したと考えられている。





古代インドの部族と王国

十王戦争参戦部族

トリツ族 - バラタ族
プール族 - ブリグ族 - マツヤ族 - ドルヒユ族 - パルシュ族 - パニ族 - アリナ族 - アヌ族 - バラーナ族

十六大国

ガンダーラ国 - カンボージャ国 - クル国 - パンチャーラ国 - シューラセーナ国 - マツヤ国 - チェーディ国 - ヴァツサ国 - アッサカ国 - カーシー国 - コーサラ国 - アヴァンティ国 - マガダ国 - マッラ国 - ヴァッジ国 - アンガ国

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%9B%BD
クル国出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クルクシェートラ(ヒンディー語: कुरुक्षेत्र



発音[ヘルプ/ファイル])はインドハリヤーナー州都市、またはこの付近一帯を指す地域の名前である。「聖なる地」を意味する「ダルマクシェートラ」としても知られる。プラーナ文献にはバラタ族のクル王がクルクシェートラという名前の由来となっていることが語られている。クル王はインドの叙事詩マハーバーラタ』で語られるカウラヴァパーンダヴァ先祖にあたる。この叙事詩で語られるカウラヴァとパーンダヴァの戦いが行われた場所がクルクシェートラであり、アルジュナの抱える葛藤を観取したクリシュナが『バガヴァッド・ギーター』を説いた地でもある。ゆえにヒンドゥー教徒にとってクルクシェートラは重要な意味を持っている[1]

神話に語られるクルクシェートラは都市ではなく地域であり、歴史的にはテインザー英語版)がこの地域の中心都市であった。クルクシェートラという都市は比較的新しい街なので注意が必要である。

概要

1947年にクルクシェートラに難民キャンプができるより以前はテインザー英語版)がこの地域の中心地であった。1950年代のインド独立の動きの中でクルクシェートラは人を集めるようになりテインザーの街を飲み込んでしまった[2][3]。そのためテインザーもクルクシェートラの一部であると勘違いされる傾向がある。

「テインザー(Thanesar)」は「神の地(Sthaneshwar)」を語源に持っている。シヴァ神を祀るテインザー・マハーデーヴ寺院英語版)はこの付近では最も古いヒンドゥー寺院であると信じられている。このヒンドゥー寺院はクリシュナとパーンダヴァの兄弟達が武運を祈った場所ともいわれている[4]

地元に伝わる伝承はテインザーの近くを神話に語られるクルクシェートラであると同定している。クルクシェートラの近くにはアミン英語版)という村があり、そこには砦の跡が残っている。この砦はアビマニユのものだと信じられている。

2012年、クルクシェートラの持つ宗教的意義から行政は食肉の販売、所持、消費を禁止した[5]

神話の中、歴史の中のクルクシェートラ

マハーバーラタ』の写本。クルクシェートラの戦いが描かれている。

プラーナ文献ではクルクシェートラという名前がバラタ朝のクル族の王に由来することが語られている。また、ほぼ全てのプラーナ文献で「クルクシェートラ」は都市ではなく地方として言及されている。その範囲はおおよそハリヤーナー州の中部、西部からパンジャーブ州の南部にまたがる。アーラニヤカによればクルクシェートラはパンジャブ州シラインド英語版)、トゥルギナ(Turghna)の南で、メーワートカンダヴァの森英語版)の北、 タール砂漠の東、パリンの西に位置する[6]

クル王がこの地を訪れたときにはウッタルヴェディと呼ばれており、ウッタルヴェディの時代には様々な帝国がかわるがわるこの地を支配していた。この地は時期によって、ウッタルヴェディ、ブラフマヴェディ、ダルマクシェートラ、クルクシェートラと呼び名が変わっている。クル王がこの地を訪れたとき、最初に首都を置いたのはアッサンド英語版)であり[7][8]、現在のクルクシェートラの街よりずいぶん南になる。その後インドラプラスタ英語版)(現デリー)、ハスティナープルと首都を移している[9]。後にクルの一族を二分する『マハーバーラタ』の戦いがクルクシェートラの地で繰り広げられる。その戦いの中でクリシュナが『バガヴァッド・ギーター』をアルジュナに説いた。

アルジュナ像、アルジュナ・チョーク。

ヴァーマナ・プラーナ』ではクル王がこの地に身を落ち着けることになった経緯が語られている。この文献によればクル王はサラスヴァティー河畔に8つの美徳が深く根づいていることに気が付き、それを理由にこの地を本拠地に選んでいる。8つの美徳とは、厳格さ(タパス)、真理(サティヤ)、寛容さ(kshama)、やさしさ(ダヤ英語版))、純潔(suchee)、慈悲(daan)、帰依(ヤジナ英語版))、「ブラフマンに従っている様」(ブラーマチャールヤ英語版))である。ヴィシュヌ神はクル王の慧眼に甚く感激し彼を祝福し、2つのことを約束をした。すなわちこの地をクルの名で知られる聖なる地とすること、そしてこの地で命を落としたものをすべて天国へ送ることの2つである。文献で語られるクルクシェートラはサラスヴァティー川とドリシャドヴァティ川英語版)の間に存在していたとされるが、現在これらの川は存在していない[10]

アショーカ王の時代にはこの地に世界中から人を集めて学ばせていたことが考古学的に証明されている。その後ハルシャ・ヴァルダナの時代にクルクシェートラは最盛期を迎える。中国の僧、玄奘三蔵がテインザーの街を訪れたのがこの時期である[11]。現在のテインザーの街はハルシャカティラ(Harsh ka Tila、ハルシャの丘)と呼ばれる小高くなった位置に拡がっており、この丘にはハルシャ・ヴァルダナ時代の遺跡が残る[12][13]

参考文献^ History of Kurukhsetra(2012年3月11日時点のアーカイブ
^ James G. Lochtefeld (2002). The Illustrated Encyclopedia of Hinduism: N-Z. The Rosen Publishing Group. pp. 694–. ISBN 978-0-8239-3180-4
^Sthanvishvara (historical region, India)”. Encyclopedia Britannica. 2014年8月9日閲覧。
^ Dev Prasad (2010). Krishna: A Journey through the Lands & Legends of Krishna. Jaico Publishing House. pp. 216–. ISBN 978-81-8495-170-7
^Haryana bans meat in holy towns of Kurukshetra, Pehowa”. The Indian Express. 2013年3月31日閲覧。
^ Agarwal, Vishal: Is There Vedic Evidence for the Indo-Aryan Immigration to India? (PDF)
^ (英語) Prāci-jyotī: Digest of Indological Studies. Kurukshetra University.. (1967-01-01)
^ Dalal, Roshen (2010-01-01) (英語). Hinduism: An Alphabetical Guide. Penguin Books India. ISBN 9780143414216
^ Witzel 1995.
^ The Lost River, by Michel Danino. Penguin India 2010
^ International Dictionary of Historic Places: Asia and Oceania by Trudy Ring, Robert M. Salkin, Sharon La Boda p.507
^Sheikh Chilli’s Tomb, Thanesar”. Archaeological Survey of India. 2014年8月9日閲覧。
^Harsh Ka Tila”. Kurukshetra district website. 2014年8月8日閲覧。
Witzel, Michael (1995), “Early Sanskritization: Origin and Development of the Kuru state”, EJVS 1 (4), オリジナルの11 June 2007時点におけるアーカイブ。


外部リンク



ウィキメディア・コモンズには、クルクシェートラに関連するカテゴリがあります。



ウィキボヤージュには、クルクシェートラに関する旅行情報があります。kurukshetra.nic.in Official website

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9
クルクシェートラ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バラタ族サンスクリット語: भारत、Bhārata、 「バラタ王の子孫」の意)は、古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』にも現れるインド・アーリア人の部族であり、パンジャーブ地方のサラスヴァティー川の流域から勢力を伸ばした。クル族パンチャーラ族などは、この系統に属するといわれる。[1]

現代に至るまで、『マハーバーラタ』などを通じてインドの歴史に大きな影響を与え続けた人々である。

前期ヴェーダ時代

十王戦争において、バラタ族は、スダース王率いるトリツ族とともに、プール族などの10の部族の連合軍に勝利し、以後パンジャーブ地方の諸部族の中で中心的な存在となる。そして、戦後にバラタ族とプール族とは連携するようになり、混血が進みクル族が誕生して、支配的な階層を形成するようになった。クル族はその後、さらにパンチャーラ族とも連合して、ガンジス川上流域を制覇した。

後期ヴェーダ時代

バラタ族はクル族として、ガンジス川流域に覇権を確立し、全インドはバラタ族が征服したとも言われた。こうして、インドは「バラタ族の地」として、彼らの名でもある「バーラタ」と呼ばれた。しかし、『マハーバーラタ』にはクルクシェートラの戦い英語版)(バラタ大戦争)というバラタ族の内部抗争が主に描かれており、実際の歴史でも次第に分裂して勢力を失ったと考えられているが、確かなところは不明である。

現代

「バーラタ」(भारत)の名称は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト・ガナラージヤ=バーラト共和国)に使われており、バラタ族の国を正統とする歴史観が表明されている。ヒンディー語の方式で「バーラト」(Bhārat)と読まれることが一般的である。

脚注^ 平凡社「世界大百科事典」/バラタ族

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%BF%E6%97%8F
バラタ族出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

プール族(プールぞく、サンスクリット पौरव Paurava(パウラヴァ) =「पूरु Pūru の子孫」の意)は、古代インドの宗教文献『リグ・ヴェーダ』に頻繁に言及される部族の名称。あるいは、トリツ族なども元来はプール族から出たものであり、プール族を複数の部族の連合体と捉える場合もある。また、『プラーナ文献』において月種族系統に分類され、家系を特に詳しく述べられている。

前期ヴェーダ時代

『リグ・ヴェーダ』によると、プール族はサラスヴァティー川流域に生活していた(7.96.2)。

プール族は、インド・アーリア人の諸部族の中で徐々に影響力を強めつつあったトリツ族やバラタ族と対立し、ブリグ族などとともに十王の連合軍を形成して十王戦争を起こしたが、スダース王率いるトリツ族・バラタ族軍に敗れた。当時の様子については、ダスユ#『リグ・ヴェーダ』のダスユの項も参照。しかし、トリツ族もバラタ族も、もともとはプール族から派生した部族であった。

戦後、プール族はバラタ族と連携を深め、後に融合して、支配階級としてのクル族を形成するに至る。クル族が領域を固定化してクル国が成立した後も、パンチャーラ族と連携して、ガンジス川流域に強い勢力を保ちつづけた。

後期ヴェーダ時代以降アレクサンドロス3世と戦ったポロスは、プール族(パウラヴァ(Paurava))の末裔であるとする説がある。
パキスタンパンジャーブ州に主に見られる「プリー」(パンジャービー語 ਪੁਰੀ、ヒンディー語 पुरी、ウルドゥー語: پــــُـــرى‎)という名字は、プール族にその起源を求めている。


インド神話

マハーバーラタ』の神話においては、プールというひとりの人物に擬人化され、パーンダヴァ五王子やカウラヴァ百王子の祖先とされている。同じくドルヒユ族ドルヒユに、アヌ族アヌに、プールの兄弟として擬人化されている。

関連項目プル (インド神話)
ポロス (古代インドの王)
ダスユ
タキシラ
ヒュダスペス河畔の戦い
パンジャーブ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%E6%97%8F
プール族出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インド・アーリア人(インド・アーリアじん)、インド・アーリヤ人(インド・アーリヤじん、Indo-Aryan)は、インド・アーリア語派の言語を用いる人々の総称。

古代においては、狩猟牧畜によって生計を立て、飼育する動物の中ではに最も重要な役割を置いていた。彼らが異なる文化の周辺民族との関わり合いの中から作り出した『リグ・ヴェーダ』を中心とした文献から、その動態が考察されてきた。

前期ヴェーダ時代

インド・アーリア人の女性

インド北西部の支配

インダス文明の遺跡群の中央を流れていたと考えられるサラスヴァティー川(Sarasvati)。

『リグ・ヴェーダ』には、インド亜大陸の河川の名が頻繁に言及されており、中でもシンドゥ川(現在のインダス川)とサラスヴァティー川(現在のどの川にあたるかは不明、ガッガル・ハークラー涸河床とする説などがある)は言及される数が多く、重要である。インド・アーリア人が勃興した地は「七つの川の地」と呼ばれており、現在のアフガニスタン東部からパンジャーブ、インドのウッタル・プラデーシュ州西部であると推測されている。

その興隆に伴って他の定住民との争いがあり、特にダーサおよびダスユとの争いが激しかったことが窺われる。ダーサは主要部族とは異なる先にこの地に移住していたアーリア人と考えられており、比較的穏便な対処がなされた。『リグ・ヴェーダ』には、シャンバラという者がバラタ族のディヴォーダーサと争って敗れたことが述べられているが、バラタ族の者に「ダーサ」という名がついていたことが知られる。これに対してダスユは、徹底的に征伐する対象と考えられていたようである。

インド・アーリア人は、馬曳戦車を駆使し、青銅製の武器を使い、を身にまとっていたため、戦闘においては強力で、さまざまな争いに打ち勝ったものと考えられている。このような勝利の栄光は、『リグ・ヴェーダ』において、「城塞の破壊者」の異名を持つインドラ神がアーリア人の敵に打ち勝つ数々の物語に反映されているとされる。

内部抗争

十王戦争の舞台となった五河地方(パンジャーブ

インド・アーリア人は、いくつかの部族の集合体であり、時にはその部族同士が争うこともあったようである。リグ・ヴェーダの部族英語版)のうち基本的にはパンチャジャナ[注釈 1](Panchajana)と呼ばれる五つの部族(バラタ族トリツ族プール族ブリグ族マツヤ族)を中心にして分かれており、特にバラタ族とトリツ族が有力であった。『リグ・ヴェーダ』によると、バラタ族は次第に勢力を増し、ついにバーラタヴァルシャ国英語版)(Bhāratavarṣa)という領域を形成した。これに対して、プール族、ブリグ族、マツヤ族などの3人のアーリア人の部族長と、7人の非アーリア人の部族長が連合して、十王戦争を起こしたが、トリツ族のスダース王が勝利して、トリツ族・バラタ族の支配権が確立された。

その後、バラタ族とプール族とは次第に連携し、連合してクル族という部族を形成した。クル族はさらにパンチャーラ族とも連合して、ガンジス川上流域を制覇した。

遺伝子・人種

インド・アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%[1]みられる。

紀元前からインド北部カシミール地方ネパールなどではチベット系ベンガル地方グジャラート州ゴア州マディヤ・プラデーシュ州アーンドラ・プラデーシュ州カルナータカ州テランガーナ州タミル・ナードゥ州なども含む南部マラーター人バングラデシュなどに分布するベンガル人ドラヴィダ人との混血が古くからある。また、スリランカシンハラ人も該当される。

さらにミャンマーでは、ベンガル系のロヒンギャ人ビルマ族の一部との混血が古くからあった。

人種的には元来コーカソイドだが、古くから先住民オーストラロイドと混合している。

脚注

[脚注の使い方]

注釈^ パンチャ(Panca)は「5」を意味する。


出典^ Trivedi, R.; Singh, Anamika; Bindu, G. Hima; Banerjee, Jheelam; Tandon, Manuj; Gaikwad, Sonali; Rajkumar, Revathi; Sitalaximi, T; Ashma, Richa (2008). "High Resolution Phylogeographic Map of Y-Chromosomes Reveal the Genetic Signatures of Pleistocene Origin of Indian Populations" (PDF). In Reddy, B. Mohan. Trends in molecular anthropology. Delhi: Kamla-Raj Enterprises. pp. 393–414. ISBN 978-81-85264-47-9.


参考文献R・S・シャルマ著、山崎利男・山崎元一訳『古代インドの歴史』山川出版社、1985


関連項目インド・アーリア語派
アーリア人

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA

インド・アーリア人出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

リグ・ヴェーダ』(: ऋग्वेद、ṛgveda、: Rigveda)は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。

呼称

「リグ」は讃歌を構成する詩節を意味するリチ(ṛc)の連音形である[1]:54。「ヴェーダ」は「知識」を意味している[2]。『リグ・ヴェーダ』には賛歌であるサンヒターのほかに散文のブラーフマナアーラニヤカウパニシャッドなどが含まれるが、単に『リグ・ヴェーダ』といった場合、通常サンヒターを指す[1]:57。『サーマ・ヴェーダ』が賛歌を歌うウドガートリ祭官、『ヤジュル・ヴェーダ』が祭儀行為にともなう呪文を唱えるアドヴァリユ祭官のために存在するのに対し、『リグ・ヴェーダ』は賛歌を唱えあるいは朗詠するホートリ祭官のためにある[3]:4[1]:161-162。

歴史

古代以来長らく口承されたヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(詩聖・聖仙)たちによって感得されたものとされる。成立時期ははっきりせず議論が分かれるが、おおまかに紀元前2千年紀後半(1500-1000BC)ごろと考えられる[3]:5。

ミヒャエル・ヴィツェルによると、第1段階として巻1後半(1.51以降)から巻8までが十王戦争スダース王による覇権がなった後にバラタ族によって編纂され、その後巻1と巻8の前半部分が追加された。第2段階としてパリークシット英語版)王がクルクシェートラに開いたクル国で巻9と巻10を含めた完全な形に編纂された[4]

紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された[5]

構成

『リグ・ヴェーダ』は10のマンダラ(maṇḍala、巻)から構成される。ひとつの巻には複数のスークタ(sūkta、篇)を収録し、1篇の讃歌はいくつかの詩節(ṛc)から構成される。『リグ・ヴェーダ』の特定の詩節を引用する場合は、マンダラの番号・そのマンダラ内でのスークタの通し番号、詩節番号の3つの数字を通常用いる。

現存する『リグ・ヴェーダ』は補遺を含めて1028篇の讃歌(スークタ)から構成される[6]。ひとつの讃歌を構成する詩節の数は3から58まで多様であるが、10-12詩節を越えるものはまれである。主なヴェーダの韻律にはトリシュトゥブ(11音節4句)、ガーヤトリー(8音節3句)、ジャガティー(12音節4句)があり、この3種類だけで全体の約8割に達する[7]

『リグ・ヴェーダ』ではほかにも複数のスークタをまとめたアヌヴァーカ(anuvāka)という単位も用いられ、さらに別の方式による分類(全体を8つのアシュタカに分け、アディヤーヤとヴァルガに細分する)も記されているが、引用時には用いられない。ヘルマン・グラスマンは『リグ・ヴェーダ』のすべての賛歌に1から1028までの通し番号を振っている。

テクスト

『リグ・ヴェーダ』は非常に長い間、おそらく千年以上にわたって口承によってのみ伝えられた[3]:13-14。文字に記されるようになった時期は不明だが、おそらく西暦1000年ごろと考えられている[3]:18。現存最古の写本は1464年のもので(バンダルカル東洋学研究所蔵)、『リグ・ヴェーダ』の成立時期から考えるときわめて新しい[3]:18。

他のヴェーダと同様に、『リグ・ヴェーダ』のサンヒターはいくつかの流派(シャーカー)に分かれて伝えられた。『ヤジュル・ヴェーダ』のパリシシュタ(ヴェーダに対する補足)である『チャラナヴィユーハ』には『リグ・ヴェーダ』の流派としてシャーカラ、バースカラ、アーシュヴァラーヤナ、シャーンカーヤナ、マーンドゥーカーヤナの5派があったことを伝え、他の文献ではさらに多くの流派を羅列しているが、そのほとんどは滅んだか、少なくとも発見されていない。通常使われているのはシャーカラ版で、19世紀にフリードリヒ・マックス・ミュラーによって校訂出版された。2009年になってアーシュヴァラーヤナ版が刊行されたが、その内容はシャーカラ版を元にし、時代の新しい212句が加えられたものである。知られる限り他の流派についても同様で、シャーカラ版との違いはごく小さい[3]:15-16。

作者

『リグ・ヴェーダ』の索引としてアーシュヴァラーヤナ派のシャウナカという人物によって書かれた『アヌクラマニー』 (Anukramaṇī) という書物がある。この書物は各賛歌の作者と対象とする神々を羅列している。『アヌクラマニー』の記述には神々を作者としているものや、賛歌の内容をもとに作者をあてたようなものもあり、そのすべてを信じるわけにはいかないが、ある程度参考になる。それによれば、2巻から7巻までは基本的にそれぞれひとつの家系によるものであり、各巻の家系の始祖とされるリシは以下のようになっている[3]:10。巻2 - グリッツァマダ英語版
巻3 - ヴィシュヴァーミトラ
巻4 - ヴァーマデーヴァ英語版
巻5 - アトリ
巻6 - バラドヴァージャ
巻7 - ヴァシシュタ


また巻8の多くはカンヴァおよびアンギラスの家系によって書かれている[3]:11。

後世これらのリシは神話化されて神々に匹敵する非常に大きな力を持つとされた。

内容

中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。各巻はまず対象とする神によって分類され、同じ神では長いものから順に並べられている。長さも同じ場合は韻律によって分類される[3]:11。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる(なお、8.49-8.59の11篇はヴァーラキリヤと呼ばれる補遺で、成立時代がもっとも新しい)。9巻はこれらとは大きく異なり、ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。

賛歌の大部分は特定の神または神々を賛美し、供犠によって神々を迎え、その加護を求める内容を持つ[3]:7-8。讃歌の対象となった神格の数は非常に多く[注釈 1]、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。

一部の賛歌は『アタルヴァ・ヴェーダ』に近い呪術的な内容を持つ[1]:109-111。

とくに新しい部分である巻10には実際の祭祀と無関係と思われる作品もかなり含まれている。これらは祭祀の意義を伝えるためのものと考えられる[3]:8-9。哲学的な内容を持つもの。プルシャ賛歌(10.90)、ヒラニヤガルバ賛歌(10.121)、宇宙創造に関するナーサディーヤ讃歌英語: Nasadiya Sukta)(10.129)などがあり、最後のものはウパニシャッド哲学の萌芽ともいうべき帰一思想が断片的に散在している[9]
演劇に似たモノローグや対話が続く作品(アーキヤーナ)。たとえば最初の人間とされるヤマとヤミーの対話(10.10)、インドラインドラーニーと猿のヴリシャーカピの対話(10.86)、プルーラヴァスウルヴァシーの対話(10.95)、ヴァラの洞窟を探りにきた雌犬サラマーパニ族の対話(10.108)、アガスティヤとその妻のローパームドラーの対話(10.179)などがある[3]:8[1]:100-107。


主なリグ・ヴェーダの原文と翻訳

日本語訳辻直四郎訳注 『リグ・ヴェーダ讃歌』 岩波書店岩波文庫〉、初版1970年。ISBN 978-4-00-320601-0
辻直四郎訳 「リグ・ヴェーダ讃歌」『インド集』 訳者代表 辻直四郎、筑摩書房〈世界文学大系 第4巻〉、1959年5月、pp. 5-37。全国書誌番号:55003870NCID BN02001043
辻直四郎訳 「リグ・ヴェーダの讃歌」『ヴェーダ アヴェスター』 訳者代表 辻直四郎、筑摩書房〈世界古典文学全集 第3巻〉、1967年1月、pp. 5-104。全国書誌番号:55004966NCID BN01895536


日本語以外の主要な訳Karl Freidrich Geldner (1951). Der Rig-Veda aus dem Sanskrit ins Deutsche übersetzt. London, Wiesbaden(定評のあるドイツ語訳)
Stephanie W. Jamison; Joel P. Brereton (2014). The Rigveda : The Earliest Religious Poetry of India. New York(英語訳)
Michael E. J. Witzel; Toshifumi Gotō(後藤敏文); Salvatore Scarlata (2007,2013). Rig-Veda : das heilige Wissen. Frankfurt am Main und Leipzig (ドイツ語新訳、巻1から巻5まで)


原文Theodor Aufrecht, ed (1877). Die Hymnen des Rigveda. Bonn: Adolph Marcus(ラテン文字表記)
Barend A. van Nooten; Gary B. Holland (1994). Rig Veda: a metrically restored text with an introduction and notes. Harvard Oriental vol 5. Massachusetts: Harvard University Press(ラテン文字表記、韻律が合わない箇所を合うように復元したもの)
F. Max Müller, ed (1874). Rig-Veda-Samhitā: the sacred hymns of the Brāhmans, together with the commentary of Sāyanāchārya. London: W.H. Allen(デーヴァナーガリー表記)


脚注

[脚注の使い方]

注釈^ 例えば、インドラヴァルナ(司法神)、ミトラ(契約の神)、アシュヴィン双神アグニ(火神)、ソーマスーリヤ(太陽神)、ヴァーユ(風神)、ルドラ(後のシヴァ神)、ヤマ(死者の王)、ヴィシュヌ、など[8]


出典^ a b c d e Winternitz, Moriz (1927). A History of Indian Literature. 1. translated by S. Ketkar. University of Calcutta
^ 菅沼晃編(1985)『インド神話伝説辞典』、9-10頁。(インドの神話・伝説(概説))
^ a b c d e f g h i j k l The Rigveda: The Earliest Religious Poetry of India. translated by Stephanie W. Jamison and Joel P. Brereton. Oxford University Press. (2017) [2014]. ISBN 9780190685003
^ Witzel, Michael (1997). “The development of the Vedic canon and its schools: the social and political milieu”. In Michael Witzel. Inside the Texts, Beyond the Texts. Harvard Oriental Series, Opera Minora. 2. Cambridge. pp. 257-345. doi:10.11588/xarep.00000110
^ 中谷英明 (2000)「古代インドにおける哲学と文献学」『古典学の再構築』第5号. pp. 18-21. (オンライン・ペーパー (PDF) )
^ Macdonell (1900) p.40
^ Macdonell (1900) pp.54-55
^ 上村勝彦(1981)『インド神話』、16-26頁。
^ 辻直四郎(1996)『リグ・ヴェーダ讃歌』第29刷[要文献特定詳細情報]、299頁。


参考文献上村勝彦『インド神話』東京書籍、1981年3月。ISBN 978-4-487-75015-3
のち文庫化。上村勝彦 『インド神話 - マハーバーラタの神々』 筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2003年1月。ISBN 978-4-480-08730-0
菅沼晃 編『インド神話伝説辞典』東京堂出版、1985年3月。ISBN 978-4-490-10191-1
『リグ・ヴェーダ讃歌』辻直四郎訳注、岩波書店〈岩波文庫〉、1970年5月。ISBN 978-4-00-320601-0
Macdonell, A. A (1900). A History of Sanskrit Literature. Oxford: Clarendon Press. pp. 54-58


関連書籍外薗幸一, 「多神教の倫理 : リグ・ヴェーダの倫理観」『鹿兒島経大論集』 第35巻第2号、鹿児島国際大学、1994年7月20日、pp.79-117。NAID 110004672218


関連項目ヴェーダ語
ヴェーダの韻律
十王戦争
インド古典演劇


外部リンク



ウィキメディア・コモンズには、リグ・ヴェーダに関連するカテゴリがあります。



サンスクリット版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。

リグ・ヴェーダThe Rigveda : Metrically Restored Text - utexas.edu (英語)
The Rig Veda (Ralph T.H. Griffith, Translator. 1896) - Sacred Texts (英語)
『リグ・ヴェーダ』聖典の写本(国立民族学博物館所藏「中西コレクション」) - アジア・アフリカ言語文化研究所 (日本語)
Grassmann Wörterbuch zum Rig Vedaヘルマン・グラスマンによるリグ・ヴェーダ辞典のオンライン版、ケルン大学

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80
リグ・ヴェーダ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インド・アーリア語派から転送)言語 > インド・ヨーロッパ語族 > インド・イラン語派 > インド語群
インドの言語 > インド語群


インド語群話される地域南アジア言語系統インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派
インド語群


下位言語中央語群
東部語群
北部語群
北西語群
南部語群


ISO 639-5inc



インド語派の分布(ウルドゥー語はHindiの範囲に含まれている。ロマ語ドマリ語ロマヴレン語はこの地図の範囲に含まれていない。)

中央語群

東部語群

北部語群

北西語群

南部語群

シンハラ・モルジブ諸語

インド語群インド・アーリア語群Indo-Aryan languages)とは、インド・イラン語派の下位分類のひとつで、インド・ヨーロッパ語族に属する。主にインド亜大陸に分布する。

SILの推計によれば209言語が属し、母語としている人口は9億人以上と最も多い言語群である。代表的なものとして、ヒンディー語ウルドゥー語をまとめたヒンドゥスターニー語(5億4000万人)、ベンガル語(2億人)、パンジャーブ語(1億人)、マラーティー語(7000万人)、グジャラート語(4500万人)、オリヤー語(3000万人)、シンド語(2000万人)がある。

名称

インドにはインド・ヨーロッパ語族の言語のほかにもドラヴィダ語族ムンダ語派チベット・ビルマ語派などの言語が話されている。インド語群(英語: Indic)という名前では「インドの言語」という意味だと誤解される可能性があるため、インド・アーリア語群(英語: Indo-Aryan)と呼ぶことも多い[1]

歴史

インド語群のうち最も古いものは、ヴェーダで用いられているヴェーダ語である。ヴェーダ語の中でも最古の部分はアヴェスター語などの古代イラン語ときわめてよく似ている。ほかに紀元前14世紀の小アジアにあったミタンニ王国の王名や神名、およびミタンニ人キックリの文書の中にインド・アーリア語と思われる語彙が出現する。

続いて紀元前5世紀頃に、サンスクリット語が文法家のパーニニの手で標準化・成文化された。これが後の紀元前2世紀頃に古典サンスクリット語として完成する。しかし、パーニニの時代、既にヴェーダ語からの変化が目立っている。また、パーニニが確立したサンスクリットは古いヴェーダに回帰したわけではなく、同時代に既に分化していたインド諸語にも影響を受けている。

古い時代に現れるサンスクリット以外の俗語的な言語を総称して中期インド・アーリア語またはプラークリットと呼ぶ。プラークリットの最も早い刻文は紀元前3世紀のアショーカ王碑文に現れている。プラークリットは全体的にサンスクリットよりも新しい語形・文法を持つが、語彙によっては古典サンスクリットやヴェーダ語よりも古い起源を持つものもある。

10世紀以降になると現代につながる新インド・アーリア語の文献が出現する。デーヴァセーナのスラーヴァカチャール(930年頃)がヒンディー語では最古の書物とされる。

そして13世紀から16世紀にかけてのイスラム勢力の拡大がインド語派に大きな影響を与えた。ムガル帝国の繁栄のもとで、イスラーム宮廷の権威によりペルシア語が支配的になったのである。しかしそのペルシア語の地位は、現地語文法をもとにアラビア語ペルシア語語彙を大量に導入したヒンドゥスターニー語に取って代わられた。現代のヒンディー語(特に口語)でも語彙の多くはペルシア語アラビア語由来のものになっている。

この言語状況が変化したのは1947年のインド・パキスタン分離独立時である。ヒンドゥー教徒の用いるヒンドゥスターニー語ヒンディー語としてインド公用語に採用され、より「インド的」な言語を目指してサンスクリット化、つまりトゥルシーダース時代への回帰とでもいうべきものが行われた。ウルドゥー語とも共通するペルシア語・アラビア語由来の専門用語はサンスクリット語のそれに、時に大規模に、また複合語も用いて置き換えられたのである。一方ムスリムのそれはウルドゥー語としてパキスタンの公用語となり、更なるアラビア語ペルシア語の語彙の追加が行われた。現在ウルドゥー語はアラブ=ペルシア化を、ヒンディー語はサンスクリット化を受けている。しかし文法は依然一様であるため連続体といってよいだろう。一方口語では大多数の住民が2言語の混交したものを話しており、それはヒンドゥスターニー語とよばれている。

この語派にはヒンドゥスターニー語以外にもアラビア語や、比較的近縁の言語であるペルシア語の影響を強く受けた言語が多く、同時に南方のドラヴィダ諸語へ大きな影響を与えた語派でもある。アラビア語ペルシア語の影響もインド語派を通じてドラヴィダ諸語に伝播された。

下位分類

インド・アーリア語の分類は困難が大きい。また、どこまでを方言差とし、どこまでを言語差とするかも決定するのが難しい。これは、ほかの言語と異なり、インドの大部分の言語が孤立して発展したわけではなく、たがいに交流を持ちながら発展してきたこと、および多くの話者が多言語使用者であることによる。インド・アーリア語全体をひとつの巨大な方言連続体とみることもできる[2]

通常は、ジョージ・エイブラハム・グリアソンのインド言語調査による分類を基本的に踏襲しているが、学者によってパンジャーブ語や西パハール語群を北西語群に、ビハール語を中央語群に、グジャラート語を南部語群に含めるなどの違いがある[3]

古代語ミタンニ王国の言語(フルリ語)に見られるインド語派からの借用語
ヴェーダ語
サンスクリット語
プラークリット


中央語群

ヒンディー語群英語版)とも。ビリー語
グジャラート語
グジャラート語
サウラーシュトラ語
カーンデーシュ語
カーンデーシュ語
パンジャーブ語
パンジャーブ語(東パンジャーブ語)
ラージャスターン語
グジャール語
メワール語
ドマリ語ドムロマニ系)
ロマ語
西ヒンディー語
ブンデリー語
ハリヤーンウィー語
カリー・ボリー
ヒンドゥスターニー語
ヒンディー語
ウルドゥー語
カナウジ語
東ヒンディー語
アワディー語
バゲーリー語
ダヌワール語
チャッティースガリー語
フィジー・ヒンディー語


東部語群

マガダ語とも。ベンガル・アッサム語
アッサム語
ベンガル語
ビシュヌプリヤ・マニプリ語
チャクマ語ベンガル語版英語版ポルトガル語版
チッタゴン語
ロヒンギャ語
ハルビー語
カルト語
ラージバンシ語
シレット語
ビハール語
ビハール語
ボージュプリー語
カリブ・ヒンドスターニー語
マガヒー語
マイティリー語
マジ語
オリヤー語
オリヤー語


北部語群

パハール語群とも。中央パハール語群
東パハール語群
ネパール語
ガルワーリー語群
ガルワーリー語
西パハール語群


北西語群ラフンダー語群
西パンジャーブ語
シンド語群
シンド語
en:Jadgali language -(en:Jat people
カッチ語
シライキ語
マルワーリー語


南部語群コンカニ語
マラーティー語
ダッキニー語
シンハラ・モルジブ諸語(Insular Indic)
ディベヒ語
シンハラ語
ヴェッダ語


ダルド語群カシミール語
コワール語


関連項目アーリア人
インド・イラン語派
ドラヴィダ諸語
アラビア語


外部リンクThe Indic languages
Transliteration of Indic Languages & Scripts - Dr. Anthony Stone's Page


脚注

[脚注の使い方]^ 辻直四郎「梵語」『世界言語概説』 1巻、研究社、1952年、65頁。ただし辻の用語では「インド・アリアン語派」。
^ Masica (1993) p.25
^ Masica (1993) pp.446-456 にさまざまな分類を載せる

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インド語群出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インド・アーリア語派から転送)

アーリア」はこの項目へ転送されています。イタリアのコムーネについては「アーリア (イタリア)」をご覧ください。

アーリア人(アーリアじん、: Aryan, : Arier, サンスクリット: आर्य, ペルシア語: آریا‎ )は、民族系統の呼称。広義と狭義で対象が異なり、広義には中央アジアステップ地帯を出自とし、南はインド亜大陸、西は中央ヨーロッパ、東は中国西部まで拡大したグループを指し、狭義にはトゥーラーンを出自としたグループを指す。

概要

前15世紀以降にイラン集団(イラン・アーリア人)が拡大していったと言われる。その後はテュルクモンゴル民族の勃興と中央アジア北部インド西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れそれぞれが次第に独自の文化を形成していった。

現存する近縁の民族としてはパシュトゥーン人ペルシア人タジク人北部インドの諸民族などがあり[1]、彼らはアーリア人の末裔である。また、広義には現存の彼らを指してアーリア人と呼ぶこともある。

この項では基本的にはイラン・アーリア人、またそれらの最も近縁な共通先祖を、もしくは広義においてはその現存の子孫をアーリア人と呼ぶこととするが、アーリアン学説ではより広い意味でアーリア人という言葉を用いており、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語を使う民族全般の祖をなすと想定された民族を指す。アーリアン学説における意味でのこのアーリア人を、この項では、アーリア人と呼ぶのではなく、アーリア人種と呼ぶ事にする。

アーリアン学説によるアーリア人、すなわちアーリア人種は多くの民族を子孫とするとして想定された。このアーリア人種は元々インドに住んでいたが、中央アジアイランへ広がり、更にロシアや東欧まで拡散したという[2]

これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)
イラン・アーリア人
広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念)
インド・アーリア人
狭義のアーリア人
ペルシア人
パシュトゥーン人
タジク人
北インド諸民族
最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種)
インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫


広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝ペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。

現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。 ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー1979年イラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。

尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムナチズムと結びつき、人種差別優生学を生み出した。しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。詳細はアーリアン学説の項を参照のこと。(インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、インド・ヨーロッパ祖語en:Proto-Indo-Europeansクルガン仮説を参照)。


本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。

本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。 自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。

語源と名称の変化

19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図。ペルシア湾の右に ARIANA とある

英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の語源は、サンスクリット語の「アーリヤ (ārya)」とされる[3]。古代イランのアヴェスター語にはairyaがあり[4]、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。また、インド・イラン祖語*arya-か*aryo-に由来する[3][5]古代ギリシア人のストラボンエラトステネストロス山脈から東はインダス川までをアリアナ地方 (Ariana)と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、古代ローマ大プリニウスによる博物誌 6巻23章においてはAriaという古代イランのペルシア王国の統治下にあった[6]現代のアフガニスタンヘラートに当たる地域と混同されている[7]

宗教

イスラム教以前のイランの宗教はマズダー教(及びその内の多数派であるゾロアスター教)である。マズダー教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとしてとらえる。善神がアフラと呼ばれ、悪神はダエーワと呼ばれる。これに対して、インドの宗教はバラモン教であり、バラモン教の特徴として世界を善悪の二つの神のグループの戦いとして描写する局面を含有しつつも、リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァであり、悪神はアスラと呼ばれる[8]

バラモン教

バラモン教は、インド・アーリア人が創り出した宗教である。

バラモン教が影響を与えた他の宗教仏教は、バラモン教の習慣、言語習慣を用いて教えを説いた。
ヒンドゥー教は、バラモン教を土台に、その他の宗教を取り込んで再構成されたものである。
ジャイナ教は、仏教と同時期にヴァルダマーナによって提唱された教えで、より徹底した不殺生を説く。なお仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の三者は成立以降、互いに影響し合って発展してきた経緯がある。
シク教は、ヒンドゥー教とイスラム教の宥和を目指して構築されたもので、両者の教義を取り入れている。


遺伝子

インド・アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%[9]パシュトゥーン人に51%[10]タジク人に44.7%[11]みられる。

アーリア人と関連した出来事インド
紀元前2千年紀に、北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される[12]インド・アーリア人となる。
中央アジア
イラン・アーリア人となる。
一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。
紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われるアンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海キプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
4世紀、新しい王[誰?]の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。


脚注^ 青木健「アーリア人」216ページ
^ Y-Chromosome distribution within the geo-linguistic landscape of northwestern Russia
^ a b Fortson, IV 2011, p. 209.
^ Mallory & Adams 1997, p. 304.
^ Szemerényi, Oswald (1977), "Studies in the Kinship Terminology of the Indo-European Languages", Acta Iranica III.16, Leiden: Brill pp 125–146
^The Empire and Expeditions of Alexander the Great”. World Digital Library (1833年). 2013年7月26日閲覧。
^ Smith, William (1980). "Ariana". Dictionary of Greek and Roman Geography. Boston: Little, Brown, and Co. pp. 210–211. 2013年5月10日閲覧。
^ 辻直四郎(1967)『インド文明の曙 ヴェーダとウパニシャッド』38頁。要するとデーヴァ(ダエーワ)とアスラ(アフラ)はインドとイランで正反対の好対照をなしている。
^ Trivedi, R.; Singh, Anamika; Bindu, G. Hima; Banerjee, Jheelam; Tandon, Manuj; Gaikwad, Sonali; Rajkumar, Revathi; Sitalaximi, T; Ashma, Richa (2008). "High Resolution Phylogeographic Map of Y-Chromosomes Reveal the Genetic Signatures of Pleistocene Origin of Indian Populations" (PDF). In Reddy, B. Mohan. Trends in molecular anthropology. Delhi: Kamla-Raj Enterprises. pp. 393–414. ISBN 978-81-85264-47-9.
^ Haber, Marc; Platt, DE; Ashrafian Bonab, M; Youhanna, SC; Soria-Hernanz, DF; Martínez-Cruz, Begoña; Douaihy, Bouchra; Ghassibe-Sabbagh, Michella; Rafatpanah, Hoshang; Ghanbari, Mohsen; Whale, John; Balanovsky, Oleg; Wells, R. Spencer; Comas, David; Tyler-Smith, Chris; Zalloua, Pierre A. et al. (2012). "Afghanistan's Ethnic Groups Share a Y-Chromosomal Heritage Structured by Historical Events". PLoS ONE 7 (3): e34288. Bibcode:2012PLoSO...734288H. doi:10.1371/journal.pone.0034288. PMC 3314501. PMID 22470552.
^ Wells, Spencer et al. 2001, The Eurasian Heartland: A continental perspective on Y-chromosome diversity
^ Witzel 2001, p. 83-84.


参考文献牧英雄「世界地名の語源」(自由国民社 1980年)
蟻川明男「世界地名語源辞典」(古今書院
青木健『アーリア人』講談社選書メチエ、2009年。ISBN 978-4-06-258438-8
後藤敏文「アーリヤ諸部族の侵入と南アジア基層世界」長田俊樹編 『インダス 南アジア基層世界を探る』 京都大学学術出版会、2013年。
Mallory, J.P.; Adams, Douglas Q. (1997), Encyclopedia of Indo-European Culture, Taylor and Francis
Fortson, IV, Benjamin W. (2011), Indo-European Language and Culture: An Introduction, John Wiley & Sons, ISBN 978-1444359688
Witzel, Michael (2001), “Autochthonous Aryans? The Evidence from Old Indian and Iranian Texts”, Electronic Journal of Vedic Studies 7 (3): 1–115


関連項目コーカソイド
インド・ヨーロッパ語族
インド・アーリア人
ペルシア人
パールシー
パシュトゥーン人
タジク人
アーリアン学説
ゾロアスター教
バラモン教
名誉アーリア人


外部リンク『アーリア人』青木健千夜千冊 連環篇

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アーリア人出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ウラル・アルタイ語族に関するイデオロギーについては「ツラニズム」をご覧ください。

ガージャール朝時代にアドルフ・シュティーラー英語版)により描かれたイーラーンとトゥーラーンの地図

トゥーラーン (ラテン文字: Tūrān, ペルシア語: توران‎) またはツランは、ペルシア語中央アジア付近の地域のこと[1]

概要

トゥーラーンとはイラン神話の登場人物トゥール英語版)に由来し、トゥールの土地という意味である。またトゥーラーン人はアムダリヤ川以北に住む民族で、イラン人と対比される民族である。トゥーラーン人はゾロアスター教の根本教典『アヴェスター』に登場するので、紀元前15世紀頃には居たようである。古代のトゥーラーン人はイラン系民族だったが[2][3][4]、6世紀頃から7世紀ごろ、アムダリヤ川の北に居るテュルク系民族を指す様になった。11世紀に書かれた『シャー・ナーメ』でもイラン神話を踏襲しつつも、文化的にはトゥールはテュルク系民族としており[5]、中央アジアで古代のイラン人とつながりのないテュルク化が徐々に進んだという説もある[6][7]。20世紀の西洋ではトゥーラーンは中央アジアを指すようになり、アルタイ諸語及びウラル語族(現在は支持されていないが、当時はウラル・アルタイ語族と呼んだ)系民族を表すイデオロギー的な用語として使用された。トゥーラーンは人名としても使用され、中東地域で一般的に見られる姓である。ジャコモ・プッチーニのオペラ「トゥーランドット」もこれに由来する。

用語

古代文学

アヴェスター

トゥーラーン人に関し現存する最古の記録は約2,500年前(言語学者推定)に構成されたアヴェスターのフラワシヤシュト英語版)に見られる[8]。「アヴェスター」には様々な部族の名前が記されており、彼らは互いに近い地域に暮らしていた。Gherardo Gnoli教授によれば、ヤシュト人、アーリア人、トゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisは繰り返し現れるイラン系民族である[9]アヴェスターの賛美歌によれば、形容詞形であるトゥールヤー(Tūrya)はFraŋrasyan(シャー・ナーメではアフラースィヤーブと表記)のようなゾロアスター教の様々な敵と関連性がある。トゥールヤーという単語はガーサース英語版)には1回しか現れないが、アヴェスターの後半部分には20回も登場する。

トゥーラーン人はアヴェスターにおいて、SairimasやSainus、Dahisよりもより重要な役割を担っている。ゾロアスター自身はアーリア人に広く受け入れられたが、彼は周辺地域の他の部族にも説法をして回っていた[9][10]

メアリー・ボイスによれば、フラワシのヤシュト(143-144節)では、アーリア人(彼ら自身のことをアヴェスター人と呼んだ)の間だけでなくトゥーラーン人、Sairimas、Sainus、Dahisの間でも、正しい男女のフラワシが褒め称えられている。また、彼らの個人名にはイラン系民族の特徴が見られる[11]。トゥーラーン人とAiryaの間の敵対はフラワシのヤシュト(vv. 37-8)でも示されており、そこではフラワシはトゥーラーン人の集団に似た[12]Danusに対する戦争の援助を提供していると言われている。従って、アヴェスターでは、ゾロアスター教を信仰するようになったトゥーラーン人もいれば、拒否した者もいた。

ゾロアスター教の古代の拠点と同様に、トゥーラーンの正確な地理や場所は不明である[13]。アヴェスター後の伝統においては、トゥーラーン人はアムダリヤ川以北の地域に住んでいたと考えられており、アムダリヤ川はトゥーラーン人とイラン人を分け隔てていた。イラン人との絶え間ない抗争に見られる彼らの存在は、独立した国家や祖国の誇り、防衛に血を流す覚悟としてイラン人の定義を定める役割も担った[14]。アヴェスターやシャー・ナーメに見られるトゥーラーン人の一般的な名前にはアフラースィヤーブ[15]やアグラエスラ(Aghraethra)[16]、ビデラフシュ(Biderafsh)[17]、アルジャスパ(Arjaspa)[18]、ナムフワスト(Namkhwast)[19]が含まれる。アヴェスターに現れるものを含めたイラン系民族の名前はアヴェスターに現れる個人名の語源に関した概説書「Iranisches Personennamenbuch, I: Die altiranischen Namen. Faszikel l, Die Avestischen Namen」の中で、Mayrhofer教授により研究されている[20]

サーサーン朝後期と初期イスラム帝国時代

歴史における、遊牧系民族による北東部の境界への継続的な侵入によりトゥーラーン人の記憶が生き続けることとなった[14]。6世紀後、他の部族により西へと追いやられたテュルク系民族はイラン系民族と近接して暮らすようになり、トゥーラーン人と認識された[14][21]。テュルク系民族をトゥーラーン人と識別するようになったのは7世紀前半頃とされている。テュルク系民族は6世紀にイラン系民族と初めて接触した[22]

C.E. Boseworthは以下のように述べている[23]

イスラム時代初期、ペルシア人はホラーサーン北東部と、フェルドウスィーシャー・ナーメではフェリドゥーンの息子トゥールに割り当てられた土地とみなされていた、トゥーラーンの地域にあるアムダリヤ川より手前にあるすべての土地を自分たちの土地と考える傾向にあった。トゥーラーンの住民にはテュルク系民族が含まれていた。彼らはイスラム帝国建設以降の4世紀の間は本質的にヤクサルテス川を超えた地域で遊牧生活を送っていた人々であり、彼らの領土をさらに超えた地域には中国人が住んでいた (Kowalski, Minorskyの「Turan」を参照)。その後トゥーラーンは民族的、地理的用語として使用されるようになったが、この用語には常に曖昧さや矛盾が含まれていた。これは、イスラム帝国時代を通してトゥーラーンの土地はアムダリヤ川を超えるとすぐの地域であり、同時にその下流域はソグディアナ人やホラズム人のような、テュルク系民族ではなくイラン系民族である人々の故郷であったという事実から生じている。



テュルクという単語とトゥーラーン人という単語はイスラム帝国時代にほぼ同義語として使用されるようになった。シャー・ナーメ(王の書)では2つの用語を同等なものとして使用している。Tabariやハキーム・イーラーンシャーを含む他の作家もこれに続いている。はっきりとした例外としてアラブの歴史家アブル=ハサン・アリー・イブン・マスーディー(Abl-Hasan Ali ibn Masudi)がおり、彼は「アフラースィヤーブはテュルクの土地において誕生しており、歴史家や非歴史家が彼をテュルク人であるとみなす誤りを犯すのはこれが理由である。」と述べている[24]。10世紀までに、アフラースィヤーブの神話はカラハン朝に取り入れられた[15]サファヴィー朝時代には、シャー・ナーメから続く使用法の伝統により、トゥーラーンという用語はサファヴィー朝と対立するウズベク・ハン国の領域を指す用語として用いられた。

複数の言語学者が、トゥーラーンという単語はインド・イラン語派の語根トゥーラ(tura、強い、速い、剣(パシュトー語)を意味する)に由来していると述べており、パシュトー語でトゥーラーン(thuran)は「剣士」を意味する。他の関連として、古ペルシア語でトル (tor、闇や黒を表す)が指摘されており、これは新ペルシア語の「タール(tār)、パシュトー語のトル(thor)」との関連性がある。このケースでは、アールヤー(Ārya)に暮らすゾロアスターの「明るい」文明と対比して、中央アジアの遊牧民の文明を「昏い」文明であると表現するために用いられたと考えられている。

シャー・ナーメ

ペルシアの叙事詩シャー・ナーメでは、イーラーンアールヤー(Ārya)の土地を意味するように、トゥーラーンという単語(トゥールヤー 、Tūryaの土地を意味する)はイラン東部の境界、アムダリヤ川の対岸より先に居住する住民を表していた。シャー・ナーメに収録されている創世神話によれば、フェリドゥーン王は3人の息子を儲けた、サルムとトゥール、イーラジュペルシア語版英語版)であり、彼らは世界を三分し、小アジアはサルムにトゥーラーンはトゥールに、 イーラーンはイーラジュに与えられた。兄2人は1番年下の弟を殺害したが、彼らは弟の孫により復讐され、イーラーンの支配者となった。しかし、シャー・ナーメでは戦争は世代を超えて継続されたと記されており、トゥーラーンという単語は約150回使用され、イーラーンという単語は約750回使用されている。

シャー・ナーメには以下の文が記されている。

نه خاکست پیدا نه دریا نه کوه ز بس تیغداران توران گروه トゥーラーン軍の剣士の多くは 砂、海、山脈を見たことがない人々だ。



تهمتن به توران سپه شد به جنگ بدانسان که نخجیر بیند پلنگ 力強い肉体を持ったロスタムはトゥーラーン軍との戦いに赴いた、 獲物を見つけたヒョウのごとく。



近代文学

地理

20世紀初頭より、トゥーラーンという単語は西洋諸国の言語において中央アジアを表す一般的な用語として使用されてきた。トゥーラン・プレーンやトゥラン低地は 中央アジアの一部を表す地理学用語である。

言語

詳細は「ウラル語族」、「アルタイ語族」、「ドラヴィダ語族」、および「コーカサス諸語」を参照

現在はほとんど使用されていないトゥーラーン人という用語は以前はヨーロッパ人、特にドイツ人ハンガリー人スロバキア人民族学者言語学者ロマン主義者により非インド・ヨーロッパ語族、非セム語派、非ハム諸語の言語[25]。特にアルタイ語族ドラヴィダ語族ウラル語族日本語朝鮮語、その他の言語を話す人々を表す語として使用されていた[26]

フリードリヒ・マックス・ミュラーは、トゥーラーン人の言語系統を異なる語派に分類した。北部もしくはウラル・アルタイ系統としてツングース諸語モンゴル語テュルク諸語サモエード諸語バルト・フィン諸語に、南部方言としてタミル語カンナダ語テルグ語マラヤーラム語などのドラヴィダ語族を分類した。コーカサス諸語はトゥーラーン語族からの派生言語に分類された。これらはミュラーの仮説であり、現行の言語学上の分類とは異なる。ミュラーは中国語は北部と南部どちらに属するかということも考察の対象とした[27]

ドラヴィダ語族、ウラル語族、アルタイ語族の間の主な関連性は類型的なものであると考えられている。ブリタニカ百科事典によれば、「言語の歴史的な研究において考察された語族については、文法構造に見られるある種の支配的な特徴を共有していることを挙げることで、極端に独立した言語分類と混同するべきではない」[28]。現代の言語は類型的な特徴ではなく比較言語学的な方法に基づいて分類されている。ブリタニカ百科事典によれば、マックス・ミュラーの分類は、類似性の指摘が容易であったセム語派の場合にはほぼ成功しているが、初期の言語起源を仮定のみに基づいて同定したトゥーラーンの人々の言語においてはほとんどといっていいほど機能していない[29]。トゥーラーン人という単語は言語分類を主とする学術会合ではもはや使用されていない。19世紀ヨーロッパ文学ではトゥーラーン人として話者区分を行ったウラル語族とアルタイ語族の間の関連性もまた不確かである[30]

イデオロギー

詳細は「トゥーラーン人種」を参照

ヨーロッパの見地からの研究では、トゥーラーンやトゥーラーン人という単語はある特定の精神面を表すことを企図して使用されており、例として都市化された農業文明に対する遊牧民的生活を指すという物がある。この使用法はトゥールヤーというゾロアスター教の概念との関連性が指摘されている。トゥールヤーは言語的、民族的な区分を目的とした単語ではなく、ゾロアスター教教義に則った文明を認めない異教徒を指す言葉であった。

自然人類学の見地からは、トゥーラーン人の精神という概念は文化的な論争の余地が認められる。1838年、学者のJ.W. Jacksonはトゥーラーン人種を以下の形で表現した[31]

トゥーラーン人は物質の力が人格化したものである。彼らは最大集団の発展の中にあっては単なる1個の男にすぎない。彼らは本質的に野蛮ではないものの、根本的に蛮族である。彼は手が直接口に結びつくような獣同然の生活をしているわけではないが、真なる人間の持つモラルや知性を完全には持ち合わせていない。彼は労働し貯蓄を行うことができるが、コーカサス人のように考察したり志を抱くことはない。これら優れた人間生活の2大要素が欠けていることで、彼はその能力以上に想念に欠損がある。後者においては、彼は着想の創造よりも知識の習得に貢献するような人々に提供される。



イランの愛国主義的な詩人モハンマド=タギー・バハール英語版)によると、トゥーラーンという名前はアヴェスターのTau-Raodanに由来しており、これは川の遥か彼方を意味する(この表現に現れる「川」はアムダリヤ川を指すと考えられる)。 バハールはテュルクという単語は中世ペルシア語で「戦士」や「騎手」を意味するテュールーク(Turuk)に由来しているとも語っている[32]

ポーランドの哲学者フェリクス・コネチュニ英語版)は「トゥーラーン文明」という独自の文明が存在すると主張しており、この文明はテュルク系民族とロシア人のようなスラヴ系民族を包括している。この文明の特徴として軍国主義反知性主義、支配者への絶対服従を挙げている。コネチュニはこの文明はラテン系民族(西ヨーロッパ)の文明に本質的に劣ると見ている。

政治

衰退期にあったオスマン帝国では、トゥーラーン人という単語はトルコの愛国主義者により汎テュルク主義(別名:トゥーラーン主義)というイデオロギーとして使用された。現代において、トゥーラーン主義はトルコ政党である民族主義者行動党(MHP)のイデオロギーの重要な側面を形成しており、党員は灰色の狼として知られている。

現代においてトゥーラーン人という単語は時に汎アルタイ主義(理論上はテュルク系民族に加えて満州民族モンゴル人を含み、日本人朝鮮民族を含むこともある)として使用されることが有るが、汎アルタイ主義を全面に押し出した政治組織はまだ存在していない。

フィクション

トゥーラーンという名前はエイジ・オブ・コナン:ハイボリアン・アドベンチャーズ英語版)の中において、空想上の土地として登場する。 リアルタイムストラテジーゲームであるホームワールド英語版)に登場するトゥーラン・レイダースはトゥーラーンより名前が採られている。

名前

トゥーラーンドフト(ラテン文字: Turandot, Turandokht)はイランの女性名であり、ペルシア語でトゥーラーンの娘(دختر、ドフトル)を意味する。ジャコモ・プッチーニ作のオペラであるトゥーランドット(1921-24)はこの名前から採られている。

トゥーラーンという人名英語版)(トゥーラン、トゥラン)は中東地域で一般的に見られる名前であり、バーレーンイランボスニア・ヘルツェゴヴィナトルコなどで(家族名)として使用されている。

古代イラン神話においてトゥーラーンの人々の祖先とされるトゥーラージュ(Turaj)もまた一般的な名前であり、「闇の子孫」を意味する。イラン神話によると、トゥーラーンという名前はトゥーラージュの祖国に由来している。デフホダー辞書によると、パフラヴィー語におけるトゥーラージュの発音はトゥーズフである。同様に、広く用いられている名前イーラージュ英語版)はシャー・ナーメにおいてトゥーラージュの兄弟とされている。トゥーラージュは又の名をザーラージュといい、これは金の息子を意味する。

関連項目トゥーランドット
トゥーラーン・シャー
トゥラーン (戦車)
ツラニズム
ウラル・アルタイ語族
汎テュルク主義
ツラン人英語版) (曖昧さ回避)
ツラン人種
アニーラーン英語版
マー・ワラー・アンナフル


脚注^ Emeri "van" Donzel, Islamic Reference Desk, Brill Academic Publishers, 1994. pg 461. Actual Quote: Iranian term applied to region lying to the northeast of Iran and ultimately indicating very vaguely the country of the Turkic peoples.
^ Edward A Allworth,Central Asia: A Historical Overview, Duke University Press, 1994. pp 86
^ I. M. Diakonoff, The Paths of History, Cambridge University Press, 1999, p. 100 : Turan was one of the nomadic Iranian tribes mentioned in the Avesta. However, in Firdousi' s poem, and in the later Iranian tradition generally, the term Turan is perceived as denoting ‘lands inhabited by Turkic speaking tribes.
^ Prof. Gherardo Gnoli:Iranian tribes that also keep on recurring in the Yasht, Airyas, Tuiryas, Sairimas, Sainus and Dahis. G. Gnoli, Zoroaster's time and homeland, Naples 1980
^ Edgar Burke Inlow. Shahanshah: A Study of the Monarchy of Iran, Motilal Banarsidass Pub, 1979. pg 17: "Faridun divided his vast empire between his three sons, Iraj, the youngest receiving Iran. After his murder by his brothers and the avenging Manuchihr, one would have thought the matter was ended. But, the fraternal strife went on between the descendants of Tur and Selim (Salm) and those of Iraj. The former – the Turanians – were the Turks or Tatars of Central Asia, seeking access to Iran. The descendants of Iraj were the resisting Iranians.
^ http://www.medievalists.net/2009/01/04/barbarian-incursions-the-coming-of-the-turks-into-the-islamic-world/ Bosworth, C. E. "Barbarian Incursions: The Coming of the Turks into the Islamic World." In Islamic Civilization, Edited by D. S. Richards. Oxford, 1973. pg 2: "Hence as Kowalski has pointed out, a Turkologist seeking for information in the Shahnama on the primitive culture of the Turks would definitely be disappointed."
^ Firdawsi, "The Epic of Kings", Helen Zimmern翻訳, eBooks@Adelaide 2004
^ Prods Oktor Skjærvø, "Avestan Quotations in Old Persian?" in S. Shaked and A. Netzer, eds., Irano-Judaica IV, Jerusalem,1999, pp. 1–64
^ a b G. Gnoli, Zoroaster's time and homeland, Naples 1980
^ M. Boyce, History of Zoroastrianism. 3V. Leiden: E.J. Brill, 1991. (Handbuch Der Orientalistik/B. Spuler)
^ M. Boyce, History of Zoroastrianism. 3V. Leiden: E.J. Brill, 1991. (Handbuch Der Orientalistik/B. Spuler)., pg 250
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^ "The Iran and Turan", Anthropological Review 6:22 (1868), p. 286
^ Sabk Shenaasi


外部リンクIranians and Turanians in the Avesta
Der Schatten von Turan (a history of the Turan ideology (ドイツ語))
Hunmagyar.org (a representative of the controversial Turanian theory)
TURAN (Turkish Turan ideology)




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トゥーラーン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トゥーラーン人種から転送)

ツラン人種(Turanid race)中央アジアトルキスタンツラン)を中心に分布する人種。顔が長く、頬骨は突出し、大きくない鼻などの特徴を持ち、コーカソイドの一種である。
ウラル・アルタイ語族(ツラン語族)を話す人々を人種としてとらえる概念。ウラル・アルタイ系民族を参照。




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ツラン人種出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野蛮(やばん)とは、文明文化に対立する概念であり、文化の開けていない状態あるいは乱暴で礼節を知らないことを言う。未開や粗野と同義。しばしば自身を「文明」と称する人々によって相手に付けられるレッテルとして用いられる。野蛮だとされる民族は「蛮族」と呼ばれる。ここでは例として欧州人の蛮族観を説明する。

古代古典時代

古代ギリシアでは異国の民をバルバロイ(βάρβαροι, Barbaroi)と呼んだ。歴史以前では必ずしも軽蔑のニュアンスはなかったようだが、ペルシア戦争で異国の侵入と破壊を経験したあたりから、ペルシアへの敵愾心、非ギリシア人への排外の感情とともに、英語のバーバリアン(Barbarian)という語にこめられるような蔑視のニュアンスを含む用法になったようである。

ギリシア人たちは自由なギリシア人に比べ、絶対的な王による専制下のバルバロイには奴隷の品性しかないと考えた。アリストテレスによれば「ギリシア人は捕らわれても自分自身を奴隷と呼ぶことを好まず、またバルバロイだけをそう呼ぼうとする」。古典古代のギリシア人にとって、自分以外に主人を持つものを奴隷とみなし、家の中での家長=主人と奴隷の関係を律する論理と、主人=家長である自由人同士との関係を律する論理は異なるものであった。従って、家の論理を拡張したものとしての王=家長=主人につかえるオリエントの臣民たちは奴隷に準じるものとして理解されたのであった。古代ローマ人にとっても、領外のガリア人ゲルマン民族スラヴ人は蛮族にすぎなかった。ゲルマン民族がローマ領内に移動し、キリスト教による平等主義で教化されたヨーロッパ世界でもこの構図は、形を変えて繰りかえされる。

中世以後

大航海時代以後、他の民族と接触する機会が増えても、ヨーロッパ人は新たな他民族についての知識をギリシア・ラテンの古典や聖書の伝統に関連させて解釈した。中世カトリックでは、人間は神と獣の中間に位置し、野蛮とは「堕罪」による教化されていない動物状態への退行と考えられる。

スペイン植民地化した後のアメリカ大陸先住民(インディオインディアン)を奴隷として使用する是非をめぐって、ラス・カサスセプルベダとのバリャドリッド論争で、奴隷使用を容認するセプルペダが論拠としたのはアリストテレスの「バルバロイ=奴隷」論とともに、インディオの風習に彼がみた〈自然に背く罪〉である。

中世東ローマ帝国ではギリシャ人が中心となったために、古代以来の蛮族の概念が継続された。当時のギリシャ人はローマ帝国の市民として「ローマ人」と称していたが、「ローマ人」以外の諸民族(西欧のカトリック諸国を含む)を「バルバロイ」と呼んでいた。

高貴な野蛮人

詳細は「高貴な野蛮人」および「en:Noble savage」を参照

17・18世紀の、野蛮人を「自然」の代表とする文明批判の例としては、フランソワ・フェヌロンの《テレマックの冒険》やモンテーニュエセー』に出てくるアメリカインディアンについての記述がある。『エセー』の第1巻第31章では、理性と芸術に対して自然が称賛され、「野蛮」という概念について考察を加えている。「この国には全くいかなる種類の取引もない…役人という言葉もなければ統治者という言葉もない」という一節が、そのままシェークスピアの『テンペスト』に引用され、ルソーの『エミール』もモンテーニュの〈自然〉賛美から多くの着想を得たという。 ディドロは『ブーガンヴィル航海記補遺』で罪のない平和な未開民族に比べて、争いに明け暮れる〈野蛮〉なヨーロッパを批判し、〈野蛮〉を未開人種の属性ではなく戦闘行為にも付与した。高貴な野蛮人は、平和と寛容の象徴とされた。

19世紀以降では、植民地の進展とインディアンの反抗がヨーロッパ白人の意識に達したのか、誇り高く自由な民としての「高貴な野蛮人」(高貴なる野蛮人、ノーブル・サベージ、高潔な野蛮人、高潔なる野蛮人)があらわれる。ジェイムズ・フェニモア・クーパーの小説『モヒカン族の最後』、アレクサンドル・ブロークの詩『スキタイ人』などでは、戦闘や復讐における残忍さも、自然力と無秩序のあらわれとして理解されている。ロシアでは「野蛮」というものを、伝統・規律からの自由という政治概念としてとらえていた。

クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」という概念により、サルトルの哲学を〈第一級の民族誌的資料〉として、〈閉じられた社会〉における未開人の関心のあり方と並べて見せたことは、ヨーロッパ人が自らをして野蛮を査定できるという優越感を無効にした。サルトルのレヴィ=ストロースへの答えは、「腐敗した西欧社会」を叩きつぶすために「自由な精神」が「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高地」から「暴力の血路」をきりひらいて押し寄せるであろう、というものだった。

関連事項オリエンタリズム
四夷(夷狄) - 中華思想における異民族観
中華思想
ベルベル人(バルバロイが原語)
奴隷

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野蛮出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蛮族から転送)



この項目では、都市や社会などの高度な文化体系について説明しています。その他の用法については「文明 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ピラミッドとスフィンクス。エジプト文明はメソポタミア文明と並ぶ世界最古の文明のひとつである

文明(ぶんめい、: civilization、ラテン語: civilizatio)は、人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

文明の概念

文明の発生

文明が発生するには、まず前提として農耕による食糧生産の開始と、それによる余剰農産物の生産がなければならない。最初期の農耕はオリエント肥沃な三日月地帯において11,000年前、パプアニューギニアで9,000年前の証拠が発見されている。これらは、2万年前に最も寒くなった最終氷期の終わり、1万年前に相当する時期に当たる。この時期は紀元前5300年頃にはメソポタミアにおいて灌漑施設が建設されるようになり、ウバイド文明と呼ばれるメソポタミア最古の文明が成立した。その後、紀元前4000年ごろからはウルウルクといった都市がメソポタミア南部に相次いで建設されるウルク期と呼ばれる時期に入り、紀元前3200年ごろには楔形文字が発明された。

なぜ人類社会が高度に組織化され文明が発生するようになったのかは明確にはわかっておらず、いくつかの説がある。この中で、乾燥化や地球寒冷化などによって人々がより条件の良い土地に移住して集中するようになり、その人口を支えるために大規模な農耕がおこなわれ、文明が成立したとする説がある。地球寒冷化によってそれまでの分散していた生活環境が苛酷になった為、河川周辺への人口集中が促されるなど、文明の発生に大きな役割を果たすという説[注 1][注 2]
サハラ砂漠は2万年を頂点に12,000年前まで乾燥し、その後、7000年前まで森林が増え、5000年前まで森に覆われていた。その後、乾燥により砂漠化が今も進行している。砂漠化により、砂漠にとどまるものと、ナイル河畔に移動したものにわかれた。移動と共に生活様式を変えたものが、ナイル河畔で文明を創ったという説がある[注 3]


文明の特徴

西欧語の "civilization"(英語)などの語源は、ラテン語で「都市」「国家」を意味するキウィタス(civitas)に由来する。ローマ時代の文明とは、字義通りに都市化や都市生活のことであった。

文明の要素

マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルド(1892年-1957年)の定義では、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている[1]。効果的な食料生産
大きな人口
職業階級の分化
都市
冶金
文字
記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)
合理科学の発達
支配的な芸術様式


上記の定義は、ひとつの連続する過程として説明することができる。まず農耕が開始され、効果的な食料生産によって農耕民たちは大きな人口を抱えるようになる。またこれによって大きな余剰農産物が生まれ、その富を元にして農業以外を生業とするスペシャリストが生まれ、多様な職業に従事する人々が生まれる。同時に、食糧生産をより効率的にするためには灌漑施設の建設などの土木作業が不可欠であり、これを可能にするために社会の組織化が推進される。

こうした事業はしばしば豊穣などを神に祈るための信仰と結びつき、食糧余剰を管理しより増産を進めるための機構として神官団が生まれる。また、食糧生産の過程で富の偏在が生まれ、富裕なものは他者に対し優位に立つようになる。

この2つのシステムは結合し、こうして政府と階級が生まれる。上層の階級のものはその村落のみならずやがて周囲の村落にも影響を及ぼすようになり、一つのまとまった支配圏が誕生する。こうしてより富が集積されるようになり、さらに増えた人々やスペシャリストたち、そして支配階級のものがまとまって居住する支配や交易の拠点、いわゆる都市が誕生する。

支配層が統治の必要から社会システムを発展させていく中で、文字や記念碑的公共建造物、芸術様式を発達させていき、一つの文明が成立することになる。ただし上記の指標はすべてそろっていなければならないわけではなく、たとえばアンデス文明は文字を持たなかったし、アンデス文明およびアステカやマヤといったメソアメリカ文明においては冶金術も鉄器レベルまでには達していなかった。

チャイルドの定義以外に、すべての文明に共通するものとして次がある。小麦コメトウモロコシといった穀物の栽培は、その貯蔵のしやすさや大量に収穫できることなどから、多くの文明の基盤となるものだった。


また、ほとんどの文明においては家畜化された動物が一種類ないし数種類存在し、食糧供給源、動力、移動手段として大きな役割を果たした。広範囲な貿易。文明以前から、世界各地において広範囲の交易ネットワークは成立しているが、文明の成立とともにこれはより大規模なものとなっていた。シュメールでは、国家管理された貿易商の集団が設置されていた。
単一の定住に比べてより広域な地域にまたがる組織民族[注 4]


文明の機構

チャイルドは文明を構成する要素に注目したが、機構に注目すれば以下の定義により、政府やネットワークが浮かび上がる。大きな人口を維持するには効果的な食料生産と食料分配の制度や分業・階層化を可能にする中心機構を持った政治システムが必要で、「文明とは国家という政治システムを持つ社会」という定義[2]
いろいろな文化のサブ・システムを包含する、広域的ネットワークとして、広い範囲に普遍的に広がり、大規模で高度な組織、制度、統合がなされているという定義[3]


文明の変遷と完成、文明の型

文明のゆるやかな成立

新石器時代の狩猟採集から、原始的な農業を経て、村、町、都市へとゆっくりと発展して、文明が成立していくため、文明が一気に成立するわけではなく、文明に至る階段を登ることになる。例えば、シュメール文明は最古の文明の一つであるが、紀元前5300年頃のウバイド文明から、ウルク期の紀元前3200年の文字の発明まで2000年を要している。原始的農業を経て灌漑技術を生み出し、都市を構成し、冶金技術も生まれ、神官階級が文字を生み出し、歴史時代が始まる[4][5]

また、アンデス文明は、紀元前1000年ごろに文明が発生し、1500年ごろ滅んだが、この文明において文字は存在しなかった。冶金術はメソアメリカ文明ではあまり発達しなかった[1]

灌漑と文明

四大文明」および「四大河文明」も参照

シュメール文明の成立以前の、肥沃な三日月地帯にあった新石器時代エリコチャタル・ヒュユクのような初期定住社会は文字を持たない。これに対し、灌漑文明であるシュメール文明は文字を持ち、記念碑的施設を持っていた[6]メソポタミア文明エジプト文明インダス文明黄河文明[注 5][注 6]は、灌漑文明で[13]都市への定住と分業、パピルスや粘土板、竹簡に記された文字などの共通の特徴を持つ。

上記の四大文明はすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川ユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていた。特にエジプト文明においては、ナイル川の氾濫は上流から肥沃な土を運んでくるものであり、その定期的な氾濫を利用した氾濫農耕が文明の基盤となった。そしてこの氾濫を管理する必要性から、文明が徐々に発達してきた。これに対し、特にメソポタミア南部のシュメール人居住地区ではナイル川流域に比べ氾濫が強力なものであり、このため氾濫は利用するよりも制御されるべきものとなって、かわりにこの地域には広く灌漑網が張り巡らされ、その灌漑農耕の管理を通じて文明が成長していった。

ただし、大河の存在は必ずしも文明成立の必須要件ではなく、メソアメリカ文明やアンデス文明においては文明圏内に文明すべてを支えきれるような大河川は存在していなかった。しかし大河がないからと言って灌漑がおこなわれていなかったわけではなく、上記文明以外でもすべての文明は食糧供給の基盤として灌漑農耕を据えており、これはアステカやインカといった新大陸の文明も例外ではなかった。アステカはチナンパ農耕と呼ばれる湿地での優れた灌漑農業システムを保持しており、また山岳地における用水路を利用した灌漑農耕も行われていた。インカにおいても各地で灌漑は行われていた。マヤ文明においても灌漑用の水路は概して規模は小さいものの各地で見つかっている[14]

文明の種類

サミュエル・P・ハンティントンの『文明の衝突』の世界地図[15]

これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。メソポタミア文明
シリア文明
エジプト文明
インダス文明 (インドパキスタン文明)
中央アジア文明(バクトリア・マルギアナ複合)
スキタイ文明[13]   
ギリシア文明
ミノア文明
エーゲ文明
キクラデス文明
ミケーネ文明
ヘレニズム文明
ローマ文明
ヨーロッパ文明 (西欧文明)
東欧文明(東方正教会文明=ギリシア正教文明)    
イスラム文明
アフリカ文明
中国文明
黄河文明
長江文明
遼河文明
日本文明
メソアメリカ文明
オルメカ文明
テオティワカン文明
マヤ文明
トルテカ文明
サポテカ文明
ミシュテカ文明
タラスカ王国
アステカ帝国
アンデス文明
チャビン文化
ナスカ文化
モチェ文化
ティワナク文化
シカン文化
チムー王国
インカ帝国


文明論

文明論の概要

文明論の始まり

歴史学考古学は、歴史の始まりを画すものとして文明を眺めた。もう一つは、直接文明を対象にするのではなく、未開に関心を寄せた文化人類学であった。両分野は手法と対象は異なるものの、文明の始まりという同じものを見ようとする。

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史』、ヘンリー・バックル『イギリス文明史』などがある。近代ヨーロッパの考古学では人類の初期の古代文明のうち、特にエジプト文明の研究などから、「肥沃な三日月地帯」や「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)という概念で研究した。福沢諭吉は、1875年(明治8年)、『文明論之概略』で西洋文明と日本文明を比較した[注 7]

哲学者の和辻哲郎は1935年(昭和10年)に『風土 人間学的考察』で、モンスーン(日本も含む)、砂漠牧場の三類型の風土において独自の文化が形成されたと論じた[18][19]

挑戦と応戦

20世紀、オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落』において、ヨーロッパ中心史観・文明観を批判した。アーノルド・J・トインビーは、文明とは、個人が強く識別する、最も広範囲なアイデンティティーに相当し、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広い、強固な文化的同一性であるとした[注 8]。そして、多くの文明[注 9]への、「挑戦と応戦」の過程で、文明は発生し、興隆し、やがて終末を迎える。文明の終末において、新たな文明を生む繭が生まれ、古い文明を崩し文明を再生する。例えば、キリスト教会が、崩壊してゆく古代ローマ文明の中で繭として成長し、新しい文明を築いたと主張した。

文明の舞台と環境世界最初の文明は巨大河川での、灌漑であった。
1944年、カール・ポランニーは『大転換-市場社会の形成と崩壊』で資本主義社会の市場構造の分析をした。
1949年、フェルナン・ブローデルは『地中海』で文明における海の役割を際立たせた。
1957年(昭和32年)、梅棹忠夫は『文明の生態史観』で砂漠の決定的な重要性について指摘している[注 10]
1974年、イマニュエル・ウォーラーステインは、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』を打ちだした。ブローデルの影響が濃い。
1988年(昭和63年)、梅棹は、環境に制約された文明は、やがて環境の制約を離れて環境に情報が取って代わり、情報を中心とした文明になると、『情報文明論』で述べた[20]
1997年(平成9年)、川勝平太は、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏の中での日本の文明の役割を文明の海洋史観として提示した。
1997年、ジャレド・ダイアモンドは、文明を成り立たせる要素及び人間の考え方が文明の成立や構造にどのような影響を与えるか、『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』で考察した。


文明の遷移と系列

日本において、梅棹忠夫は文明の変遷の原理をしめした。梅棹は1957年(昭和32年)に著した『文明の生態史観[21]で、生態学的気候区で「ユーラシア両端、日本・欧州」と、「ユーラシア中央部」とに2分し、2つの文明の型で遷移が異なるとした。砂漠の遊牧民が農耕地帯を征服し、文明が瓦解し、大陸中央部は遷移が起きず振り出しに戻る。これに対し、遊牧民の征服をまぬかれた日本と欧州は、文明が破壊されず遷移を繰り返し、平行進化するとした[注 11]。文明とは、環境からの離脱の過程であり、装置群、制度群が次第に発達し、情報文明にいたるとする[注 12]

2000年(平成12年)頃、梅棹の文明論を批判した多くの「…史観」が現れた。川勝平太は、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないと批判した[注 13]。そして、川勝は、ヨーロッパと日本が、海洋交易や技術進歩で、大陸中央部を追い抜いていったとする『文明の海洋史観』を示した[注 14]。川勝の背後には、ブローデルの地中海があり、大きな影響を受けたと述べる。

また、村上泰亮の日本の家社会を例とした、文明はいろいろな系の間の移行により発達の経路が異なるという、文明の多系史観が発表された。村上は、梅棹の遷移理論に対し、文明発展の経路が偶然により異なり、また系の間を移ることがあり、一度経路が決まると、次の分岐点まで文明の型は変わらないとした。

経済の構造

マルクス系のポランニーは、労働と土地は再生産出来ないが、資本主義の市場は再生産できない財を市場で取引するという特徴があり、資本主義体制の市場は普遍的なシステムではないと指摘した。そして、古代や未開民族の経済を調べ、いろいろな経済社会システムがあり、市場がなくとも経済構造を維持できることを示した。

その他、および時評としての文明論

安田喜憲の文明環境史観、森谷正規の文明技術史観、文明のエネルギー史観、嶋田義仁のアフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論がある[注 15]

帝国」の概念と「文明」がオーバーラップするとしてノーム・チョムスキーは、500年にわたる西洋の帝国を経験的に記述した。アントニオ・ネグリマイケル・ハートは、共著『帝国』で、より理論的な分析を展開し、諸文明の同時代的な分析を構成している[注 16]。東西冷戦が終わると、アメリカの勝利が明白になり、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』(1992年)で、民主主義と自由経済が文明の最終形態で、王朝の交代や、革命という大変革は起きないとした。その後、アラブの問題が生起し、サミュエル・P・ハンティントンが、『文明の衝突』で、キリスト教やイスラム教などの宗教を中心とする文明間の対立や摩擦が21世紀の国際政治の特徴になると主張した。

文明と野蛮・未開

伝統的に、文明は野蛮未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャローマ西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国中華思想朝鮮小中華思想、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。

これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。

しかし、同じ分類方法をとりながら、野蛮や未開の方が逞しさ、自由、道徳性の点で優れていると考える人々もいた。高貴な野蛮人という言葉で要約できるこの考えは、ローマのタキトゥスにその片鱗を見ることができ、後に西洋近代にロマン主義として一大流行になった。とはいえ、この考えが主流派に対する異議申し立ての地位を越えた時代はない。

近代西欧における「歴史の進歩」という考えは、未開から段階を踏んで高度な文明に達するという時間的区別と、文明的西欧、半未開あるいは半文明のアジア諸国、未開のその他地域という地理的区別とを重ね合わせた。啓蒙主義の時代には、文明は野蛮を征服し教化するものであり、またそうすべきであると考え、また対外的な侵略と支配を正当化した(帝国主義)。19世紀には進化論が大きな役割を果たし、社会進化論を生み出して、文明と野蛮について説明するようになった。本来「進化」には下等から高等へ一直線に段階を経るといった意味はなく、また進化しなかったものが即劣っているというわけではなくそれぞれの環境においてどのように適応出来たかというのを考察するものであった。

日本や中国などは、近代化にあたって文明と未開の二分法はそのままに文明の内容を西洋文明に置き換えた。明治日本では「文明開化」とよばれた。

近代以後におけるドイツになどにおいては、内面的・精神的な「文化」に対して、外在的・物質的なものを指して「文明」と捉える考え方も広がった。

脚注

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注釈^ 逆に温暖化が進んでいた時期に重なった事で、文明構成住民の霧散化が起こり自然消滅したと言われるのがインダス文明とされる説もある。
^ 文明の起源に関する心理学的考察として二分心がある。
^ トインビーは、これを(環境の)挑戦に対する応報という概念で説明した。移住と生活様式のふたつの変革が、挑戦に対する応報として有効になる。トインビー『歴史の研究』〈世界の名著〈第61〉トインビー〉中央公論社、1967年 。ただし、文明の発生は、文化段階を含め長い時間をかけて行われたので、あくまでそういう説もあるというにとどまる。
^ 梅棹は制度群、装置群という考えで、文明の諸手段は文化と違い、地域を超えて伝達可能であるとする。伊東俊太郎、「比較文明学とは何か」、7頁、伊東俊太郎編、『比較文明学を学ぶ人のために』、世界思想社、1997年。
^ 梁啓超の「二十世紀太平洋歌」(1900年)には「地球上古文明祖國有四:中國、印度、埃及、小亞細亞是也。」との記載がある。金沢大学教授の村井淳志は、この「四大文明」は考古学者江上波夫による造語で、1952年発行の教科書『再訂世界史』(山川出版社)が初出であると2009年に発表した[7]青柳正規は江上のこの造語について、かつてアジアには高い文明があったことを強調することで敗戦に打ちひしがれた日本人を鼓吹しようとする意図があったと推定している[8]
また京都大学教授の杉山正明江上波夫が杉山に「四大文明」を広めたのは自分であると伝えたと回想している[9]。杉山によれば「ふと江上さんが「四大文明」という考えを日本に広めたのは自分だよと、愉快そうに笑われた。私は率直に、長江・ガンジス・マヤ・アンデスなども「文明」で、ざっと挙げても八~十個くらいはありますよとお答えした。ところが江上さんは、「四大文明」といったのは口調がいいからで、本当はいろいろあるさと大笑いされた。」と江上が述べたと記している。
このように「四大文明」を提唱した江上波夫も文明の数については四つに限定されるものではないとしており、また考古学的研究が世界の全地域をカバーするようになると、四大文明以外にも文明の定義を満たすような社会が次々に発見され、四大文明説は定説の座を降り、近年[いつ?]の研究書や教科書では「四大文明」について記述するものは少なくなってきている。現在でも池田誠など四大文明図式にもとづいた研究もあるが、このなかでもスキタイを加え5つの文明文化圏を分析している。中国文明については黄河文明のほか長江文明遼河文明についても最近は研究されている。後述するように現在でも文明の数の定説は論者によって様々であり、不確定である。
^ 4大文明メソアメリカ文明アンデス文明などのアメリカ大陸の文明を含めて6大文明ということもある。また、フィリプ・バグビー[10]、9大文明とし、中国と日本、東方正教会西欧を分類するなら11大文明になるとしている。マシュー・メルコ[11]中国日本インドイスラム西欧の5つに分類している。北朝鮮[12]、「大同江文化」を加えて五大文明だとしている。
^ civilizationを「文明」と訳したのは福沢である。文明開化期に欧米的価値観を意味することが強かった「文明」の用法は、やがて明治期後半に「西洋文明」との対比のなかで「東洋文明」が認識されるようになり、非西洋の精神的・物質的文化の総体も「文明」と呼ばれるようになり、変化していった[16]
福沢は「通論」の紹介として、ヨーロッパとアメリカの文明を最上の文明国、トルコ、シナ、日本などアジア諸国を半開の国、アフリカとオーストラリアを野蛮の国としている-文明論之概略第二章「西洋の文明を目的とする事」。福沢は野蛮について「居に常処なく食に常品なし。便利を遂うて群を成せども,便利尽くれば忽ち散じて痕を見ず。或は処を定めて農漁を勤め,衣食足らざるに非ずと雖ども器械の工夫を知らず,文字なきには非ざれども文学なるものなし。天然の力を恐れ,人為の恩威に依頼し,偶然の禍福を待つのみにて,身躬から工夫を運らす者なし。これを野蛮と名く。」半開について、「農業の道大に開けて衣食具わらざるに非ず。家を建て都邑を設け,その外形は現に一国なれども,その内実を探れば不足するもの甚だ多し。文学盛なれども実学を勤る者少く,人間交際に就ては猜疑嫉妬の心深しと雖ども,事物の理を談ずるときには疑を発して不審を質すの勇なし。摸擬の細工は巧なれども新に物を造るの工夫に乏しく,旧を脩るを知て旧を改るを知らず。人間の交際に規則なきに非ざれども,習慣に圧倒せられて規則の体を成さず。これを半開と名く。」文明について、「天地間の事物を規則の内に籠絡すれども,その内に在て自から活動を逞うし,人の気風快発にして旧憤に惑溺せず,身躬からその身を支配して他の恩威に依頼せず,躬から徳を脩め躬から智を研き,古を慕わず今を足れりとせず,小安に安んぜずして未来の大成を謀り,進て退かず達して止まらず,学問の道は虚ならずして発明の基を開き,工商の業は日に盛にして幸福の源を深くし,人智は既に今日に用いてその幾分を余し,以て後日の謀を為すものゝ如し。是れを今の文明と云う。」と述べている。また中国文明と日本文明との異同については、日本も古代においては「神政府」による支配で人民の心単一であったが、武家社会になると、「至尊」(王室=天皇の権威)と「至強」(武家権力)とが分離し、そのような神政尊崇の考と武力圧制の考の間に自由の気風が生まれたとして、これはシナ(中国)のような純然たる独裁の一君を仰ぐような社会とは異なるとした[17]
^ 文明はふつう、宗教や他の信仰体系に結びつけられるとした。
^ 1934年からの『歴史の研究』で、まりのある文化圏を文明とし、シュメールアッカド文明、エジプト文明、ミノス文明シリア文明、中央アジア文明、インド・パキスタン文明、中国文明、ギリシア文明、ヘレニズム文明 (ヨーロッパ文明)、日本文明、ギリシア正教文明、中央アメリカ文明、アンデス文明、イスラム文明など26の文明を文明を識別した。
^ 海についても、文明の生態史観での海の役割についての考察を元に、その後、多くの研究を、梅棹は指導し、指揮している。
^ ユーラシアの背骨を占める乾燥気候のもとにある遊牧民は、定期的に周りの農耕文明に侵攻し、農業文明の上に大帝国を創りあげる。この砂漠の嵐による文明の崩壊が、ユーラシア大陸の中枢部の文明を絶えず瓦解させ、文明は発展することが出来ない。日本やヨーロッパなど、ユーラシアの外れにある文明は、持続的に発展でき、封建社会を生み出し、ユーラシア中央の文明を凌駕することが出来た。この梅棹の文明論は、当時、マルクス主義によるヨーロッパを頂点とする文明の単線進化に対し、文明の環境構造を持ち込み、生態学という生物学の概念により、文明の進化-遷移を論じた。この生態学遷移理論は、今西錦司の遷移理論が元になっている。ヨーロッパを唯一のモデルにした唯物論(生産力史観)に対し、生態学という異なる視点から、文明の発展原理を提示した。当時、マルクス主義的な発展論に対する対抗理論はなかった。
^ 情報文明も、梅棹の独自理論で、文明の生態史観が共時的な理論、情報論が通時的な理論であると、梅棹は述べている。梅棹忠夫『情報産業論』1963年。『情報の文明学』1988年。
^ 川勝は、雑誌、中央公論への投稿で、自分は京大の人文研の思想系列が好きであるとし、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないとしたが、出版本では批判は消えている。川勝は、人文研の流れにある今西好きであり、いくつかの論考を書いている。一方、梅棹は、今西の直弟子である。
^ 川勝平太は、『文明の海洋史観』で、海洋の役割を強調し、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏が成立し、1500年頃から、交易圏に遅れて参加した日本やヨーロッパの文明は、みずからの文明を革新し、雁行して進化し、古いユーラシアの文明を凌駕するにいたったと位置づけた。
^ アフロ・ユーラシア大陸砂漠地域が先発文明の地域であり、ヨーロッパや日本の湿潤多雨森林文明は後発文明とする-嶋田義仁『砂漠と文明 - アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論』岩波書店2012。また[1]夢ナビ講義も。ただし、これらの考えは、古くからある。
^ 20世紀半ばに西洋諸国が支配した植民地が次々と独立し、自立性を取り戻すと、西洋文明の継続的拡大という見方は覆され、政治的支持を得にくくなった。多くの学問分野で、文明と野蛮(未開)という区分は時代遅れで誤ったものと考えられている。それでも、欧米の保守的知識人の(学問的性格が薄い)評論の中では、優れた西洋文明という考えは一定の支持を得ている。


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文化」のその他の用法については「文化 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

文化(ぶんか、ラテン語: cultura)には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと人間社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。ハイカルチャーのように洗練された生活様式
ポップカルチャーのような大衆的な生活様式
伝統的な行為


語源「文化」は一方では、日本元号の一つで、江戸時代19世紀前半に享和の後、文政の前に使われた。その語源は『易経』賁卦彖伝にある「観于天文、以察時変、観乎人文、以化成天下」」(天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す)にあるとされている。他方、ラテン語 colere(耕す)から派生したculturaローマ時代政治家哲学者キケロも「cultura anima」などと使っている。現代の英語「Culture」・ドイツ語「Kultur」の訳語としては[1]、明治時代に坪内逍遥が『小説神髄』(1885年)などで「文華」という言葉を使い[2]、彼の東京専門学校の後輩・大西祝マシュー・アーノルド著『Culture and Anarchy』の翻訳書『教養と無秩序』(1986年)で「文化」(ただし時々『文華』も)を初めて使ったのが知られている。その後、中国語でも「文化」が使われるようになった[3]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96
文化出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インドで1988年から1990年にかけて放送されたテレビドラマについては「マハーバーラタ (テレビドラマ)」をご覧ください。

インド哲学 - インド発祥の宗教ヒンドゥー教



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馬車に乗ったアルジュナと親友のクリシュナ(青い人物)

クルクシェートラの戦いを描いた図

マハーバーラタ』(サンスクリット: महाभारतम् Mahābhāratam) バラタ族にまつわる大叙事詩。バラタ族とは物語の中心となるクル族の別称である。『ラーマーヤナ』とともにインドの二大叙事詩と称され、ギリシャの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』としばしば比較される。第6巻にヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』を含む。インドの古典語であるサンスクリットで著され、その94%がシュローカ(8音節×4韻脚)と呼ばれる韻律によって構成されている[1]

Fitzgeraldによれば、ナンダ朝マウリヤ朝の勃興(紀元前4世紀頃)、とくにアショーカ王(在位は紀元前3世紀頃)によるダルマの宣布により『マハーバーラタ』のテキスト化が開始され、紀元前2世紀中葉〜紀元後1世紀末頃に完成されたとみられる。このテキストは紀元後4世紀(グプタ朝期)にさらに拡張され、後代に伝えられるサンスクリット写本群の元となった[2]

世界で最も長い叙事詩であり、『マハーバーラタ』自身の語るところによれば10万詩節を含む[3]。ただし、現在底本として用いられることの多いプーナの批判校訂版では7万5千詩節弱、補遺である『ハリ・ヴァンシャ(ハリの系譜)』と合わせて9万詩節を越える程度である[4]

全18巻の構成を取っているが、全100巻に分ける区分も並存している[5]。各巻の内容は「マハーバーラタの構成」を参照のこと。

この長大な物語には、古代インドにおける人生の四大目的、法(ダルマ)・実利(アルタ)・性愛(カーマ)・解脱(モークシャ)が語られており、これら四つに関して「ここに存在するものは他にもある。しかし、ここに存在しないものは、他のどこにもない」と『マハーバーラタ』自身が語っている[6]。これは『マハーバーラタ』という物語の世界観を表す、非常に有名な一節である。

内容

パーンドゥ王の息子である五王子(パーンダヴァ)と、その従兄弟であるクル国の百王子(カウラヴァ)の間に生じた長い確執と、クル国の継承を懸けたクル・クシェートラにおける大戦争を主筋とする。18日間の凄惨な戦闘の末、戦いはパーンダヴァ側の勝利に終わったものの、両軍ともに甚大な被害を出す。この主筋の周辺に、さまざまな伝説や神話、哲学問答などが組み込まれ、古代インド文化の百科事典的な様相を呈している。

第1巻〜5巻はクル族の祖先にまつわる物語と大戦争に至るまでの経緯を語り、第6巻〜10巻は大戦の詳細、第11巻〜18巻は戦後処理と五王子らの昇天までの後日譚を描く。 第12巻〜13巻の大部分は後世の追加であると考えられ、王権や社会のあり方、哲学的思想などが説かれている。

大戦時における両陣営の主な戦士の構成は以下の通り。

パーンダヴァ側》

ユディシュティラビーマアルジュナナクラサハデーヴァ(以上が五王子)、クリシュナ[7]ドルパダ王、ドリシュタデュムナシカンディンガトートカチャアビマニユ等。

カウラヴァ側》

ドゥルヨーダナドゥフシャーサナ他(百王子)、ドリタラーシュトラ[8]ビーシュマドローナアシュヴァッターマンカルナクリパシャクニ等。

第6巻23章〜40章に哲学詩篇『バガヴァッド・ギーター』を含み、第1巻62章〜69章に『シャクンタラー物語』、第3巻50章〜78章に『ナラ王物語』、第3巻111章〜113章に『リシャシュリンガ(鹿角仙人)物語』、第3巻257章〜276章に『ラーマーヤナ』、第3巻277章〜283章に『サーヴィトリー物語』など有名な説話が収録されている。

批判校訂版

現在主に『マハーバーラタ』研究に用いられる底本は、プーナの批判校訂版(Critical Edition)と呼ばれるテキストである[9]。 それ以前で言えば、初の『マハーバーラタ』完全版として1834年と39年にカルカッタ版が刊行された。それに続き1862年から63年にニーラカンタの注釈が付されたボンベイ版が刊行されている[10]

1925年、V. S. Sukthankarの主導により、『マハーバーラタ』の批判校訂版を編纂するプロジェクトが始動した。この刊本は1933年から66年にかけて全19巻で刊行された。Sukuthankarはこの第1巻のProlegomenaにおいて、この版の目的は「手に入る諸写本を元に構築しうる最も古い形を再構成すること」であると述べている[11]。この編纂方針に従い、成立の新しいと思われる部分が本文から省かれAppendixに回されたため、それまで用いられてきたボンベイ版やカルカッタ版よりシンプルでテキストが短いことが特徴である。

神話の受容

東南アジアにおける受容



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出典検索?: "マハーバーラタ"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年10月)

『マハーバーラタ』の作者ヴィヤーサが象神ガネーシャに神話を語る現代的な表現
(インド・カルナータカ州

東南アジアではインド二大叙事詩『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』は共に王権(クル族を祖先とする王家の正統性)を強調するものとして翻案され、支配階級のみならず民衆の間でも親しまれている。ベトナム(チャンパー)の碑文やインドネシア(ジャワ、バリ)の古典文学およびワヤン・クリットにおいてはクル族両王家のうちカウラヴァ方への共感が見られる。7世紀のチャンパー碑文によればチャンパーとカンボジアの王はカウラヴァのアシュヴァッターマン王子(ドローナの槍の継承者)の子孫である。ジャワにおける翻案(古ジャワ語文学(カウィ文学))ではパーンダヴァ方の血統でありながらカウラヴァ方についたカルナ(ジャワ語カルノ)がアルジュナ(ジャワ語アルジュノ)と共に二人の主人公と目され、カルナは心はパーンダヴァにありながら、カウラヴァを滅ぼすためにカウラヴァについたと改変されている。

オカルトにおける受容『マハーバーラタ』に記された「インドラの雷」の描写は、現代の核兵器を想起させるため、『ラーマーヤナ』とともに、超古代文明による古代核戦争説の証拠であると主張する者がいる[12]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%BF
マハーバーラタ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古代核戦争説(こだいかくせんそうせつ)とは、有史以前の地球に近代人の知らない超古代文明が栄えていたが、核戦争により滅亡したとする説。または、四大文明および同時代の文明が核戦争により滅亡したという説。一般的な歴史観に反するため考古学者歴史学者の間ではまともな論議の対象となっておらず、これまで学術的な分析でも成果は挙がっていない。

地球上には四大文明以前にも、それらを凌ぐ(なかには、現在の文明をもしのぐと主張する者もいる)「超文明」などと呼称される超古代文明が存在していたが、みずからが起こした核戦争によって跡形もなく滅亡。現在最古と考えられている文明はその後に再興してきたものに過ぎないと主張する説。

日本では橋川卓也、日本国外では、中国王然(Ran Wang)イギリスデヴィッド・W・ダヴェンポートDavid Davenport)とイタリアエットーレ・ヴィンセンティEttore Vincenti)、ピーター・コロシモPeter Kolosimo[1]、らが主唱している。

肯定論者は、多くの神話(『創世記』、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』など)の描写には古代宇宙飛行士説と核戦争と解釈可能な記述があると主張したり、モヘンジョダロなどにおいて核戦争の痕跡と思われるオーパーツもいくつか発見されている、などとしている。

古代核戦争説が主張された当時は冷戦期であり全面核戦争とそれによる文明の全面滅亡の脅威が真剣に論じられていた。しかし、のちに全面核戦争が起きれば核の冬によって人類は絶滅する(つまり過去に全面核戦争は起きていない)とされるようになり、さらに冷戦終了で全面核戦争の脅威自体が失われると、この説もまた忘れられていった。[要出典]

論拠

論拠としては、昔から残された文献の解読による主張
遺跡から発見された痕跡の調査結果による主張


のふたつに分けられる。

文献

核爆弾が空中で爆発すると、数百万度という超高温の火球が発生し、超高温の熱線致死量放射線が周囲に放散される。同時に空気が急激に加熱されることで爆発的に膨張し、強力な衝撃波が発生する。この衝撃波が地表に達すると、地表の土やほこりが大量に舞い上がるため、地表ではあたり一面が暗くなる。さらに、核爆発時にともなう放射線によって土壌等が汚染され、高い放射能を帯びるようになる。

紀元前10世紀ごろに起きた大戦争を語り伝えた「バラタ族の戦争を物語る大叙事詩」を意味する『マハーバーラタ』をはじめ、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』、『リグ・ヴェーダ』には、この大気圏内核爆発を想像させる記述が見受けられる。超高温の火球=太陽が一万個集まった光り輝く柱
強烈な熱線=池の水が蒸発、猛火に焼かれた木々のように倒れる戦士たち、火傷で逃げまどう戦象、灰と化す住民
衝撃波=恐ろしい風、うなる雲、揺れ動く太陽
衝撃波で舞い上がる土ぼこり=方向感覚を見失うほどの濃い闇
放射能汚染=髪の毛や爪が抜け落ちた死体、毒された食物、鎧を脱ぎ捨てて体を水で洗う生存者


以上のように、記述はきわめて具体的で、原爆投下後の広島の被害状況とも酷似しており、とても想像だけで書いたとは考えがたいというのが肯定論者の主張である[2]

モヘンジョダロ遺跡

インダス文明の古代都市モヘンジョダロの遺跡は周囲約5平方キロメートルの広大な遺跡であるが、現在発掘が進んでいるのは全体の約4分の1ほどの地域である。遺跡で見つかった白骨死体46体は、突然、死がやって来たような状態であった。その内の9体には高温にさらされた跡が残されていた[3]。また『ラーマーヤナ』の記述にもとづき、戦争の年代と場所とを特定した研究者によると、炭素14の分析によって、戦争の発生期間を紀元前2030年から紀元前1930年の間と特定したものの、モヘンジョダロにおいては約400年程度の食い違いが見られるという。このずれの可能性としては放射能の影響が強く考えられるが、いまだはっきりしない[4]

古代核戦争の研究者ダヴェンポートは、発掘対象からはずれていて、現地民が「ガラスになった町」と呼んで近付かない場所[5]を訪れたと報告している[6]

そこは、黒いガラス質の石が、周囲約800メートル四方を覆い尽くしているという場所で、これらの石片は、高熱で溶けた砂が再固化したものと判明しており、その正体はテクタイトであるとされる。この付近では、ほかにも溶けてくっついたレンガや、ねじ曲がったり気泡が混じるなどしてガラス化した壺の破片等の遺物も見つかっている。これらの遺物やガラス化現象については、大規模な火災火山噴火等の諸条件が偶然重なって起きたまれな現象であるというのが、一般的な考古学者の見解であるが、モヘンジョダロ遺跡のあるインダス川流域において、それほどの大規模の火山活動の痕跡はいっさい確認されていない[7]

このように広範囲の砂が溶けてガラス化するという現象は、これまで自然界ではまったく見つかっておらず、同様の風景は今のところ地表で核実験の行われた場所(砂漠)でしか確認されていない[8]

また、壺が原形を保ちながら溶けかかった状態で固まるという現象は、超高温の熱線がきわめて短時間に照射された状況を想定しない限り考えにくい(高熱にさらされる時間が長ければ、完全に溶けて原形を失うし、逆に、温度が低ければ大きな変形は起きない。)。なお、広島市にある広島平和記念資料館には、これらの遺物同様なかば溶けかかりながらも原形を留めたガラス製の一升瓶や、表面のみが溶けた瓦などが展示されている。

ダヴェンポートは、モヘンジョダロで発見された遺物をローマ学科大学へ持ち込み、ブルーノ・デイ・サバティーロ教授(火山学)やアムレート・フラミーニ教授(岩石学研究所)らに分析を依頼した。その結果、問題の遺物は約1000度から1500度の高温で短時間に加熱された「らしい」という結果が出たと報告している[9][10]

上記の研究結果に対し、以下のような反論がなされている。

証拠とされる品物が、じつは「発見者」や「オカルティストたち」によって捏造された可能性である。発見者のダヴェンポートは、この「ガラスになった町」を「地元でタブーとされている場所」として、その正確な場所を明らかにせず、その存在を第三者が確認したわけではない。インダス文明を研究する考古学者の近藤英夫教授(東海大学)はNHKの取材で、このガラスになった町について「モヘンジョダロは何度も訪れたが、見たことも現地で話を聞いたこともない」とコメントしている[11]。ダヴェンポートの発表当時とは違い、現代ではGoogle Earthなどでモヘンジョダロ周辺の衛星写真を簡単に閲覧できるが、約800メートル四方もの広さのある(とされる)「ガラスになった町」らしきものはいっさい確認できない[12]。「ガラスになった町」が実在しないのであれば、そこから発見されたという遺物の信憑性も失われることになる。

現地で発見された遺体についても、モヘンジョダロはインダス文明期以降も、洪水や火災等が原因で興亡を繰り返していたことがわかっており、一時期は廃墟化していたことさえあった[12]。そのため、放置された遺体が見つかっても別に不思議ではない(上記の伝承も、通常の大火が誇張されて伝わったものと考えても齟齬はない)。

カッパドキア遺跡

トルコカッパドキア地方には、カイマクル・デリンクユ・オズコナーク等の地下都市遺跡が数十以上も存在し、最大で十万人以上が地下で生活していたのではないかと推測されている。構造そのものはシンプルで、地下の花崗岩層をノミなどの原始的な工具で掘ってくり抜き、部屋や階段や廊下に仕立てていた。しかしその規模は非常に大きく、例えばカイマクルでは8層に渡る多層構造を呈していて集会場や学校ワイナリー食料貯蔵庫家畜の飼育場まで備えており、約2万人が居住できたと推測される。

しかしその起源については未解明であり、過去には初期キリスト教の信者達が建設したとされていた。これは、地上のギョレメ等に岩窟をくり抜いたキリスト教会が多数存在するからであるが、実際には地下都市内には教会キリスト教を示すイコンの類などキリスト教徒が暮らしていた証拠が見つかっておらず、またキリスト教成立以前において古代ギリシャローマ時代の歴史家であるヘロドトスストラボンらが地下都市の存在を示唆していた事からも、現在では初期キリスト教徒と地下都市遺跡は関係が無いのではと考えられている。一説にはヒッタイトスキタイ人が建設に関わっていたとも言われているがはっきりとはしない。

この事から、古代核戦争説の提唱者達からはこの地下都市遺跡を核シェルターの一種だとされ、そこで核戦争を生き延びた超古代文明の担い手達がその後にヒッタイト古代ギリシャ諸文明を興したのだと主張している。また、カッパドキア地方の地上に見られる特徴的で多様な奇岩・奇景も、核爆発によって岩石が溶解した跡ではないかという。

また、カッパドキアは1985年に「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として世界遺産に登録された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%A0%B8%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AA%AC
古代核戦争説出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

The Kurukshetra War (Sanskrit: कुरुक्षेत्र युद्ध), also called the Mahabharata War, is a war described in the Hindu epic poem Mahabharata (Sanskrit: महाभारत), arising from a dynastic struggle between two groups of cousins, the Kauravas and the Pandavas, for the throne of Hastinapura. The war is used as the context for the dialogues of the Bhagavad Gita, which was interpolated into the Ramayana.

https://en.wikipedia.org/wiki/Kurukshetra_War
Kurukshetra WarFrom Wikipedia, the free encyclopedia

パーンダヴァ兄弟への策略

ドラウパディーがサイコロゲームに招かれる場面

人望があり年長でもあるユディシュティラのほうが、クル国の次期王にふさわしいという声が大きく、ドゥルヨーダナは嫉妬と不安に苛まれていた。[8] 王位を狙うドゥルヨーダナは、常にパーンダヴァ兄弟を征服し、自らが権力を得られることを望んだ。 そのため、ドゥルヨーダナは母方の伯父シャクニ、親友であるカルナ(カルナとの関係はカルナの項目参照)、弟のドゥフシャーサナなどを腹心とし、パーンダヴァ兄弟に対し様々な策略を講じた。 少年期には、一緒に遊んでいた弟達と共にパーンダヴァ五兄弟の次男ビーマの力に振り回されていることに憎しみを募らせ、ビーマを謀略により殺害し、次いで長男のユディシュティラと弟達を力ずくで捕縛して権力を得ようと考えた。 水遊びをした際には、疲れて(毒を持って眠らせたという説もある)眠っていたビーマを縄で縛り上げガンジス河に投げ込んだ。しかし、ビーマは目覚めるとすぐにその戒めを解き、生還した。またある時は猛毒を持つ蛇たちにビーマを噛ませて殺そうとしたり、新しく作った毒でビーマを殺害しようとしたりするも、いずれも失敗した。[9]

ドゥルヨーダナは、他のクルの王子らと共にドローナ、クリパという二人の武芸の師の下で修業を行った。クルの王子たちが各々の習得した武術を披露するための御前試合が行われた際には、ドゥルヨーダナはビーマと激しい棍棒戦を披露した。そこへアルジュナに対抗意識を燃やすカルナが乱入し、アルジュナと同じように弓で数々の技を披露して見せた。カルナはアルジュナを挑発して決闘を挑もうとするも、決闘を行うためには素性を明らかにすべきであり、王族は己より下位の者と戦ってはならないというクリパの言葉にカルナは窮する。そこでドゥルヨーダナは、その場でカルナをアンガ王に即位させる。これに感謝したカルナに対し、ドゥルヨーダナは「永遠の友情を望む」と答え、二人は抱き合って喜びを分かち合う。これで王族同士となったカルナとアルジュナであったが、会場に現れたカルナの養父アディラタを見て、ビーマが「御者の息子に、アルジュナに殺される資格などない」と言い放ち、それにドゥルヨーダナが王族にとっては力が最も重要であり、耳輪と鎧を身に着けたカルナは王にふさわしいと反論したところで日が沈み、決闘は果たされないまま試合は解散となった。カルナはドゥルヨーダナにこの上なく甘い言葉で世辞をいい、それを受けたドゥルヨーダナはアルジュナへの恐れを消滅させていった。[10]

しかし、その後もドゥルヨーダナはアルジュナやビーマの卓越した武術に悩み、カルナやシャクニと共にパーンダヴァの殺害を何度も試み、失敗した。パーンダヴァはヴィドゥラの助言に従って、加害を公言しなかった。市民たちはユディシュティラらパーンダヴァの美質を高く評価し、「パーンダヴァの長男であるユディシュティラは、若年ながら老成しており、真実の人で、慈悲深い人である。即位すればビーシュマとドリタラーシュトラとその息子たちを尊敬し、数々の恩恵を与えてくれるであろう」と広場や集会場に集まって言った。この言葉にドゥルヨーダナは激しく嫉妬し、ドリタラーシュトラに「このままでは我々は永遠に王位継承から外され、世間に人々に軽蔑されてしまう。我々が苦しむことのないよう、速やかに対処してください」と進言する。ドリタラーシュトラは一度は否定するものの、ドゥルヨーダナが名誉と財物で臣下をつり、パーンダヴァを王都から追い出すことを提案すると、それを受け入れてしまう。[11]

さっそくドゥルヨーダナは、燃えやすい素材を用いて宮殿を建てさせ、そこにパーンダヴァ兄弟を住まわせて、火を付けて殺そうとした。[12]パーンダヴァは、ヴィドゥラの助言とユディシュティラの知恵により火災から逃れて潜伏後、ドラウパディーという花嫁を得、ドルパダ王の後ろ盾を得て帰国する。(詳細はアルジュナユディシュティラの項目を参照)ドゥルヨーダナは、パーンダヴァ暗殺が失敗したことを知り、落胆し、実行犯であるプロ―チャナの悪口を弟達と言いあった。[13]

骰子賭博とパーンダヴァ兄弟の追放

パーンダヴァが王国に帰還すると、ドゥルヨーダナは母親の異なるユディシュティラ、ビーマ、アルジュナと、ナクラ、サハデーヴァの間をバラモンを用いて決裂させること、妻であるドラウパディーを怒らせ仲違いさせること、ビーマを暗殺することなど提案する。一方、カルナはドゥルヨーダナの意見を却下して、武力によってパーンダヴァを倒すことを提案する。[14]   しかし、クル国の家臣たちはこれを良しとせず、パーンダヴァとの講和のため、領土をそれぞれ分割することをドリタラーシュトラ王に提案し、ドリタラーシュトラはこれを受け入れた。

すなわち、クル国の首都ハスティナープラがドゥルヨーダナに、辺境の地カーンダヴァプラスタ英語版)がユディシュティラに与えられた。[15]ユディシュティラはカーンダヴァプラスタをインドラプラスタ英語版)と改称し、不毛の地を栄華極まる土地へと開拓した。

そして、ユディシュティラは諸王が憧れる世界皇帝の即位式(ラージャスーヤ英語版))を行い、権勢を極めた。[16] ドゥルヨーダナはその即位式の豪華さに圧倒され嫉妬し、蒼白となった。[17]

そこで、伯父のシャクニは、「賭博に長けた自分なら、容易にユディシュティラから全てを奪うことができる」と語り、ドゥルヨーダナを励ました。[18] ドゥルヨーダナは、シャクニと共にドリタラーシュトラを説得し、パーンダヴァ兄弟を骰子賭博の場に招待させる。 [19]ドゥルヨーダナは自らの代わりにイカサマに長けたシャクニにユディシュティラの相手をさせ、彼が賭けた財産、領土、果ては兄弟や妻のドラウパディーまで全てを奪い取った。

ドラウパディーを勝ち取った際、ドゥルヨーダナは弟のドゥフシャーサナに、生理中で部屋にこもっていたドラウパディーを引き摺ってでも連れてくるよう命じた。ドゥフシャ―サナはドラウパディーを集会場に力ずくて連れてくると、激しく揺さぶり、「奴隷女め」と罵った。カルナはこの嘲りを殊更に喜び、さらに服を剥ぎ取るよう命じた[20]

その後、ドリタラーシュトラの計らいによって、賭けられた全てのものがユディシュティラに返還されたが、ドゥルヨーダナは、「敗者は12年間森に住んだあと、1年間正体を知られることなく隠れて暮さねばならない」という条件を挙げ、再びユディシュティラをサイコロ賭博に誘い、シャクニの詐術によって彼を打ち負かし、パーンダヴァ兄弟を森へ追放した。ドゥルヨーダナは目論見の成功に有頂天になったが、この暴虐はパーンダヴァたちの怒りを買い、ビーマとナクラはドゥルヨーダナ以下弟たちを、サハデーヴァはシャクニを、アルジュナはカルナを殺すことを誓った。[21]

牧場視察と悪魔の励まし

パーンダヴァが追放されている間、ドゥルヨーダナは、パーンダヴァの苦しむ姿を見て楽しもうとカルナ、シャクニらと共に牧場視察を企てる。[22]大軍を伴って森へ入り、娯楽のための家を兵士らに作らせるが、そこは半神ガンダルヴァたちが既に陣取っていた。ガンダルヴァたちと場所を取り合って争いとなるが、半神である彼らに敵わず、形勢不利とみたカルナを含む全軍が逃げ出し、ドゥルヨーダナは捕まってしまう。[23]ドゥルヨーダナの臣下の願いを聞いて助けに来たパーンダヴァ兄弟に助けられるも、屈辱のあまり自殺を考える。ドゥフシャ―サナやカルナ、シャクニが励ますが、ドゥルヨーダナは意志を変えなかった。そこへ現れた悪魔たちが、ドゥルヨーダナの上半身はヴァジュラの集積から、下半身は女神により花で作られたと告げ、悪魔と羅刹が味方に付いていると励ました。さらに悪魔は、ドゥルヨーダナに自分たちの王として地上を統治するように勧めた。これにより、ドゥルヨーダナは生きる希望を取り戻し、パーンダヴァ兄弟を殺して王国を得ることを再度決意した。[24]

気を持ち直したドゥルヨーダナは、ユディシュティラの皇帝即位式に対抗してヴァイシュナヴァという大祭を行った。約定として13年間王国を追放されているパーンダヴァが、約定に従う以上は招待を受けられないことを知りながら、パーンダヴァにも招待の使者を送った。ユディシュティラは丁重にこれを断ったが、この侮辱的行為はビーマの怒りを買った。[25]

クルクシェートラ戦争

骰子賭博の約定通り、パーンダヴァ兄弟が13年間の追放を満了した後も、ドゥルヨーダナはパーンダヴァ兄弟に一切の領土を返還することを拒んだ。両親や武芸の師であるドローナ、一族の長老であるビーシュマの説得、パーンダヴァ側からの和平交渉のすべてを拒絶した[26]ため、クルクシェートラ戦争英語版)に至った。

戦争には諸国の王らがドゥルヨーダナらカウラヴァ陣営と、ユディシュティラらパーンダヴァ陣営に分かれて戦った。ドゥルヨーダナは、ユディシュティラの弟である双子のナクラ、サハデーヴァの伯父のマドラ国王シャリヤをパーンダヴァより先にもてなすことで味方につけることに成功する。[27] クルクシェートラ戦争において、ドゥルヨーダナは、11アクシャウヒニー(当時の軍隊の規模の単位)という、 ユディシュティラの7アクシャクヒニーに対し大きな規模の軍隊を擁して進軍した。

しかし、戦争はドゥルヨーダナの思い通りには進まなかった。まず自陣営で最も強力な戦士であるビーシュマとカルナが対立し、カルナはビーシュマが倒れるまでの十日間は一族共々戦争に参加しなかった。[28]

またビーシュマが倒れた後、強力な戦士であるドローナがパーンダヴァに手を下すことを拒絶した。味方が次々とビーマやアルジュナに倒される中、ドゥルヨーダナはユディシュティラを生け捕りにするようドローナに命じる。やっと和平を結ぶ気になったとドローナは感動するが、すぐに「生け捕り後、骰子賭博で再度追放する」というドゥルヨーダナの言葉に失望する。[29]さらに、アシュヴァッタ―マンが放った強力な武器は「戦う意思のない者には効かない」という特性があり、クリシュナの働きかけで武器を手放したパーンダヴァ陣営には効かなかった。アシュヴァッタ―マンに再度武器を放つよう求めるも、一度放たれた武器は戻らないと告げられてしまう。[30]

ビーシュマ、ドローナ、カルナ、シャリヤと次々と自陣営の強力な戦士らを失い、ビーマに弟達を殺され、サハデーヴァにシャクニを殺されて一人になったドゥルヨーダナは湖に逃げ込み身を隠した。[31]

ビーマとの最終決戦

ドゥルヨーダナがビーマに敗れるシーン

湖に隠れているところに、生き残ったカウラヴァの戦士たち(クリパ、アシュヴァッタ―マン、クリタヴァルマン)がやってきて、再度パーンダヴァたちと戦うことを勧めるも、ドゥルヨーダナは、今は休みたいと告げて断った。森で狩りをしていた猟師らがこのやり取りを聞いており、すぐさまパーンダヴァらに伝えると、ユディシュティラは軍を率いて湖へ向かった。ユディシュティラはドゥルヨーダナに対し、「好きな武器、そして自分たちのうち誰か1人を選んで戦え。もし、ドゥルヨーダナが勝てば自分は敗北を認めるだろう」との約束をした。 ドゥルヨーダナは棍棒を選び、生涯憎んできたビーマを対戦相手に選んだ。 クリシュナは、「ドゥルヨーダナは棍棒術において比類なき戦士であるのだ。そのような彼に対して、君はあまりにも安易な約束をしてしまったものだ」としてユディシュティラを非難した。

案の定、ドゥルヨーダナはビーマを激しく追い込んでいた。 そこで、クリシュナは、かつてドゥルヨーダナがドラウパディーを侮辱した際に、ビーマがドゥルヨーダナの腿を砕くと誓ったことを彼に思い起こさせて、ビーマにドゥルヨーダナの腿を攻撃させて打ち負かした。 棍棒を用いた戦いにおいて、このように臍から下を狙うことは反則であったため、ドゥルヨーダナ自身や、そして彼とビーマにとり棍棒術の共通の師であるバララーマなどが、このことを非難した。

これに対し、クリシュナはドゥルヨーダナの行ってきた悪行を挙げ、非法に非法で報い正義を打ち立てることは正当であると主張した。 なおも、苦しい息のもとでドゥルヨーダナはクリシュナをひどく罵倒し、自らが打ち立ててきた王族としての業績を挙げ、そして、戦士として勇敢に戦い死んでいくことを誇る旨を語った。さらに、「この世に残って荒れ果てた家に戻り、惨たらしく殺された友人を思って苦しみ、長いこと求めていた勝利の味は、砂をかむのと等しいことを悟る。さて私とあんたと、どちらが祝福されているだろうかね?」と言い放った。 その際、天上の神々が妙なる音楽を奏でて、花を降らしドゥルヨーダナを称えた(花が降り注ぐのは超人的行為を賞賛するポピュラーな表現であり、マハーバーラタでも珍しくはなく頻繁に登場する)。[32](山際素男訳『マハーバーラタ 第5巻』においては「お前たちはこれから悩みを背負って生きてゆかねばならないのだ」という台詞になっている。)

ドゥルヨーダナはビーマに敗北した後、駆け付けたクリパ、クリタヴァルマン、アシュヴァッタ―マンの中でアシュヴァッタ―マンを最後の総指揮官に命じる。(山際版第5巻、第9巻)アシュヴァッタ―マンは命令を受けてパーンダヴァらへの夜襲を決行する。ドゥルヨーダナは血だまりの中で一晩を過ごし、アシュヴァッタ―マンの成功の報告を受けて息を引き取った。[33]なお、実際にはパーンダヴァ五兄弟は生存しており、アシュヴァッタ―マンの夜襲は失敗している。

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ドゥルヨーダナ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

パーンダヴァPāṇḍava, : पाण्‍डव)は、インド叙事詩マハーバーラタ』に主役として語られている5人の兄弟。パーンドゥの子ら、という意味。ユディシュティラビーマアルジュナナクラサハデーヴァを指す。いずれも武術に秀で、絶世の美女ドラウパディーを共通の妻とする。

形式的にはパーンドゥの子供とされるが、実際は王妃たちが神々との間に生んだ子供である。というのは、パーンドゥは呪いのために女性に近づくことができなかったため、王妃たちは特別な手段で子を産まねばならなかったのである。最初の3人を第1王妃クンティーが正義と法の神ダルマ、風神ヴァーユ、雷神インドラとの間に生み、後の2人を第2王妃マードリーが医術の神アシュヴィン双神との間に生んだ。クンティーは、パーンドゥとの結婚以前、太陽神スーリヤとの間にカルナを生んでいたので、パーンダヴァとカルナは実は異父兄弟である。

パーンドゥの死後、5兄弟は父の兄弟である盲目王ドゥリタラシュートラ英語版)のもとで彼の子・ドゥルヨーダナをはじめとするカウラヴァらとともに武芸に励む。しかしドラウパディーの花婿選びなどをきっかけとしてパーンダヴァとカウラヴァとの因縁が語られる。5兄弟を怨んだドゥルヨーダナの策略によってすべての財産を奪われたパーンダヴァは12年間王国を追放され、後に王国の回復を求めてカウラヴァと敵対する。この対立が『マハーバーラタ』の中心的主題となっている。

なお、これらパーンダヴァを中心とする『マハーバーラタ』の主要な登場人物は、『リグ・ヴェーダ』にさえみられないインド・イラン語派最古の神学体系を反映していることが、スウェーデンスティグ・ヴィカンデルや、フランスジョルジュ・デュメジルらによって確認されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5
パーンダヴァ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


パーンドゥ: पाण्‍डु, Pāṇḍu[1])は、インド叙事詩マハーバーラタ』の登場人物である。クル国の王ヴィチトラヴィーリヤの寡婦アムバーリカーと聖仙ヴィヤーサの子。異母兄弟にドリタラーシュトラとヴィドゥラがいる。クンティーとの間にユディシュティラビーマアルジュナを、マードリーとの間にナクラサハデーヴァをもうけた[2]

パーンドゥは「青白い」の意味である[3]。兄ドリタラーシュトラが盲目であったため、パーンドゥが代わりに王位を継いだが、後に世俗を捨て森に隠遁したため兄ドリタラーシュトラが王となった。

人生

シャーンタヌ王の妃サティヤヴァティーは息子であるヴィチトラヴィーリヤが病死し、クルの王家が王位継承者不在の危機に瀕したとき、かつてパラーシャラ仙との間に生んだヴィヤーサを呼んで、亡きヴィチトラヴィーリヤの2人の寡婦アムビカーとアムバーリカーとの間に子をもうけてくれるように頼んだ。苦行に明け暮れていたヴィヤーサは見るに堪えない姿だったので、アムビカーは彼が近づくと思わず目を閉じてしまった。その結果、盲目のドリタラーシュトラが生まれた。アムバーリカーはヴィヤーサを見て真っ青になったので、蒼白のパーンドゥが生まれた[3]

パーンドゥは盲目の兄に代わって王となり[4]、クンティーおよびマードリーと結婚した[5]。しかしパーンドゥは狩の最中に交合する鹿に出会い、これを射殺したことがあった。この鹿は隠者(ムニ)のキンダマ英語版)が化けた姿であり、彼は死の間際、パーンドゥに「女性と交わろうとすると死ぬ」という呪いをかけた[6]。パーンドゥは隠者を殺してしまったことを後悔し、出家して、苦行して暮らすことを決意し、2人の妃もそれに従った[7]

パーンドゥは天界に渡ろうと考えて、シャタシュリンガ山を訪れ、この地で多くの聖仙とともに苦行を積んだ。しかし子供のない者は天界に渡れないため、過去の呪いがパーンドゥを悩ませた。パーンドゥはクンティーに、自分の母のように聖仙との間に子をもうけて欲しいと頼んだ[8]。さいわい、クンティーは神々を呼び出して子を授かるというマントラを得ていたので[9]、パーンドゥは彼女に頼んで神々の子を産んでもらった。クンティーは正義と法の神ダルマ、風神ヴァーユ、雷神インドラを呼び出し、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナを産んだ[10]。パーンドゥはさらに子を望んだがクンティーに拒否された。しかしパーンドゥはマードリーから自分も子供が欲しいと相談されたので、パーンドゥはマードリーのためにも神々を呼んで欲しいと頼んだ。クンティーは1度に限定したので、マードリーは天界の双生児であるアシュヴィン双神を呼んでもらい、双神との間にナクラ、サハデーヴァを産んだ[11]

パーンドゥは5人の子供を得て幸福に暮らした。しかしある日、パーンドゥはマードリーと散歩するうちに、薄着姿のマードリーに欲情して抱きしめてしまい、呪いによって死んだ。マードリーはサティーの慣習によってパーンドゥの火葬の火に焼かれて死んだ[12]。長男のユディシュティラは幼かったため、王位はドリタラーシュトラに移り、彼は老境に至って王権を弟の子に返した[2]

脚注

[脚注の使い方]^Pandu, Pāṇḍu, Paṇḍu, Pandū, Pamdu, Pamde: 37 definitions”. Wisdom Library. 2022年1月15日閲覧。
^ a b 菅沼晃『インド神話伝説辞典』p.271-274「パーンドゥ」の項。
^ a b 『マハーバーラタ』1巻100章。
^ 『マハーバーラタ』1巻102章22行。
^ 『マハーバーラタ』1巻105章。
^ 『マハーバーラタ』1巻109章。
^ 『マハーバーラタ』1巻110章。
^ 『マハーバーラタ』1巻111章。
^ 『マハーバーラタ』1巻104章4行-7行。
^ 『マハーバーラタ』1巻114章。
^ 『マハーバーラタ』1巻115章。
^ 『マハーバーラタ』1巻116章。


参考文献『原典訳 マハーバーラタ1』上村勝彦訳、ちくま学芸文庫、2002年。ISBN 978-4480086013
菅沼晃編 編『インド神話伝説辞典』東京堂出版、1985年。ISBN 978-4490101911


関連項目



ウィキメディア・コモンズには、パーンドゥに関連するカテゴリがあります。ヴァルナ (神)
ジョルジュ・デュメジル

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パーンドゥ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

インド・ヨーロッパ語族 > インド・イラン語派

インド・イラン語派話される地域西アジア中央アジア南アジア言語系統インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派


下位言語インド語群
ヌーリスターン語群
イラン語群


ISO 639-5iir



ユーラシア大陸におけるインド・ヨーロッパ語族の分布

インド・イラン語派

インド・イラン語派(インド・イランごは)とは、インド・ヨーロッパ語族の主要な語派の一つ。サテム語に属す。約4000年前、インド・イラン祖語英語版)はさまざまな言語に分化して、やがてイランインドの諸古典語になった。その諸古典語のなかにはアヴェスター語サンスクリット語古代ペルシア語などがある。次第にその古典語から現代的言語のヒンディー語ペルシア語になっていった。 また歴史的にこれらの言語はアラビア語の影響を強く受けた言語が多く、また、インド語派の諸言語はドラヴィダ諸語に大きな影響を与えた。

古典語はインド・ヨーロッパ語の基本的な形式をよく保っているが、現代語では大きく変化し、例えば名詞のを失ったもの(現代ペルシア語ベンガル語など)もある。

シンタシュタ文化の担い手はインド・イラン語話者であったと、一般に考えられている。

インド・イラン語派の諸言語

インド語群の分布(ウルドゥー語はHindiの範囲に含まれている。ロマ語ドマリ語ロマヴレン語はこの地図の範囲に含まれていない。)

中央語群

東部語群

北部語群

北西語群

南部語群

シンハラ・モルジブ諸語

イラン語群の分布: ペルシャ語(緑色)、パシュトー語(紫色)、バローチー語(黄色)、クルド語(空色)、ほかイラン系諸語

インド語群ヴェーダ語 (古代語)
サンスクリット (古代語)
プラークリット (古代語)
パーリ語
中央語群(ヒンディー語群英語版))
グジャラート語
ヒンディー語ウルドゥー語
パンジャーブ語
ドマリ語 - ドムの言語
ロマ語 - ロマジプシー)の言語
東部語群(マガダ語
アッサム語
ベンガル語
マイティリー語
オリヤー語
北部語群(パハール語群
ネパール語
北西語群
シンド語(シンディー語)
南部語群
マラーティー語
シンハラ語
ディベヒ語
ダルド語群
カシミール語
コワール語


ヌーリスターン語群 イラン語群アヴェスター語(古代語)
古代ペルシア語(古代語)
メディア語(古代語)
スキタイ語(古代語)
バクトリア語(古代語)
パフラヴィー語(古代語)
西イラン語群
ペルシア語
ダリー語
タジク語
ブハラ語ブハラ・ユダヤ人
ムスリム・タート語
ユダヤ・タート語山岳ユダヤ人
ダリー語 (ゾロアスター教)
クルド語クルド人
バローチー語
タリシュ語
東イラン語群
パシュトー語
オセット語
パミール諸語


関連項目アラビア語
ドラヴィダ諸語
インド・イラン語派のスワデシュ・リスト - Wiktionary (英語)

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インド・イラン語派出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

シンタシュタ文化(シンタシュタぶんか、Sintashta culture)またはシンタシュタ・ペトロフカ文化[1]シンタシュタ・アルカイム文化[2]青銅器時代ユーラシアステップ北部(東ヨーロッパ中央アジア)に紀元前2100-1800年に栄えた考古文化である[3]

概要

シンタシュタ文化は一般にインド・イラン語派原郷と考えられている。最古のチャリオットが見つかっており、当時の戦闘技術の最先端を生み出し、旧世界まで拡散させる、揺籃の地であったことが示唆される[4]

シンタシュタ文化の集落は、銅鉱業と銅冶金の強さが顕著であるが、これは草原の文化にとっては珍しいことである。[5]

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シンタシュタ文化出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

青銅器時代(せいどうきじだい)は、考古学ないし歴史学において、を利用した石器の代わりに青銅を利用した青銅器が主要な道具として使われた時代を指す術語である。

定義と概要

青銅器時代の装飾品。南仏タルヌ県にて出土。

青銅器時代とは、デンマーククリスチャン・トムセンが提唱した歴史区分法の一つである三時期法に依拠する概念である。この三時期法は、社会の歴史的な時間の流れを、主に利用されていた道具の材料によって石器時代、青銅器時代、鉄器時代と3つに区分する考え方であり、青銅器時代はその中の真ん中の時代に相当する。また、この時代区分は先ヨーロッパ史を中心に考えて提唱されたものであるが、中東インド中国にも適用することが可能である。青銅器時代は多くの文明において国家形成の開始された時期に当たり、世界最古の文字が発明されたのもこの時期にあたる。このため、各文明においては先史時代歴史時代の両方の面を持つ。メソポタミア文明においては最初の都市の形成は銅器時代後期にさかのぼるとみられており、また歴史をしるすことのできる文字の発明も、銅器時代後期である紀元前3200年頃のウルク市とみられているが[1]、初期王朝時代には青銅器時代に入ったと考えられている[2]。エジプト、中国の各文明においては青銅器文明に入った後に国家の形成が行われ、歴史時代へと入っていった。またこれとは逆に、西ヨーロッパや北ヨーロッパのように青銅器時代を通じて国家の形成が見られず、先史時代にとどまった地域も存在する。

特徴

青銅は合金であるため、当然ながら、ある社会が青銅器時代へと移行するためには、交易によって他の文明圏から青銅器自体を大量かつ恒常的に入手できる例外的な場合を除いては、鉱物資源の入手が可能な状況が存在しなければならなかった。また同時に、の制御と利用に関する高度な技術や冶金術の発達も必要とされた。

石器時代の終盤、人類は自然金自然銅などの鉱物を加工することを覚え、やがて銅を加工した金属器を使用するようになった。この時代のことを銅器時代、または金石併用時代と呼ぶ。ただし銅は硬度が不足しており、石器を完全に駆逐することはできず、金属器と石器の併用される時代が続いた[3]。やがて自然に結晶化した鉱物だけでなく、鉱石に含まれる金属を精錬する冶金技術を手に入れた人類は、徐々にさまざまな金属を使用するようになっていく。こうした金属の中に、スズがあった。スズは融点が低く、主要鉱石である錫石からの精練が容易であるためかなり早くから実用化された金属であるが、このスズと銅を同時に溶融して合金である青銅を開発したことで、青銅器時代がスタートした[4]。もっとも、初期の青銅は二つの金属を混合したものではなく、スズ成分を多く含む銅鉱石を精錬した際に偶然発見されたと考えられている。

青銅がもてはやされた理由は、展延性に富み加工性に優れていたことと、銅に比べ融点が低く溶融しやすいにもかかわらず非常に硬度が高く、武器農具などにも使用可能であったこと、青銅器が示した熱伝導性耐久性光沢という金属の一般的な性質が当時の人々にとって希少価値を有していたことにあると言われている。青銅は錫の添加量が多いほど白銀色の光沢が強くなり硬度も上がり、銅が多くなるにつれ黄金色を経て赤銅色へと変化し硬度も低下するが、この白銀色や黄金色といった華美な色彩は当時の人々の創造性を非常に刺激し、祭礼において用いられた神聖な神具や高貴な者が使用する装飾品として錫を多く含む青銅器が製作された。一方で、錫の含有量に相関して脆性が高まることから、青銅製の刀剣は黄金色程度の色彩の青銅が多く使われたことが分かっている。ただしスズは加工は容易ではあるものの非常に地域的な偏在が激しい鉱物のひとつであり[5]、スズを入手できなかった地区においては青銅器時代に到達せず、石器時代が非常に長く継続することも稀ではなかった。またこうしたことからスズは青銅器時代において非常に重要な交易物資として扱われた。銅もスズほどではないがどこにでも産出する性質のものではなく、これらの物資はしばしば文明地域から離れた地域において調達された。シュメール文明においては銅はイラン高原から、のちにはマガン(現オマーン)から、スズはアフガニスタン西部から、それぞれ輸送されてきた[6]が、このことははるかな遠隔地との間を結ぶ長距離交易システムがすでに構築されていたことを示している。こうした青銅器時代の交易船からは、しばしばスズや銅のインゴットが発見され、この二品目が青銅器時代において大変重要な交易品だったことを示している[7]

青銅器の獲得により、石器時代に比べ、農業生産効率の向上、軍事的優位性を確保する事が出来、それによって社会の大幅な発展と職業の分化、文化レベルの向上が起こったと考えられている。こうしたことから、青銅器時代に入った地域においては各地で文明が成立し、周囲の農耕民が集住してできた都市が形成され、やがて国家を形成するようになっていった。このほか、文字の発明やウマの広汎な使用、車輪の使用、身分の分化なども多くはこの青銅器時代に端を発する。

世界の各地域への広まり

メソポタミアエジプトでは紀元前3000年ごろから青銅器時代がはじまった。初期にはブルマリー炉Bloomery)が使用されていた。メソポタミアにおいては青銅器時代に入る前からウルクなどの都市が形成されていた[8]が、青銅器時代に入るとさらに発展は加速し、ウルラガシュなどといったシュメール都市国家が栄え、紀元前2350年頃にはアッカドサルゴンがメソポタミアを最初に統一し、やがてウル第三王朝バビロニアカッシートなどの広域王朝が交代を繰り返すようになった。このほか、メソポタミア北部においてはアッシリアミタンニなども建国された。エジプトにおいても青銅器文明に入ると統一王朝が形成され、エジプト初期王朝時代を経てエジプト古王国が成立した。その後、エジプト第1中間期エジプト中王国エジプト第2中間期を経て、エジプト新王国期までがエジプトの青銅器時代である。エーゲ海地方においては、紀元前3000年頃から2000年頃にわたって続いたキクラデス文明や、クレタ島に栄えたミノア文明(ミノス文明、クレタ文明)、ギリシア本土に栄えたミケーネ文明小アジア西端のトロイア文明といった、エーゲ文明の名で総称される各文明が起こっていた。オリエントにおいては、アナトリア高原ヒッタイトの現れる紀元前1500年前後までが青銅器時代と考えられる。ただしこの時期のオリエントにおいて鉄器の製造技術を保持していたのはヒッタイトのみであり、ほかの諸国においては青銅器時代が継続していた。オリエント全域に鉄器が広がり青銅器時代が終焉するのは、紀元前1200年ごろに海の民の襲撃によりヒッタイトが滅亡し、その技術がオリエント全域に流出した、いわゆる前1200年のカタストロフののちのことである[9]

インドにおいては紀元前2600年から紀元前1800年ごろにかけて、インダス川流域にモヘンジョ・ダロハラッパーなどの諸都市によるインダス文明が栄えた。

ヨーロッパでは紀元前2300年紀元前1900年ごろのビーカー文化後期、紀元前1800年紀元前1600年ごろから始まったウーニェチツェ文化、紀元前1600年〜紀元前1200年ごろの墳墓文化(西部)およびトシュチニェツ文化(東部)、紀元前1300年ごろからの骨壺墓地文化(西部)およびルサチア文化(東部)などを経て、紀元前800年頃から青銅器時代から鉄器時代への移行期に入った。また、北ヨーロッパにおいては青銅器文化の時期はやや遅れ、紀元前1700年紀元前500年ごろに北欧青銅器時代を迎えた。

中国では、紀元前3100年頃から紀元前2700年頃にかけて甘粛省青海省といった黄河最上流部に栄えた馬家窯文化において青銅の物品が発見されており、この時期に青銅器時代に移行したと考えられている。その後、黄河中下流域に栄えた龍山文化二里頭文化を経て、紀元前1600年頃には二里岡文化に代表される中国最古の王朝である(商)が成立した。殷代の青銅器は、饕餮(トウテツ)文と呼ばれる複雑な文様が青銅器の表面に鋳造されていることで知られる。その後代を経てから春秋時代(紀元前770年〜紀元前400年ごろ)までが青銅器時代に相当し、に代表されるさまざまな特異な青銅器が生まれた。こうした青銅器の表面にはしばしば文字が鋳造されるか刻まれ、金文と呼ばれて貴重な資料となっている。

存在しない地域

石器時代、青銅器時代、鉄器時代という時代区分が当てはまらないケースもある。石器を使っていた地域に、すでに鉄器の利用が普及している隣接地域から青銅器・鉄器の技術の両方が伝われば、その石器を使っていた地域には定義上青銅器時代は存在しないことになる。

日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったと言われており、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。実際に、日本国内で発掘される青銅器は祭器としての使用が非常に多く、実用的な金属器としての使用は少ない。むしろ、実用的な金属器は鉄器が大半である。このため、日本は青銅器時代の存在しない地域の典型例によく挙げられる。

サハラ砂漠以南のアフリカにおいても青銅器時代は存在せず、銅の使用自体も鉄器伝来後、しかも装身具などわずかな使用にとどまっていた[10]

また中・南アメリカにおいては、鉄を発見する事なく文明・文化を発展させ歴史時代に入った事から、青銅器時代という区分は存在しない。鉱業・冶金技術の発展とともに青銅のみならず金や銀、あるいは金・銀・銅の合金が使われるようになったものの、こうした金属器の使用はほぼ装飾品など一部の利用にとどまり、武器など実用品の多くは石器のままの、いわゆる金石併用状態であった。

時代区分石器時代 - (銅器時代・金石併用時代)- 青銅器時代 - 鉄器時代

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
青銅器時代出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上記のWikipedia記事を踏まえて、クル族はインド・アーリア人系統のヒンズー教徒の流れをくむ蛮族とされる民族であり

その後、ドリタラーシュトラの計らいによって、賭けられた全てのものがユディシュティラに返還されたが、ドゥルヨーダナは、「敗者は12年間森に住んだあと、1年間正体を知られることなく隠れて暮さねばならない」という条件を挙げ、再びユディシュティラをサイコロ賭博に誘い、シャクニの詐術によって彼を打ち負かし、パーンダヴァ兄弟を森へ追放した。ドゥルヨーダナは目論見の成功に有頂天になったが、この暴虐はパーンダヴァたちの怒りを買い、ビーマとナクラはドゥルヨーダナ以下弟たちを、サハデーヴァはシャクニを、アルジュナはカルナを殺すことを誓った。[21]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%8A
ドゥルヨーダナ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

との記述から、青白い人を意味するクル族のバーントゥはドゥルヨーダナのイカサマ賭博に負けて森に追放された民族であり、ハンターハンターのクラピカちゃんの身体的特徴である白い肌と青い目を持つ金髪碧眼と似た特徴があるクルタ族と似た特徴がある可能性がある。

クル族(カウラヴァ)はインド叙事詩マハーバーラタ』の物語の中心となる一族である。パーンダヴァと対比される場合は、盲目王ドゥリタラシュートラ英語版)とガーンダーリー英語版)との間に生まれた100人の王子を指す。長男のドゥルヨーダナを首領とし、次男のドゥフシャーサナや、叔父のシャクニ、御者の息子カルナなどが中心となって、パーンダヴァと激しく対立した。

ドゥルヨーダナは、パーンダヴァを罠にはめて謀殺しようとした。さらに正式に継承された彼らの王国を詐欺を使った賭博によって奪い取り、森に追放した。これが原因で、王国の返還を求めるパーンダヴァとの間に戦争が起こり、カウラヴァクルクシェートラの戦い英語版)で全滅した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E6%97%8F
クル族出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

このクル族のWikipediaの記述から森に追放されたクル族(カウラヴァ)の住むクル国は、クルクシェートラの戦いで滅びたとあることから、ハンターハンターの幻影旅団にクルタ族の森に住むクルタ族が虐殺されたというアニメの設定とクルクシェートラの戦いドゥルヨーダナに全滅されられた話と似ていると感じました。

十王戦争(じゅうおうせんそう:サンスクリット語 दाशराज्ञ dāśarājñá)とは、『リグ・ヴェーダ』に描かれる時代の古代インドにおいて、インド・アーリア人を中心とした諸部族の間で勃発した戦争である。

概要

戦争の様子は、『リグ・ヴェーダ』に描写されている(7.18、7.33、7.83.4-8)。

この戦争は、関係のない非アーリア人の諸部族を巻き込んだ、インド・アーリア人の内部抗争の性格が強い。優秀な司祭長ヴィシュヴァーミトラを軍師としたプール族は、パンジャーブの諸部族と連合し、勢力を伸ばし始めていたトリツ族バラタ族に対し、戦いを挑んだのである。しかし、ヴァシシュタを司祭長とするスダース王に率いられたトリツ族・バラタ族は、プール族を中心とした十王の軍に勝利し、インド・アーリア人の諸部族の中での覇権を確立した。

この戦争の記録は、『リグ・ヴェーダ』に述べられていること以外の史料が無く、神話的であるが、実際の歴史的事件であったとする学説が有力である。

脚注^ en:Mandala 7

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
十王戦争出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハンターハンターのクラピカちゃんが、もしアーリア人であるならば、クル族系統の森に追放されてクルクシェートラの戦いドゥルヨーダナに全滅されられた全滅したクル族系統のバーントゥ民族である可能性は高く本当にクルタ族がいたかもしれないと考察してみました。

クル族 (クルぞく、Kru people, クルーとも) は、リベリア内陸部に居住する民族集団。隣国のシエラレオネコートジボワールにもいる。その歴史は、強い部族意識と、占領への抵抗の歴史である。

もともとクル族は、初期の奴隷貿易商たちの間では、奴隷狩りに反抗する忌々しい部族として知られていた。こうした評判もあり、逃亡や自殺を試みることも多かったことから、クル族の奴隷としての価値は、他のアフリカ人たちよりも低かった[1]

現在のリベリアの一部が独立国メリーランド共和国として存在していたころ(1854年 - 1857年)、貿易を支配しようとしていたメリーランドの入植者たちに対し、クル族は様々な形で抵抗を続けていたが、1856年にはグレボ族と結んで入植者たちに戦争をしかけた。メリーランドはリベリアの軍事支援を得て反攻し、この抵抗は失敗に終わるが、この戦争を機にメリーランドはリベリアに併合されることになった。

クル族は、グレボ族の一派で海岸部に住むクルメン族とは別の集団であるが、クルメン族も「クル族」と呼ばれることがしばしばあり、混同されやすい。

クル族は、リベリアの数多い民族集団のひとつであり、人口の7パーセントを占めている。クル諸語 (Kru languages) は、リベリアでは大きな言語集団となっている[2]。クル族は、リベリアの社会・政治活動において、クラーン族(Krahn)、マノ族 (Mano) と並んで3つの主要な先住民集団のひとつとなっている。

クル族の著名人としては、1990年代に活躍したサッカー選手ジョージ・ウェア[3]、幼少時には「カブー (Kaboo)」という名だった福音伝道者サミュエル・モリス(Samuel Morris)などがいる。リベリア共和国大統領エレン・ジョンソン・サーリーフは、クル族、ゴラ族(Gola)、ドイツ系の血を引いている[4][5]モンロビア市長のメアリ・ブロー(Mary Broh)は、クル族とバッサ族(Bassa)の血を引いている。モンロビアのクル族地区の知事だったトーマス・ニメン・ボートー他、1952年の大統領選挙ではクル族のディドフー・トェ(Welleh Didwho Twe)が大統領候補として出馬し、アメリコ・ライベリアンウィリアム・タブマン大統領の対抗馬だった。

出典・脚注^ Johnston, Harry, and Johnston, Harry Hamilton and Stapf, Otto. Liberia. 1906, page 110
^ 真島一郎3-2.民族アトリエIV. リベリア内戦史資料
^ BBC News, "Profile: George Weah"
^ Reed Kramer, "Liberia: Showered With Enthusiasm, Liberia's President-Elect Receives High-Level Reception in Washington", AllAfrica.com, 11 December 2005
^ Britannica Online Encyclopedia, "Ellen Johnson-Sirleaf"


参考文献Behrens, Christine, Les Kroumen de la Côte Occidentale d'Afrique, Bordeaux: Centre d'Etudes de Géographie Tropicale, 1974;
Brooks, George, The Kru Mariner in the Nineteenth Century: A Historical Compendium, Newark,Del., 1972 (Liberian Studies Monograph Series no.1);
Davis, Ronald, Ethnohistorical Studies on the Kru Coast, Newark, Del., 1976 (Liberian Studies Monograph Series no.5);
Fraenkel, Merran, Tribe and Class in Monrovia, New York-London: OUP, 1964;
Mekeel, Scudder, "Social Administration of the Kru: A Preliminary Survey", Africa 10 (1937) 75-96; 11 (460-68);
Massing, Andreas W., The Economic Anthropology of the Kru, Wiesbaden: Steiner, 1980 (Studien zur Kulturkunde 55);
Massing, Andreas W., Kru, in The Oxford Encyclopedia of Maritime History, vol.2, 306-309, New York, 2007;
Schwartz, Alfred, Peuplement Autochthone et Immigration dans le Sud-Ouest Ivoirien, Abidjan: ORSTOM, 1973;
Tauxier, Louis, Les Kroomen de la Forêt de Côte d'Ivoire, Paris: Larose, 1935;
Zetterström, Kjell, Ethnographic Survey of Southeastern Liberia: Preliminary Report on the Kru, Robertsport: Centre of African Culture, 1969


関連項目



ウィキメディア・コモンズには、クル族 (リベリア)に関連するカテゴリがあります。サラトガ (スループ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E6%97%8F_(%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2)
クル族 (リベリア)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クルメン族KrumenKroumenKroomen)は、リベリアからコートジボワールにかけての沿岸部に住む民族集団[1]。人口は1993年の推計で48,300人、そのうち28,300人がコートジボワール側にいたとされる[1]クルメン族は、グレボ族の一派であり、クルメン語を話す。

クルメン族は、「クル (Kru)」族と呼ばれることもあるが、リベリアの内陸部に分布するクル族とは、関係はあるものの、別個の集団である。

名称の語源

「クル」ないし「クルメン」という言葉は、英語で船員などを意味する「クルー (crew)」に由来すると誤解されてきた。これは、彼らが西アフリカの先住民としては最初に、ヨーロッパの船に乗って働いたという事実を踏まえていた。語源としてより確からしいのは、クルメン族の中の部族名のひとつ「クラオー (Kraoh)」と考えられる[2]

分布

20世紀初頭の時点で、彼らはモンロビア付近からパルマス岬付近まで、リベリアの海岸沿いに散在する村に住んでいた。当時、クルメン族は、近い関係にあるグレボ族バサ族ニフ族などを含めて、40,000人以上いると称されたが、本来のクルメン族は、シノエ川からパルマス岬までの狭い範囲に住んでおり、そこにはそれぞれ部族長のいる5つの集落(Kruber, Little Kru, Settra Kru, Nana Kru, King Williams Town)があった。彼らは沿岸各地に自分たちの集落をもっており、隣国シエラレオネや、グランドバッサ郡、首都モンロビアにもそれぞれクルメン族の集落があったという[2]

伝統的な文化

20世紀初頭の時点で、クルメン族は政治的にはいくつかの小さな共同体に分かれており、それぞれに世襲の部族長がいて、よそ者との交渉にあたっては部族を代表していた。ただし、部族長の役割はそれだけで、実際の政治は脚に鉄輪の勲章をつけた長老たちに委ねられていたとされる。長老たちを代表する大長老は、呪術の長として部族のシンボルを護持しており、彼の家は、掟を犯したとされる者が、その罪が証明されるまでの間、安全にすごせる場所となっていた。個人の財産は、各家族の共有物であり、土地も共有とされていたが、自力で耕し続けられる間はその土地の耕作権を維持できた[2]

20世紀初頭のクルメン族の少年たちは、14歳か15歳になると、12ヶ月から18ヶ月ほど船に乗る仕事をした。彼らは、多くの場合は自分の町からさほど遠くない範囲を動く船で働きたがるので、ギニア沿岸を動く商船には必ずと言ってよいほどクルメン族の少年が乗っていたという。妻を買えるほどの金が稼げると、故郷に戻って定着するのが一般的だったという[2]

20世紀初頭のクルメン族は、部族のしるしとして、額を横切って耳から耳へ黒か青の線を引いていた。また、腕に入れ墨をしたり、切歯を抜歯する習慣があったとされる[2]

出典・脚注^ a b Ethnologue report on Krumen at SIL
^ a b c d e Encyclopædia Britannica Eleventh Edition, 1911, "Krumen"

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%B3%E6%97%8F
クルメン族出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


Thomas Nimene Botoe (December 25, 1912 – August 20, 1969) was a Liberian politician, Governor of the Kru Community in Monrovia.

During the presidency of William V.S. Tubman, he was accused of a role in "The Plot That Failed".[1] Along with Nettie-Sie Brownell, Gbaflen Davies, and S. Raymond Horace, he was charged with sedition and high treason, and jailed and tortured.[2] He was eventually pardoned by Tubman along with the other leaders and finally exonerated by President William R. Tolbert Jr, in 1974 after Tubman's death. A street named Botoe Avenue in New Kru Town was dedicated in his honor.

References
Boley, G. E. Saigbe. Liberia, the Rise, and Fall of the First Republic. London: Macmillan Publishers, 1983.

Wreh, Tuan, and William Vacanarat Shadrach Tubman. The love of liberty. 1976.









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https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Nimene_Botoe
Thomas Nimene BotoeFrom Wikipedia, the free encyclopedia

共同体で財産を共有する修道院的な生活をしている呪術師のクレメン族の共同体の特徴とユダヤ教徒で共同体で暮らし共有財産制をとる白い民族衣装のエッセネー派とよく似ている気がするのですよ。

クル国サンスクリット語 कुरु Kuru、英語: Kuru Kingdom)は、古代インド十六大国(Mahajanapada)のうちのひとつ。クル国の位置した地域は、クル・クシェートラと呼ばれる、十王戦争に勝利したバラタ族プール族と連合し形成したクル族の活動領域が中心であり、現在のハリヤーナ州からデリー、そしてガンジス川上流域にあたる。クル族中心の部族共和制を採っていたと考えられる。パンチャーラ国の隣国である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E5%9B%BD
クル国出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クル国は共和制だから王はいないという事。

エッセネ派 (エッセネは)
Essenes



イエス時代のユダヤ教の一分派で,その名称は〈敬虔な者たち〉の意とされる。フィロン,ヨセフス大プリニウスの報告によると修道院に似た共同生活を行い,加入希望者は3年間の試験期間の後,厳粛な誓約により初めて加入を許され,共同体のあらゆる規律の遵守を義務づけられた。結婚と財産私有に関し,これを厳格に禁止する祭司的共同体と,一部分これを認容する,より緩やかな共同体の別があったといわれる。固有な年間暦をもち,日々の生活は祈禱,律法研究,農工作業,祭儀的な沐浴と共同の食事などからなる日課に従って整然と営まれた。4000人ほどの会員がパレスティナ内外の多くの土地に居住していたと伝えられ,1945年死海沿岸で遺構が発見されたクムラン教団はエッセネ派の一部を構成したものと考えられる。バプテスマヨハネとイエス自身をもエッセネ派=クムラン教団の出身とする仮説があるが,あまり賛同を得ていない。
クムラン →死海写本
執筆者:大貫 隆

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エッセネ派」の意味・わかりやすい解説

エッセネ派
エッセネは
Essenes



前2世紀~1世紀末,イエスとほぼ同時代のユダヤ教三大教派の一つで,パリサイ派サドカイ派と並ぶ。パレスチナに初めて現れたのは,前2世紀のハスモン家 (ユダヤ人祭司) の反乱の終り頃といわれるが,前1世紀末までには,その中心集団が死海の北西沿岸に共同生活を形成していた。派としての規模は小さく,会員はおもに農耕を中心として,厳格,敬虔な宗教生活を営んでいた。当時には珍しく,奴隷制を否定し,みずからの労働によって生活の糧を得,それを共有するという共産社会を形成していた。その禁欲的な宗教生活は,修道院と同様である。宗教観はサドカイ派よりもパリサイ派に近いが,独自の信念と戒律をもっていた。生活の中心は詳細なトーラー研究に費やされ,会員は全生涯をそのために捧げた。日常生活のけがれを純化することを目指し,集団受洗といった儀式的純化が強調された。エッセネとは,「敬虔なもの」,あるいは「静かなるもの」といった意味と考えられるが,語源に関しては諸説がある。 1947年に死海の北西のクムランの洞穴で発見された「死海文書」 Dead Sea Scrollsは,この派のものとされる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エッセネ派」の解説

エッセネ派(エッセネは)
Essenians



ユダヤ教の一分派。原意は「敬虔(けいけん)な者たち」で,前1世紀頃パレスチナの荒野に共同生活を営む集団として現れた。禁欲的な祭司群を中心に,誓約して入会を許された者,志願者らからなり,旧約聖書の律法を学び,沐浴(もくよく)し共同食事を行っていた。一時は4000人ほどになり,洗礼者ヨハネはこの群から出たらしい。1945年に死海北西岸のクムランで多数のパピルス文書が発見されたが,エッセネ派に属すると考えられている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE-36807
エッセネ派(エッセネは)
Essenians

クル族が奴隷制否定の立場でよかったです。
私は暖かいお湯のお風呂に入浴して暖かいお湯のシャワー浴びて安心してますけど。
古文書のエッセネー派の冷水浴びて、森で脱糞して暮らすってホームレス時代思い出してしまいます。ホームレスの時に近くに公衆トイレがなければ森等の人に見えないところで脱糞するしかないよね。安心安全な生物学的性別で区別されたトイレと性別関係なし多目的トイレはレイプ被害防ぐためにも私は必要だと考えてます。
エッセネ派が奴隷制否定する敬虔な共同体のユダヤ教徒で第二神殿の権威否定はよいと思うのですが、エッセネー派の人は100歳超まで生きるってマジですか、世俗離れているって出家してる人であるという事。
エッセネ派は共有財産制をとっていることがクル族と似てますね。
エッセネ派は白い民族衣装が特徴であり、ハンターハンターのクラピカちゃんがアニメハンターハンターで罪びとである事を言ってますかすから私はハンターハンターのクラピカちゃんが追放エッセネ派である可能性があると思いました。
拷問笑って耐えるは私には無理、痛いのが嫌なので。
Wikipediaのエッセネー派の特徴見ると白い民族衣装の民族であるからハンターハンターでクルタ族のクラピカちゃんはユダヤ教徒のエッセネ派ではないかと考えていて、アーリア人だとすると金髪碧眼の特徴持つクルタ族のクラピカちゃんの特徴から森に追放され国を滅ぼされた青白い人系統のクル族だと考えられると考察できます。
追放エッセネの人々は餓死ルートしかないって、ハンターハンターのクラピカちゃんって罪びとである事言ってるから追放エッセネな気がしますよ。

エッセネ派ヘブライ語: האיסיים‎、古希: Ἐσσαῖος/-οι, Ἐσσηνος/-οί、: Esseni、英語: Essene(s))は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。現代では複数の関連のある集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられている。呼称の語源は不詳。ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。

概説

起源として、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスが任命した大祭司イェホシュア・ベン・シモン2世英語版)(ヤソン)の正統性に疑義を呈し、抗議したグループにさかのぼる点でファリサイ派とは同源、あるいはファリサイ派から生じたグループであると考えられている。以後、エッセネ派においてはヤソンとその後継者たちを正統な大祭司でないとして「悪の祭司」という称号で呼ぶことになる。しかし、誰が「悪の祭司」とよばれたのかについては異論もあり、ハスモン朝サロメ・アレクサンドラの息子ヨハネ・ヒルカノス2世とローマ人の同盟者たちが「悪の祭司」であると考えるものもいる。どちらが「悪の祭司」であるにせよ、非正統祭司とその支持者の一党がサドカイ派と呼ばれるようになる。

また、エッセネ派は独自の称号を用いてある人物を呼んでいるが、たとえば「マティフ・ハ・キザ」(「偽りの説教師」)として言及するのはミシュナーにあらわれるイェシュー・ハ・ノツリなる人物であると考えられている。同じようにエッセネ派の呼び方を特定の人物に確定することは困難であるが、「イシュ・ハ・カザフ」(「偽りの人物」)としてはシメオン・ベン・シェター(紀元前80年 - 紀元前50年ごろ)、あるいは有名なシャンマイ(紀元前40年 - 紀元後20年)であると考えられる。

ラビ・シャンマイは当時のユダヤ教において指導的な地位を獲得するため、アブ・ベス・ディンとその後継者メナヘムを追い落としたと伝えられていることから、おそらくエッセネ派はメナヘムとヒッレルと並び称されたラビ・ヒルレルの支持者たちによって形成されたのであろう。シャンマイは高齢になっていたが、対抗していたラビ・ヒルレルの死後(紀元20年ごろ)、指導的地位を完全に掌握し、新たに18のユダヤ教法を採用した。これは後のユダヤ教において『出エジプト記』における「金の子牛」の鋳造にも比される出来事であると断罪されるに至る。

エッセネ派についての記録を残しているのはフラウィウス・ヨセフスアレクサンドリアのフィロンである。ヨセフスは『ユダヤ戦記』第Ⅱ巻119~161にかけてエッセネ派について解説している。フィロンの記述もヨセフスとは若干の違いはあるものの大部分において共通している。それらの記録によるとエッセネ派においては共同生活が営まれ、入団資格の審査のための期間が設けられており、教団内で認められることで初めて教団の一員として迎え入れられたという。

長きにわたって死海文書の作成者と思われるクムラン教団(Qumran Community)はエッセネ派に属するグループあるいはエッセネ派そのものであると考えられてきたが、ノーマン・ゴルブ英語版)のように異議を呈する学者たちも存在している。

エッセネ派は思想的に第二神殿エルサレム神殿)の権威を否定していたと思われる。とはいっても神殿の概念そのものを否定したかったわけではなく、自身の共同体を新しい神殿とみなしていたのであろう。エッセネ派はいずれ、自分たちがサドカイ派に勝利し、エルサレム神殿における主導権を掌握することができると考えていたようである。ユダヤ戦争の結果、70年にエルサレム神殿が崩壊し、神殿を権威の根拠としていたサドカイ派とシャンマイのグループは終焉を迎えたが、エッセネ派も期待した勝利を得ることができず、結局対立グループの消滅とともに自らのアイデンティティーを消失し、ヒルレルの影響を受けたファリサイ派のグループと合流していくことで歴史から姿を消すことになる。

神殿崩壊後のユダヤ教はファリサイ派の中でもヒルレルのグループが中心となって担っていくことになる。エッセネ派の持っていた「神殿によらずして神に仕えることができる」という発想はキリスト教の発生に影響を与え、神殿崩壊後のユダヤ教を支える思想的な基礎になった。

新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある。

特徴

フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』第2巻で詳述されている、エッセネ派の特徴は、以下の通り。

概要(他派と比べて)最も高い聖性のために訓練することで評判を取っている。
他派の者たち以上に互いに愛し合っている。
快楽を悪として退け、自制することと情欲に溺れないことを徳と見なしている。
彼らの間では結婚は軽視すべき事柄。
他人の子をまだ素直で教えやすい内に引き取り、親族の者と見なして自分たちの習慣で彼らを型にはめる。
結婚やそれによる後継者作りを非難しないが、女たちの奔放な性から我が身を護ろうとする。
女というものは決して一人の男に操を捧げるものではないと信じている。
富を軽蔑し、財産は共有制。
自分たちの所有物を宗団のために全員のものにする規定があり、彼らの間のどこにも貧困ゆえの屈辱も、傑出した富者もなく、各人の所有物は一緒にされ、全てが兄弟たちの共有財産となる。
油を汚染させるものと見なしており、かかってしまったら拭き落とさなくてはならない。
肌を乾いた状態にさせており、常に白い衣をまとっている。
執事たちは挙手で選ばれ、全員の前で適任の仕事に選出される。


居住/所有どの町にも大勢の者がやってきて住んでいる。
他所からやって来ても、全てのものを自分たちの所有物のようにして使うことができる。
一度も会ったこともない者たちの下へ親しい者のように出入りする。
(したがって)旅をする時に何一つ携えることをせず、野盗に備えて武器を携行するだけ。
どの町にも、見知らぬ仲間たちのために、衣食の面倒をみる宗団の世話人が特別に任命されている。
服装や体つきをみると、恐怖で以て訓育されている子供たちに似ている。
服やサンダルは、全体がボロボロになって、あるいは長く着てすり減った時、はじめて取り替える。
彼らの間では物の売買は無い。
各人が自分の所有しているものを必要としている者へ与え、代わりに自分が必要としている物をもらう。
見返りなしに、自由に兄弟のものを使うことができる。


生活/労働神的なものへの敬虔は独特なもの。
太陽が昇る前には世俗的な事柄については一切口にせず、太陽が昇るのを祈願するかのように、それに向かって父祖伝来の祈りを捧げる。
その後、監督者たちによって解散させられると、各自に習熟した手仕事に向かい、第五時まで労働に専念し、時間になると再び一箇所に集合する。
その際、亜麻布の腰布をつけ、冷水で体を洗い清める。
その清めの後、一緒になって個室に入るが、他の見解を持つ者はそこへの入室は禁じられる。
食堂へ向かい、沈黙の内に着席すると、パンを焼く者が年長者から順にパンを配り、料理人はひと皿だけの肉料理を各自に配る。
祭司が食事の前に祈祷する。祈りの前に食べることは禁じられている。朝食が終わると、祭司は再び祈りを捧げる。食事の始めと終わりに、命の与え手である恵み深き神に賛美を捧げる。
その後、腰布を(聖なるものなので)傍らに置き、夕方まで再び労働に打ち込む。
労働から戻ると、再び朝食の時と同じように食事を取る。もし客人がいれば、その者も一緒に食卓につく。
彼らの住むところが大声や喧騒で汚されたことは一度としてない。
彼らは互いに譲り合い、年上のものから順に口を切る。
食べ物と飲み物は腹八分の適量が与えられる。


人助け/憐れみエッセネびとは、他のことでも監督者たちの命令なしには何もしないが、「人を助けること」と「憐れみを施す」ことだけは、自分の裁量でできる。
懇願されれば、助けに値する者たちを助ける。
貧しい者たちに食べ物を施すことは自発。
親族の者たちに贈り物をするには執事たちの許可が必要。


誓い/古い文書エッセネびとは、怒りの控えめな表明者、憤怒の抑制者、忠誠の標榜者、平和の仕え人である。
彼らは(神を持ち出す)誓いをすることを避け、それを偽証よりも悪いものだと見なしている。
彼らによれば、神を引き合いに出さねば信じてもらえぬ者は、既に滅びに定められている。
古い文書に異常な関心を示し、特に精神と肉体に関する文書を選んで読んだりする。
そこから病の癒しに向かい、薬草や薬石の成分を調べたりする。


入団エッセネびとの宗団には、すぐには入団できない。志願者は1年間メンバーと同じ生活が課され、その後さらに2年間その性格が試されてから、入団が許可される。
入団者は共同の食事の前に、以下のことを皆の前で誓わされる。
1. 神を敬い畏れること
2. 人びとに対して正義を遵守すること
3. (故意でも、命令でも)他人を傷つけないこと
4. 常に不正を憎み、正しい者と共に一緒に戦うこと
5. 全ての者、特に権力者に対しては常に信を置くこと(神の助け無くしては誰も治めることはできない)
6. 自身が治める立場になっても、その権威を決して濫用しないこと、また特別な服装や目立つ飾りなどで下位にある者たちに対してそれを見せびらかしたりしないこと
7. 常に真実を愛し、偽りを言う者を前に引き出すこと
8. その手は盗むことから、またその精神は聖ならざる利得から、清い状態にしておくこと
9. 宗団の者たちに対しては何も隠さず、外部の者たちに対しては、たとえ死に至る拷問を受けても、自分たちの秘密を何も漏らさないこと
10. 自分たちの教えを、異なる仕方ではなく、自分自身が受けた通りに伝えること
11. 盗みを働かないこと
12. 教えられた通りに、自分たちの宗団の文書と天使たちの名前を保持すること


追放エッセネびとは、重大な罪を犯したことで告発された者を、宗団から追放する。
追放された者は、しばしば惨めな最後を遂げる(誓いと生活習慣に縛られているため、他の人の食べ物に与ることができず、草を食べ、飢えで肉体をすり減らして死ぬ)
このため、宗団の者たちは最後の瀬戸際で憐れみをかけて多くの者たちを連れ戻してきた
彼らは、死に至るまで苦しめられれば、その罪は十分に贖われたと考える。


裁き/作法エッセネびとは、裁きにおいて、非常に細心で公平である
100人以上の者が同席していないと、宣告を下さない、そしてその決定は取り消しがきかない
彼らは神についで律法制定者(モーセ)の名前を最も畏敬し、その名を冒涜する者は死で以て罰せられる
長老たちと多数の者に聞き従うことが大切なことだとされる
もし10人の者が一緒に座っていて、9人が沈黙を欲すれば、残る1人は語ることができない
彼らは人びとの集まりの中央や右に向かって唾を吐かないように注意する
彼らは安息日に仕事をすることを、他のどんなユダヤ人よりも厳格に禁じている
安息日に一切の労働を行うことがないように、自分たちの食事を前日に準備し、どんな什器も動かそうとはせず、用足しにすら行かない。
他の日の用足しは、つるはし(彼らが新入りの仲間に与える"スコップ")で深さ一尺くらいの穴を掘り、神の光線(太陽)を侮ったりせぬよう、外衣で身を隠し穴の上にしゃがみ、用を終えたら掘り起こした土を穴の上にかける。彼らはひとけの無い場所を選んでこれをする。
彼らは排便後、汚されたかのように身を洗い清める。
行を積んだ期間の長さに応じて4つの組に分けられ、上位の者たちは下位の者たちに触れられると、異邦人と接触したかのように洗い清める。


拷問と死エッセネびとは長命で、大半の者は100歳以上まで生きる。単純で規律のある生活のおかげだろう。
危険を蔑視し、高貴な精神で苦痛に打ち勝つ。
名誉ある死なら、不死に勝ると考えている。
ローマ兵たちとの戦争において、彼らは体を引き伸ばされ、へし折られ、火に焼かれ、打ち砕かれ、あらゆる拷問具にかけられた。ローマ兵たちが彼らに律法制定者(モーセ)の名を冒涜させ、禁じられた食べ物を口にさせようとしたが、どちらにも屈しなかったから。拷問者への追従を口にしたり涙することも一度も無かった。逆に、苦痛の中に笑みを浮かべ、拷問者たちに皮肉を言いつつ、再び命を受けるかのように嬉々として死んだ。


霊魂エッセネびとの間では、肉体は朽ち、それを構成する物質はこの世界にとどまらないが、霊魂は不死でこの世界にとどまるという教えが定着している。
霊魂は最も希薄な大気から流出すると、自然の呪縛によって牢獄のような肉体の中に引きずり込まれるが、一旦肉体の束縛から解き放たれると、長い隷従から自由にされたかのように歓喜し、地上からはるか高いところに連れて行かれる。
彼らは、ギリシアの子らと同じように、善き霊魂のために大洋の向こうに住処が用意されていると主張する。そこには雨にも、雪にも、暑さにも押し潰されない場所で、大洋から常に吹き込んでくる心地よい西風に息づいて霊魂を再生している。
他方、邪悪な霊魂には、陰惨で嵐の吹きまくる場所が割り当てられており、そこでは間断なき処罰が待ち受けている。
彼らは、ギリシア人と同じように、霊魂が永遠のものであること、徳を涵養し、悪から離れることの大切さを教える。なぜなら、善人は死後の報奨を期待して生きている間により善くなるし、悪人たちの激情は、たとえ生きている時に免れても、死後に不死の罰を受けるのだと考えて抑制されるから。
エッセネびとの霊魂に関するこうした神学的な考えは、一度味わった者には抗しがたい好餌となっている。


予言エッセネびとの中には、これから起こることを予め知ることができると公言する者たちがいる。
彼らは聖なる書物や、様々な清めの儀式、預言者たちの言葉に通じている。
彼らの予言が外れることは滅多に無い。


結婚に関して別の見解を持つ宗団結婚に関して別の見解を持っている宗団もある。
彼らは、結婚をしない者たちは生命の大切な部分、すなわち生命の継承を断ち切るばかりか、もし全ての者が同じ考えを持てば、民族は早晩滅びてしまうと考える。
彼らは、女たちを3年間試し、3つの清めの期間を経て子を産む能力のあることを証明したら、彼女たちを妻とする。
彼らは、妊娠中の女と性的な交わりを持たない。結婚が快楽のためではなく、子を作る必要からであることを示そうとしている。
女たちは体を洗う時は、衣を身にまとう。男たちが腰布を身につけるのと同じである。


脚注・出典

参考文献ノーマン・ゴルブ著、前田啓子訳 『死海文書は誰が書いたか?』 ISBN 4881355910
ドロレス・キャノン著、白鳥聖子訳 『イエスとエッセネ派』  ISBN 9784864513586


関連項目古代イスラエル
サドカイ派
熱心党

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE
エッセネ派出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

誤解されている刑事裁判の役割

無惨な殺人事件が起きれば、誰でも被害者やその遺族に同情します。その気の毒な人々を脇に置いたような形で裁判が行われるのは、どうしても納得がいかない。その心情は、私もわからないわけではありません。刑事裁判への批判として、「加害者の人権ばかり守って被害者の人権を蔑ろにしている」という声もよく聞きます。

(写真:iStock.com/BrianAJackson)

しかし、犯罪の被害者が十分なフォローを受けていないとすれば、それは刑事裁判が間違っているせいではありません。それとは別に、犯罪被害者の損害や苦痛を軽減させるような制度がほとんど存在しないことが問題なのです。

これまで日本は、犯罪の被害を「個人の不幸」として片付けてしまう傾向がありました。そのため被害者は、周囲のプライベートな援助や同情を受けながら、自力でその苦難を乗り越えるしかなかったのです。いわゆる先進国の中で比較しても、日本ほど犯罪被害者をケアする公的制度が遅れている国はありません

しかし、今日の社会では誰もが等しく犯罪の被害に遭う危険にさらされているのですから、それを個人だけに負担させるわけにはいかないでしょう。社会全体の問題と考え、国民みんなで引き受けるべきだろうと思います。貧困や失業などの問題と同様、国家が福祉政策の一つとして取り組んではいけない理由などありません。

それを政治や行政が真正面から取り上げてこなかったからこそ、被害者は刑事裁判に期待せざるを得ない状況に立たされていました。裁判員制度を通じて「被害者を救済しよう」と考えてしまう人が多いのも、それが原因です。

この誤解をなくし、刑事裁判を正しく運用するためにも、被害者救済制度のさらなる充実は急務と言えるでしょう。裁判員制度そのものよりも、そちらを先に改革すべきだったとさえ言えると思います。

被疑者の権利が手厚く保障されるわけ

先ほども触れましたが、今の刑事裁判が「被害者よりも加害者の人権を守ろうとしている」という不満を抱いている人は少なくありません。たとえば少年事件で加害者が刑事罰を免れたり、心神喪失で責任能力のない被告人が無罪判決を受けたりすると、「被害者の人権は無視するのか」といった批判が出るのです。

しかし、これは問題の立て方自体が間違っています。被疑者・被告人の人権と犯罪被害者の人権は、決して対立するものではありません。どちらを優先するかという問題ではなく、どちらも別々に守られるべきなのです。

(写真:iStock.com/BrianAJackson)

そして、被害者の人権に関しては、憲法でもしっかり保障されています。たとえば「犯罪被害者のプライバシーが守られていない」という声がありますが、これは「個人の尊重」と「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を定めた日本国憲法第13条で保障されていると解釈すべきでしょう。

同様に、「被害者の知る権利」は言論出版の自由を定めた第21条、被害者の経済的な権利や生活権などは第25条で保障されています。少なくとも、憲法は被害者を蔑ろにしてはいません。憲法の理念が、現実の福祉政策として政治の現場で具体化していないことが問題なのです。

一方、被疑者・被告人の権利のほうも憲法はかなり手厚く保障しています。日本国憲法は第10条から40条までを「国民の権利及び義務」の規定に割いていますが、そのうち第31条から40条までは刑事手続きに関する人権規定。

3分の1が犯罪捜査や刑事裁判などに関係する内容になっているのですから、それだけを見ても、いかに被疑者や被告人の人権が重視されているかがわかるでしょう。

逆に言えば、これは明治憲法時代の刑事手続きがいかに人権侵害の温床になっていたかということを表しています。その反省から、日本国憲法では刑事手続きにおける人権保障に関して多くの条文が設けられました。



刑事事件の被疑者や被告人は、国家権力からの人権侵害をきわめて受けやすい存在です。過去の歴史を振り返ってもその危うさが明らかだからこそ、近代憲法は刑事裁判における被疑者・被告人の人権保障を強く要請しているのでしょう。

刑事訴訟法の第1条で、刑罰法令の実現に当たって「個人の基本的人権の保障」を全うせよという歯止めをかけているのも、そのためです。また、「事案の真相を明らかにし」という部分も非常に重要だと言えるでしょう。被告人の人権を守る上でもっとも大事なのは、裁判で事件の真実を明らかにすることだからです。

刑罰はただでさえ強力な人権制限ですが、もし真犯人ではない者を処罰してしまったら、これ以上の人権侵害はありません。「真犯人でなければ刑罰を科してはいけない」というのは、当然ながら刑事裁判でもっとも重んじなければいけない大前提です。

https://www.gentosha.jp/article/16370/
なりたくない人のための裁判員入門

2020.09.05 公開



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「加害者の人権ばかり守るな!」と叫ぶ人たちが見落としているもの 伊藤真