長周新聞 > 記事一覧 > 平和運動 > 武力で平和はつくれるの? 元米兵・元自衛官が語る戦争のリアル武力で平和はつくれるの? 元米兵・元自衛官が語る戦争のリアル平和運動2017年12月8日.欧米植民地支配は中東イスラム世界で必ず失敗する――米軍のアフガン撤退が教えること 現代イスラム研究センター理事長・宮田律国際2021年9月4日等長周新聞記事PDF魚拓



 広島市中区土橋のソーシャル・ブック&カフェ「ハチドリ舎」で6日、退役軍人らでつくるNGO団体ベテランズ・フォー・ピース(平和を求める元軍人の会・VFP)による「武力で平和はつくれるの? 元米兵・元自衛官が語る戦争のリアル」と題したイベントが開催された。米軍兵士としてのイラクやアフガニスタンでの戦闘経験から米国の戦争政策に異議を唱えてきた元米兵たちが、メディアでは伝えられることのない戦場や軍隊内部の現実を伝え、国境をこえて戦争に反対する運動を広げていくことを訴えた。(資料写真はVFPからの提供)



「テロリストは僕だった」 イラク戦争の従軍体験



 ベテランズ・フォー・ピースは、1985年、米国で従軍経験のある元軍人(ベテランズ)と軍人の家族、その賛同者によって結成された国際的な平和団体で、世界に140の支部を持ち、会員は約8000人。紛争各国での反戦アピールや、戦争による経済構造の真相などを米国内や世界各地で訴えており、広島での講演は今回で2回目となる。本イベントでは、元海兵隊のマイケル・ヘインズ(42歳)、元陸軍レンジャー部隊のローリー・ファニング(43歳)の2氏が講演した。



 冒頭、自己紹介を兼ねてマイケル・ヘインズ氏を特集した番組『テロリストは僕だった―沖縄・基地建設反対にたちあがった元米兵たち―』を上映した。



 ヘインズ氏は、高校時代に学校に軍隊志願の勧誘に来た採用係の制服姿に憧れ、卒業と同時に米海兵隊に入隊。幼い頃から教えられた「国への自己犠牲は最高の奉仕だ」の言葉を信じ、国を守る愛国心に燃えていたという。



 入隊後の新兵教育では、完璧な殺人者になるための訓練の毎日。ステップを踏みながら「ワンショット、ワンキル(一撃必殺)」の掛け声をくり返し、徹底的に頭に刷り込む。感情なく命令に従うことが優秀な兵士とされ、どんな狂った命令にも従うことが求められた。



 米軍の採用所は全米各地の街中にあり、「入隊すれば医療や教育、住宅などで手厚い特典が受けられる」とうたって、貧困家庭の若者たちを誘い込む。だが一方、退役後の兵士には住居も仕事もなく、ろくな教育も受けられないまま路頭に放り出される。多くは一般企業には就職することができず、ホームレスとなって町に溢れている現実がある。



 2003年3月、ブッシュ政府は「テロとの戦い」を掲げてイラク戦争を開始した。ヘインズ氏も派遣軍の一員としてイラクに向かった。そこで現実を目の当たりにしたヘインズ氏は語る。「この民家には敵が潜伏しているから襲撃しろと命令を受け、ドアに爆弾を仕掛け、爆発後に室内に突入する。そこには普通の家族がいるだけだった。おばあさんをつかんで壁に叩きつけた。幼い子どもたちが泣き叫び、恐怖のあまり失禁していた。その泣き叫ぶ声が今も頭から離れない…」「イラクの人人にとってテロリストは僕ら自身だった」。
 ヘインズ氏は、次のように続けた。「私が軍隊に入った動機は、たくさんの人たちの共通の利益のために奉仕したいというものだった。だが、実際にイラクに行き、戦場の現実を見て、結局自分が操作されていたことに気がついた。それ以来、ありとあらゆるものに疑問を持つようになった。イラクから帰還後、精神を病み、自分をとり戻すのに10年かかった。もっと違ったものに自分を賭けてみたい、他の帰還兵も私と同じ事を考えており、彼らと団結すればもっと大きな力になるはずだと思い、VFPに入り、沖縄辺野古、韓国、済州島にも行った。その地の人たちと一緒にたたかうことで、自分の賭けるべき道が見えてきたように思う。



 VFPには、①戦争のコストに対する国民の意識を喚起する、②米国政府が、公然とあるいは水面下でおこなう他国への内政干渉を阻止する、③軍拡競争を終わりにし、核兵器を減少させ、最終的に廃絶する、④元軍人や戦争の犠牲者のため、正義を追求する、⑤国家政策の手段としての戦争を根絶する、の5つの目標がある。



 その目標実現のために沖縄に行って、現地の人人と一緒に基地建設反対のたたかいもやっている。“核兵器の廃絶”は、現在の国際政治の流れを見るにつけ、とくに声を大にして訴えていかなければならない。そのために広島を訪れて、対話ができることは貴重な体験であり光栄だ」。



戦いたくない!と宣言 今は子供に体験話す



 続いて、元陸軍兵士のローリー・ファニング氏が「米国民を代表し、我が国による広島と長崎への原爆投下、さらに東京大空襲について謝罪したい。原爆投下にはいかなる正当性もない。私たちは米国民としてこの行為を恥じている」とのべた後、以下のように語った。



 私の軍人への道は、9・11ニューヨーク同時多発テロ事件から始まった。あの惨状を見て、「このようなことが二度と起こらないようにしたい」という気持ちで軍への入隊を決意した。同時に、大学を卒業したばかりの私は、多額の学費(奨学金)の返済を抱えており、固定給のある軍隊への入隊は一石二鳥だった。米国の学費は非常に高く、奨学金返済のために入隊する人は非常に多いのだ。



 早期に出世できるコースとして、陸軍のレンジャー部隊を選んだ。この部隊に入れば、新兵レベルでも高度な要求をされ、通常の人が嫌がるような戦地に行かされる。だが、クリントン政権のときのソマリア戦争を描いたハリウッド映画『ブラック・ホーク・ダウン』に強い刺激を受け、軍の一員になることに憧れをもった。飲まず食わずの行軍など非常に過酷な訓練を経て、晴れてレンジャー部隊に入ることができたときは内心誇らしくもあった。





爆撃で荒廃したアフガニスタン

 最初に送られたのがアフガニスタンだった。当初、自分がどんな世界に足を突っ込んだのかわからなかったが、現地は極端なほどの貧困が蔓延していた。アフガンは80年代にソ連の侵攻を受け、その後は国内紛争に陥り、国中が疲弊していた。


 実は私たちがアフガンに入る前、すでにタリバンは降伏していたという事実を知らされていなかった。2002年のことだ。私たちの任務は、すでに降伏している相手との戦闘だった。なるべく戦闘状態を長期化させ、9・11の仕返しとして相手の血を流させるという意図もあったと思う。その裏には、年間1兆㌦という膨大な軍事予算を正当化するという大きな目的があった。



 真夜中にヘリコプターで民家に降り立ち、その家の親であろうが、子どもであろうが、従軍可能な男には頭から黒い袋を被せ、問答無用で収容施設に連行することが私たちに課せられた任務だった。施設では、水の中に頭を突っ込むような拷問が日常的におこなわれ、連れて行かれたら帰ってくることはできない。だが、押し入った家庭の9割はごく一般の普通の家庭だった。そんなことを続けていれば、仕返しも来る。私たちが寝ている軍のキャンプには、夜中にロケット弾が投げ込まれる。どこから飛んでくるのかわからないが、その度に空軍が無差別的な空爆をやる。このくり返しだ。
 9・11テロ以後の戦闘ですでに100万人以上の人が亡くなっている。8割が民間人だ。私は、9・11のようなテロ行為を終わらせるために入隊したはずなのに、自分はそれ以上に劣悪な状況を作り出すことに加担しているということに気づき始めた。その犠牲になるのは無実の一般市民だった。



 1980年からイラク戦争開始までの23年間で、世界中で343件の自爆テロがあった。その1割が反米意識によるものだ。ところが米軍のイラク侵攻後の13年間で、すでに3000件以上の自爆テロが起きており、その9割以上が米国をはじめとする連合軍への反感によるものだ(シカゴ大学ロバート・ペイプ教授調べ)。つまり「テロとの戦い」を掲げて攻撃を仕掛けた米国のおかげで、世界はさらにテロが蔓延する危険な状態になったということだ。



 私は、軍にいるうちに反戦主義者になり、「もう戦闘に参加したくない」と意思表示をした。それからの6カ月は地獄の毎日だった。組織的ないじめや妨害、過酷な仕事などに従事させられ、いずれ刑務所に送られることを待つ日日を送った。軍は一般職のように簡単に辞めることはできない。だが実際に、9・11以来、約5万人の米軍人が現役中に「戦いたくない」と意思表示した。



 私は故郷のシカゴに戻り、銀行に再就職したが、軍での経験を話すことはできなかった。家族も友人も、コミュニティも自国の軍隊を信じて疑わないからだ。だが、自分を喪失した状態で仕事をしていることに耐えきれず、私の大切な友人が戦死したことをきっかけに、8カ月間かけて東海岸のバージニアから西海岸のサンディエゴまでの3300マイルの道のりを行脚の旅に出た。野宿しながら歩く旅の途上、あらゆる人が私を助けてくれた。米国人の親切に触れるなかで私は自分をとりもどし、米国の人人による抵抗運動についての歴史や自分の体験を織り込んで本を出版した。



 今は、米国内の学校を回り、軍のリクルーターの勧誘によって入隊する可能性のある子どもたちに軍の現実について話をしている。子どもたちは、米国の歴史について教えられておらず、軍の仕事はビデオゲームと同じように思っている。最もポピュラーな戦争ゲームは「コール・オブ・デューティ(理想を求めた叫び)」というものだ。



 子どもたちは「軍隊はこのゲームと同じようなものなの?」と聞いてくるが、「そのゲームから殺される人たちの叫びが聞こえるか?」「女性や子どもや赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえるのか?」と問うと「聞こえない」という。「そのゲームは、ボタンを押しただけで消えるか?」と問うと「うん。消えるよ」という。私は「戦場にはボタンはないんだよ」と教える。



 米国がアフガンに侵攻したのは、アフガン国内にいるテロリストを掃討することが目的だったはずだ。だが、あれから16年たっても戦争は続いている。毎年1兆㌦という膨大な戦費を投資し、すでに100万人以上を殺している。



 2016年の1年間だけで7カ国も空爆している。シリア(1万2192回)、イラク(1万2095回)、アフガニスタン(1337回)、リビア(496回)、イエメン(34回)、ソマリア(14回)、パキスタン(3回)、合計2万6171回だ。さらに米国は、2011年以来、アフリカ大陸の54カ国のうち49カ国と戦闘状態にある。
 昨年、日本の自衛隊が南スーダンに派遣されたが、戦争に踏み込めば南スーダンで終わるわけがない。「アフガンだけ」といって軍を派遣し、すでにアフリカ49カ国に戦禍が広がった米国を見ればわかる。雪だるま式に戦費が拡大し、国内のインフラ整備、社会福祉など、現在当たり前に支出されている一般予算がどんどん削られ、軍事費だけが拡大していく。私たちは逆に、社会インフラがまともに機能し、豊かな日本から学びたいと思っている。一昨年は国会前の集会にも参加したが、多くの人たちが憲法9条を守ることを盛んに訴えていた。日本で憲法を守り、戦争阻止を求める運動の広がりは、米国民を刺激し、同じような動きが生まれるだろう。



 今最も重要なことは国際的な団結だ。一般的な米国人、そして北朝鮮の人人、中国、日本の人人は、違いよりも共通項の方が多いのだ。それぞれの国の為政者は違いを強調して戦争にもっていこうとするが、それとは比べものにならないほど共通項の方が多いということを理解し、連帯しなければいけない。



日本の米国化を危惧 参加者と論議深める
 元米兵2人の講演の後、海上自衛官としてソマリア沖の海賊退治に派遣された形川健一氏(VFPジャパン副代表)が、自衛隊基地のあったジプチでの体験を語り、3人を交えて「武器で平和が守れるか?」をテーマに参加者との対話に移った。



  北朝鮮が危ないということでトランプが武器を売りつけに来て、安倍首相が「買いますよ」と即座に答える日米関係をどう思うか?



 ヘインズ 今の日米の関係は、なにもかも米国の要求に従う関係だ。そこには日米安保条約があり、そのなかに日米地位協定がある。つまり米国との約束が、独立した国の憲法の上にある。それは宗主国と植民地の関係にほかならない。憲法第9条の解釈をめぐって論争があるが、今後は自衛隊が海外の紛争に登用されることが予想される。武力が平和を生むのではなく、武力によって緊張が高まっている。現実に、北朝鮮を囲むようにして米軍が威嚇を続けている。北朝鮮の動向は、それに対するリアクション(反作用)だ。



 武力による攻撃や威嚇は、その後、予想しなかった事態を生む。イラクに侵攻する前に米国はイスラム国などというテロ組織が誕生することを予想もしていなかった。自分がイラクで見た現実は、米国の軍産複合体が暗躍し、彼らにとって大きな利益をもたらす資源(石油)の争奪だ。そのために多くの人が命を失い、自国民も富を奪われている。



  米軍の兵士の反戦機運はその後も表面化しているのか?



 ヘインズ 現役兵士が「戦争に加担したくない」と表明することは非常にリスクが大きく、通常は刑務所に連れて行かれる。退役後にも、軍の名誉を損ねるような事実を語ると家族も村八分にされてしまい、友人も失ってしまうのが常だ。



 現在の米国は、徴兵制ではなく志願制を採用している。そのために国を挙げてプロモーションをする。兵士はヒーローであり、「戦場に出向くことは、世界に自由と民主主義をもたらすためだ」というストーリーで固められ、それに異議を唱えることはタブー視される。だがそのプロパガンダによって軍に入り、派遣された戦地で実際に目にするものはその逆だ。帰還後も社会的な発言の場は与えられない。疑問を持っている人は多いが、家族や仕事のために真実を語れないというのが現状だ。だからこそ、このような場を広げていくことが重要だ。



 ローリー 米国にはヒーローという概念が強くある。「ヒーローは、法に反する戦争はしない」「ヒーローは、無実の一般市民を殺したりはしない」「ヒーローは、他国の天然資源を侵したりしない」と、「ヒーロー」という言葉を乱用して口を封じていく。米国の公立高校では毎朝、星条旗に向かって国家に忠誠を誓うという儀式をやる。米軍が国外でやっていることはよいことだという観念を植え付ける。



 私たちは、「平和と自由を得るために武力で戦うべきだ」という文化のなかで育ったが、戦地に行きその間違いを知った。平和とは、分断ではなく、みなが助け合い、持続可能な生活を目指すことであり、そのうえで日本の憲法9条は世界が学ぶべきものだ。日本の国のリーダーの動向に注意を向けてほしい。彼らには、みなさんの気持ちを操作し、他国への憎しみを生み出し、他国にある資源を争奪しようという思惑が根底にあると思う。米国でも国民の恐怖心を煽って、戦争へ導いている。私も「大量破壊兵器」「テロリスト」という恐怖心を煽られ、戦争へ駆り立てられた。現在では「核兵器」という単語をキーワードにして、国民を動員しようとしている。



  日本でも学生の就職難や低収入につけこんで、米国の「落ちこぼれゼロ法」のような教育改革をおこない、奨学金の免除などの特典を付けて若者を自衛隊に誘導する動きがある。



 ヘインズ 私の故郷では、軍に入るというのは最高の栄誉だった。テレビや映画、学校や教会でも美化した軍のイメージしかいわない。スポーツ観戦でも軍のプロモーションばかりがおこなわれる。私が18歳の高校卒業間際に受けた勧誘では、リクルーターが「教育」「海外旅行」「冒険」「エキサイティング」「給料」「女の子にモテる」等のカードを見せ、「このなかで君が優先するものを選びなさい」という。それをキーワードにして、巧妙に説き伏せていく。勧められるまま入隊した結果、ほんの数年後に私はイラクにいた。



 イラクやアフガニスタンで亡くなったのは20代の若者たちだ。生きて帰ってこれたとしても精神は蝕まれ、簡単に再就職先は見つからない。常に戦争が追いかけてくるのだ。退役軍人のなかでは自殺率が高く、1日平均22人の元軍人たちがみずから命を絶っている。その数は、戦死者よりもはるかに多い。



 ローリー 国に忠誠を尽くすために入る人と、物凄く貧困で軍隊に行くしかない人たちがいる。私の住むシカゴは、毎年1万人の高校新卒者が入隊する。非常に貧しい地帯だ。



  米国は、シリアやイラクなどの泥沼化した惨状をどのように収束しようとしているのか? 現状を変えるためにどのように行動すればよいか?





米国内で増え続けるホームレス

 ヘインズ もっと安く教育が受けられ、まともな仕事が得られる状況を作れば戦争に動員されることを防ぐことができる。米国の人口は世界の5%だが、世界の4分の1の資源を消費している。その米国内でもものすごい貧富の差がある。企業の利益追求の社会を目指せば搾取が起こり、資源が公平に使われていなければ、武力紛争が起きるのは当たり前だ。そのために経済格差、人種差別、性差別ともたたかい、抗議活動やストライキもしなければならない。



 国際紛争は、武力による圧力ではなく対話をすることだ。一般市民が声を上げ、政治家にその声を反映させなければならない。イスラエルのパレスチナ侵攻については、イスラエル製品の不買運動やイスラエル系金融機関からは預金を引き出すなど、パレスチナから撤退させるために一般消費者の立場での国際的な運動もある。



 ローリー 子どもたちには、戦争に命を賭けることがいかにバカげているかを知らせたい。私は軍隊の経験から、退役後も地下室にこもったまま外に出られない兵士たちをたくさん知っている。そうした現状を伝え、兵隊になる人がいなければ戦争は続けることはできない。



  無関心な人にはどのように広げればよいか?



 ヘインズ 地球上には、たくさんの人がいて長い歴史を持っている。答えは必ずそのなかにある。自分の考えを誰かに伝えれば、影響を与えることは可能だ。だが一方的に「変えられない」と思ってしまったら、そこからは進歩はない。お互いを尊重し、対話が成り立てば理解も深まるのではないか。過去から学び、情報を密に交換していくことによって自分の価値観を変えていくことが必要だ。このイベントの前に、この場で被爆者から学生たちが広島の経験を学んでいたことに心打たれた。同じ悲劇をくり返さないためには、過去から学ぶことが学習の基本だ。とくに若い人たちは、与えられた枠の外側で起きている現実を見なければならない。



 間違った情報に左右されないために、私ははじめにテレビを捨てた。情報は、政府や財界のしがらみから独立したメディアから得ることだ。歴史を勉強すれば、世界にはさまざまな変革をもたらした人がいることがわかる。8時間労働制の実現に努力した人、奴隷制度を廃止した人、アパルトヘイトを廃止した人たち、みんな小さな組織から始まって国や世界を動かした。一度で大きな運動にならなくても、少しずつ組織を広げていくことだ。このように戦争を憎み、平和を求める人人が世界共通の使命に向かって手を繋ぐべき時だと思う。

武力で平和はつくれるの? 元米兵・元自衛官が語る戦争のリアル

平和運動2017年12月8日



アフガニスタンでは、米バイデン政府が米軍撤退を表明するなか、8月16日にタリバンが首都カブールを制圧して勝利宣言をおこない、ガニ大統領や側近は海外に逃亡してかいらい政権が崩壊した。現代イスラム研究センター理事長の宮田律氏は自身のフェイスブックで、アフガニスタンで今、なにが起こっているかを連日発信している。本紙は宮田氏の了解を得て、8月14日から31日までのコメントを抜粋して紹介する。宮田氏は「日本のメディアはアフガニスタンの人々がタリバンの人権侵害を恐れて国外に退避しているかのように報道しているが、国外に出ている人はそういう人ばかりではない。タリバンがあっという間に政権をとったのは国内の支持があったからだ。タリバン政権と米バイデン政権との間では今後について一定の合意ができていると思われ、タリバンは旧政権からも参加させて国民和解政府をつくることを打ち出した。アフガニスタンの人々は人道的支援を求めており、日本政府は支援を継続すべきだということを訴えたい」とのべている。



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■サイゴン陥落を想起させる撤退劇 (8月14日)



 米国政府は、大使館員の退避のために3000人程度の米軍部隊を派遣することを明らかにした。思い出すのはベトナム戦争末期、サイゴン陥落の直前、1975年4月29日から30日にかけておこなわれた米大使館員たちの救出ミッションで、この際はアメリカのベトナム政策の挫折を世界に印象づけた。



 米軍は、対タリバン戦争でタジク人、ウズベク人、ハザラ人から成る「北部同盟」の陸上での戦闘を主に空爆によって支援した。危険な陸上での戦闘を避けて米軍兵士の犠牲を出さずにたたかうには、北部同盟は都合のよい勢力だった。



 アフガニスタンは「民族の博物館」とも形容されるほど、多様な民族によって構成されるが、ペルシア系のタジク人たちは、スーフィズム(イスラム神秘主義)を信仰し、穏健な傾向からタリバンのような厳格なイスラム解釈を受け入れることはない。また、ウズベク人はトルコ系の民族で、その名の通り旧ソ連から独立したウズベキスタンを構成する民族でもあり、世俗的傾向が強く、やはりタリバンのような厳格なイスラム主義を嫌っている。さらに、タリバンは、シーア派を信仰するモンゴル系のハザラ人を極度に嫌い、ハザラ人に対する暴力で評判が悪かった。



 タリバンは民族的にはパシュトゥン人によって構成される組織だが、そのこともあって米国は新体制ではタジク人を重用した。タジク人は親インド的傾向を持っていた。これはインドと敵対するパキスタンの介入を招き、パキスタンが現在、タリバンを支援していることは明らかだ。これは、イラク戦争後、シーア派を中心に政府・軍隊を構成し、それに反発するスンニ派から過激派組織ISが誕生したのと同様の構図だ。





米軍輸送機に乗って国外に退避する人々(8月15日)

 米国は新政府の腐敗にも目をつぶった。カブール銀行は海外からの支援を原資としながら、カルザイ大統領らの腐敗の温床となっていた。これほど腐敗した政府に忠誠を誓う軍隊や兵士を望むことは不可能で、また政府同様に軍隊も腐敗しきっていて、軍高官たちは兵士の数を実際よりも多く申告し、実際には存在しない兵士たちの給与を着服していた。



 政府の腐敗、軍の士気の低さも、崩壊した南ベトナム政府を想起させるが、米国はアフガニスタンでも同様に腐敗した政府と手を組み、ISの活動がアフガニスタン北部で見られるなどテロとの戦争という当初の目的も達成できないまま、アフガニスタンを離れようとしている。あらためて何のための戦争だったのかと思わざるを得ない。



■アフガン政府や軍隊の腐敗 (8月17日)



 米国のバイデン大統領は、17日朝の演説で「米軍はアフガニスタン軍が戦う意思がない戦争で戦うべきではないし、死ぬべきでない」と語った。ならば、アフガニスタンの人々は対テロ戦争など当初から戦う意思などなく、米軍は端からアフガニスタンにやって来て戦う必要などなかったということになる。



 アフガニスタン政府や軍を腐敗させた重大な責任が米国にあることはまぎれもない事実だ。米国は莫大な資金をアフガニスタンに注ぎ込んだが、その資金の流れは厳格に監査される必要があった。



 中村哲医師がとりくんだように、アフガニスタンの人々に生活手段を与えることこそ、腐敗を防ぎ、資金を単に与えるよりはるかにアフガニスタンの将来に役立つことは明らかだ。米国はアフガニスタンに2兆2600億㌦を注ぎ込んだが、そのうちの1兆㌦は戦費で、アフガニスタンの人々の生活支援とはならず、アフガニスタンは世界で最も貧しい国の一つのままである。また、ガニ大統領は腐敗の根絶を公約としながらも、彼をはじめとするアフガニスタン政府高官たちにも腐敗にとりくむ姿勢がほとんどまったく見られなかった。腐敗こそアフガニスタンの人々を政府から遠ざける要因となった。



 駐英大使を務めたアフマド・ワリー・マスード(1964年生まれ)は、対ソ戦争の英雄とされるアフマド・シャー・マスードの弟だが、タジク人の「マスード財団」の理事長となった。2009年10月に彼の弟のアフマド・ズィヤー・マスードは5200万㌦(約55億円)のキャッシュを持ってUAE(アラブ首長国連邦)に入り、兄のためにドバイの高級コンドミニアムを購入した。


 この種の話はアフガニスタン政府の中では絶えないが、政府高官たちはすでにその当時から米軍撤退後の国外逃亡を考えていたと見られている。腐敗こそアフガニスタンにとってタリバン以上の脅威だと、当時からいわれていた。ガニ大統領をはじめ政府高官たちがタリバンの攻勢を前にして真っ先に逃亡したのも、あらかじめ想定していたシナリオだった。



 学校や裁判所が建設されるのに米国が資金援助しても、その資金を政府高官たちが着服することもしばしばだった。米国は文民によって構成される「地方再建チーム」を派遣したが、派遣先は親政府勢力の影響力が強いところばかりで、こうした身内びいき的なやり方もタリバン復活の一要因となった。
■大義を放り出して撤退する米軍 (8月18日)



 バイデン大統領は17日、「米国のアフガン政策の目的はアルカイダの解体とオサマ・ビンラディンを殺害することだった。アフガニスタン国家の再建や復興は米国の役割ではない」とのべた。また、「我々のアフガニスタンにおける使命は、ネーション・ビルディング(国家造成)ではなく、統一した、中央集権的な民主主義の創設など構想したことはなかった」とも語っている。



 しかし、この発言は事実ではない。米国政府は20年間にわたって1450億㌦を治安部隊、政府組織、経済、市民社会の再建のために費やした。



 バイデンは2003年に上院外交委員会で、米国がアフガニスタンのネーション・ビルディングを達成できなければ、アフガニスタンは混迷に陥り、血に飢えた軍閥、麻薬密売人、テロリストで溢れることになるとのべている。イラク戦争もそうだったが、「自由」と「民主主義」の促進はアメリカが他国で戦争をおこなうことを正当化する言葉になってきたが、自由や民主主義の価値観を植えつけ、その政治制度をつくることもネーション・ビルディングに含まれることはいうまでもない。



 バイデン大統領は同じ演説で「米軍はアフガニスタン軍が戦う意思がない戦争で戦うべきではない」とも語ったが、2001年の対テロ戦争開始以来、アフガニスタン治安部隊の戦死者は6万5000人に上る。米軍はアフガニスタン軍が最前線で必死に戦っている時期にもタリバンに対して決定的な勝利を収めることができなかった。バイデン大統領の発言はアフガニスタン軍の戦死者に対する礼に失している。その論理には米国のアフガニスタンに対する植民地主義的、人種主義的な見方や偏見があるといわれても仕方ない。



 米国は自国の現実的利益を最優先させて、アフガニスタンから大義を放り出して撤退する。日本に駐留する米軍は、危機の時には日本を防衛することになっているが、日本もアフガニスタンで発生している事態は他人事ではないだろう。



■民意を吸い上げるシステムづくり (8月20日)



 アフガニスタンでは、米政府関係者、米軍に協力していたアフガニスタン人たちが退避する前にタリバンが首都カブールに進撃し、アフガニスタン政府は崩壊した。現在アフガニスタンに駐留する米軍は1万人ほどだと見積もられているが、米軍にはカブールに進撃するタリバンを阻んで戦闘する姿勢がまるでなかった。よほどガニ大統領を頂点とする政府を米国のバイデン政権は見限っていたということか。



 現在のタリバンの最高指導者ハイバトゥッラー・アホンザーデ(アクンザダ)師が、「アフガニスタンに民主制の土台なし」とのべたという。「民主制」というのは欧米的民主制のことをいっていて、タリバンが民意を吸い上げるシステムまで否定したわけではない。アフガニスタンには「ジルガ(会議)」というシステムがあって、人々は協議によって重要事項の決定をおこなってきた。「ジルガ」は、合意とパシュトゥーンワーリー(パシュトゥーン人の部族の掟)に従って決定を下す。さらに伝統的にロヤ・ジルガ(国民大会議)で、国の指針を左右するほどのきわめて重要な政治・社会問題の解決を図ってきた。



 アクンザダ師は1961年生まれで、宗教指導者であった父親の教育を受けたようだ。正式な教育的背景はないが、その政策の判断基準はイスラム法やパシュトゥーンワーリーということだろう。



 アフガニスタン政府が崩壊してほどなく、警察も裁判所もないなかで、各地で私的な処刑や、武力によるデモの鎮圧などのニュースが続く。思い出すのはイラン革命直後の状況で、王政の中心にいた人々へのリンチや、確固たる法的な根拠がないままに、麻薬常習者や、同性愛者に対する処刑があいついだ。タリバンの場合、アフガニスタンの将来についてカルザイ元大統領とも協議しているので、旧体制に関連する人物を処刑したり、排除したりすることはない様子だ。



 ドイツはタリバン政権に対する経済支援を完全に停止するとのべた。米国に次ぐドナー国(経済支援提供国)の日本はやはり米国の動静を見てということだろうか。
 こういうときこそ日本独自のイニシアチブで、アフガニスタンに平和や安定が訪れるような調停役を買って出たらどうだろう。
■タリバンの全土制圧の速さ (8月23日)



 タリバンが政権を奪取するさい、米軍はカブールに進撃するタリバンに反撃を加えることがなかった。すでにトランプ政権時代の昨年2月に、米軍が今年5月1日までに撤退することを明らかにするなかで、トランプ政権とタリバンの間では「協定」が成立し、米軍がアフガニスタンから撤退する代わりに、タリバンは米軍を攻撃しないという取引をおこなっていた。他方、米軍もタリバンを攻撃しないと約束するなど、米国は米軍の将兵たちの安全を何よりも優先していた。そのため、タリバンの攻撃はアフガニスタン政府軍に集中することになり、タリバンの急速で圧倒的な勝利の一要因となった。



 つまり、アフガニスタン政府は米国とタリバンの取引のなかで見捨てられる格好になったのだ。すでに地方の戦闘では、政府軍兵士たちは戦線を離脱したり、タリバン側に寝返ったりしていた。カタール・ドーハでおこなわれていた和平交渉も、アフガニスタン政府の意向は反映されぬまま、米国とタリバンの間でおこなわれていた。



 アフガン戦争は、タリバンが9・11の同時多発テロを起こしたアルカイダの指導者たちを米国に引き渡すことを拒み、かくまったとされたことで開始された。2001年11月にタリバン政権は崩壊し、12月にタリバンのスポークスマンは無条件降伏の意図を明らかにした。2003年5月にラムズフェルド国防長官は、アフガニスタンでの主要な戦闘の終結を宣言した。



 米軍がアフガニスタンに駐留する大義はこのときすでになく、撤退できるチャンスはあった。しかし、米国や日本、NATO諸国はアフガニスタンのインフラ整備や新たな政府づくりという国家造成(ネイション・ビルディング)への支援に熱心になっていった。



 2010年半ば、オバマ大統領はアフガニスタン駐留米軍の兵力を10万人としたが、タリバンの戦闘能力は増すばかりだった。2011年5月にオサマ・ビンラディンがパキスタン・アボタバードで殺害されると、オバマ大統領は2014年までに米軍のミッションを終えることを明らかにした。その頃、米国防総省はアフガニスタンでの戦争は軍事的に勝利することは不可能で、交渉による解決しかないと考えるようになった。それは、19世紀のイギリスや20世紀のソ連と同様だった。



 脱走や徴兵数の低下、司令官たちによる着服などでアフガニスタン政府軍の士気は低下し、戦死者数の増加は兵士たちの士気をいっそう低下させた。米軍は政府軍に毎年40億㌦を費やしたが、効果はなく、今年春の段階で2、3年の間にアフガニスタン全土はタリバンの手に落ちることが米国政府の一部から予想されるようになった。だが、それよりもはるかに早いタリバンのカブール制圧だった。



 アフガニスタンの混乱は、難民の流出、麻薬の拡散、テロの拠点化などの問題を孕んでいる。アフガニスタンを拠点とする「ISホラサーン州(ISKP)」にはウズベキスタンやタジキスタンなど中央アジア出身者が多く、中央アジア諸国やロシアにとって、タリバンの政権掌握は重大な脅威であるに違いない。米軍の撤退とタリバンのカブール制圧は、エジプト、アルジェリアで20世紀に見られたように、欧米諸国による中東イスラム世界支配には必ず失敗という終わりがあることを教えている。
■米国の戦争の楽観主義が招く悲劇  (8月24日)



 アフガニスタンでの対テロ戦争開始に際して、米国のブッシュ大統領は自信に満ちた表情でその勝利を誓った。米国の楽観主義は、その圧倒的な軍事力と、みずからの動機が正義であるという「確信」によって裏付けられている。しかし、そうした楽観主義はいつももろくも崩れていく。



 アフガニスタンに侵攻した国や勢力によって国家の元首に据えられた人物は、すべて悲劇的な末路に終わっている。第一次アフガン戦争で英国が復位させたシュージャ・シャー(1785年~1842年)は、1842年4月にカブールに駐留したイギリス軍が劣勢にさらされ、撤退すると暗殺された。第二次アフガン戦争でも、イギリスは1879年にモハンマド・ヤクーブを統治者(当時は「エミール」の称号)に据えてアフガニスタンの外交権をすべてイギリスに委任させる条約を結んだが、アフガニスタン人の反発が強く、彼は翌年廃位させられた。



 1979年にソ連軍が侵攻して強化しようとしたアフガニスタンの人民党(共産党)政権も、1989年のソ連軍撤退の3年後に崩壊し、人民党政権のナジブラ元大統領はタリバンによって殺害された。そして今回、ガニ政権もあっけなく崩壊した。米国は、アフガニスタンの人々の心情やアフガン社会の伝統的な構造を理解できないまま撤退しようとしている。



 米国は、イラク戦争でもサダム・フセインの大量破壊兵器保有を問題視し、その脅威を除くといって戦争を開始した。米英軍はラムズフェルド米国防長官の楽観的構想もあって15万人余りの兵力でイラク戦争を始めたが、それはきわめて不十分であった。イラクではフセイン政権の崩壊とともに警察などの治安機能がまったく失われ、少ない兵力の米軍は略奪をただ傍観しているほかなかった。タリバンのカブール制圧に手を出すことがまるでなかった今回の米軍の様子と重なるようだ。



 米国は、タリバンやサダム・フセイン政権を倒せば「自由」「民主主義」のアメリカ型の価値観をこれらの国に植えつけることができるという楽観的判断の下に戦争を開始したが、アフガニスタンではタリバンが根強く米軍や政府に対する攻撃を続け、またイラクでは米軍に対する武装集団の蜂起がいっせいに始まった。両国では米軍と現地住民の間で埋めがたい溝が生じた。米国は、どのような形態で米軍を撤退させるか具体的構想を持っていなかった。



■日本人は人道的支援の継続を (8月25日)



 8月23日、日本政府はタリバンのアフガニスタン・カブール制圧を受けて現地に残る邦人などの救出のために自衛隊の輸送機の派遣を決めた。



 日本大使館員(おそらく日本人のみ)たちは17日に英軍機でドバイに退避している。記者会見での加藤官房長官の発言からは、現地に邦人たちがどれほど残っているのか、また、アフガニスタン人のローカル・スタッフの「安全確保を図る」とはいうが、彼らを難民として日本に受け入れる気があるのかどうかは明らかではない。やはり国際社会には応分の義務や責任があり、日本政府には難民の受け入れをはじめ、現在のアフガニスタンの困難に何らかの貢献をしてもらいたいものだ。



 日本はアフガン戦争が始まってから7500億円の支援をしたそうだが、米軍が撤退し、タリバンが政権をとったから打ち切りでは、これまでの支援が台無しになる。JICAなどはアフガニスタンから研修生を招き、農業技術などの研修をおこなってきたが、そのような支援は継続すべきで、アフガン支援のためにタリバンとの対話のチャンネルは維持していくべきだろう。



 静岡県島田市でクリニックを営むアフガニスタン人医師のレシャード・カレッドさんは、アフガニスタンをはじめ多くの発展途上国が日本の戦後復興を喜び、アフガニスタンにも惜しみない協力をしてきた日本を尊敬し、将来の目標にしてきたと語っている。またカレッドさんは、日本には軍事的な貢献ではなく、優しい友愛の心で他国に接してほしいと話す。難民を受け入れるなど、アフガニスタンの日本に対する信頼をさらに厚くするような関わりが、アフガニスタンの激動期にあらためて求められている。



「剣によって立つ者、必ず剣によって倒される」―中村哲医師の言葉 (8月26日)





中村哲氏

 「中村哲が14年に渡り雑誌『SIGHT』に語った6万字」と題するサイトは、中村哲医師がアフガニスタンでの実践から得られた政治・社会観について2000年から09年にわたって語った言葉を紹介している。その一部を引用すると、



 「政治権力を誰がとるかということはアフガニスタンの内政の問題であるということですね。こっちとしては徳川家康が出ても、豊臣秀吉が出ても、それは彼らの選択であって外国人は口を出してはいけない、っていうのが基本的姿勢なので……」
 「最近はテロリストという言葉の響きが変わってきまして、政治目的を達成するためには罪もない人を巻き添えにするということがテロリズムの定義とするならば、欧米諸国の軍以上のテロリズムはないんじゃないかと私は思います」
 「聖書の言葉を使うと、“剣によって立つ者、必ず剣によって倒される”と。これはもう歴史上の鉄則なんです」



 「剣によって立つ者、必ず剣によって倒される」――アフガニスタンから撤退する米国のことをよくいいあらわしているように思う。タリバンの政権奪取をとらえて、武力で政権を奪うことは許されないという声が欧米諸国では上がっているが、武力でタリバン政権を崩壊させたのは米英軍の方だった。タリバン政権が成立したアフガニスタンに経済制裁を科すようなことがあれば、最も困難な状態に置かれるのはアフガニスタン国民であることは明白だ。



 WFP(国際連合世界食糧計画)が8月16日に出した報告書によれば、アフガニスタンでは、栄養失調の危険にさらされる200万人の子どもを含めて1400万人の人々が食料不足の状態にあり、今年1月には300万人以上が国内避難民であったが、それに加えて1月以来、38万9000人が新たに国内避難民となった。15万1000人が新型コロナウイルスに感染した。WFPは今年、1390万人の人々を支援する予定だが、今後6カ月の間に1億9600万㌦を必要とするそうだ。アフガニスタンが人道的危機にあることは疑いないが、アフガン人たちがこの「修羅場」を乗りこえるには国際社会がタリバン政権にどれほどの支援を与えられるかに関わっている。



 政権を奪取したタリバンは、女性たちを特定の職種から排除するなど急進的な方策を当面とっていくだろう。革命のような大きな政治変動の後には急進主義、過激主義があらわれるが、次第に穏健化、現実化していったことは、フランス革命などの歴史が教えるところだ。



 タリバンの報道官は日本人を必要としているとのべ、日本の支援を求めていることを明らかにし、同時に自衛隊には退去してほしいとのべた。中村哲医師は自衛隊の派遣は「百害あって一利なし」と参議院外交防衛委員会で2008年11月にのべ、自衛隊の派遣によって日本人が攻撃の対象となる危険性を指摘したが、アフガニスタンの政治変動に際してあらためて中村医師の考えは日本人に教訓を与えている。



■自爆テロは「対テロ戦争」の失敗を物語る (8月27日)



 26日、カブール空港近くで自爆テロが発生し、米兵13人、アフガニスタン人100人以上が犠牲になった。中央アジアからアフガニスタン、パキスタン、インド、スリランカにかけて活動するISの支部「ISホラサーン州(ISKP)」が犯行声明を出した。アフガニスタンを中心に活動するものの、ISKPのメンバーには中央アジア出身者が多いと見られている。



 ISの活動家、メンバーは、米軍などのIS掃討作戦によってシリアやイラクで活動しにくくなると、政治的安定に乏しく、戦闘やテロが継続するアフガニスタンにその活動の重心を置くようになった。中央アジア出身者たちはISの活動の先鋭的な性格を担っている。



 ISKPは、タリバンは米国と交渉することで、米国に屈服していると考えるようになった。タリバンの幹部も、カブール空港でタリバンの戦闘員たちがISKPの脅威を受けているという声明を出した。ISKPは、ウズベク人やタジク人の他に、アフガニスタン人、さらにインド人、パキスタン人、スリランカ人など南アジア出身者たちからも構成され、19年4月のスリランカ・テロで国際的注目を浴びた。



 中央アジアと南アジアのイスラム過激派には、出稼ぎ労働で海外に出かけ、送金で家族を支えていた者が多い。新型コロナウイルスは、これらの出稼ぎ労働を鈍らせ、多くの失業者たちを生むことになり、失業者たちもまたISKPの運動に吸収されている。テロの要因として経済的要因は重要だが、米国は軍事力一辺倒でテロの制圧を考えてきた。



 2021年2月8日、ケネス・マッケンジー米中央軍司令官は、ISKPは2020年後半、各地でローンウルフ型のテロ攻撃をおこなう能力を高めたとのべたが、この発言の通りにISKPは米軍撤退という時期に大規模テロを起こし、世界の耳目を集めることになった。テロの脅威がなくなったという理由でアフガニスタンから軍隊を撤退させるバイデン政権のメンツが潰れることになった。

■アメリカとタリバンの取引 問われる日本の位置 (8月28日)



 米軍のアフガニスタンからの退避作戦中、カブールの治安維持を担い、米軍の作戦に事実上協力したのは、米軍と20年間戦ってきたタリバンだった。23日、ウィリアム・バーンズCIA長官は、バイデン大統領からの親書を携えてタリバンのアブドゥル・ガニー・バラーダル副指導者と秘密裏に会談をおこなった。タリバンとの協力は、ISによるテロ攻撃の脅威が増すなかでは不可欠と米国には思われた。タリバンが8月15日にカブールを制圧して以来、カブールの治安に責任をもつタリバン指導者たちと米軍の司令官たちの間で対話が繰り返された。



 米軍は2019年、北部ジョージャン州やゴール州での対テロ作戦のなかでISの指導者たちをドローンなどで殺害し、タリバンはこれらの州で影響力を強化した。対ISという点で米国とタリバンは事実上同盟関係にある。



 米国は1970年代から冷戦の環境下のアフガニスタンに関心を持ち、ソ連に対抗していった。アフガニスタンが混迷するのは、1978年4月27日の「4月(サウル)革命」で共産党の人民党が政権を掌握してからだ。ソ連は人民党を支援し、他方米国は共産党政権に反感を持ち、「ムジャヒディン」と呼ばれるようになるイスラム勢力にてこ入れするようになった。このイスラム主義勢力の中からタリバンが誕生することになるが、米国はタリバンの成立にも事実上貢献したことになる。



 人民党政権は急激な農地改革を推し進め、広範な抵抗を招くようになったが、反政府暴動に対してアミン革命評議会議長(国家元首)政権は数万人を殺害したと見積もられるほど過酷な弾圧をおこなった。アミンの強権的手法を懸念したソ連は1979年12月27日、カブールに空挺部隊を派遣し、アミンを殺害した。このソ連の軍事介入に対し、ムジャヒディンたちは即座に抵抗運動を強化した。1980年代、アメリカはムジャヒディンたちに武器・弾薬、資金を与え、アフガニスタンに対するアメリカの影響力も増していった。



 ソ連軍は1989年2月にアフガニスタンから撤退していったが、ムジャヒディンの各グループの指導者たちは軍閥と化して互いに戦闘を繰り返した。こうした混乱のなかから秩序と平穏をもたらすと約束して登場したのがタリバンだった。



 1990年代にタリバンが成功したのは、麻薬取引や人身売買などを終わらせ、人々に安全や秩序、生活を与えると約束したからだった。タリバンの訴えは特に農民層の支持を得るものだったが、しかし約束を実現できないと音楽を禁止したり、女性の役割を制限したりするなど極度に抑圧的な措置をとっていった。



2001年の対テロ戦争開始後、アフガニスタン人は外国からの支援によって生活状態が改善されることを望んだが、失業率は高いままで、また政府は権力を濫用して腐敗していく。タリバンは、今回も政府の腐敗を批判し、また米軍など外国軍の排除を唱えて人々の支持を集め、女性には教育や権利を与えると語るようになった。この政権が1990年代のように抑圧的にならないためには、人々に十分な職や食料を供給し生活の保障をおこなえるかどうかに関わっている。



 日本は現在タリバンとの対話のチャンネルがないようだが、もはやタリバンを軍事力で排除することは不可能で、タリバンが抑圧的にならないように、アフガニスタンの安定のために必要な支援を継続することを考えるべきだ。アフガニスタンの安定はテロの抑制など同盟国アメリカの安全にも資することになることを、親米的な政治家たちは視野に入れたらどうだろう。



■新しい国民和解政府の陣容 (8月30日)



 タリバンの新政府は、1996年から2001年までのタリバン政権と違って、アフガニスタンの広範な勢力を集めた政府の樹立を考えているようだ。旧政権のカルザイ元大統領や、外相などを務めたことがあるアブドラ・アブドラ前国家和解高等評議会議長の政権参加も見込まれるようになり、タリバン政権はアフガニスタンの国民和解を目指した政府になる印象だ。ドイツは新政府に広範な政治勢力の結集がなければ、支援金の停止をちらつかせているが、そのような圧力をタリバンも意識しているのだろう。アフガニスタンの国家予算の六割から七割強は外国からの支援金によってまかなわれている。



 新国家では大統領や、またイランのような宗教的な最高指導者も置かれないようだ。その代わりに12人のメンバーから成る執行評議会が設けられる。



 アフガニスタンでは23日、タリバンのカブール制圧後に初めてロヤ・ジルガ(国民大会議)が800人ほどの国内の著名な学者たちを集めて開催された。 
 すでに内相にはタリバンの軍事司令官であるムッラー・イブラーヒーム・サドルが就任している。彼は、1980年代はソ連軍と戦っていたムジャヒディンで、ソ連軍の撤退とともに、パキスタンのペシャワールでイスラム神学を教えるようになった。1994年にタリバンの創立に参加し、米英軍の侵攻とともに地下に潜った人物だが、米軍やNATO軍と戦ってきて、2016年に軍事司令官となった。



 財務相にはグル・アガー・イスハークザイ(1972年生まれ)が就任した。彼はタリバンの財務委員会のトップだった人物で、カンダハルでの自爆テロなどに資金を提供したとして国連や米国、EUなどから制裁を受けている人物だ。他方で、彼は他のメンバーたちとともに2015年頃からアフガニスタン政府との和平交渉に関心を示し始めたともいわれている。



 タリバンの国防相には、ムッラー・カイユーム・ザーキル(1973年生まれ)が就任した。2001年にアフガニスタン北部のマザリシャリフで米軍に捕らえられ、2007年までキューバのグアンタナモ基地に収容されていた。同年12月にアフガニスタンまで移送され、2008年5月に部族の長老たちの圧力もあって釈放された。



 タリバン以外ではアフガニスタンのムジャヒディン組織「イスラム党」の指導者だったグルブッディーン・ヘクマティヤール(1947年生まれ)も政府に参加する可能性が指摘されている。イスラム党は、急進的なイスラム原理主義に訴える組織で、アフガニスタンにおけるイスラム国家の創設を目指していた。



 少数民族からも、冒頭のタジク人のアブドラ元外相、ウズベク人のラシード・ドスタム将軍、ハザラ人・シーア派でカルザイ政権で第二副大統領を務めたモハンマド・カリーム・ハリーリー(1949年生まれ)などが参加する可能性がある。少数民族の参加はタリバン政権の安定のために必要で、もしできなければアフガニスタンはまた内戦に陥ることすら考えられる。ハリーリーはもしハザラ人が守られることがなければ武力で蜂起するとものべている。
■20年の「対テロ」戦争が残したものとは (8月31日)



 米軍最後のC―17輸送機がハミド・カルザイ国際空港を日本時間の午前4時29分に離陸して、20年間という米国史上最長の戦争であるアフガニスタン戦争は終わった。「対テロ戦争」という大義を掲げながらも、米軍が軍事力で政権を崩壊させたタリバンはこの20年間、米国本土で一度もテロを起こしたことがなかった。タリバンがアフガニスタンでおこなった外国軍への攻撃は、タリバンから見れば「抵抗」というものだろう。



 ブラウン大学ワトソン研究所の統計では、今年四月までにアフガニスタンとパキスタンの「対テロ戦争」の舞台では24万1000人が亡くなり、そのうち7万1000人が市民だった。米軍とアフガニスタン政府軍は空爆などで、反政府武装勢力タリバンよりも市民の方を多く殺害した期間も多々あった。2008年7月には花火が打ち上げられていた結婚式を、ロケット弾と間違えたといって米軍が誤爆し、47人が犠牲になったこともあった。



 アフガン政府軍・警察の死者は6万6000人、タリバンや他の反政府武装勢力の戦闘員の死者は5万1191人、またおよそ2500人の米軍の将兵、3846人の米民間軍事会社の社員、1144人のNATO軍将兵が死亡した。



 さらに、アフガニスタンの復興支援の監査を行うSIGAR(アフガニスタン復興担当特別監察官)によれば、2万666人の米軍将兵が負傷し、2001年以来、80万人の民間軍事会社の社員が負傷した。負傷者に圧倒的に民間軍事会社(PMC)の社員が多いように、対テロ戦争を契機にPMCが実際の戦闘に大規模に導入されるようになり、対テロ戦争で莫大な利益を上げたPMCは次から次へと戦争を望むことになる。



 米国は2兆㌦以上の予算をアフガニスタンにつぎ込んだが、米国が創設した30万人のアフガニスタン国軍はタリバンと有効に戦うこともなく、消滅していった。米国が支えた政府のガニ大統領は、現金1億6900万㌦を携えてドバイに逃亡した。



 アフガニスタンで「国民和解政府」が成立するという報に接して、バイデン政権がタリバンとの和平交渉の結果、軍の撤退を決断した背景が明らかになったような気がする。旧政権や少数民族の指導者たちがタリバン主導の政権に参加することで、米国は「対テロ戦争」の成果をアフガニスタンにとどめることになり、メンツをわずかながら保ちながらの撤退となった。

欧米植民地支配は中東イスラム世界で必ず失敗する――米軍のアフガン撤退が教えること 現代イスラム研究センター理事長・宮田律

国際2021年9月4日



 ながさわ・えいじ 専門は近代エジプト社会経済史。著書に『エジプト革命 アラブ世界変動の行方』(平凡社新書)、『近代エジプト家族の社会史』(東大出版会)など。安保法案に反対する中東研究者のアピール呼びかけ人。
まだ記憶に新しいことであるが、昨年12月4日、アフガニスタンの人たちのために、長年、全身全霊をもって尽くしてこられた中村哲医師が殺害された。中村先生の死は、日本と世界の平和を考える上で深刻な意味を持つものである。


 中村医師を殺したのは誰か。ここで問うているのは、直接的な実行犯が誰かということではない。究極的な意味において、先生を殺したのは誰なのかを問うているのである。先生の死は、日本に暮らす私たち自身のこれまでの行動とは関係のない出来事なのか。


 世界において現在、中東ほど戦火の絶えない地域は他にない。それはなぜなのか。中村先生は、この中東で絶え間なく続く暴力の渦に巻き込まれて殺されていった。


 この戦火の渦が発生したのは、それほど昔のことではない。たとえばパレスチナ問題について2000年来の民族・宗教対立などという誤った解説を述べる人がいるが、世界の文明の十字路である中東が、古代以来、絶え間ない紛争の地であったわけではない。現在に続く中東における暴力の渦が始まったのは、たかだか40年前、およそ1980年代以降のことである。


 この暴力の渦の中心にあるのは何か。しばしば、偏見をもって語られるのは、渦の中心には、戒律が厳しいだけで民主主義の価値も理解できないイスラーム過激派の野蛮な暴力がある、という見方である。しかし、この中東で40年続く暴力の渦は、むしろ外部からの軍事介入が繰り返されることにより、拡大してきたと考えるべきではないか。また、「暴力の連鎖」という表現を使う人もいるが、「連鎖」を引き起こす根本的な原因に目を向けなければ、真の平和の道に向かうことはできない。たとえば、外部からの軍事介入とイスラーム武装勢力のテロとの関係は、映画「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督)を例に取ってイメージすると分かりやすい。人間が“腐海”の森を火で焼き払うたびに、その森の奥深くから“王蟲(オーム)”の大群が攻めてくるというシーンである。もし、このイメージの意味を理解できない人がいるとしたら、それは映画において蟲の世界に擬された異文化に生きる人たちへのナウシカ的な共感と敬意が欠けているのであろう。
過去40年の暴力の渦を作りだしてきた外部からの軍事介入、戦火の波は、ほぼ10年おきに中東を襲った。これらの4つの戦火の波とは、以下のとおりである。第一の波は、1979年のイラン革命の後に起きたアフガニスタン内戦とイラン・イラク戦争である。第二の波は、1990・91年の湾岸危機・戦争に始まる。第三の波は、2001年の9・11事件の後に起きたアフガニスタンとイラクへの米英軍の侵攻である。そして第四の波は、2010年末に始まるアラブ革命に際して起きた、リビアとシリアの内戦への軍事介入である。


 中村哲医師が医療支援のためにアフガニスタンの隣国、パキスタンを初めて訪れたのは1978年であった。その翌年、79年にイラン革命が起き、アフガニスタンの親ソ政権を支援するためにソ連軍が侵攻した。アフガニスタン内戦の始まりである。アメリカは直接、武力介入する代わりに、アラブ諸国などから集まったムジャーヘディーン(ジハード戦士)を支援して、ソ連に対抗した。この内戦が激化していた84年、中村医師はパキスタンに赴任して医療支援活動を開始し、さらに86年以降、戦火を逃れてきたアフガニスタン難民の医療に本格的に取り組むことになる。ソ連軍は88年に撤退し、内戦の戦火は収まるかと期待されたが、まもなく反政府勢力の軍閥同士の交戦が激化する。この当時の事態は、2011年のリビアの内戦後の混乱とよく似ている。「保護する責任」を名目にNATOやアラブ諸国の一部が軍事介入してカダフィー体制が打倒された後、リビアは現在まで軍閥間の抗争で無政府状態に陥っている。


 第二の軍事介入の大波は、1991年の湾岸戦争である。その頃、中村医師はアフガニスタンで医療施設を次々に建設していた。アフガニスタンへの難民の大量帰還が始まりつつあった時期である。他方、同じ頃、それまでソ連軍と戦ったジハード戦士たちは、出身国に帰り、各地で政府との間で抗争事件を引き起こしていく。アルジェリアで10年続いた内戦がその代表である。この時期に、アフガニスタン内戦に集まったジハード戦士たちの国際的な武装組織として成長したのがアルカーイダであった。同組織は、湾岸戦争における米軍のアラビア半島駐留をイスラームの聖地の冒だとして反発し、サウジの米軍基地攻撃などテロ作戦を拡大させていった。同組織を庇護したのが、九六年にカーブルを制圧し、アフガニスタンに軍事政権を樹立したターリバンであった。


 第三の波は、2001年の9・11事件をきっかけに始まった。この頃のアフガニスタンは100年に一度という大干ばつに襲われ、400万人以上の人びとが飢餓線上の危機にあった。「100の診療所よりも一本の用水路」と考えた中村医師は、井戸掘りなど灌漑工事に乗り出した。その最中になされたのが、9・11事件への報復として米軍などNATO軍が行なった「不朽の自由」作戦による空爆であった。
 当時、国会の「テロ特措法」審議で参考人として呼ばれた中村医師は、自衛隊の派遣を「有害無益」と明確に反対の意見を陳述した。しかし、10年前の湾岸戦争に際し、多国籍軍に巨額の資金を提供した日本は、さらに踏み込んでアフガニスタンを攻撃する米空軍に対し、海上自衛隊が燃料補給をすることにより、戦争に加担した。当時、中村医師たちの支援活動の車両からは、安全のため日の丸のマークが消されたという。しかし、こうした戦火の下でも、3億円の市民の拠金によって「緑の大地5か年計画」が実行に移され、2003年3月には用水路建設が始まった。しかし、この同じ月に米英軍がイラクに侵攻し、同じ年に陸上自衛隊がイラク南部の「非戦闘地域」の復興活動に派遣されたのであった。


 第四の波は、アラブ革命の混乱に付け込んだ軍事介入であり、現在もその戦火は消えていない。リビアのカダフィー体制の崩壊に続いて、シリアのアサド政権の打倒のため、欧米と一部のアラブ産油国は、イスラーム過激派を主体とする反政府武装勢力を軍事的に支援した。イラク侵攻が招いた悲惨な混乱について何の反省もなされなかった。その結果が、怪物IS(「イスラーム国」)の台頭であった。ISはその後、シリア内戦に参加した他のすべての勢力に包囲攻撃されて、支配地域を縮小させた。しかし、残存する勢力は、他の国々に活動の拠点を求めて拡散した。その一つがアフガニスタンであった。生前、中村医師が語ったところによれば、ISが支配を拡大した地域は、まだ灌漑工事の恩恵が行き届かず、干ばつがひどい地域と重なり合っていたという。


 中村医師の訃報が届いた日本では、「調査・研究」のための海上自衛隊の中東派遣への動きが進んでいた。中村先生の死と同時期に、海上自衛隊の中東派遣の決定がなされたのは、決して偶然ではない。そのように将来、歴史は語られるであろう。「『世界平和』のために戦争をするという、こんな偽善の茶番が長続きするはずはない」と中村先生は語っていた。この言葉は、被爆地長崎でローマ教皇が述べた「恐怖と相互不信を土台にした偽りの確かさの上に平和と安全を築」こうとする核保有国の欺瞞に対する批判(昨年11月28日演説)と通底するものである。


 遥かなる西方より平和を求める声がする。その声に全身全霊をもって応えた人はもういない。その後に続く私たち市民は、偽善や欺瞞を暴き、具体的な行動をもって、西方からの声に応えていかなければならない。

遙かなる西方からの声―中村哲医師の死を悼む 東京大学名誉教授・長沢栄治

国際2020年1月4日



アフガニスタンで農村復興のため水利事業に携わっているペシャワール会の中村哲医師の講演会が2015年の8月30日、宇部市の渡辺翁記念館で開催された。山口大学医学部最大の学生団体である「山口大学国際医療研究会」の学生たちが主催し、約1000人の聴衆が詰めかけたものだった。米軍のアフガン空爆の下でだれが犠牲になり、どうなったのか。現地の実際を通して安倍政府の進める安保法制がいかなるものかを浮き彫りにするものとなった。以下、当時の講演内容を中村医師を追悼する意味もこめ、ホームページ上に再掲する形で紹介したい。掲載する写真や地図は講演後に中村医師より提供していただいたもの。

 農業軸の多民族国家 高山の水で豊かな実り






 アフガニスタンは日本人にとってもっともわかりにくい国の一つだ。中近東の乾燥地帯の東の端にある中央アジアの一角、ヒマラヤ山脈を西にたどったところにあるヒンズークシ山脈という7000~6000㍍級の高い山山の辺りがアフガニスタンだ。地理的に東西の交通の要衝である。


 ヒンズークシ山脈の山山が国土のほとんどを占め、2000万~3000万人といわれる人口のほとんどが農業で生計を立てている。アフガニスタンには「金がなくても食っていけるが、雪がなければ食っていけない」という諺がある。高い山に降り積もった雪が夏に少しずつ溶け出して川沿いに豊かな実りを約束する。人も動物も、このおかげで何千年、何万年と命をつないできた。降雨量は日本の20分の1とか50分の1といわれ、日差しは強いが、水さえあれば植物の繁殖も旺盛で、かつては100%近い食料自給率を誇っていた農業国である。



 アフガニスタンは多民族国家だ。シルクロードの時代、「民族の十字路」といわれるほどいろいろな民族が通過し定住した。谷が深く、谷ごとに違う民族が住んでいるといってよく、「アフリカ人以外ならすべてアフガニスタン人に化けられる」といわれるほどで、ほぼ独立した自治体制を営みながら、その集合体としてアフガニスタンという国を形作っている。20以上の民族・言語が錯綜しながら一つのまとまりをつくる地域であることを理解してほしい。


 よくいえば自治性が非常に濃厚であり、悪くいえば割拠性が強い民族を束ねるのがイスラム教だ。各村や町にもモスクがあり、ときには行政よりも決定権を持っている。目にするニュースでは血なまぐさい印象が多いかもしれないが、実際にはそれほど変わった人たちではない。アフガニスタン人は私が見る限りでは世界でももっとも保守的なイスラム教徒で人人は戒律を律儀に守る。


 貧富の差は甚だしい。現地に行って医療人としてまず無力感を感じるのは、お金持ちはちょっとした病気でもロンドン、パリ、ニューヨーク、東京に行って治療を受ける一方で、99・999%の人人は数十円のお金がなく、薬も買えず命を落としていることだ。
診療所作ったが… 水と食料こそ死活問題

 私たちの活動の始まりは、1984年にペシャワールで発足した「ハンセン病根絶5カ年計画」に参加したことだった。当時、世界的なハンセン病根絶計画が進められており、その一環として活動を進めていた。ハンセン病は合併症が多く、さまざまな専門医の診療が必要で、その治療センターをつくるのが私の任務だった。ベッド数はわずか14床、耳にすると怪我をする聴診器が一つ、ピンセット数本。まともな医療器具はなかった。消毒設備もないため、ガーゼの消毒はオーブントースターを使っていた。


 私たちの活動は一見、医療とは無関係な部分にエネルギーを使ってきた。なかでも今ももっとも気を遣っているのは「いかにして患者の気持ちを理解するか」ということだ。外国人が犯しやすい間違いだが、見慣れないものを見ると、単なる違いを善悪や、「遅れている」「進んでいる」、優劣で見て裁いてしまう。そして現地と衝突し、帰らざるを得なくなるのを目にしてきた。女性のかぶり物がどうかなどはその国の人自身が解決することで、私たちは現地の文化・宗教・慣習に関しては好き嫌いがあろうと、できるだけその文化の枠内で解決することを鉄則として現在に至る。


 私が行ったときはアフガン戦争の真っ只中。約10万人のソ連軍が侵攻していた。その後約10年間内戦が続き死亡者は200万人、国民の10人に1人が死に、600万人が難民になった。十数年前からはアメリカ軍、NATO軍の侵攻でさらに混乱が続き、「戦争」が現地民にとって非常に切実な問題となっている。


 内戦状態のなか私たちは難民キャンプで診療をおこなっていたが、とても間尺に合わず方針を大転換することにした。「ハンセン病根絶計画」は先進国側が考えたアイデアであり現地では非常に無駄が多いものであった。ハンセン病が多い地域は同時に腸チフス、結核、デング熱、ペストなど、ありとあらゆる感染症の巣窟だ。医療人のモラルとして、マラリアで死にかけている患者を「ハンセン病ではないから診ない」というわけにはいかない。私たちは、内戦が下火になった暁には、ハンセン病の多発地帯であり他の感染症も多い山奥の地域に診療所をつくり、ハンセン病をさまざまな感染症の一つとして区別なく診るという方針に向け、動き出した。


 当時、内戦の真っ只中であったがパキスタン管内に入ることもあった。国は違えど同じ民族が住んでいるので、自由自在に山越えをしながら人人との付き合いを深めた。


 ソ連軍は10年もしないうちに撤退し、私たちは次次に診療所を開設した。そして1998年4月に病院を建て、ここで責任を持ってわれわれの患者を診ることにした。さあ今からというときにアフガニスタンは世紀の大干ばつに見舞われた。ユーラシア大陸を襲ったこの干ばつは今まで人類が経験したことのない規模で進行中だが、とくに2000年5月の干ばつがひどいものだった。なかでもアフガニスタンはもっとも激烈な被害を受けており、世界保健機関(WHO)は、“国民の半分以上の1200万人が被災し、飢餓線上の国民が約400万人、餓死線上が100万人である”と警告を発表した。当時タリバン政権によって内乱が収拾され、曲がりなりにも治安は回復していたが、政治的な理由でついに救援はあらわれなかった。私たちのまわりで、緑があり人人が生活していた村が、1年足らずで一木一草も生えない沙漠になって次次消えていった。これがアフガン人にとって現在もっとも深刻な問題となっていることを私は伝える義務がある。


 数十万㌶が沙漠化し、多くの難民が発生した。診療所には若いお母さんたちが子どもを抱き、何日もかけて歩いてくる。生きてたどり着くのはまだましで、たどり着いても順番待ちで並んでいるあいだに腕の中で冷たくなっていく光景はごく日常的に見られるものだった。


 アフガニスタンは自給自足の国だが、水がなくなれば汚水を口にして下痢になる。作物も育たないため慢性的な栄養失調に陥り、簡単な病気で命を落とす。清潔な水と十分な食べ物さえあれば、ほとんどの患者が死ぬことはなかったと思う。私たちは「いくら医療器具、薬があっても役に立たない。飢えや渇きは薬では治せない」と考え、2000年8月頃から「清潔な飲料水と十分な食べ物を」を掲げて診療所のまわりの枯れた井戸を掘り始めた。その後活動は広がり、5年間で1600カ所、清潔な飲料水を確保することができた。数十万という人人が村をあげて働き、大きな事業に発展した。


 もう一つの課題は農業用水を確保することだった。伝統的なカレードという横井戸で地下水を引いて水を確保していたが、それが枯れ、再生してもまた枯れるのをくり返し、約40個再生したが、地下水利用の限界を知った。
女・子供殺した米軍 空爆の中で食料を配る

 2001年9月11日、ニューヨークの同時多発テロが起き、その翌日から国際社会と呼ばれる国の人人が、「アフガニスタンは首謀者をかくまった」「報復爆撃しろ」といい始めた。私たちは「今アフガニスタンに必要なのは水と食料であり爆弾の雨ではない」「アフガニスタンは一つの国ではなくいろんな国の寄せ集めであり、政府が悪いからアフガン国民すべてが悪いというものではない」と主張したが、大きな世論にはならなかった。しかし国外の人人、日本全国からおそらく数十万人が私たちに賛同して募金に協力してくれ、食糧支援に従事した。


 10月になって空爆が実施された。現地は冬で、首都カブールは、元からいた市民ではなく、田舎から逃れてきた干ばつ避難民であふれた。その百数十万人のうち約1割は生きて冬を越せなかった。私たちは小麦粉1800㌧を運び入れ、職員20人で配布した。


 空爆は激しかった。日本人の空爆の記憶は、おそらく太平洋戦争で途切れているが、最近の戦争はあれ以上に高性能で、巧妙で、非人道的な爆弾が使用される。ボール爆弾や、人間だけを死傷するクラスター爆弾が大量にばらまかれた。一方で「人道的」支援と称して食料を投下するが、クラスター爆弾とまったく同じ黄色い包みに食料を入れて落とす。それを拾いに行った子どもたちが犠牲になるなど、犠牲になったのは子どもや女性、お年寄りなど弱い人人だった。


 日本に帰ってきたときは異様な雰囲気だった。普段は知らないカブールやカンダハールなど名前まで出して「次はどこがやられるのか」と、まるでゲームのように見ていることに非常に不愉快な思いがした。軍事評論家が出てきて「アメリカがおこなう空爆はピンポイント攻撃であり、悪いやつだけをやっつけて、一般人には手を加えない人道的な攻撃だ」といっている。「そんなに安全な爆弾ならその下に立って評論をしてくれ」といいたかった。日本人が見せられたのは爆弾を落とす側の映像で、落とされる側の映像はほとんどなかったと思う。世界的に戦争が正当化されるなかで、だれが犠牲になっていったかを考えると収まらないものがある。


 無差別爆撃のなか、食料を配ることは至難の業だった。職員20人が1発の爆弾で全滅する可能性は十分にあったため、3つの部隊に分け、たとえ1チームが全滅しても他の2チームが任務を敢行するようにした。活動の底力となったのは同胞のためには命も省みない勇敢なアフガン人であり、これによって私たちの活動は支えられた。


 米軍の進駐後 麻薬と売春の自由現出



 タリバン政権が11月になって崩壊し、米軍の進駐が始まった。世界中で「極悪非道の悪のタリバンをうち破り、絶対の自由と正義の味方、アメリカおよびその同盟軍を歓呼の声で迎える市民の姿」「女性抑圧の象徴であるかぶり物を脱ぎ捨てて、自由をうたう女性たちの姿」の映像が、くり返し嫌というほど流された。この戦争に反対していた人も「そんな悪い人たちがやられるのならよかったのではないか」となり、アフガニスタンは忘れ去られていった。


 実際には何ができていったか。それはケシ畑だ。タリバン政権はよくない面もあっただろうが厳格な宗教制度によってケシ栽培を徹底的に取り締まり、ほぼ絶滅していた。それが盛大に復活し、数年を待たずしてアフガニスタンは、世界の麻薬の90%以上を供給する麻薬大国となった。


 解放されたのは「ケシ栽培の自由」「女性が外国人相手に売春をする自由」「働き手を失った人人が街頭で乞食をする自由」「貧乏人が餓死する自由」だといって間違いではないと思う。実際に当時、飢餓線上の人口は400万人といわれていたが、現在760万人に増えている。アフガニスタンはますます窮地に立たされている。

 「緑の大地計画」 命綱の用水路の建設へ

 戦争とはおかまいなしに沙漠化はどんどん進行し、今も進行中である。まずはいかにして食料不足を解決するかを第一にあげ、「緑の大地計画」を立てた。われわれは医療団体だが、診療所を100戸つくるよりも1個の用水路をつくった方がはるかに効果が大きいと考え、「沙漠化で無人化した村村の復興」をスローガンに、2003年に用水路の建設に着工した。


 最終的に現在の全長27㌔㍍、灌漑面積3千数百㌶の約16万人が生活できる用水路が完成したが、12年前は途方に暮れた。計画をつくるのは非常に簡単だが、実際にやってみるとさまざまな問題に遭遇した。意気込みはあるが、まず道具がない。ツルハシとシャベルのみだ。もう少しお金を貯めて立派な日本の技術、技術者を呼ぶことも考えたが、長い目で見て、だれがその水を使い、用水路を維持管理するのかを考えたとき、現地の人人でも建設でき、現地の人たちの手で維持され、何世代にもわたって使える施設にするには、現地の人の手で直せるものでなければならなかった。
日本とアフガニスタンは、非常に異なる国のように見えるが、水に関しては非常に似た点が多い。どちらも山の国で急流河川が多く、夏と冬の水位差が激しいこと、山間部の狭い地域や小さな平野での農業が主流であり、水をとり入れる技術に似た点がある。現在の農村は日本の中世の農村部の自治制と似た点がある。このため日本の昔の技術をアフガニスタンにとり入れようと考えて探し回った。


 私の生まれ育った福岡県の筑後川は「日本三大暴れ川」と呼ばれ、治水のための古い施設がたくさん残っている。日本も数百年前まで渇水、飢饉、洪水は日常茶飯事で、そのたびに何十万、何百万という犠牲者を出しながら現在の田園地帯がつくられてきた。


 築後川の山田堰は220年前につくられ、現在も現役として多くの地域を潤している。「これだ」と思った。当時は重機やダンプカーなどない。「私たちにもできないことはない」と積極的にこの技術をとり入れていった。


 日本の堰を模倣するといっても、インダス川の支流は日本の大河川の5倍、10倍の規模。この地理条件に合わせ、約10年の歳月をかけて最近になってようやく成功するようになった。


 護岸技術もむやみにコンクリートを用いるよりも昔の技術の方が簡単であると同時に、多少崩れてもすぐに補修できるという点で優れていた。「蛇籠」と呼ばれる鉄線で組んだ籠に石を詰めて積み上げ、そこに柳の木を植えると非常に強靱な用水路ができる。昔の人の知恵があのインダス川の激流を見事に制した。


 コンクリートの打設はだれにでもできないが、石を積み上げるのはアフガン人ならだれでも上手だ。これも現地に非常に適した方法だった。とにかく自分たちでつくることを私たちの鉄則とした。揚水設備も、電気が使える地域は数%で、それもときどき電気が来る状態だ。油や電気を使わない水車を使い、水利施設も充実していった。


 用水路が次次とでき、10年ほど前から用水路が延びるたびに緑地が蘇り、荒れた村村が回復して多くの人人が村に帰ってきた。


 最後にたどり着いたのがガンベリ沙漠で、ここが一番の難航地だった。工事は真夏で、摂氏53度にまでなる。数百人の作業員のうち、毎日十数人が熱中症で倒れる。それでも彼らが作業の手を休めなかったのは「1日3回食べること」「故郷で家族と一緒に生活すること」、このたった2つの強い願いがあったからだ。それさえもかなえられずに難民化した彼らにとって、この用水路ができなければ、元の難民生活が待ち受けている。「なんとか生き延びたい」という健全な意欲が、用水路建設の大きな底力となった。2009年に第1回目の試験的な通水が成功したときに彼らは大喜びし、開口一番「先生、これで生きていける」といった。用水路は地域の人人には欠かせぬ命綱として存在し続けることとなった。


 しかし水を引くだけではだめで、砂嵐をいかに防ぐかが次の問題となった。防風林をつくることにしたが、これも年月がかかる。やっと2、3年前に林に成長し、約80万本の木が砂嵐を防いでいる。現在も着着と事業が進んでいる。
数十万人の生活保障 農業回復が平和の基礎

 水が来れば作物をつくることができ、水辺には動物も集まる。エネルギー問題も一挙に解決した。日本でエネルギー問題といえば原発や電力、石油の話が出てくるが、現地で必要なのは調理や防寒に使う薪だ。80万本の木木から出る大量の間伐材を利用することで、この地域ではほぼ自給可能になりつつある。


 人が集まれば諍(いさかい)も起こる。それを解決するよりどころとしてモスクも建設した。われわれが活動する地域はもっとも豊かな地域の一つとして見事に復活した。かつては一木一草生えない荒野であったことを知る人はだんだん少なくなってきた。用水路は全長27㌔㍍、灌漑面積三千数百㌶、約16万人の人人の生活の復興に留まらず周辺地域にも繁栄が広がりつつある。他の地域に訴えていることは「戦争する暇があったら食料を自給する努力をせよ」ということだ。


 干ばつは進行している。温暖化によってヒンズークシ山脈に積もった雪が春先から夏にかけて一気に溶けるため洪水が起こり、低い山山の地下に水が染みこむ余裕がなく、万年雪が減っているために地下水が減ってカレーズが枯れ、大河川では川の水位が下がって取水できなくなり干ばつが起きる。想像もしないような大洪水が起きると同時に渇水も起き、そのために難民が増える。国外に出ても町に出ても職はなく、やむを得ず武装勢力や政府の傭兵となる者が増え、ますます治安が悪化する悪循環が進行している。


 このなかで私たちは、現地に適した取水技術の確立・拡大を目指して活動を続けている。暴れ川を制するには自然と上手に折り合いをつけることが重要で、洪水が来ても被害を最小限に抑え、渇水になってもある程度の水をとり込む。昔の人の技術、考え方をとり入れて活動を進めている。安定した水の供給によって農業を回復させ、難民を村に呼び戻すことをめざして少しずつ計画は進んでおり、1万6500㌶、6十数万人が生きていける環境が整っている。これをモデルに広げたい。


 政治にしろ戦争にしろ人間と人間だけの問題にとらわれてしまうが、人間と自然が折り合って生きていくこと、これを誤ると学者の中にはこのままいくと地球は一世紀も持たないという人もいるほどだ。危機感を持ち、われわれはどう生きていけばいいか、医療の整備、平和、戦争を考えることで私たちに非常に大きな示唆を与えてくれるのではないかと思う。
◆質疑応答

 質問 用水路などをつくるうえでの知識はどのように得たのか。


 中村 知識はだれも教えてくれない。いかにしてつくるかという気持ちがあれば、基礎的な水利学的な計算を学ぶことは、それほど難しいものではない。実際の水利施設に足を運んで観察し、コピーすることから始める。昔の人は緻密に計算しながらつくっているわけではなく、おそらく経験だけのはずだ。試行錯誤の積み重ねで最終的に完成したのだと思う。郷土史にもどうやってつくったかはほとんど残っていない。ということは普通の人にもできる製造過程だということだ。これを模倣することから進めた。河川工事は試行錯誤のくり返しだった。


 質問 何十年も活動を続けられる原動力はなにか。


 中村 仕事上「疲れたからやめよう」というわけにはいかない。早く作業から引き揚げたいと思ったことは何度もあるがここで自分がやめると何十万人が困るという現実は非常に重たい。また多くの人が私の仕事に対して希望を持って何十億円という寄付をしてくれている。その期待を裏切れない。なによりも現地の人たちに「みなが頑張れば、きちんと故郷で1日3回ご飯が食べられる」という約束を反故にすることになる。日本では首相までが無責任なことをいう時代だが、十数万人の命を預かるという重圧は、とても個人の思いで済まされるものではない。みなが喜ぶと嬉しいもので、それに向けて努力することが原動力だと思う。


 質問 食べ物は。


 中村 ナンが主食で、カレー味のないカレーのようなものを食べる。豆が多く、普通の貧しい人たちは1年に1、2回しか肉を食べない。


 質問 学校はあるのか。


 中村 今は国民学校がある。以前から教育はおこなわれており、モスクを中心とした伝統的なマドラサが今でも田舎では教育の中心で、国民教育と並行しておこなわれている。教育とは「親が死んでも自立して生きていける生活の手立てを与えるもの」と考えられており、農村では家の手伝いをすることそのものが教育だ。「読み書きができればいい」と考えている人がほとんどではないか。学校に対して生徒が多く、就学率も増えているため三交代制をとっている。都市部では近代的な教育を受けた子どもたちが農村を捨てて都市に出て行くことが問題になっている。教育そのものより、中身が重要ではないかと思う。


 質問 アフガニスタンの人たちは、日本人をどう思っているのか。


 中村 もっとも親密に感じているのが日本だ。独立記念日が同じだと思っているほど親密に感じている。彼らにとって「日本」と聞いて連想するのは長崎、広島、日露戦争だ。どこに行っても知らない人がいない。


 日露戦争の評価はひとまず置いて、100年前のアジア世界では、日本・アフガニスタン・タイを除く全アジア諸国が欧米列強の植民地・半植民地だった。その時期に極東の小国・日本が大国のロシアと戦争して負けなかった。このことが非常に大きな励ましとなり、アフガニスタンでは世代から世代へと語り継がれている。「日本はちっぽけな国だが、理不尽なことに対しては、たとえ相手が大きくても屈しない、不撓不屈の国」という誤解が生まれている。


 広島、長崎についても、同情心だけではない。アフガニスタン自身もロシアと戦い、イギリスを撃退して現在の体制を整えてきた国で、その経験から「羽振りのいい国は必ず戦争をする」といわれる。日本も同じように戦後の荒廃から立ち上がった国だが、一度も外国に軍隊を送ったことはないという信頼だ。日本人は国連職員よりも安全だというのが一昔前まで一般的だった。しかし、そのメッキが少しずつはがれつつあるのが現状だ。


 質問 アフガニスタン人の視点から見る現在の日本の積極的平和主義を掲げる動向、また日本人についてどう思うか。


 中村 日本に帰ると別の惑星に来たように感じる。第一に元気がない。アフガニスタンでの最高に近い医療が受けられ、恵まれている割にみな不幸な顔をしており、自殺が多い。アフガニスタンは貧しい国で、他殺はたくさんあるが自殺はない。日本の政権については、こんなバカな政権はない。向こうではみな権力に対して従順でない気風がある。対照的に日本人ほど権力に弱い国はないと感じる。現政権がアフガニスタンに出現したとするなら、もう何十回か暗殺されている。その点が日本との違いだ。個人的なことをいうと憲法に従う義務はあるが、政権に従う義務はないと考えている。


 質問 現地で活動するにあたって立場や価値観の違いがあると思うが、親交を深めるためにしたことはなにか。


 中村 とくにないが、試行錯誤を重ねて体得していった。違いを強調するよりも共通点をみつけていくことだ。私はキリスト教徒で敵の宗教だが、彼らはそういう狭さは持っていない。


 質問 作物はどういったものがとれるのか。


 中村 穀類ではコメ、小麦。野菜は、日本で見る野菜はほとんど向こうがルーツ。西のつく野菜や、胡麻や胡瓜など「胡」のつくものはほとんどアフガニスタンや中央アジアが原産だ。南米産のルーツのものも手に入る。違うのは肉。大豆、豆類を中心にタンパク質をとり、ときどき動物性のタンパク質をとる。


 質問 次のリーダーを育成するためにどのようなことを考えているか。


 中村 現地でリーダーが育っていくことを期待して仕事を進めていきたい。学歴より、現場は徹底した現地主義。人材は現場で育てるということを徹底していけば実質的な指導者が自然にあらわれてくる。しかも生きるか死ぬかの問題だ。英語も日本語も通じない人でも「これは」という光る人がいる。やがてそのなかからリーダーが出てくると確信している。


 質問 治安は悪いと聞くが、新しくできた農村、灌漑施設、病院、先生個人の警備は警察がしているのか。


 中村 現地には日本のような厳密な警察組織はない。それでいて回る共同体だ。自分の身は自分で守るのが鉄則。日本人がよく「丸腰で活動するなんて」というが、現地は百姓と武士の区別がない。500人作業員がいて、もし作業を妨害するグループがあらわれたとすると、ライフルや小銃などを持って集まって、すぐに一個中隊ができる。普通は鉄砲を見せびらかさないが、潜在的な武力を持った準武装集団だ。用水路を守るためにはみなたたかう。しかしその必要がないよう、まずは平和的な交渉をしていこうとしている。


 私もみなに守られている。用水路は命にかかわるので、「中村とは運命共同体だ」ということで大事にしてもらっている。その地域で役立つ人間である限り、私は身の危険を感じずに済む。作業員のなかにはイスラム国やタリバンなどもたくさんいるが、彼らのなかには、やむをえず傭兵になった人がたくさんいる。敵かどうかは、自分たちと運命共同体であるかどうかと密接に関係している。路上では爆弾事件が増えているので注意はするが、作業場ほど安全な地域はない。

中村哲氏「アフガニスタンに生命の水を」 2015年の講演より再掲

国際2019年12月5日