反酒場連盟が原因の禁酒法ボルステッド法がアメリカ合衆国憲法修正第21条により廃止された話とニクソン大統領によるATFアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局創設とウィルソン主義.十四か条の平和原則の話。

反酒場連盟が原因の禁酒法ボルステッド法がアメリカ合衆国憲法修正第21条により廃止された話とニクソン大統領によるATFアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局創設とウィルソン主義.十四か条の平和原則の話。



ボルステッド法(ボルステッドほう、英語: Volstead Act)正式にはNational Prohibition Act(国家禁酒法)は、アメリカ合衆国内で禁酒法に関して規定した連邦法。アメリカ合衆国下院司法委員長アンドリュー・ボルステッドにちなんで名付けられた。法案を考えて、牽引したのは反酒場連盟(Anti-Saloon League。禁酒連盟などと訳されることもある。)のウェイン・ウィーラー(Wayne Wheeler)であった。

手続き

当時、アメリカ合衆国憲法修正第18条が飲用の目的で酒精飲料を醸造、販売若しくは運搬し、又はその輸入若しくは輸出を行うことを禁止しており、法案はこの憲法規程を実現するためのものであった。法案はウッドロウ・ウィルソン大統領によって拒否されたが、1919年10月28日にアメリカ合衆国議会によって拒否が覆された。

この法は「この法によって許可される場合を除いて誰も少しでも酔わせるを製造しない、売らない、物々交換しない、輸送しない、輸入しない、輸出しない、届けない、提供しない」ことを示した。それは特に酒に酔うことを禁止しなかった。つまり摂取することはお咎め無しだった。

また、この法は酔わせる酒を0.5%以上のアルコールを含有しているどんな飲料であってもと定義して、既に同様な法律があった州でも、全ての既存の禁酒法に取って代わった。

アメリカ合衆国憲法修正第18条との組み合わせと、その当局の下で可決される法律は単に「禁酒法」として知られるようになって、1920年代(一般に狂騒の20年代として知られる)の米国に大きな影響を及ぼした。

影響

禁酒法の影響は当初はほとんど予期されていなかった。製品、輸入とアルコール飲料の流通(合法的な企業のかつての仕事の範囲)は犯罪のギャングによって支配された。そして、彼らの大半は殺人を伴う暴力による対立を伴って互いに市場の支配権を得るために争った。

主要なギャング、例えばオマハトム・デニスシカゴアル・カポネは大儲けして、地元で、そして全米で賞賛された。ギャングが低賃金でかつ人員不足の執行職員に贈賄して、高額な弁護費用を支払うことが出来るほど裕福になったので、法律の施行は難しかった。多くの市民は、密売者に同情的だった。

そして、立派だった市民が「目が見えないブタ」と呼ばれる、不法なもぐり酒場の誘惑に吸い込まれていった。より高い社会経済グループの間で、カクテルパーティが人気となり、1920年代の社会は一層、緩みだした。当局に協力する者は、しばしば脅迫され、時には殺害されたりもした。

いくつかの主要な都市、シカゴとデトロイトを含む酒輸入の主要な場所では、密輸入ギャングは、かなりの政治的影響力を持った。ミシガン州警察が、デトロイトのドイツ・ハウスを急襲した際には、市長保安官と地方議員等が一網打尽に逮捕された。

ボルステッド法の第29節では、家庭で「酔わないリンゴ酒と果物ジュース」を200ガロン(75リットル)作ることが許可されている[1]。当初は酒に酔うことは0.5%以上のアルコールを含むことであると定義された[2]

しかしアメリカ合衆国内国歳入庁はすぐさま、これを取り消したため、家庭でのワイン醸造は実質的に合法化された[3][1]。いくつかのブドウ園は、家庭でワインを作るため、ブドウを大いに販売した。

ジンファンデル・ブドウは、ブドウ園の近くで生活している家庭での醸造に一般に普及していた。しかし東海岸の市場への長旅では、薄い皮は、こすれて腐敗しやすかった[4]。アリカンテ・ブーシェの厚い皮は腐敗しにくいため、これと類似した品種が、家庭用ワイン醸造市場のために広く植えられた[4][5]

この法律に違反した場合、最高で2,000ドル罰金、1か月から5年の禁錮刑に処される可能性があった[6]

また、この時、カナダからマフィアを通じて、酒を密輸入し大きな財産を築いたジョセフ・P・ケネディジョン・F・ケネディの父)の話は有名であり、一種の語り草になっている。

廃止

アルコールが社会的な認知を受け、法の軽視や犯罪組織の跋扈といった禁酒法の悪影響が明らかになったため、禁酒法は擁護者を失った。1933年までに禁酒法への大衆の反対は圧倒的になった。

同年1月、最初のボルステッド法が0.5%以上のアルコールを制限対象にしていたのに対し、議会はカレン=ハリソン法(重量で3.2%、容積で4%まで合法化)で反対を先取りしようとした。しかし、カレン=ハリソン法では不十分だった。

議会は1933年2月に禁酒法を廃止する修正案(ブレーン法)を提出した。そして1933年12月5日にユタ州が修正案を批准する36番目の州になり、アメリカ合衆国憲法修正第21条は発効した。これは、修正18条を廃止し、ボルステッド法を憲法違反とし、1935年の連邦アルコール管理局の設立まで、アルコールの管理を州に戻すものだった。

1968年、銃器規制法の可決で連邦アルコール管理局はアルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局となってイニシャルATFとして知られるようになった。1972年にリチャード・ニクソン大統領はATFを創設する大統領令に署名した。レックス・D・デイビスは移行を監督した。そして、局の最初の責任者となった。そして1970年以降部門を率いた。彼の在任期間中、デイビスは政治的なテロリスト犯罪組織を目標としている働きで組織を導いた[7]

しかし、課税と他のアルコール問題は、その時間、重要性が高度に認識されることはなかった。

脚注^ a b Pinney, Thomas (July 2005). A History of Wine in America From Prohibition to the Present. ISBN 978-0-520-24176-3 p. 2. Chapter 1
^ Fizz Water Time 6 August 1928.
^ ALLOWS HOME BREW OVER HALF PER CENT.; Internal Revenue Ruling Applies Only to Beverages Consumed in Domiciles. MUST BE NON-INTOXICATING Beer Not Included, and Only Cider and Fruit Juices May Be Sold. New York Times 25 July 1920.
^ a b Pinney p. 26.
^ H. Johnson Vintage: The Story of Wine p. 444. Simon and Schuster 1989 ISBN 0671687026.
^Volstead Act- 1920”. HISTORYCENTRAL.com. 2009年9月18日閲覧。
^ Holley, Joe (2008年1月11日). “Rex Davis, 83; ATF Ex-Chief, Moonshiners' Foe”. Washington Post: p. B07 2009年5月4日閲覧。


関連項目アメリカ合衆国憲法修正第18条
アメリカ合衆国における禁酒法
アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局

ボルステッド法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/01/10/AR2008011003831.html





アメリカ合衆国憲法修正第18条(Eighteenth Amendment, Amendment XVIII)は、飲料用アルコールの製造・販売等を禁止した、かつてのアメリカ合衆国憲法の修正条項の一つ。

1933年アメリカ合衆国憲法修正第21条の批准によって廃止された。

日本では、修正第18条と、この修正条項を実施するための法律であるボルステッド法とを明確に区別することなく禁酒法(きんしゅほう)と呼ぶことが多い。

アメリカ合衆国憲法修正第18条出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

反社暴力団犯罪組織のギャングについて。



ギャング: gang)とは、集団を指す言葉であるが、特にアメリカ反社会的勢力とその構成員、もしくは強盗[1]を指す。

日本では構成員もそのままギャングと呼ぶが、アメリカではギャングスター: gangster)、ギャングバンガー(: gang banger)、サグ(: thug)などと呼ばれる。

構成員は大きく分けてウォリアー(戦闘要員)と、ハスラー麻薬の売人、売春などの元締め)の2つがある。

犯罪組織

21世紀現在のアメリカでは、「ギャング」と言った場合、単に不良の若者を指すことが多く、ストリートギャングほぼ同義である。

組織化された犯罪集団は、「モッブ(モブ)」あるいは「マフィア」と呼ばれる場合が多い。ただし、マフィアは本来はシチリア島を起源とするイタリア系移民の組織を指す言葉であり、これ以外の類似の犯罪組織を指す場合は「モッブ」と呼ぶほうが適切である(例:Irish MobPolish mob)。ただし、本家以外をマフィアと呼称する事も少なからずあり(例:Russian mafiaAlbanian Mafia)、日本でもむしろこちらの方が一般的である(マフィア#「本家」以外の「マフィア」を参照)。

イギリスでは、政府の連絡網と地域コミュニティの結束力、犯罪者への社会的な報復が徹底しているため組織が成立しづらいがリチャードソン・ギャング英語版)やクレイ兄弟1963年の大列車強盗が知られている。

1960年代ベトナムにおいて空前絶後の組織暴力として成立した「ビンスエン団」のように政治的な立場から行動する場合は匪賊として捉えられる場合もある。

由来

もともとは、オランダ語ドイツ語で「行進」「行列」「通路」を意味する言葉であった。これらの言葉が港湾で使われるうちに海外へ伝わり、また意味も変遷して、船内荷役作業員・沖仲仕(港湾労働者)の集団を指すようになったと考えられている。現代でも、海運業界は荷役作業員のユニットの意味でギャングという言葉を用いている[2]

コンテナリゼーション以前の時代、高賃金で体力勝負の一方で、多くが日雇いであり労働災害も多い港湾・船舶の労働現場は、荒くれ者が自分たちの利益を守るために強固な集団を形成していることが多く、また、密輸などの組織的犯罪とも近縁の存在であった。そのため、アメリカ禁酒法時代に、暴力的犯罪者集団を特に「ギャング」と呼ぶようになり、以降現代で使われる暴力的犯罪集団の意味が強くなった[3]

ギャングの他の意味

英語では人や物を問わずに集団を示す言葉である。正確には要素の単数形「ギャングスター(: gangster)」が複数集まった「( )-s」を縮めた言葉である。単数形のgang-sterの接尾語はstarではなく「~の人」「~する人」と言う意味のster。ヒップホップ文化のもとではギャングスタ(: gangsta)とのスラングが多用される。

上記のようにギャングは「集団・群れ」の意味を持つ単語である。多国籍の港湾・船舶関係で使われる用語として、荷役作業者を仕事に振り向ける口数(くちすう)の単位をギャングと呼ぶ。

ROMライターなどで大量のメディアに同時に書き込み出来る装置を「ギャングライター」や「ギャングプログラマー」と呼ぶ[4]

ギャング出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、ギャング(暴力団)について説明しています。その他のギャングやギャングスタについては「ギャング (曖昧さ回避)」をご覧ください。

アルカポネはアメリカの禁酒法時代に密造酒で稼いだギャングという反社である側面は否定できない。
しかしアルカポネがユダヤ人などを差別しなかった、生活貧窮者に対する食事の無料給付の慈善事業を行ったという所については肯定的にとらえても良い部分だと思ってます。
懲役太郎さんのように生活保護きっかけに反社暴力団等離脱される事例が増えるのは良いと私は思ってて、生活保護水際作戦にあい路上生活から脱出できない生活困窮者に生活保護受給できるようにする、ギャングやマフィアのような反社に落ちてしまう人を減らす、ギャングやマフィア、暴力団から離脱したい人を離脱させる福祉政策が必要だと私は思うのですよね。



アル・カポネ英語: Al Capone[注 1]、1899年1月17日 - 1947年1月25日)は、アメリカ合衆国ギャング禁酒法時代のシカゴで、高級ホテルを根城に酒の密造・販売・売春業・賭博業の犯罪組織を運営し、機関銃を使った機銃掃射まがいの抗争で多くの死者を出したことでも知られている。一方で、黒人やユダヤ人を差別しなかったことも伝えられている。頬に傷跡があったことで「スカーフェイス」という通り名があった。家族は妻のメエと息子のソニーがいる。

アル・カポネ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アニメ.映画東京リベンジャーズの血のハロウィン事件はアニメ・映画内のみのフィクション創作上の出来事であって現実世界でおきたことではありません。
現実世界で実際におきた事件である聖バレンタインデーの虐殺事件とは区別するようにお願いします。



聖バレンタインデーの虐殺(せいバレンタインデーのぎゃくさつ、: St. Valentine's Day Massacre)は、1929年2月14日シカゴで起きたノースサイド・ギャングとサウスサイド・ギャング(後のシカゴ・アウトフィット)との間で起きた抗争事件である。聖バレンタインデーの悲劇血のバレンタインとも呼ばれる。

犯行はサウスサイド・ギャングのボスであるアル・カポネが指揮していたと言われ、抗争を繰り広げていたバッグズ・モラン率いるノースサイド・ギャングの構成員4人及び一般人3人の計7人が殺害された。この事件は犯人たちがパトカーを使い警官に扮していたこともあり、全米中のマスコミの注目を浴びた。

事件概要

モラン率いるノースサイド・ギャングとカポネ率いるサウスサイド・ギャングは血で血を洗う抗争を繰り返しており、モランは頻繁にカポネの命を狙っていた。危機を感じたカポネはモラン一味に密造酒の偽取引を持ち掛けて抹殺すべく、カポネと部下のジャック・"マシンガン"・マクガーンにより計画され、サウスサイド・ギャングと協力関係にあったデトロイトに本拠を構えるパープル・ギャングの協力を得て実行された。

マクガーンは暗殺部隊としてカポネの用心棒フレッド・“キラー”・バーク (Fred Burke)、ジョン・スカリーゼ、アルバート・アンセルミ、ジョゼフ・ロロルド、キューウェル兄弟(パープル・ギャングのメンバー)の6人のチームを編成した。一部資料によると、ヒットマンの中にトニー・アッカルドサム・ジアンカーナもいたという説もある。

1929年2月14日の午前10時半頃、モランと関係者たちはパープルギャングが強奪したウィスキーを、シカゴ北部のSMC運送会社の倉庫にあるモランの本部に配送することになっていた。モラン組の関係者6人が倉庫に入り、たまたまそこを通りかかった眼鏡屋のラインハルト・シュヴィマーと話をしていると、5人の警察官が倉庫にやってきて全員に壁に並ぶよう命じた。7人は素直に指示に従ったが、実はこの警察官はカポネ側のヒットマンが扮装した偽警察官であり、トンプソン・サブマシンガンとショットガンを取り出して一斉に発砲し彼らを蜂の巣にした。時間はわずか8分ほどで素早く行われた。本物の警察官が現場に駆け付けた時にはフランク・グーゼンバーグのみ生存しており、病院に搬送されたが3時間後に死亡した。

しかし、モランは倉庫に到着するのが数分遅れたため倉庫の前に(偽物の)パトカーが止まっているのを見て警察の手入れを恐れて、連れのマークスとニューベリーの2人とその場を逃げ出し、事なきを得た。

カポネは事件当時はフロリダで事情聴取を受けていた。マクガーン、アンセルミ、スカリーゼは事件後起訴されたが、アリバイを主張して無罪となった。結局、この虐殺の罪では一人も逮捕されなかった。事件後、ノースサイド・ギャングはカポネに対して最早重要な脅威ではなくなり、モランは1957年まで生き永らえた。

この凄惨な事件がマスコミによって大々的に取り上げられると、これまで大衆の人気者だったカポネは一転憎悪の的となり、警察は総力を挙げてカポネ起訴に乗り出すことになる。

ちなみに事件現場の倉庫は1967年に取り壊され、現在は隣接する老人ホームの庭園及び駐車場となっている[1]

被害者ピーター・グーゼンバーグ英語版) - モラン組のヒットマン
フランク・グーゼンバーグ英語版) - モラン組のヒットマンでピーターの実弟
アルバート・カチェレック - 別名:ジェームズ・クラーク。モラン組の副司令官
アダム・ヘイヤー - モラン組の帳簿係兼ビジネスマネージャー
ジョニー・メイ - モラン組に雇われた臨時の自動車整備工
アルバート・ウェインシャンク - クリーニング店の店主。服装や背格好がモランと似ていたため間違われたとの説あり
ラインハルト・シュヴィマー - 眼鏡屋


事件を扱ったテレビ番組ドキュメンタリー『失われた世界の謎』シリーズ 第25回『アル・カポネの暗黒の街』(ヒストリーチャンネル
『世界に衝撃を与えた日(The Days That Shook the World)』シリーズ 第27回『OK牧場の決闘と聖バレンタインデーの虐殺』(BBCワールドワイドジャパン)

聖バレンタインデーの虐殺出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



スピークイージー英語: speakeasy、別名ブラインドピッグ(英語: blind pig)もしくはブラインドタイガー、英語: blind tiger)とは、アルコール飲料を密売する場所である。

アメリカ合衆国禁酒法が施行されていた時期(1920年から1933年の間で、によってはもっと長い)に隆盛していて、この時期のアメリカ合衆国ではアルコール飲料は販売も生産も輸送(密輸英語版))も禁止されていた[1]

禁酒法が廃止された1933年以降、本来のスピークイージーは廃れ、現在はレトロなバーを指す言葉として用いられている。

スピークイージー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ATF創設と米麻薬取締局DEA創設されたリチャードニクソン大統領について。



第36代アメリカ合衆国副大統領
アイゼンハワーと大統領就任式典に臨むニクソン
インドネシアの大統領スカルノとともに

このような逆風にあったものの、その後アイゼンハワーとニクソンのコンビは大統領選挙の本選挙で一般投票の55 %、48州のうち39州を制して、民主党のアドレー・スティーブンソンとジョン・スパークマンのコンビを破り、ニクソンは1953年1月20日にアイゼンハワー政権の副大統領となった。

副大統領に就任したニクソンは初の外国への公式訪問として、アメリカに隣接し関係の深いキューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。ベネズエラの首都のカラカスを訪問した際に反米デモが起こり、暴徒化して地元の警察でさえコントロールできなくなった状況でニクソンのデモ隊に対する沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。

またその後もアフリカ諸国への訪問(アメリカの副大統領として史上初のアフリカ大陸への訪問であった)をはじめとする、諸外国への外遊を積極的に行った。同年の10月5日から12月14日にかけて[20]日本・中華民国・韓国などの北東アジアからフィリピン・インドネシア・ラオス・カンボジアなどの東南アジア、インド・パキスタン・イランなどの西アジア、オーストラリア・ニュージーランドなどのオセアニア諸国までを一気に回るなど、積極的に外遊を行った。この時に11月15日に戦後初の国賓として来日し、日米協会の歓迎会の席で「アメリカが日本の新憲法に非武装化を盛り込んだのは誤りであった」と述べている[21]。

また、これより前に1954年4月16日の全米新聞編集者協会の年次大会で「万一インドシナが共産主義者の手に落ちれば全アジアが失われる。アメリカは赤色中国(レッドチャイナ)や朝鮮の教訓を忘れてはならない」と述べた。当時の有力政治週刊誌はチャイナ・ロビー活動に熱心な政治家の一人としてニクソンをあげて、1950年の上院議員選挙の際に中華民国総統の蔣介石から資金の援助があったという噂を書いている[22]。

1954年にディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北した際には「フランスが撤退すればアメリカが肩代わりをする」としてインドシナ出兵論を唱えた。同じ年に中華人民共和国が中華民国の金門・馬祖両島に爆撃をした時は、中国人民解放軍への軍事的対抗を主張した。なおベトナムからのアメリカ軍撤退と中華人民共和国訪問を自ら実現するのはこれからほぼ20年後のことである。そしてこの当時中華人民共和国と結びつこうとしたインドを牽制して、対立するパキスタンに軍事援助を与えた。

インドを訪問した時にネール首相と会談したが、ネールはニクソンを「原則のない若者」として侮蔑の言葉で呼び捨てた[22]。下院議員時代に「赤狩りニクソン」のニックネームで呼ばれ、副大統領になってもその反共主義は変わらなかった。そしてやがて東西対立がまだ厳しい中でソ連を公式訪問してフルシチョフ首相とやりあうこととなった。
「台所論争」
ソ連の首相フルシチョフと「台所論争」を行うニクソン
詳細は「台所論争」を参照

1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都であるモスクワを初めて公式訪問した。これは当時のフルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪どけ」にともなう緊張緩和(一時的なものではあったが)などが背景にある。このニクソンのソ連訪問の折にフルシチョフをアメリカに招待し、そのまた返礼で当時の大統領アイゼンハワーのソ連訪問を実現するためのものであった。

この年の初め1月にニューヨークで「ソビエト博」が開催されて、出品された展示品は当時のソ連が誇るミサイルなどの軍事兵器を主力としたもので、対してモスクワでの「アメリカ博」の展示品はアメリカ生活文化の粋を集めたものであった。この時モスクワのソコルニキ公園で開催されたアメリカ博覧会の開会式は、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相を招いて行われた。

ニキータ・フルシチョフ首相を会場内を案内している時に、ニクソンとフルシチョフの間で、会場内に展示してあるアメリカ製の台所用品や日用品・電化製品を前にして、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論となった[注釈 2]。

この際にニクソンは、感情的に自国の宇宙および軍事分野における成功をまくしたてるフルシチョフと対照的に、自由経済と国民生活の充実の重要さを堂々かつ理路整然と語った。その討論内容は冷戦下のアメリカ国民のみならず自由主義陣営諸国の国民に強い印象を残し、当時は米ソ間の「台所論争」[注釈 3] として有名になった。
アイゼンハワーとの関係
妻のパットとともに長女のトリシアと次女のジュリー(腕に抱えて)をアイゼンハワーに紹介するニクソン(1952年9月10日にワシントン国際空港にて)

アイゼンハワーの下で副大統領を務めた期間のニクソンは、1954年3月にスティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役をこなし、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。

しかしながら、大統領であるアイゼンハワーが1955年9月24日の心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の心臓発作の際に3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督した。これは通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。そして1956年の大統領選挙の時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知った共和党全国委員長レン・ホールらによって、この指示が取り消されたということもあった。

さらに、アイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれた際に「まあ3週間も考えればね」と答え、このやり取りは全国に知れ渡った。これらのアイゼンハワーによる冷遇を薄々感じていたニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった[10]。また、このころはアメリカにおいて出自による差別がまだ根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のマミーも、貧しいブルーカラー出身のパットのことを陰で「貧乏人」と嘲っていたと言われている[10]。

しかし、ニクソンが大統領に就任した1968年に娘のジュリーがアイゼンハワーの孫のデイヴィッド・アイゼンハワーと結婚するなど、アイゼンハワー家との関係はその後改善されただけでなく、より密接なものとなっていく。

リチャード・ニクソン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

デタント推進

ソビエト連邦共産党書記長レオニード・ブレジネフ(左)とニクソン(右)

ニクソン時代にはトルーマンやアイゼンハワーの時代の東側諸国に対する「封じ込め政策」はすでに過去のものであり、ケネディ政権の時代に米ソ関係はデタント(緊張緩和)が進んで、部分的核実験停止条約が締結されていたがアジアでの緊張緩和は進まなかった。しかしベトナムからの撤退をスローガンに大統領に当選したニクソンはその政策を進めるために中国との関係改善を就任前から考えていた。

またジョンソン時代に比較的良好な関係にあったソ連とは一層「デタント政策」を推進した。1969年よりフィンランドヘルシンキでソ連との間で第一次戦略兵器制限交渉 (SALT-Ⅰ) が開始され、1972年5月にニクソンがソ連を訪問して交渉は妥結してモスクワで調印が行われた。また同時に弾道弾迎撃ミサイル制限条約も締結するなど、米ソ両国の間における核軍縮と政治的緊張の緩和が推進された。

この背景には、ベトナム戦争の早期終結を実現するために中華人民共和国との関係改善を進めたことが、同国と対立していた対ソ関係にも波及したことと、同じくベトナム戦争により膨らんだ膨大な軍事関連の出費が財政を圧迫してドル不安を引き起こしたことで軍事費を押さえる目的もあったと推測されている。

デタントを進めていたニクソン時代でも冷戦特有の第三次世界大戦に発展する可能性があった事件の1つが起きており、第一次戦略兵器制限交渉が開始された1969年の4月には、北朝鮮近くの公海上でアメリカ海軍偵察機が撃墜される事件が発生し、31人の搭乗員が死亡した際、ニクソンは北朝鮮への核攻撃準備を軍に命じるも[39]、当時ニクソンは酩酊状態にあったことからキッシンジャーが「大統領の酔いが醒めるまで待ってほしい」と進言して撤回された[40] という証言もある。

ベトナム(インドシナ)戦争の終結

選挙公約

南ベトナムを訪問して大統領のグエン・バン・チューと会談(1969年)

カンボジアへの進攻について説明を行うニクソン(1970年)

アイゼンハワーがフランスに代わって行った軍事援助に始まり、後任のケネディにより本格的な軍事介入が開始され、さらにその後任のジョンソンによって拡大・泥沼化されたベトナム戦争を終結させ「名誉ある撤退」を実現することをニクソンは大統領選に向けた公約とした。そして当時アメリカの若者を中心に増加していた「ヒッピー」や過激なベトナム反戦論者、またそれらと対極に位置する強硬な保守主義者などの強い主張も嫌う、アメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」(物言わぬ多数派)に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。

ニクソン・ドクトリンと秘密和平交渉

大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日南ベトナムへ予定外の訪問をし、大統領グエン・バン・チューおよびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との和平交渉を再開した。前年のジョンソンの北爆停止声明直後の1968年5月にパリに於いて、北ベトナム政府との正式な協議は始まっていた。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍は、中華人民共和国から北ベトナムへの軍事支援の経由地として機能していたカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、結果的にベトナム戦争はさらに拡大してしまう。撤退するために戦線を逆に拡大するニクソン流のやり方は、最後のパリ和平協定が締結する直前まで続く。

その後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、パリでの北ベトナム政府との和平交渉(四者会談)を継続させた上でキッシンジャー補佐官が和平交渉とは別に極秘に北ベトナム担当者と交渉に入った。それは北ベトナムへの強い影響力を持つ中華人民共和国を訪問した1972年の秋で、ようやく秘密交渉が進み締結寸前までいった1972年12月には逆に北爆が強化されて爆撃が交渉のカードとして使われるなど硬軟織り交ぜた交渉は、パリでの正式な交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に北ベトナム特別顧問のレ・ドク・トとの間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、最後にはハノイに爆撃するなど「ニクソン・ドクトリン」の発表からも、3年半以上に亘って戦争を継続する結果となった。

アメリカ軍の完全撤退

そして4日後の1月27日に、ロジャーズ国務長官と南ベトナム外相チャン・バン・ラム、北ベトナム外相グエン・ズイ・チンと南ベトナム共和国臨時革命政府外相グエン・チ・ビンの4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。なおこの功績に対して、キッシンジャーとレ・ドク・トにノーベル平和賞が授与された(レ・ドク・トは受賞を辞退した)。

中華人民共和国訪問

北京空港で周恩来首相と握手するニクソン。
(1972年2月21日)

中南海毛沢東と握手するニクソン。
(1972年2月29日)

1949年中華人民共和国が建国された後、朝鮮戦争における米中の交戦と休戦を経て長年の間アメリカと対立関係にあり、ニクソン自身も1967年に「中国が変わらなければ、世界は安全にはならない」と記すなど中華人民共和国への警戒心をあらわにしていた[41]

しかしながら、1971年7月に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国との関係を正常化することで、中華人民共和国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、アメリカ軍の南ベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンが、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国との国交を成立させることで北ベトナムも牽制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進めることの一石二鳥を狙い、大統領補佐官であるキッシンジャーを極秘にパキスタンイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。

この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国首相の周恩来と会談して、正式に中華人民共和国訪問の招待を受けたことからニクソンはテレビで「来年5月までに中華人民共和国を訪問する」と声明を発表し、副大統領時代に印象付けた猛烈な反共主義者で親華派親台派)のイメージをニクソンに抱いていた世界を驚愕させた[42]。「ニクソンが中国に行く英語版)」という政治用語も生まれた[43]

また1971年12月に起きた第三次印パ戦争ではニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した[44][45][46]

そして翌年1972年2月21日エアフォース・ワンで北京空港に到着し、周恩来首相が出迎え握手を交わし、中国共産党主席毛沢東と中南海で会談し、ニクソンと対面した毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した[47]。また周恩来首相との数回にわたる会談の後、中華人民共和国との関係は改善してやがて国交樹立へと繋がり、その後の外交で大きな主導権を獲得することとなった。

訪中から3か月後にニクソンが行った北ベトナムへの北爆再開と港湾封鎖も中華人民共和国の了解を得たともされている[48]

なお、アメリカ合衆国と中華人民共和国の間の国交樹立は、カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。ニクソン訪中時に国交樹立まで至らなかったのは長年中華人民共和国との対立を続けている中華民国との関係であった。1979年に米中間の正式な国交樹立時における中華人民共和国からの強硬な申し入れを受けて、中華民国とは国交断絶せざるを得なくなり米台相互防衛条約は失効された。しかし両国内での強い反発があり、議会で国内法として「台湾関係法」が成立して、アメリカ合衆国は中華人民共和国との正式な国交樹立以後も、国交断絶した中華民国への経済的、軍事的、外交的な支援を含む密接な関係を続けている。

詳細は「ニクソン大統領の中国訪問」を参照

他方、ニクソンは中国共産党に世界を開いたことで「フランケンシュタインを作ってしまったのではないかと心配している」という言葉を残している[41]

国内政策

産業別労働組合の代表らとともに

レイ・チャールズとともに

ニクソンと握手をするエルヴィス・プレスリー。プレスリーはこの際ニクソンより麻薬捜査官の資格を与えられた(1973年)

パット・ニクソン大統領夫人が導入を祝ったボーイング747(1970年)

国内政策では前半は失業やインフレ対策で有効な施策が打てず、国内から批判が強かったが、ドル・ショック時に減税と輸入課徴金制度の設立、物価・賃金の凍結を打ち出すなど国内経済の保護主義を断行した。それは日米繊維交渉で一歩も譲歩しない日本田中角栄に対して対敵通商法英語版)で揺さぶった姿勢にも現れている[49]。また、長らくFRB議長を務め、低金利政策に反対してきたウィリアム・マチェスニー・マーティン英語版)を解任して自らに忠実なアーサー・バーンズをマーティンの後任に任命して利下げを強いた[50][51]。「我々はもうみんなケインジアンだ英語版)」(もともとはニクソン政権の顧問だったミルトン・フリードマンに由来し、実際のニクソンの言葉は「私はもう経済学で言うケインジアンだ」とされる[52])と有名な発言をして経済に積極的に介入するケインズ政策を行った。これらはニクソノミクス英語版)と呼ばれた。その他では、これまでの政権下では行われなかった環境保護政策の推進、麻薬取締の推進などを展開した。1970年
環境を保護し、環境破壊の予防と回復のための観察と政策のためのアメリカ環境保護局 (EPA) を設立。
海洋と大気の状態を観察し、海洋の資源と生態系の観察を行う、海洋大気局を設立。
包括的薬物乱用予防管理法に署名。
職業安全衛生法に署名。
大気浄化法(マスキー法)に署名[注釈 15]
自然環境と生態系と自然資源の被害を予防するための国家環境政策法に署名。
猥褻物およびポルノに関する委員会の「犯罪の原因にならず成人に自由に提供されてよい」とする報告書を「道徳の崩壊」として不承認(1970年10月2日)[53]
1971年
景気対策としての減税とドルと金との交換停止、10 %の輸入課徴金の実施、賃金・物価の凍結を発表(8月)。(第2次ニクソン・ショック・ドル・ショック)
1972年
1月にスペースシャトル計画を承認(1月)[注釈 16]
ラムサール条約に調印[注釈 17]
水質清浄法(水のマスキー法)に署名[注釈 18]
1973年
麻薬取締局 (DEA) を設置。

リチャード・ニクソン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

赤狩り.レッドバージ.マッカーシズム.公職追放.逆コース、リチャードニクソン大統領とフルシチョフソ連第一書記の台所論争とニクソン訪中、台湾関係法、共産主義の中国 変えなければは米中関係表す重要な近現代史の記事だと私は思います。



赤狩り(あかがり、: Red Scare)は、政府が国内の共産党員およびそのシンパ(sympathizer:同調者、支持者)を、公職を代表とする職などから追放すること。第二次世界大戦後の冷戦を背景に、主にアメリカ合衆国とその友好国である西側諸国で行われた。

概要

ローゼンバーグ事件に代表される共産主義者による深刻な諜報活動に加え、1946年からの東欧における、また1949年中国大陸における国共内戦の末の共産主義政権の成立、1948年から1949年にかけてのベルリン封鎖、および1950年から1953年朝鮮戦争におけるソビエト連邦中華人民共和国からの圧迫により高まった緊張に対して増大する懸念に合わせたものである。この場合の「」は共産党およびその支持者を指す。日本語の名称である赤狩りに対応する英語の名称Red Scareは"共産主義の恐怖"の意味であり、増大していた共産主義者の活動に対する強い懸念を示している。

連合国の占領下の日本においてマッカーサーの指令で行われたそれは、レッドパージの項を参照。

日本では、赤狩りの他に、日本語でレッド・パージ (英語での Red Purge に由来)と言う場合もある。

マッカーシズム

詳細は「マッカーシズム」を参照

マッカーシーと非米活動委員会

ジョセフ・マッカーシー

マッカーシズムは、第二次世界大戦後の冷戦初期、1948年頃より1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動きを指す。

1953年より上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務め、下院の下院非米活動委員会とともに率先して「赤狩り」を進めた共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員の名を取って名づけられた。マッカーシーに協力した代表的な政治家は、リチャード・ニクソンロナルド・レーガンである。

赤狩り出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ローゼンバーグ事件(ローゼンバーグじけん)は、ドイツ出身の核科学者のクラウス・フックススパイ容疑で逮捕されたのが発端となって、冷戦下の1950年アメリカで発覚した、ソビエト連邦によるスパイ事件。

当時は西側諸国でも共産主義を支持する活動家やメディアを中心に「冤罪である」として、アメリカ政府やスパイであることを認めるマスコミに対する批判に使われていたが、冷戦後明らかになったヴェノナ文書で、ローゼンバーグ夫妻が実際にスパイ活動をおこなっていたことが明らかになった[1]

ローゼンバーグ事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://www.gsim.aoyama.ac.jp/~fukui/VenonaSummary.pdf



レッドパージ: red purge、レッド・パージと表記されることもある[1][2])は、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により[3]日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す[1]。1万を超える人々が失職した[4][5]。「赤狩り」とも呼ばれた。

概要

皇居前広場のある皇居外苑付近(1989年撮影)

朝鮮戦争

第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。

民間情報教育局(CIE)教育顧問のウォルター・クロスビー・イールズ1949年7月19日新潟大学の講演で「共産主義の教授は大学を去るのが適当」と演説し、以降各地の大学で同様の演説を行った(イールズ声明)。

1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日にマッカーサー書簡を受けた吉田内閣は閣議で日本共産党中央委員24人[注 1][6]、及び機関紙「アカハタ」幹部17人の公職追放を決定し、アカハタを停刊処分にした[7]。これにより、20日後の6月26日から徳田球一野坂参三志賀義雄伊藤憲一春日正一神山茂夫の6人は国会議員として失職することになり、高倉輝第2回参院選で当選したものの直後に公職追放となり当選無効と扱われた[8] 。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出る団規令事件が発生した(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。

こうした流れのなかで、マッカーサーは数次にわたり首相・吉田茂に対し「共産分子の活動に関する書簡」を送付。各報道機関は1950年7月28日から書簡の趣旨に従い社内の共産党員、同調分子らに解雇を申し渡し始めた。初日の解雇数だけでも朝日新聞社72人、毎日新聞社49人、読売新聞社34人、日本経済新聞社10人、東京新聞社8人、日本放送協会104人、時事通信社16人、共同通信社33人に及んだ[9]。 また、映画会社でも第一陣として東宝13人、松竹66人、大映30人をリストアップ。この中には映画監督脚本家俳優などが含まれた[10]。また、同時期に激しい労働争議(東宝争議)が行われていた東宝では、この後もレッドパージを口実に多数の社員を解雇。事態を沈静化させることに利用した。

さらに同年9月の日本政府の閣議決定[11]により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放(解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放がほとんど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)。

当時の日本共産党は同年1月にコミンフォルムから『恒久平和のために人民民主主義のために!』において平和革命論を批判されたことにより、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった[注 2]。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。

公職追放の指令それ自体は1952年サンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。(「教職追放の解除」により、民主化には不適合と見なされた軍国主義者・超国家主義者が、学校教育現場に戻った。)

職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる[12]

なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照。

レッドパージ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://www.toben.or.jp/message/pdf/191202kankoku.pdf





反共主義(はんきょうしゅぎ、(: anti-communism, anticommunism[1])または反共産主義(はんきょうさんしゅぎ)、反共(はんきょう)とは、共産主義に対し反対[2]敵視憎悪し、その排除を目指す様々な思想運動・立場の総称[3][4]。対義語は容共[2]

日本大百科全書』での五十嵐仁によると反共主義は、厳密には共産主義批判と異なり、資本家による対労働者用の思想的武器としての面と、反民主的・反自由的手段としての面を併せ持つ[3]。その典型例は、枢軸国ナチス・ドイツイタリア王国大日本帝国)のファシズムや、アメリカのマッカーシズム等だという[3][注 1]

各種の学術論文によれば、反共主義は伝統や宗教と関連してきた歴史があり[5][6][7][8]、例えばキリスト教[6][7][8]世界平和統一家庭連合(統一教会)などが研究されている[5][注 2]

マルクス主義批判」、「反レーニン主義」、および「反スターリン主義」も参照

反共主義出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



マッカーシズム: McCarthyism)とは、1950年代アメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。

アメリカ合衆国上院共和党)議員のジョセフ・マッカーシーによる告発をきっかけとして「共産主義者である」との批判を受けたアメリカ合衆国連邦政府職員、マスメディアアメリカ映画の関係者などが攻撃された。

歴史



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アメリカ合衆国では第一次世界大戦が終結した後、十月革命を経たロシアソビエト連邦が誕生した後、ボリシェヴィキアナーキズムに対する警戒心が高まった。「狂騒の20年代」とも呼ばれた1920年代のアメリカ合衆国では、無実のイタリア系移民のアナーキストを当局が処刑したサッコ・ヴァンゼッティ事件[1]が発生している。

"Is this tomorrow"と題され「共産主義下のアメリカ!」(AMERICA UNDER COMMUNISM)が直面するであろう恐怖を訴えるマッカーシズム(赤狩り)前後、1947年アメリカ合衆国のパンフレット。

ファシスタイタリアドイツなどファシズム国家がヨーロッパに抬頭した1930年代から1940年代初めになると反ファシストを旗印に掲げるアメリカ共産党労働運動に浸透し、小規模ながら一定の支持を獲得していた。1932年ボーナスアーミーに対するように、これらの社会主義共産主義運動は政府の監視を受けていたが、独ソ戦開始後は連合国の一国として同盟関係にあったソビエト連邦との協調が優先され表立った弾圧は行われなかった。

1945年に第二次世界大戦が終結すると、アメリカ合衆国とソビエト連邦との潜在的な対立が直ちに表面化した。中華民国の第二次国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年10月1日中華人民共和国が成立したこと、1949年のソビエト連邦による核実験の成功、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争などが原因でアメリカ国内では共産主義への脅威論が高まっていた。

1945年には戦時中にニューヨークでソ連のためにスパイ活動を行なっていたエリザベス・ベントリー英語版)がFBI軍需生産委員会で働いていた経済学者ネイサン・シルバーマスター英語版)や財務次官補のハリー・ホワイトなどのスパイ行為を暴露した。ホワイトは1948年に下院の下院非米活動委員会でスパイ行為を否定した数日後に自殺した。

また、ジョン・カーター・ヴィンセント日中戦争期に中華民国内の中国国民党よりも中国共産党を評価していた「チャイナ・ハンズ」と呼ばれる外交官が告発され、免職された。

1947年には非米活動委員会ハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動が調べられた。チャーリー・チャップリンジョン・ヒューストンウィリアム・ワイラーなども対象となり、委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者(ハリウッド・テン)は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された(ハリウッド・ブラックリスト)。グレゴリー・ペックジュディ・ガーランドヘンリー・フォンダハンフリー・ボガートローレン・バコールダニー・ケイカーク・ダグラスバート・ランカスターベニー・グッドマン(ジャズ音楽家)、キャサリン・ヘプバーンジーン・ケリービリー・ワイルダーフランク・シナトラなどが反対運動を行った。ペックは、リベラルの代表格だった[2]。一方で、政治家のリチャード・ニクソンや映画業界人のロナルド・レーガンウォルト・ディズニーゲーリー・クーパーロバート・テイラーエリア・カザンらは告発者として協力した。またジョン・ウェインクラーク・ゲーブルセシル・B・デミル[3]らも赤狩りを支持した。

「マッカーシズム」の名祖となった共和党ジョセフ・マッカーシー上院議員

アメリカ対日協議会の発足した1948年には、国務省職員のアルジャー・ヒスが、アメリカ共産党員でソ連のGRUのスパイであったウィテカー・チャンバーズ英語版)からヒス自身もスパイであったと告発を受けた。ヒスは非米活動委員会で以前にスパイ行為を否定していたため偽証罪で訴追され1950年に有罪判決を受けた。ソ連は大戦中からアメリカ国内に諜報網を構築しており、原爆開発の情報などを入手していた。同1950年にはドイツ出身のイギリス人でありマンハッタン計画に参加していた物理学者クラウス・フックスジュリアス・ローゼンバーグ英語版)とエセル・グリーングラス・ローゼンバーグ英語版)の夫妻によるスパイ行為も発覚した(ローゼンバーグ事件)。

ウィスコンシン州選出の共和党上院議員であったマッカーシーは、1950年2月9日リンカーン記念日ウェスト・ヴァージニア州ウィーリングの共和党女性クラブにおける講演において、国務省にいる共産主義者のリストを持っていると述べ、「国務省に所属し今もなお勤務し政策を形成している250人の共産党党員のリストをここに持っている」と発言した。この発言はメディアの関心を集めた。「マッカーシズム」という言葉がはじめて用いられたのは『ワシントン・ポスト』の1950年3月29日付のハーブロック(ハーバート・ブロック)の風刺漫画においてである。

これをきっかけとして、アメリカ国内の様々な組織において共産主義者の摘発が行われた。議会において中心となったのは、1938年アメリカ合衆国下院で設立された非米活動委員会である。

マッカーシズムを批判したジャーナリスト、エドワード・R・マロー

マッカーシー上院議員はその告発対象をアメリカ陸軍マスコミ関係者、ハリウッドの映画俳優などアメリカ映画関係者や学者にまで広げた。マッカーシーやその右腕となった当時の若手弁護士だったロイ・コーンなどによる「共産主義者リスト」の提出に代表される様な、様々な偽証や事実の歪曲や、自白や協力者の告発、密告の強要を強いた。

マッカーシズムは共和党だけでなく、民主党の一部の議員からも支持を集めていた。後の1961年に大統領に就任する民主党上院議員ジョン・F・ケネディもマッカーシーの支持者であり、さらに弟のロバート・ケネディもマッカーシーと親しかった。ケネディは後にマッカーシーに対する問責決議案が提出された際には入院を理由として投票を棄権している。

マッカーシー上院議員が、告発の対象をアメリカ軍内部にまで広げ、陸軍幹部が問題に及び腰であると批判したことは、陸軍からの強い反発を招いた。1954年3月9日には、ジャーナリストエドワード・R・マローが、自身がホストを務めるドキュメンタリー番組『See It Now』の特別番組内で、マッカーシー批判を行ったことも、マッカーシーへの批判が浮上するきっかけとなった。

1954年8月24日に共産主義者取締法英語版)が成立し、アメリカ共産党が非合法化される。フォーク歌手のウディ・ガスリーやピート・シーガーは、アメリカ共産党の党員だった。黒人運動家のデュボイスは亡くなる直前に共産党に入党した。

1954年12月2日に上院は賛成67、反対22で、ジョセフ・マッカーシーが「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として、譴責決議を可決した。

マッカーシズム出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


マンハッタン計画については、ユダヤ教徒のオッペンハイマーさんのことが映画になりましたのでオッペンハイマーさんのWikipedia記事とセットで。


マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、: Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国原子爆弾開発に焦ったアメリカイギリスカナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日長崎8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、戦後の核兵器開発・核実験競争の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

科学部門のリーダーはロバート・オッペンハイマーがあたった。大規模な計画を効率的に運営するために管理工学が使用された。

なお、計画の名は、当初の本部がニューヨーク・マンハッタンに置かれていたため、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って「マンハッタン・プロジェクト」とした。最初は「代用物質開発研究所 (Laboratory for the Development of Substitute Materials)」と命名されたが、これを知った(後にプロジェクトを牽引することになる)レズリー・グローヴスが、その名称は好奇心を掻き立てるだけであるとして新たに提案したのが採用されたものである[1]

マンハッタン計画出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ナチス・ドイツドイツ語: Nazi-Deutschland、NS-Deutschland、英語: Nazi Germany)は、国民社会主義ドイツ労働者党ナチ党政権下の、1933年から1945年までのドイツ国通称である。

この時期のドイツは社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強要される全体主義国家と化し、ナチズムに基づいて様々な対外膨張政策を実行した。その一つであった1939年9月1日ポーランド侵攻が英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦を引き起こすこととなった。一時期は欧州のほぼ全土を支配下に置いたものの次第に戦況は悪化し、1943年の後半には連合国に対して完全な劣勢に立たされるようになった。1945年に行われた赤軍によるベルリンの戦いを前にヒトラーが自殺し、その後ヒトラーの遺言に基づいてカール・デーニッツ大統領となり、終戦までの暫定政権としてフレンスブルク政府が短期間存在した。最終的にドイツは1945年5月7日に連合国軍に降伏し、ドイツを統治する中央政府の不在が連合国によって宣言(ベルリン宣言を参照)されたことによって、解体され滅亡した。

ナチス・ドイツ出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



政治体制 > 全体主義

全体主義体制による支配を行ったとしてしばしば批判される指導者たち。写真の左から右、次いで上から下の順に、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンドイツ総統アドルフ・ヒトラー中国共産党中央委員会主席毛沢東イタリア統帥ベニート・ムッソリーニ北朝鮮永遠の国家主席英語版)の金日成

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全体主義(ぜんたいしゅぎ、英語: Totalitarianism、イタリア語: Totalitarismo)とは、個人の自由社会集団自律性を認めず、個人の権利や利益を国家全体の利害と一致するように統制を行う思想または政治体制である[1]。対義語は個人主義である[2]

政治学においては権威主義体制の極端な形とされる。通常、この体制を採用する国家は特定の人物や党派または階級によって支配され、その権威には制限が無く公私を問わず国民生活の全ての側面に対して、可能な限り規制を加えるように努める[3]

全体主義出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




個人主義(こじんしゅぎ、: individualism、: individualisme)とは、権威を否定して個人権利自由を尊重する立場、或いは国家社会の重要性における根拠を個人の尊厳に求め、その権利と義務の発生原理を説く政治思想である[1]ラテン語のindividuus(不可分なもの)に由来する。対義語は全体主義集団主義

西洋諸国には個人主義的な国家が多く、古代スカンジナビアイデオロギーギリシャ哲学キリスト教などの西洋文化に影響がある[2][3]
概要

個人主義文化のある国家の例としては、イギリスカナダアメリカ合衆国オランダ北欧諸国など、伝統的に民主主義が根付いていた西欧諸国、または西欧諸国に支配されていた旧植民地国家が多い。一方で個人主義文化が薄い国は、エジプトシリアナイジェリアなどの西欧諸国に支配されていたとしても独立後に政治的な混乱が多かった国家や、独裁政治によって支配されている国家、または支配されていた時期があった国家などが挙げられている[4]

個人主義と「利己主義」は無関係である。個人主義は個人の自立独行・私生活の保全・相互尊重・自分の意見を表明する、周囲の圧力をかわす、チームワーク・法の下の平等・自由意志自由貿易に大きな価値を置いている。また、個人主義者は各人または各家庭は所有物を獲得したり、それを彼らの思うままに管理し処分する便宜を最大限に享受する所有システムを含意している。

歴史

「個人主義」は多義的な言葉であって、個々の言説が意味するところは一様ではない[5][6]が、人間の尊厳と自己決定という2つの価値概念と、個人は理性的存在または個性的存在であるという認知的概念を共有する[6]。individualismeというフランス語が発祥である[7]

もともとは啓蒙主義に対する非難を意味する言葉であった。啓蒙主義的な政治哲学は、トマス・ホッブズによって体系的にまとめられたのであるが、18世紀中葉、サン=シモン派は、啓蒙主義の哲学者を古代ギリシアのエピクロス派とストア派利己主義を再生させた者たちであるとして個人主義者と非難した。フランスの政治家トクヴィルは、個人主義が民主主義の自然の産物であるとした上で、アメリカ人は自由によって個人主義を克服したのだとして、やはり否定的にみていた[7]

これに対して、啓蒙主義の画一性を批判して個人主義に、個人の独自性、独創性、発展性という積極的な意味を吹き込んだのは、1840年代ドイツのカール・ブリュッゲマンで、その伝統は、フリードリヒ・シュライアマハーらに受け継がれた。ヤーコプ・ブルクハルトにとっては、イタリア・ルネサンスの文化がその理想であった[7]

個人主義という語が、現在用いられているような、共産主義全体主義といった主張とは両立し難い「社会的な理想」というような意味合いで用いられるようになったのは、19世紀から20世紀にかけてのアメリカ合衆国においてである[7]

個人主義出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




ベルリン宣言(ベルリンせんげん)は、第二次世界大戦末期の1945年6月5日に発表された、ドイツ国の敗北・滅亡とその最高権力を連合国が掌握するという連合国軍の宣言。

概要

ベルリン宣言の記念碑

アドルフ・ヒトラーの死によって、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は事実上崩壊した。ヒトラーに後継指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏の後もドイツ国政府として存続できると考えていたが、5月20日にソ連が彼らを政府として承認しない姿勢を明確にし[1]、他の連合国も追随した。

ドイツが崩壊・消滅したことによって、ドイツの主権アメリカ合衆国ソビエト連邦イギリスフランスが掌握することが宣言され、占領期の施政の基本方針となった。

このためフレンスブルク政府の閣僚は連合国に逮捕され、ドイツには中央政府が存在しない状態となった。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、ポツダム宣言により、敗戦と占領後にも中央政府が存在し続けた日本との大きな差であった。

ベルリン宣言 (1945年)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer、1904年4月22日 - 1967年2月18日)は、アメリカ合衆国理論物理学者[2]

理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。戦後はアメリカの水爆開発に反対したことなどから公職追放された。

1960年9月に初来日して東京都大阪府京都府を訪れている[3]

ロバート・オッペンハイマー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本第二次世界大戦降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいい、本項で扱う。

公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」を参照

概要

日本政府1945年昭和20年)9月2日に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」とあるポツダム宣言第6項の宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、同年9月22日アメリカ政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、第一部「究極の目的」を達成するための主要な手段の一つとして「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃されなければならない」とし、第三部「政治」と第四部「経済」の中でそれぞれ「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。

同年10月4日のGHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」で警察首脳陣と特高警察官吏の追放を指令し、同年10月22日の「日本の教育制度の行政に関する覚書」及び同年10月30日の「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」で軍国主義的又は極端な国家主義的な教職員の追放を指令した。 昭和20年勅令第五百四十二号「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」に基づく「教職員の除去、就職禁止等に関する政令」の規定による審査は以下の判定標準によって行われた[1]。侵略主義若しくは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者、並びに学説をもって大亜細亜政策東亜新秩序その他これに類似した政策及び満州事変、支那事変又は今次の戦争に、理念的基礎を与えた者
独裁主義又はナチ的若しくはファシスト的全体主義を鼓吹した者
人種的理由によって、他人を迫害し、又は排斥した者
民族的優越感を鼓吹する目的で、神道思想を宣伝した者
自由主義、反軍国主義等の思想を持つ者、又はいづれかの宗教を信ずる者を、その思想又は宗教を理由として迫害又は排斥した者
右の各号のいづれにも当たらないが、軍国主義若しくは極端な国家主義を鼓吹した者、又はそのような傾向に迎合して、教育者としての思想的節操を欠くに至った者[2]


1946年昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。下記の7分類でありA項からG項まであった[3]戦争犯罪人 A項
海軍職業軍人 B項
超国家主義団体等の有力分子 C項
大政翼賛会等の政治団体の有力指導者 D項
海外の金融機関や開発組織の役員 E項
満州台湾朝鮮等の占領地の行政長官 F項
その他の軍国主義者・超国家主義者 G項


上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会大政翼賛会護国同志会関係者がその職場を追われた。

1947年1月4日には「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」の改正(昭和22年勅令第1号)、公職追放令施行命令の改正(同年閣令第1号)により公職の範囲が広げられ、戦前・戦中の有力企業や軍需産業思想団体の幹部、多額寄付者なども対象になった[4]。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。

公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。これは当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。

一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(第1次訴願委員会)、1948年5月委員会が廃止されるまでの間に1471件の訴願が取り扱われ、楢橋渡保利茂棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。

公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った[注釈 1]

逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され[注釈 2]、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補[注釈 3]や秘書など身内を身代わりで擁立し、保守勢力の議席を守ったケースも多い。

GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は、名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。

公職追放は戦争犯罪人の処罰と異なり、物故者に対しても行われた(例、東方会総裁中野正剛、1943年死去、追放時期は不明、1951年追放解除[5])。

逆コース

詳細は「逆コース」を参照

この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校マスコミ言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義者が大幅に伸長する遠因になった。

その後社会情勢の変化が起こり、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦朝鮮戦争などで共産主義勢力が拡大。連合国軍最高司令官総司令部の占領政策は転換し、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。

また、講和が近づいた1949年12月、第2次吉田内閣を組閣した吉田首相は、日本の政治・経済再建のために必要な人物の復帰を求めるとの声明を公表し、GHQとの交渉が継続的に行われた結果、1949年2月に再び公職資格訴願審査委員会が設置された(第2次訴願委員会)。申請期限の5月8日までに32089人の申請が受理されたが、1950年10月に発表された第一次追放解除者は10090人に留まった[6](この際石井光次郎安藤正純平野力三らの追放が解除されている)。その後、9月と10月に陸海軍の下級将校3250人が追加され、この年13340人が追放解除となった。

1951年5月1日マシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府が「総司令部の指令施行のため出された現行の諸法令」を修正することを認めた。これにより公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を得た日本政府は、総理大臣の権限において追放基準の緩和をおこない、6月に内閣直属の公職資格審査会を設置して追放非該当者を決定する作業を進めた結果、10月31日までに17万7261人の追放を解除。残る追放者は陸海軍将官や戦犯など17977人となった。

同年11月29日、最後の公職資格訴願審査会(第3次訴願委員会)が設置され、申請のあった8774人のうち7233人を解除し(鈴木貫太郎東久邇宮稔彦王東郷茂徳岡田啓介宇垣一成重光葵らが含まれる)、1541人を解除不可として1952年4月26日審査会は使命を終えた。

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効と同時に「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(公職追放令廃止法。昭和27年法律第94号)が施行されたことによって、すべての公職追放は解除となった。この時点まで追放状態に置かれていたのは、岸信介ら開戦当時の閣僚や服役中の戦犯などと、訴願申請を行わなかった者ら約5,700人であった。

公職追放出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




逆コース(ぎゃくコース、: reverse course)とは、戦後日本における、「日本の民主化・非軍事化」に逆行するとされた政治・経済・社会の動きの呼称である[1][2][3][4]。この呼称は『読売新聞』が1951年11月1日から連載した特集記事「逆コース」に由来する[5]

解説

第二次世界大戦敗北した日本は、1945年昭和20年)から1952年(昭和27年)まで、ポツダム宣言降伏文書に基づき連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年(昭和22年)に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤(防共の砦)にしたいアメリカ政府の思惑で、この対日占領政策は転換された。GHQのポツダム命令(「公職追放令」「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」など)は、前身を含めて占領初期には非軍事化・民主化政策を推進したが、占領後期には社会主義運動を取り締まるようになった。

この意向を受けた第3次吉田内閣中央集権的な政策を採った。1949年(昭和24年)の中華人民共和国の誕生や、翌1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発以後に行われた公職追放指定者の処分解除とその逆のレッドパージにより、保守勢力の勢いが増した。

総司令官マッカーサー民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスはこの対日政策の転換に反対したが、本国の国務省が転換を迫ったという[6]。この転換は、1948年(昭和23年)に設立されたアメリカ対日協議会の圧力による。

なお、同年にはヨーロッパでも反共政策がとられている。ナチス関係者がいた国際決済銀行の廃止が立ち消えとなり、反共政策としてマーシャルプランが実施されている。

「逆コース」といわれるもの

1945年廃止した特別高等警察に代わり公安警察を設置(秘密警察復活)[7]


1947年GHQの二・一ゼネストへの中止命令(米国による労働争議規制)[8]


1948年GHQ、日本の限定的再軍備を容認するロイヤル答申再軍備準備)[9]
非現業公務員のストライキ政令201号により禁じられる(公務員に対する労働権制限)[10]
大阪市で可決・施行されたのを皮切りに、全国の自治体に公安条例が広がる(デモ規制の動き)[11]
東宝争議に占領軍が介入(米国による労働争議規制)[12]
12月24日、A級戦犯容疑者として収容されていた岸信介が不起訴処分となり釈放される(のち首相在任)[13][14][15](戦前・戦中指導者層の社会復帰の動き)。


1949年下山事件三鷹事件松川事件国鉄三大ミステリー事件)に日本共産党や労働組合関係者の関与が疑われ[注釈 1]、共産党によるテロ・破壊活動であると宣伝される(反共・反労働運動プロパガンダ)[16]
イールズ声明(GHQによる反共姿勢)[17]
法務府が法務庁となり、刑政長官[注釈 2]の下に特別審査局(1952年から公安調査庁)が設置される(情報機関復活)[18]


1950年警察予備隊(のち保安隊改組、現在の陸上自衛隊)設置(事実上の限定的再軍備)。
公職追放されていた特高警察官が公安警察に復職(秘密警察復活)[19]
吉田茂首相宛マッカーサー書翰で、共産党幹部の公職追放を指令。いわゆるレッドパージ(GHQによる反共姿勢)[20][21]


1951年警察予備隊に、陸軍士官学校陸軍航空士官学校第58期卒の旧陸軍の元少尉245名が第1期幹部候補生として入隊(軍備増強)[22]
警察予備隊に、旧陸軍の元佐官中佐以下)405名と元尉官407名が入隊(軍備増強)[22]


1952年警察予備隊に、陸軍省参謀本部大本営陸軍部)の中枢において太平洋戦争大東亜戦争)の指導的立場にあった、杉田一次元陸軍大佐陸軍士官学校第37期)や井本熊男元陸軍大佐(陸軍士官学校第37期)長澤浩元海軍大佐(海軍兵学校49期)などを筆頭とする、元陸軍大佐10名および元海軍大佐1名が入隊(軍備増強)[23]
旧海軍軍人主導で海上警備隊(現在の海上自衛隊)が創設される。海上警備隊は幹部の99%以上と下士官の98%以上が旧海軍軍人で構成された(軍備増強)[24]
7月、破壊活動防止法が公布される[25](治安法制の整備)。


1955年社会党再統一に対抗して行われた保守合同による自由民主党結党及びこれに対するアメリカ中央情報局(CIA)の支援[26](中央保守政権の基盤強化)、いわゆる「55年体制」の形成。


1956年自治庁建設省などを統合する内政省設置法案を提出(内務省復活の動き)[27]。(自治省#「内政省」設置法案の攻防参照)


1960年自治庁が省に昇格し自治省となり、国家消防本部は国家公安委員会から分離し、自治省の外局である消防庁に改組された(内務省復活の動き)[28]


1963年臨時行政調査会(第一次臨調)第1専門部会第1班の報告書に、自治省と警察庁を統合して、自治公安省または内政省を設置し、国家公安委員会を外局(行政委員会)とし、自治公安大臣または内政大臣が国家公安委員会委員長を兼務することが盛り込まれた(内務省復活の動き)[29][30]

逆コース出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



台所論争(だいどころろんそう、英語: Kitchen Debate、ロシア語: Кухонные дебаты)は、1959年7月24日モスクワソコーリニキ公園で開催されたアメリカ博覧会英語版)のオープニングで、リチャード・ニクソン米副大統領(46歳)とニキータ・フルシチョフソ連第一書記(65歳)の間で、通訳を介して行われた即興の論争である。博覧会会場に建てられたモデルハウスの台所で討論が行われたことから、この名前で呼ばれる。キッチン討論(キッチンとうろん)と訳されることもある。

このモデルハウスについては、アメリカの出展業者が「アメリカ人なら誰でも買える」と謳っていた。モデルハウスの中には、資本主義アメリカの消費市場の成果を象徴する、省力化と娯楽のための様々な装置が並んでいた。討論の様子はカラーのビデオテープに収録されており、ニクソンは討論でこのことにも言及していた。この様子は、その後両国で放送された。
歴史

博覧会会場で取材陣を交えながら共産主義資本主義の利点について論争しているフルシチョフとニクソン(1959年7月)。Thomas J. O'Halloran撮影。アメリカ議会図書館所蔵。

1959年、ソビエト連邦アメリカ合衆国は、相互の理解を深めるための文化交流として、お互いの国で博覧会を開催することで合意した。これは1958年の「米ソ文化協定」の結果である。1959年6月にニューヨークでソ連の博覧会が始まり、その翌月、モスクワで開幕するアメリカの博覧会にニクソン副大統領が参加した。ニクソンはソ連のフルシチョフ第一書記と共に博覧会を見学した。博覧会では、450以上のアメリカ企業が提供した展示品や消費財が展示されていた。博覧会の目玉は、3万平方フィートの施設に科学技術実験を収容したジオデシック・ドームだった。このドームは、博覧会の終了後にソビエト政府が購入した[1]

後にコラムニストとなるウィリアム・サファイアは、この博覧会の広報担当を務めていた。サファイアの話によると、台所論争は会場内のいくつかの場所で行われたが、主にモデルハウス(外から中が見えるように半分に切られていた)の台所で行われたという[2]。これは、1959年の博覧会期間中にニクソンとフルシチョフの間で行われた4回の会談のうちの1回だった。ニクソンはアイゼンハワー大統領の弟でジョンズ・ホプキンス大学前学長のミルトン・S・アイゼンハワー英語版)を伴っていた[3]

フルシチョフはクレムリンでのニクソンとの最初の会談で、アメリカ議会が可決した「捕われた国英語版)決議」に抗議し、ニクソンに不意打ちを食わせた。この決議は、「捕われた」東欧諸国の国民をソ連が「支配」していることを非難し、その人達のために祈るようアメリカ国民に呼びかけたものである。フルシチョフは、アメリカ議会の行動に抗議した後、アメリカの新技術を否定し、数年後にはソ連がアメリカと同じものを全て手に入れ、アメリカを凌駕して「バイバイ」と言うことになるだろうと宣言した[4]

フルシチョフは、アメリカの大規模なガジェットを批判した。フルシチョフは、風刺的に「(チャーリー・チャップリンの1936年の映画『モダン・タイムス』に登場するような)食べ物を口に入れて飲み込ませる機械はないのか」とニクソンに質問した[5]。ニクソンは、少なくとも競争は軍事的なものではなく技術的なものだと答えた。両者は、アメリカとソ連が合意の領域を模索すべきだという点で一致した[4]

2回目の会談は、博覧会会場内のテレビスタジオで行われた。その最後にフルシチョフは、この会談で言ったことは全て英語に翻訳してアメリカで放送されるべきだと述べた。ニクソンは「確かにそのようにします。私の発言は全てロシア語に翻訳され、ソ連全土に放送されるべきです。これで公正な取引になります」と答えた。フルシチョフはこの提案を受けて精力的に握手を交わした[4]

ニクソンは「アメリカ人は新しい技術を利用するために建設した」と主張し、フルシチョフは「ソビエトは将来の世代のために建設した」と主張して共産主義を擁護した。フルシチョフは、「これがアメリカの能力だとして、彼女(アメリカ)は何年存在していたのだろう? 300年? 独立して150年、これが彼女のレベルだ。我々はまだ42年には達していないが、あと7年もすればアメリカのレベルに達し、その後はもっと遠くに行くだろう」と述べた[6]。サファイアは、この場に同席していたレオニード・ブレジネフがサファイアによる写真撮影を妨害しようとしたと述べた[7]

3回目の会談は、食器洗い機、冷蔵庫、レンジを備えたモデルハウスのキッチン内で行われた。このモデルハウスは、典型的なアメリカ人労働者が買える14,000ドルの家をイメージして設計されており[1]、これを元にして安価なプレハブ住宅「ライスラマ英語版)」が作られた。

台所論争出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


米中代理戦争に日本.朝鮮.中華民国が巻き込まれないように台湾有事を阻止するためにニクソン大統領が周恩来氏と約束した「台湾に関しての5原則」の確認。
1.中華人民共和国を唯一正当の政府として認め
2.台湾の地位は未定であることは今後表明しない。
3.台湾独立を支持しない。
4.日本が台湾へ進出することがないようにする。
5.台湾問題を平和的に解決して台湾の大陸への武力奪還を支持しない中華人民共和国との関係正常化を求めるとして台湾から段階的に撤退すること



ニクソン大統領の中国訪問(ニクソンだいとうりょうのちゅうごくほうもん)は、1972年2月21日アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東中国共産党主席周恩来国務院総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換して第二次世界大戦後の冷戦時代の転機となった訪問である。また、前年の1971年7月15日に、それまで極秘で進めてきた米中交渉を明らかにして、自身が中華人民共和国を訪問することを突然発表して世界を驚かせたことで、「ニクソン・ショック」と呼ばれている。また、「ニクソン中国に行く英語版)」という政治用語も生まれた[1]

概説

戦後の東西対立

第二次世界大戦後、ヨーロッパは東西対立で冷戦を迎えていた。一方アジアでも、中国大陸、朝鮮半島ベトナムで対立した結果それぞれで分断国家が誕生した。中国大陸では日中戦争の時期に中華民国中国国民党中国共産党とが国共合作で共同戦線を張ったが、日本の敗戦で日本軍が去った後に国共内戦が始まり、やがて中国共産党が勝利して、台湾島に逃れ1987年まで戒厳体制を敷いた中華民国と、中華民国から分かれ、中国共産党の国家として1949年10月1日北京を首都に成立した中華人民共和国と2つの国が存在することになる。

中華民国はアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義陣営に属し、中華人民共和国はソビエト連邦を筆頭にした共産主義陣営に属して、多くの国は中華民国は承認するが中華人民共和国は承認しない状態が続き、中華人民共和国はアメリカ合衆国をはじめとする西側諸国と冷戦を背景に対峙する関係にあった。特に1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)をアメリカ軍大韓民国国軍を主体とした国連軍相手に派遣した戦争の相手国であった。米中双方は戦場において戦い、互いに多くの死傷者を出し、そのために和解できない敵対関係になった[2]

朝鮮戦争」および「中国人民志願軍」も参照

中ソ対立

中国とソ連は同じ共産主義を目指す国家で、ソ連は共産主義陣営の盟主であり、後発の中国も大戦を大きな犠牲を払いながら勝ち抜いた点は共通していた。しかし、当初の段階においても関係は必ずしも円満と言い切れるものではなかった。ただ、ヨシフ・スターリンがソ連の指導者だった時代の両国は、強固な同盟関係(中ソ友好同盟相互援助条約を1950年に締結)と西側から見られ、日米安保体制も中ソ同盟を前提として成り立っていた。しかし1953年のスターリンの死後に指導者となったニキータ・フルシチョフ1956年スターリン批判をおこない、中国側は不快感を抱く。さらに平和共存外交を展開した時期から中ソ間に外交や共産主義運動の方針をめぐって不協和音が生じ、やがて1960年代に入ってから、それまで曲がりなりにも友好関係を維持してきた中ソ間に深刻な衝突が起こり、中華人民共和国はソビエト連邦とは袂を分かち、独自路線を歩んでいった。

1960年代には中国やフランスが独自の外交を展開したことで、国際関係は単純な東西対立とは異なる状況に進んだ。この時期にはアメリカはベトナム戦争を抱え、1960年代後半にはソ連の「衛星国」だったチェコスロバキアで自由化を求めるプラハの春が起き、両国の覇権が脅かされた。一方中国では1966年から始まった文化大革命で国内が混乱し、中国外交は硬直した状態が続いていた[注釈 1]。そんな中で1969年3月に中ソ国境付近のウスリー河の中州にある珍宝島(ダマンスキー島)で国境線をめぐる武力紛争が起こり、中ソ対立がやがて戦争状態に突入することが懸念されるほど緊張した状況が生まれた。この時には中国はアメリカを帝国主義として批判し、ソ連を修正主義として批判していたが、前年のチェコの自由化の動きをソ連が戦車で圧倒してから主要な敵はソ連と考えるようになった[3]

詳細は「中ソ対立」および「中ソ国境紛争」を参照

米国の対中政策の見直し

1965年からのアメリカのベトナムへの軍事介入は、それまでの対中封じ込め政策の帰結でもあったが、やがて泥沼化して収束の見通しが困難になると対中政策の根本的な再検討を迫られることになった。1966年に上下両院の外交委員会で中国問題に関する公聴会が開かれてH・J・モーゲンソーやA・D・バーネットらの国際政治学者や中国問題専門家から中国政策の転換の必要性が指摘された[4]

ニクソンが大統領選挙に当選する前の年1967年[注釈 2]、「フォーリン・アフェアーズ」誌に「中国のような巨大な領土と人口を持つ国を国際社会で孤立させておくことはできない」と述べて、それまで反共の闘士で有名だっただけに大きな驚きをもって受け止められている[注釈 3]

米中接近

毛沢東への四元帥報告

ニクソンが大統領に就任した1969年、中ソの緊張状態は夏から秋にかけて最も戦争の危険性を孕んでいた[注釈 4]。中国の毛沢東は慎重に情勢を見極める中で、当時の人民解放軍の中華人民共和国元帥の10人のうち、文革で一時失脚して地方に送られた陳毅聶栄臻徐向前葉剣英の「四元帥」[注釈 5]に中国の今後の戦略的課題の分析を行うよう指示した[6][注釈 6]。しばらくしてまとめられた報告書ではソ連がすぐに攻めてこない理由として国内での支持の弱さ、兵站の問題と合わせて米国の姿勢への疑念を上げて、「二頭の虎が戦う様子を山頂に座って眺めている」という中国のことわざを使った。この時はまだ大胆な政策転換をめざしたものではなかった。しかしこの当時毛沢東は彼の医師との会話の中で「我々の祖先は近隣諸国と戦う際には遠方の国々と交渉することを勧めなかったか」[8]と語っていた。1969年5月に毛沢東は再び陳毅・葉剣英ら「四元帥」にさらなる検討を指示したところ、6月から7月まで6回の座談会で「戦争情勢についての初歩的評価」を周恩来に提出し、以後7月末から9月中旬までの10回の座談会で「当面の情勢についての見方」の報告を提出した[3]。この中で「四元帥」の議論は「中国がソ連の攻撃を受けた場合に米国カードを使用すべきか否か」という点に議論が集約され、陳毅は第2次大戦直前のヒトラーとスターリンの例を、葉剣英は魏呉蜀の三国時代諸葛亮の例を出して、毛沢東が同盟関係の逆転につながる戦略的ひらめきを得るために先人たちを調べるように勧めた[9]。しかも「ソ連修正主義者が中国への侵略戦争を開始するかどうかは、米帝国主義者の姿勢にかかっている」[10]として、中国と米国とソ連の三大国の相互関係を分析して、中ソの矛盾は米中の矛盾より大きい、米ソの矛盾は中ソの矛盾よりも大きい、すぐに反中戦争が起こる可能性は少ない、しかし米中でソ連を牽制すること[11]が肝要で米国との大使級会談の再開を進言して、陳毅はまた補足で大使級会談を閣僚級会談に引き上げるべきで、そのために台湾返還の問題などは前提条件にすべきではないとまで書き入れていた。

米国にとって、もし中ソが戦った場合にソ連が勝って米国以上に大帝国になることが一番望ましくないことであり、傍観者の立場に限定することはなく、しからば中国は米国と接触することが中国の防衛には必要なことであるということであった[12]。これは毛沢東がその時考えていたことではあったが、文革派の勢いが強かった1969年当時では毛沢東でさえ党内強硬派に配慮せざるを得なかった[13]

アメリカの戦略見直し

一方、ベトナム戦争の泥沼に嵌まり込み、国内から強い批判を浴びて、再選出馬を断念した民主党ジョンソン大統領の次に、1968年アメリカ合衆国大統領選挙で当選して大統領に就任した共和党のニクソン大統領は、アメリカ軍のベトナム戦争からの名誉ある撤退を選挙で公約しながらもその後北ベトナムとの対話が進まず、兵力を漸次縮小はしていたがカンボジアやラオスに侵攻するなど、インドシナでの戦争を逆に拡大させ、また国連総会で中華民国の議席を守る方針を朝鮮戦争後ずっと続けてきたが、1970年秋の国連総会で中華民国政府を国連から「追放する」(代表権を剥奪する)問題を重要事項に指定する決議案が否決され、中華人民共和国の加盟を認めるアルバニア決議案が多数となり、アメリカ外交の以後の戦略の見直しを模索していた。

ニクソンは単にベトナム戦争からの撤退だけを考えていたわけではない。ただ撤退するだけでは戦後築き上げた世界最強国家としてのアメリカの威信や自由世界の守護神としての重要な位置を失うだけであった。「戦争を終わらせると同時に戦後の国際秩序を一つ一つ構築していくうえでアメリカが力強い役割を果たす」ことが重要であり、こうした考え方の中でアメリカにとって中華人民共和国は「重要な役割を果たすパートナー」として、長期的な平和の見取り図が提示できると考えていた[14]。中ソが緊張関係にあった1969年8月の国家安全保障会議でニクソンは「もし中国が中ソ戦争で粉砕されればアメリカの国益に反する」[15]という主張をしており、ほぼ同時期に米中の最高首脳はまったく同じ方向で外交政策の見直しを行っていた。

ワルシャワでの米中接触

端緒はワルシャワでの大使級会談であった。実は中華人民共和国が誕生してから米中は20年間ワルシャワで細々と大使級会談を行っていた。これらの会談は何度も中断することがあったものの、それでも当時の米中間のチャンネルとしては唯一のものであった。文革後、1967年3月から中断していた米中大使級会談が1970年1月20日にようやく再開して若干の進展を見せた。それは「両国の緊張を緩和して抜本的に関係を改善するために他のチャンネルを通じた会談を検討する用意がある」と中国側が明らかにしたことであった。このシグナルは現場でのアメリカ側の交渉担当者には読めなかった。そして2月20日の「第136回会談」の後に5月20日に行う予定が直前でのアメリカのカンボジア侵攻でキャンセルされて失敗に終わったと外交関係者は見ていた[注釈 7][注釈 8]。この時期は3月にカンボジアでノロドム・シアヌーク元首が追放されて、アメリカの援助を受けてロン・ノル政権が実権を握り、その後5月に南ベトナムからカンボジアに侵攻してホーチミン・ルートを攻撃して中国との対話が凍結された状態になった。

パキスタン経由の周恩来書簡

これより前の1969年7月から8月にかけてニクソン大統領がアジア・ヨーロッパの国を訪問した時[注釈 9]パキスタンヤヒヤー・ハーン英語版)大統領とルーマニアニコラエ・チャウシェスク大統領に自分が中国指導者との交流を求めている旨の伝言を依頼していたが、その後1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容はパキスタンを通じてのメッセージを受け取った旨を明らかにして特使の派遣を留意するというものであった。この中には、首脳から首脳を通じて首脳に宛てた最初のメッセージなので回答したこと、この件については毛沢東と林彪の承認を得ていること、台湾の立ち退きについて話し合うため特使を北京に招待することが書かれてあった。そしてルーマニアからも1か月後に同じメッセージが届いた。周恩来がパキスタン経由が万一の場合を想定してルーマニア経由も使ったとキッシンジャーは理解した。しかもルーマニア経由の文章にはニクソン大統領を招待する内容があったが、アメリカはルーマニア経由で特使派遣を承諾する旨(大統領の訪問は触れず)の返事を送った。キッシンジャーはこの時に周恩来からのメッセージに台湾問題はあったがベトナム戦争に触れていないことに注目していた[18]

1970年8月23日~9月6日にかけて開かれた中国共産党中央委員会総会(第九期二中全会)で毛沢東の支持を得た周恩来が林彪を抑えて対米接近路線を勝ちとっていた[注釈 10][注釈 11]。この後に積極的なサインを米国に送り始める。毛沢東は10月の国慶節にエドガー・スノーを招待して12月に「ライフ」誌に「ニクソンの訪中を歓迎する」という毛沢東のインタビュー記事が掲載され、周恩来首相はまた10月にパキスタンのヤヒア・カーン大統領、11月にルーマニアの副首相と会っており、少なくとも米中間での意思疎通が図られていたことになる。しかし年明けになるとしばらく中国側の動きが止まった。

1971年2月にアメリカは外交教書で初めて「中華人民共和国」の国名を使用して、さらに3月に貿易及び人的交流の制限を緩和するなど関係改善を目指した行動をとった[注釈 12]。ただこの間は中国からの反応は無かった。これはちょうどこの時にアメリカは前年のカンボジア侵攻に続いてラオスにも侵攻作戦を展開した時期であった。両国とも最高首脳のごく一部しか知らない極秘での動きであっただけに、どちらも慎重な動きが必要で、かつ国内での動きに敏感であった。

ピンポン外交

そして3月に入ってから、翌月に日本名古屋で開催される世界卓球選手権大会に中華人民共和国から選手を派遣するかどうか中国国内で論議されていたが、周恩来は参加することで結論を出して、文化大革命が始まって以来久しぶりに中国選手団が大会に出場した。その時にアメリカの卓球選手団が自ら中華人民共和国を訪問したいと提案があり、中華人民共和国の代表団も本国に連絡して結論を待つこととなった。これに対して外交部が消極的な姿勢で断る方向で検討していたが、毛沢東が最終的に受け入れる結論を出して、アメリカの卓球選手団を大会後に中国側が招待するといういわゆる「ピンポン外交」が展開された。これがアメリカ側のメッセージに対する回答であった[21]。そして4月21日付けの正式な親書がパキスタン経由でホワイトハウスに届き、周恩来から特使の受け入れについて了解する旨の表明であった。その特使についてはキッシンジャー補佐官かロジャーズ国務長官、あるいは大統領本人をという内容で、関係回復の条件として台湾からの米軍撤退のみ言及して台湾復帰には言及していなかった[22]

ニクソンが招待受諾

この頃には、アメリカ政府内でも周知の事実になりつつあり、キッシンジャーは機密保持に苦心するようになった。ワルシャワでの会談が再開されて秘密裏の交渉が重ねられるごとに、毛沢東と周恩来は党の極左派(親ソ派)、反米派を説得しなければならず、ニクソンとキッシンジャーは親ソ派、親台湾派、右派の反対に配慮しなければならなかった[23]。そんな中で5月10日に周恩来宛てにニクソン招待を受諾することと、その前に準備のため特使(キッシンジャー補佐官)を極秘に派遣することを伝えた。一方周恩来は毛沢東と連携して5月26日に党政治局会議を開き、政治局のために「中米会談に関する報告」を起草し、29日に採択されて毛沢東と林彪に報告して裁可を受けた[24]。その後5月29日に親書を再度送り「毛沢東を代表して正式にニクソン訪中を招請してキッシンジャーが秘密裏に中国を訪問して必要な各種準備作業を行うことを歓迎する[25]」旨の返事が6月2日に届いた。キッシンジャーはこの時に林彪の名前がこの連絡から無くなっていたことを殆ど注意を払わなかった[26]。1971年6月3日の公式行事(ルーマニア代表団との接遇)以降、林彪の姿は見えなくなった[27]

ニクソンとキッシンジャー

わずか1年足らずの間に米中の外交は和解不可能な紛争から大統領の訪問準備のために大統領特使が北京を訪問するまでに進展した[26]。しかしガラス張りにすると、特使派遣は米政府内での複雑な決裁手続きが必要で、また利害が絡む他国からの協議要請を招き、そのことで中国との関係改善の展望を台無しにしてしまう恐れがあった。これは政権内部に対しても同じでニクソン政権では、ロジャーズ国務長官でさえキッシンジャー極秘訪中は知らされておらず、国務省は全く蚊帳の外であった。ニクソン大統領はアイゼンハウアー政権下で副大統領として8年間の外交経験を積み(副大統領時代に訪ソした時にフルシチョフとの台所論争は有名である)[注釈 13]、かつ反共主義者の立場でありながら意外に柔軟で現実的な外交感覚を持っていた。そのニクソンが政権につくと同時に外交問題のエキスパートとして選んだのが、共和党内の政敵であったロックフェラー[注釈 14]の外交顧問をしていた当時ハーバード大学教授のキッシンジャーで、これは意外な人事と言われた。キッシンジャーはいわゆる力の均衡論者で、イデオロギー的な外交を嫌い冷徹なまで国家間の力の均衡を保つことに腐心し、また国務省などの専門の外交官を嫌い、徹底した秘密保持と個人的なルートを重んじるタイプであった。脱イデオロギー的な地政学、バランスオブパワーという考え方は当時は国民も外交官もなじみがなく、アメリカ外交の主流を占める考え方ではなかった。ニクソンもキッシジャーもグローバルな力関係の全体像を把握する能力には優れていた[29]

キッシンジャーは中国の姿勢について専門家が間違っていること、特に中国がソ連の脅威を最大の関心事としていること、中国が米国にアジアに留まってもらいたいと必死に望んでいたことを彼らは見抜けなかったと指摘して[30]、ベトナム戦争の処理と合わせてアメリカの力を誇示して国際外交の場でアメリカの主導権を確保するための政策として、米ソ中の三極構造を視野に米中の関係正常化に動くことは、ニクソンにとってもキッシジャーにとっても至極当然のことであった。

キッシンジャーの極秘訪中

訪中は全く秘密裏に行う必要があった。そのために今回の各国の訪問はサイゴン、バンコク、ニューデリー、そしてパキスタンのラウルピンディを経由するルート(その後はパリでの北ベトナムとの会談が予定されていた)で、「退屈で無味乾燥で、メディアが動きを追跡することを諦めるように仕組まれた訪問」であった。そしてラウルピンディで≪突然病気になって48時間治療に専念するため休息する≫こととなった。どこへ行ったか。行き先を知っていたのはニクソンとアレクサンダー・ヘイグ[注釈 15]副補佐官だけであった[31]

1971年7月9日に密かにヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官がパキスタン経由で北京を訪問した。乗ってきた飛行機はパキスタン大統領専用機で、アメリカ側からキッシンジャーを含めて5人の中核グループと他に米当局者の一団が乗り、しかもこの飛行機には出発したイスラマバードから英語を話す中国外交官が5人乗ってきた。その中には毛沢東の兄弟の孫娘になる王海容、アメリカ・ブルックリン生まれの有能な通訳の唐聞生が含まれていた。北京空港で出迎えたのは葉剣英軍事委員会副主席で1969年に毛沢東の指示で中国のその後の戦略的課題の分析を行い、米国との対話推進を訴えた「四元帥」の1人であった[32]

そして周恩来首相と、その日の16時30分から23時20分の7時間と翌日正午から18時30分までの6時間にわたって会談を行った。冒頭に周恩来が一行に歓迎の意を表す前に「本日の午後には、特別ニュースがあります。あなたが行方不明になりました。」とキッシンジャーに語っている[33]。キッシンジャーが心がけたのは十分な信頼関係を築くことであった。それはまた周恩来も同じであった。実は両者ともこの秘密会談を行うことで一定のリスクを負っていることに留意していた。仮にまとまらず不十分なもので終われば、両者とも政治的に苦しい立場に立たされるということであった。すぐに両国が友好関係とまではいかなくても戦略的協力関係を結ぶところまで持っていくことが目標であった。後に10月の2回目の訪中の時に両者が会談した際に出た言葉が相互信頼と相互尊重であった[34]。この最初の長時間の会談で2人は相互に感銘と個人的信頼を築いた[35]。この会談の出席者は米国側がキッシンジャー、ジョン・ホルドリッジ、ウインストン・ロード、リチャード・スマイザー。キッシンジャー以外はいずれも国家安全保障会議スタッフであった。中国側は周恩来、葉剣英、黄華(駐カナダ大使)、章文晋(外交部西欧米州局長、彼は往路の飛行機の同乗者)、熊向暉(総理秘書官)、王海容(儀典局副局長、彼女も同乗者)、他に通訳が唐聞生(彼女も同乗者)と翼朝鋳[36]。周恩来との会談では、台湾、インドシナ、日本、北朝鮮、ソ連、南アジア、大統領訪問、米中の今後の連絡方法などで突っ込んだ話し合いを行い、後に葉剣英とで今後の連絡方法について簡単な話し合いがもたれた[37]。最大の問題は台湾とインドシナであった。

懸案であった台湾の問題について、すぐに解決すべき問題としてではなく、米軍の台湾からの撤退はインドシナでの戦争が解決したらという条件付きにすること、また中華人民共和国が唯一の合法政府であることについては、当時の米国国内の事情を鑑みながら「1つの中国」という概念を段階的に受け入れて中国がその実行時期について柔軟な姿勢を示すという過程で始めることで合意した[38]。キッシジャーは巧みに台湾とインドシナの問題をリンクさせて周恩来も一定の理解を示したことになる。日本や南アジアについて率直な意見交換があり、周恩来の佐藤首相に対する厳しい意見も出て、また日米安保条約についてキッシンジャーから日本の軍事力を抑えるためにあるという意見が出されている[注釈 16]

2日目の最後に両国が発表する文書の草案作りについての検討に入って、時間が無くなったので、22時以降に宿舎で協議に入ったが夜には完成できず、翌日の午後ぎりぎりで毛沢東の最終承認で完成させた。その理由はどちらも相手側が招待に熱心であったように見せたかったことで文面が決まらなかったという[39]。結局どちらが主導したかという問題を避けてニクソンに訪中の希望があるという情報を得て周恩来が招請するという文章にすることで決着した[40]。「我々の発表は世界を揺るがすだろう」と周恩来はキッシンジャーに語った[41]。この会談でキッシンジャーは周恩来について強烈な印象を持った。彼は後に回想録で「およそ60年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」と語っている[42]

電撃発表

そしてパリでの北ベトナムとの会談を経て7月13日にキッシンジャーは帰国し、すぐに当時カリフォルニア州のサンクレメンテにあった「西のホワイトハウス」でニクソン大統領に説明後、7月15日21時から全米のテレビで大統領は、7月9日から極秘にキッシンジャー補佐官を中国に派遣して周恩来首相と会談し、両国関係の正常化を模索し、かつ双方がともに関心を寄せる問題について意見を交換するために、大統領自身が中華人民共和国を翌年5月までに訪問すると発表し、この電撃的な発表は世界をあっと驚かせた。これが直後からニクソンショック[注釈 17]と言われて戦後の外交史に残ることとなった。その後、10月に再度キッシンジャーが北京を訪問して周恩来と会談して共同コミュニケの草案作成に入り、翌1972年1月にヘイグ副補佐官らが衛星放送の中継の打ち合わせを含めて事前の最後の調整を行った。

日本への連絡

当時西側でもっとも衝撃を受けたのは日本であった。この時点でイギリス・フランス・イタリア・カナダはすでに中華人民共和国を承認しており、西独と日本は未承認で特に日本は中華民国との関係が深く、まさに寝耳に水であった。しかもニクソンは別の理由から日本への事前連絡をしなかった。当時ニクソン大統領は日米繊維問題で全く動かない佐藤首相に怒っていたと言われていて、国務省は1日前に前駐日大使だったウラル・アレクシス・ジョンソン国務次官[注釈 18]を日本に派遣しようとしたがニクソンは反対して、ジョンソン次官は急遽ワシントンに駐在している駐米大使の牛場信彦に声明発表のわずか3分前[注釈 19]で電話連絡で伝えた[44]。その時、牛場大使は「≪朝海の悪夢≫が現実になった」として唸ったという[45][注釈 20]

朝海浩一郎元駐米大使[注釈 21]がかつて「日本にとっての悪夢は、知らぬ間に日本の頭越しに米中が手を握る状態が訪れることだ。」と語っていて、いつか米中接近があるのではという観測はこの当時あったが、まさか本当にある日の朝に起きたら米中が手を握っていたことに愕然とした。ウラル・アレクシス・ジョンソン国務次官は後に日米両国の信頼関係と国益を損なったとキッシンジャーを批判している。

その後、日米繊維交渉が妥結して後の1972年1月に訪米した佐藤首相との会談で、ニクソンは「米中関係は通常の意味での国交正常化ではなく、接触の結果出てくるのは、米中のコミュニケーションのチャンネルであり、雪解けである」と述べている[46]。結局佐藤首相は日中関係の打開には動けず、後継の田中角栄首相がニクソン訪中から7か月後の1972年9月に北京を訪問して日中国交正常化を果たすこととなる。

ニクソン大統領訪中

宴席でスピーチするニクソン大統領と周恩来総理。

晩餐会でニクソン大統領を歓待する周恩来総理

そして1972年2月21日にニクソン大統領夫妻[注釈 22]北京を訪問し、北京空港で出迎え[注釈 23]周恩来首相と堅く握手を交わして[注釈 24]、第2次大戦後初めて両国首脳が会った。この空港でのニクソン到着の模様はテレビで全世界に同時中継された。1949年10月1日に中華人民共和国が成立した後のアメリカ合衆国大統領の中国大陸訪問はこれが最初であった。その直後すぐにニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は中南海で周恩来の同席で毛沢東中国共産党主席と会談した[注釈 25]。ニクソンと対面した毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した[48]。儀礼的なもので実質の協議は周恩来が取り仕切ることを、誰もが感じていた。最初の会談は初日の18時から全体会議として1時間ほど開かれてその後は晩餐会となった。この晩餐会も世界中に生中継され[注釈 26]、最初の実質的な会談となった翌日の首脳会談の冒頭に、周恩来は「大統領の訪問に人々の注目が集まることはいいことです。あなたがいらしたことが無駄ではないことになります」と語り、ニクソンは「歴史上のいかなる時代の人々よりも多くの人々が私たち2人のスピーチを生で聴いたことでしょう」と語っている[49]

この後、全体会議を除いて周恩来首相と5回にわたって会談を開いた。メインテーマは台湾問題であり、他にインドシナ(ベトナムを含めて)、国交正常化、ソ連、日本及び日米同盟、朝鮮半島、インド・パキスタン問題など多岐にわたった。最終日の共同コミュニケを発表するために前年10月にかなり突っ込んだやり取りをして素案は出来ていたが、この時に揉めたのはアメリカ側の内部で、ロジャーズ国務長官が重要な会議の場を殆ど外されて、また国務省側が殆ど知らされていない内容があったがためにロジャーズが激怒する場面[50]もあった。このキッシンジャーとロジャーズとの確執はその後も尾を引くことになった。

上海コミュニケ

北京で毛沢東と会談するヘンリー・キッシンジャー

この訪問の最終日2月28日に上海で米中共同コミュニケが発表されて、両国はそれまでの敵対関係に終止符をうち、国交正常化に向けて関係の緊密化に努めることになった。上海コミュニケには両国で一致した内容を出すのではなく、この問題で両国はこのように意見を出し合ったという内容の形式であった。最も難しい問題は台湾問題であった。中国が原則的立場を述べて、一方アメリカは「台湾海峡の両側のすべての中国人がみな、中国はただ1つであり、台湾は中国の一部であると考えていることを≪認識した≫。…この立場に異議を申し立てない。…台湾からすべての武装力と軍事施設を撤去する最終目標を≪確認する≫。…次第に≪削減していく≫であろう。」と記された[51]。アメリカはそれまで蔣介石率いる中華民国政府を中国大陸を統治する正統な政府として、中国共産党政府を承認していなかったが、ニクソンは周恩来に「台湾に関しての5原則」を提示して、中華人民共和国を唯一正当の政府として認め台湾の地位は未定であることは今後表明しない
台湾独立を支持しない
日本が台湾へ進出することがないようにする
台湾問題を平和的に解決して台湾の大陸への武力奪還を支持しない
中華人民共和国との関係正常化を求める


として台湾から段階的に撤退することを約束している。一方中国側も米台防衛条約については言及しない立場をとった。ニクソンは会談の中で軍隊の撤退は「私の計画の中にある」としていずれは撤退させることを明らかにしていたことでそれ以上には求めなかった[52]。中国側は一方で米台条約の破棄を共同声明に盛り込まないことで譲歩し、他方で米軍の全面撤退を最終目標とするという言質をニクソンから獲得したことで妥協せざるを得なかった[52]

三角外交

このニクソン訪中は朝鮮戦争以来20数年続いた米中の冷戦に終止符を打った歴史的な会談となった。中華人民共和国がアジアの国際政治における主要なプレーヤーとして参加することをアメリカが認めたことは東アジアにおける多極化の現実を受け入れたということである。そしてニクソン政権は「戦略的三角形」を構築して「三角外交」と呼ばれるニクソン政権の対中ソ等距離外交の展開はアメリカの漁夫の利を得るような関係の構築であった。このような戦略的三角形の構築を通してアメリカのヘゲモニーの後退に歯止めをかけて、将来の回復の布石を打った[53]

リチャード・ニクソン大統領と共に北京を訪問したパット・ニクソン大統領夫人

米中の和解は、米ソ関係の進展を促すこととなった。訪中から3か月後の同年5月にニクソンはソ連を大統領としては初めて訪問[注釈 27]してそれまで膠着状態であったSALT1(第一次戦略兵器制限協定)とABM(弾道弾迎撃ミサイル)条約を結ぶことに成功して米ソの軍事的関係の安定化を図り、またソ連が要求した全欧安保協力会議の準備とNATOが提案した中央ヨーロッパ相互兵力削減交渉の開始に合意して米ソ間のデタント(緊張緩和)がすすんだ[54]。またアメリカにとって懸案であった北ベトナムとの交渉は翌1973年1月に和平協定が締結されて3月に米軍の完全撤退でアメリカにとってのベトナム戦争はこの時に終わった。

ニクソン訪中から1年後、彼が2期目の大統領の就任式を行った頃には、1期目の4年前には考えられなかったほどアメリカにとって好ましい新たな国際環境が生まれていた。中ソ両国と良好な関係を築いたことで、中ソにとってアメリカが不可欠な存在となる三極構造を作り上げることに成功していた[55]。ニクソンとキッシンジャーの外交が最も花開いた時期であった。

国交樹立ニクソンの後任であるジェラルド・フォード米大統領も訪中し[56]、その後を継いだ民主党ジミー・カーター政権時代の1979年1月にアメリカ合衆国と中華人民共和国の間で国交が樹立された。

ニクソン大統領の中国訪問出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





台湾関係法(たいわんかんけいほう、: Taiwan Relations Act:TRA)は、台湾中華民国)の安全保障のための規定を含むアメリカ合衆国の法律である。

同法はジミー・カーター政権による台湾との米華相互防衛条約の終了に伴って1979年に制定されたものであり、台湾を防衛するための軍事行動の選択肢を合衆国大統領に認める。米軍の介入は義務ではなくオプションであるため、同法はアメリカによる台湾の防衛を保障するものではない。台湾関係法に基づく台湾有事への軍事介入を確約しないアメリカの伝統的な外交安全保障戦略は、「戦略的あいまいさ」(Strategic Ambiguity)と呼ばれる[1]

経緯



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出典検索?: "台湾関係法"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2024年1月)

1979年1月1日に民主党ジミー・カーター大統領中華人民共和国との国交を樹立し、中華民国との国交は断絶された。ホワイトハウスのこの方針は、ソビエト連邦と中華人民共和国の離間を決定的なものとし、また、アメリカ企業が将来中国大陸の巨大な市場を獲得するための重要な布石ともなった。

しかし、同時に米華相互防衛条約の無効化に伴うアメリカ合衆国台湾防衛司令部英語版)の廃止と在台米軍の撤退によって東アジアで急激な軍事バランスの変化が起きることが懸念され、自由主義陣営の一員である台湾が中華人民共和国に占領される事態は避けるため、また中華民国政府(民主党とほぼ唯一のパイプであった許国雄僑務委員会顧問)や在米国台湾人(台湾独立派を含む)からの活発な働きかけもあって、台湾関係法が1979年4月に制定され、1月1日にさかのぼって施行された。

アメリカは、国内法規である台湾関係法に基づき、通常の軍事同盟のように台湾に駐留こそしてないものの、武器売却や日本沖縄県在日米軍基地などにより、中華人民共和国を牽制している。

内容

台湾の定義

同法は1979年1月1日以降、「中華民国」という呼称を認めず、「台湾当局」という用語を使用している。

また、1954年に締結された米華相互防衛条約の内容を踏襲し、「台湾」という用語は、台湾島および澎湖諸島を指すと定義されている。なお、金門島馬祖島中華民国の統治下にあるが、これらは「台湾」に含まれないとしている[2]

外交関係アメリカ合衆国が中国と外交関係を樹立するのは、台湾の未来が平和的に解決することを期待することを基礎としている[3]
台湾に関して、アメリカ合衆国の国内法へ影響を与えずこれまで通りとする[4]
1979年以前の台湾とアメリカ合衆国との間のすべての条約、外交上の協定を維持する[5]
台湾を諸外国の国家または政府と同様に扱う。ただし、アメリカにおける台湾外交官への外交特権は、認められない場合がある。
米国在台湾協会に対して免税措置を与える。


防衛関係



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出典検索?: "台湾関係法"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2024年1月)平和構築関係維持の為に台湾に、あくまで台湾防衛用のみに限り米国製兵器の提供を行う。
アメリカ合衆国は台湾居民の安全、社会や経済の制度を脅かすいかなる武力行使または他の強制的な方式にも対抗しうる防衛力を維持し、適切な行動を取らなければならない。


その他



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出典検索?: "台湾関係法"ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2024年1月)アメリカ議会は台湾関係法について、その施行および監督を行う義務がある。

台湾関係法出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)



中国との闇雲な関与の古い方法論は失敗した。我々はそうした政策を継続してはならない。戻ってはならない。自由世界はこの新たな圧政に勝利しなくてはならない。

米国や他の自由主義諸国の政策は中国の後退する経済をよみがえらせたが、中国政府はそれを助けた国際社会の手にかみついただけだった。中国に特別な経済待遇を与えたが、中国共産党は西側諸国の企業を受け入れる対価として人権侵害に口をつぐむよう強要しただけだった。

中国は貴重な知的財産や貿易機密を盗んだ。米国からサプライチェーンを吸い取り、奴隷労働の要素を加えた。世界の主要航路は国際通商にとって安全でなくなった。

ニクソン元大統領はかつて、中国共産党に世界を開いたことで「フランケンシュタインを作ってしまったのではないかと心配している」と語ったことがある。なんと先見の明があったことか。

今日の中国は国内でより独裁主義的となり、海外ではより攻撃的に自由への敵意をむき出しにしている。トランプ大統領は言ってきた。「もうたくさんだ」と。

対話は続ける。しかし最近の対話は違う。私は最近、ハワイで楊潔篪(ヤン・ジエチー中国共産党政治局員)と会った。言葉ばかりで中国の態度を変える提案はない、相変わらずの内容だった。楊の約束は空っぽだった。彼は私が要求に屈すると考えていた。私は屈しなかった。トランプ大統領も屈しない。

(中国共産党の)習近平総書記は、破綻した全体主義のイデオロギーの真の信奉者だ。中国の共産主義による世界覇権への長年の野望を特徴付けているのはこのイデオロギーだ。我々は、両国間の根本的な政治的、イデオロギーの違いをもはや無視することはできない。

レーガン元大統領は「信頼せよ、しかし確かめよ」(trust but verify)の原則にそってソ連に対処した。中国共産党に関していうなら「信頼するな、そして確かめよ」(Distrust and verify)になる。



世界の自由国家は、より創造的かつ断固とした方法で中国共産党の態度を変えさせなくてはならない。中国政府の行動は我々の国民と繁栄を脅かしているからだ。

この形の中国を他国と同じような普通の国として扱うことはできない。中国との貿易は、普通の法に従う国との貿易とは違う。中国政府は、国際合意を提案や世界支配へのルートとみなしている。中国の学生や従業員の全てが普通の学生や労働者ではないことが分かっている。中国共産党やその代理の利益のために知識を集めている者がいる。司法省などはこうした犯罪を精力的に罰してきた。

今週、我々は(テキサス州)ヒューストンの中国領事館を閉鎖した。スパイ活動と知的財産窃盗の拠点だったからだ。南シナ海での中国の国際法順守に関し、8年間の(前政権の)侮辱に甘んじる方針を転換した。国務省はあらゆるレベルで中国側に公正さと互恵主義を要求してきた。【関連記事】
米中、在外公館巡り応酬 トランプ氏「追加閉鎖も」
中国、四川省成都市の米国総領事館の閉鎖通知


自由主義諸国が行動するときだ。全ての国々に、米国がしてきたことから始めるよう呼び掛ける。中国共産党に互恵主義、透明性、説明義務を迫ることだ。

現時点では我々と共に立ち上がる勇気がない国もあるのは事実だ。ある北大西洋条約機構(NATO)同盟国は、中国政府が市場へのアクセスを制限することを恐れて香港の自由のために立ち上がらない。

過去の同じ過ちを繰り返さないようにしよう。中国の挑戦に向き合うには、欧州、アフリカ、南米、とくにインド太平洋地域の民主主義国家の尽力が必要になる。

いま行動しなければ、中国共産党はいずれ我々の自由を侵食し、自由な社会が築いてきた規則に基づく秩序を転覆させる。1国でこの難題に取り組むことはできない。国連やNATO、主要7カ国(G7)、20カ国・地域(G20)、私たちの経済、外交、軍事の力を適切に組み合わせれば、この脅威に十分対処できる。

志を同じくする国々の新たな集団、民主主義諸国の新たな同盟を構築するときだろう。自由世界が共産主義の中国を変えなければ、中国が我々を変えるだろう。

中国共産党から我々の自由を守ることは現代の使命だ。米国は建国の理念により、それを導く申し分のない立場にある。ニクソンは1967年に「中国が変わらなければ、世界は安全にはならない」と記した。危険は明確だ。自由世界は対処しなければならない。過去に戻ることは決してできない。(ワシントン=芦塚智子)

「共産主義の中国 変えなければ」米国務長官の演説要旨

トランプ政権

2020年7月24日 8:26 (2020年7月24日 12:31更新)



フランケンシュタイン』(Frankenstein)は、イギリス小説家メアリー・シェリー1818年3月11日に匿名で出版したゴシック小説。原題は『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)[注釈 1]。フランケンシュタインは同書の主人公であるスイス科学者の姓である[注釈 2]。今日出回っているものは、1831年の改訂版である。多くの映像化作品が作られ、本書を原案とする創作は現在も作り続けられている。

物語誕生の前に

シェリーは1814年にヨーロッパ大陸を訪れており、ライン川に沿っても旅行して、フランケンシュタイン城から17キロメートルしか離れていないゲルンスハイムにも立ち寄っている[1]。後に、彼女はジュネーヴをも訪れている。

物語の誕生経緯

ディオダティ荘の怪奇談義」も参照

1816年5月、メアリーは後に夫となる詩人のパーシー・ビッシュ・シェリーと駆け落ちし、バイロンやその専属医のジョン・ポリドリらと、スイスジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダティ荘に滞在していた。長く降り続く雨のため屋内に閉じこめられていた折、バイロンは「皆でひとつずつ怪奇譚を書こう (We will each write a ghost story.)」と提案した。メアリーはこの時の着想を膨らませ1816年頃に執筆開始、1818年3月11日に匿名で出版した。

ジャンル分類ゴシック小説の代表であるが、同時にロマン主義の小説とする見方もある[2]書簡体小説の形式もとる。科学技術を背景とする着想が見られることから、最初のSF小説とする評価も生まれた。

フランケンシュタイン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、メアリー・シェリーの小説について説明しています。その他の用法については「フランケンシュタイン (曖昧さ回避)」をご覧ください。


アメリカ麻薬取締局(アメリカまやくとりしまりきょく、英:Drug Enforcement Administration、略称:DEA)は、アメリカ合衆国司法省に属する警察機関であり、1970年規制物質法の執行を職務とする連邦捜査機関である。1973年5月28日、時の大統領リチャード・ニクソンが設置法案に署名し創設された。連邦捜査局との競合管轄権を有するものの麻薬取締局は連邦麻薬法の国内施行に関する主導機関であり[注釈 1]、また、国外におけるアメリカ合衆国麻薬捜査及び追跡に関する単独責任を有している。




逮捕したカリ・カルテル幹部ミゲル・ロドリゲス・オレフエラを移送するDEA捜査官

2008年にアフガニスタンで行われた対麻薬作戦(アルバトロス作戦)で押収した大麻を焼却するFAST(DEAの特殊部隊

機関構成

長は、麻薬取締局長官であり、大統領が上院の助言と同意に基づき任命する。長官は司法副長官を通して、司法長官へ報告を行う。長官は副長官、作戦部長、作戦支援部、情報部及び人的資源部の各部門を統括する副長官補、首席財務官や首席顧問などにより補佐される。麻薬取締局においては長官と副局長のみが大統領により任命され、その他の職員はキャリア公務員である。麻薬取締局の本部はバージニア州アーリントンにあり、アメリカ国防総省の向かいに位置する。訓練施設である「DEA Academy」を、バージニア州クアンティコのクアンティコ海兵隊基地内に保持している。国内には12支部と237ヶ所の現場事務所を持ち、58ヶ国に80ヶ所の国外事務所を有している。20億ドル強の予算を用いて、5000人強の特別捜査官を含む11000人強の職員を雇用している。

麻薬取締局の方針により、ハードドラッグ使用歴のある応募者は選考から除外される。この審査には通常ポリグラフテストが盛り込まれる。この問題についての麻薬取締局の比較的堅固な姿勢は連邦捜査局のそれと対照的である。連邦捜査局はドラッグ使用についての雇用方針の緩和を検討している。

また、テキサス州エルパソにあるエルパソ情報センター(El Paso Intelligence Center)の共同運営を行っている。エルパソはアメリカ=メキシコ国境が近く、この施設は麻薬および入国の執行において重要な役割を果たしている。

実動部隊として「FAST(Foreign-deployed Advisory and Support Teams 国外派遣諮問・支援チーム)」と呼ばれる特殊部隊を有している。

アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局でも麻薬事件を捜査することがある。

麻薬登録

麻薬取締局は、所定の場所における登録システムを持っている。このシステムにおいて、医療専門家、研究者、製造業者にスケジュールI薬物を利用する権限を与えている。認可された登録者には「DEA ナンバー」とよばれる番号が与えられ(日本の「医療用麻薬取扱者免許」とほぼ同等)、これはもっぱら規制薬物の追跡に用いられる。

流用管理システム

アメリカにおいて、麻薬乱用に関連した問題の多くは、合法的に製造された規制物質が合法的目的から不法取引へと転用されている事を原因としている。抑圧性や興奮性の薬物は、合法的な医療使用を目的として製造されたものであっても、その多くが乱用されることがあり、それゆえ、法的管理下に置かれることとなった。この法的管理の目標は、規制物質の医療への迅速な使用を確保しつつも、違法売買及び乱用目的で流通することは確実に防止することである。

この法的管理は連邦法に基づいて行われており、規制薬物の製造もしくは流通を行う事業、投薬・管理もしくは処方を許可された医療従事者、処方薬の調合を許可された薬局、これら全ては麻薬取締局に登録する必要がある。そしてこのような登録者は、薬物の保安、記録責任、規範の遵守に関して、一連の要求基準を充たさなければならない。

DEAが登場する作品

映画レオンゲイリー・オールドマン演じるノーマン・スタンスフィールドはDEA捜査官)
トラフィック
テキーラ・サンライズ
バッドボーイズ2バッドガブリエル・ユニオン演じるシドがDEA捜査官)
007 消されたライセンス
死の標的
アメリカン・ギャングスター(DEA創立当初の捜査官リッチー・ロバーツラッセル・クロウが演じている)
ソードフィッシュ(ハル・ベリーがDEAの捜査官として潜入捜査している)
ハンニバル
2ガンズ(デンゼル・ワシントンがDEAの捜査官)
サボタージュ(アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画)
トゥルーライズ
デンジャラス・バディ
ワイルド・スピード MEGA MAX
ボーダーライン(スティーヴ・フォーシングがDEAの捜査官)
バリー・シール/アメリカをはめた男
運び屋


ドラマSEAL Team
特捜刑事マイアミ・バイス
ブレイキング・バッドディーン・ノリス演じるハンク・シュレイダーがDEA捜査官)
西海岸捜査ファイル グレイスランドセリンダ・スワン演じるペイジ・アルキン他)
NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班
クイーン・オブ・ザ・サウス ~女王への階段~
ナルコス (DEAコロンビア支局を描く)
ナルコス:メキシコ編 (DEAメキシコ支局を描く)
HAWAII FIVE-0(シーズン8から登場するエディはDEA所属の麻薬探知犬だった)


ビデオゲームマックスペイン MAX PAYNE MAX PAYNE2
Total Overdose


脚注

[脚注の使い方]

注釈^ 連邦捜査局は州際犯罪やスパイを取り締まり、薬物犯罪は基本的に管轄外


出典^Staffing and Budget”. www.dea.gov. 2022年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月31日閲覧。
^DEA Leadership”. www.dea.gov. 2022年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月17日閲覧。

麻薬取締局出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



規制物質法(きせいぶっしつほう、英語: Controlled Substances Act, CSA)とは、薬物の製造・濫用を規制するため、アメリカ合衆国議会によって1970年包括的医薬品濫用防止及び管理法第 II 編(アメリカ連邦法典第21編第13章)として策定された。特定の薬物の製造、輸入、所有、流通がアメリカ合衆国政府によって規制される法的根拠である。また、国際条約である「麻薬に関する単一条約」の国内実施立法である。

薬物の分類(スケジュールI から スケジュールV)までがある。スケジュールI はあらゆる状況においても使用する事を禁止されている。マリファナLSD そしてヘロインなどが代表的なものである。

それぞれの薬物が包括する様々な薬物資格と共に5つの分類(スケジュール、Schedule)を、法律は設けた。初期の薬物一覧はアメリカ合衆国議会により策定されてはいるものの、司法省および保健福祉省(これに食品医薬品局も含まれる)の2つの連邦省庁が薬物をどの分類に区分するか決定する。分類の決定は、「乱用の可能性」、「アメリカ合衆国での一般に認められた医学的用途」、および「中毒の可能性」の評価によって行われるよう義務付けられている。

また、司法省は連邦法執行を担当する執行機関であり、また州政府も特定の薬物を規制している。

規制物質法出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局(アルコール・タバコ・かきおよびばくはつぶつとりしまりきょく、英語: Bureau of Alcohol, Tobacco, Firearms and Explosives、略称:ATF または BATFBATFE)は、アメリカ合衆国司法省内に設置されている専門の法執行および取締機関である[1]2003年1月24日に行われた省庁再編以前は、アメリカ合衆国財務省内に設置されていた。

その管轄範囲には、火器および爆発物の違法な使用・製造・所持とアルコール飲料タバコ類の違法な流通に対する捜査、犯罪の予防が含まれる。また、ATFはアメリカ合衆国の州をまたがる火器、弾薬および爆発物の販売・所持・運搬に関する許認可も行っている。

ATFの活動の多くは、州や地元の法執行機関と共同で実施される。ATFは、放火犯罪を実物大の模型で再現できる研究所をメリーランド州で運営している。

取締対象はアルコール・タバコ・火器・爆発物だが、これらに特に共通点や類似点があるというわけではなく、ただ単に危険物や国家の歳入源となる物を列挙しただけにすぎない。

組織の成り立ち

財務省時代の紋章。司法省との違いは、天秤が、13個の星のあるバナーの上。また鍵が入っている

ATFはもともと、1886年財務省内国歳入局(Bureau of Internal Revenue)内の「歳入研究所(Revenue Laboratory)」として設置された。その後、密造酒取締官(revenuer)としての時期を経て、1920年内国歳入局の部隊として組織された「酒類取締局(Bureau of Prohibition)」となり、1927年財務省の機関として独立。1930年には司法省に移管し、1933年に一時的に連邦捜査局(FBI)の一部門となった。

1933年12月ボルステッド法が破棄されると、部門は財務省に戻され、内国歳入局の酒税部隊(Alcohol Tax Unit)となった。エリオット・ネス特別捜査官と、同法施行下に酒類取締局で働いていた「アンタッチャブル」の数人が転属した。1942年には銃器に関する連邦法の適用に関する責任が、同局に与えられた。

1950年代初頭、内国歳入局が内国歳入庁(Internal Revenue Service)に改名されると、酒税部隊にはたばこ税に関する連邦法の適用の任務が加えられ、アルコール・タバコ税部(Alcohol and Tobacco Tax Division 、ATTD)と改名された。

1968年、銃規制法により、内国歳入庁アルコール・タバコ・銃器部(Alcohol, Tobacco, and Firearms Division)と改名され、初めて「ATF」と呼ばれるようになった。

1972年1月、財務省令により、財務省直轄のアルコール・タバコ・銃器局として独立した[2]。 移行の監督者で、初代局長に就任した Rex D. Davisの下、同局は政治的テロリズムと組織犯罪を目標とした組織に変貌したが、課税やアルコール問題は重要視されなかった。

2001年9月11日世界貿易センタービルへのテロ攻撃から、ジョージ・W・ブッシュ大統領は2002年に国土安全保障法(Homeland Security Act)に署名。国土安全保障省(Department of Homeland Security)が設立され、ATFは財務省から司法省に移管された。組織名もアルコール・タバコ・銃器・爆薬局(Bureau of Alcohol,Tobacco,Firearms and Explosives)に変わったが、引き続きATFと呼ばれた。

さらに、タバコ製品やアルコール製品からの連邦税の徴収や、規制によりアルコール関連の問題から社会を守るという、内国歳入庁がATFとともに担っていた任務は、財務省下に新設されたアルコール・タバコ税・貿易局(Alcohol and Tobacco Tax and Trade Bureau)に移管された。これらの変革は2003年1月24日に施行された。
組織と人材

ATFは、それぞれ異なる役割を担った、部長をトップとしたいくつかの部門で成り立っている。特別捜査官(ATF Special Agent)は犯罪捜査を指揮し、国内外のテロリズムから米国を守り、各州や地方の警察官とともに粗暴犯を国家レベルで減らすために働いている。特別捜査官はほかの連邦法執行機関と比べ、いくつかの広範な権限を持っており、合衆国法典第3051条により法典のいかなる法規についても執行する権限が与えられた。

特別捜査官は銃器爆発物に関連したあらゆる連邦犯罪やタバコの密輸や密造酒の摘発などへの捜査権限を行使できる。無差別乱射事件に際して全自動射撃出来るよう不法改造された銃、未登録の違法な銃が使われたか否かを調べるため動く。Uniform Controlled Substances Act違反への執行や、薬物事件を麻薬取締局(DEA)やほかの捜査機関から独立して取り扱う法的権限も有している。特別捜査官は、起訴や逮捕などに持ち込んだ事件数に関しては、全連邦機関でも最上位に位置づけられている。特別捜査官は、約5,000人の職員のうち、2,400人前後である。

検査官(Inspector)や調査官(Investigator)は、銃器産業や爆発物産業の規制が任務である。かれらは武装した法執行官ではないが、捜索や検査を実施し、連邦銃器法令の違反者への連邦銃器免許の取消や不更新を提言するなどの行政権限がある。同局にはそのほか、管理部門の職員や、情報分析官、電子関係の専門家など、多くの職員がいる。さらに、ATFは、特別捜査官を補う公式には同局所属ではない、州や地方からのタスクフォース(合同部隊)隊員に、大きく依存している。
採用と訓練

ATF特別捜査官の採用は、姉妹機関の特別捜査官選考過程と比べ、非常に競争的である。典型的には、少なくとも4年制大学の学位を持ち、地方や州警察での4年以上の勤務経験といった競争的な職歴を持つ候補者のうち、5%に満たない人数しか採用されない。採用経過を非公開とする契約があるため、完全には詳細が明らかになっていないが、候補者は最低限、秘密情報に触れるための厳格な背景調査をくぐり抜けねばならず、さらに筆記試験や複数の体力検査、面接や医学検査も、選考の際に考慮される。

特別捜査官は27週間(=半年)の訓練プログラムを、ジョージア州グリンコにある連邦法執行訓練センターで受ける必要がある。アメリカでも最長の訓練の一つで、司法省に属するFBIDEA連邦保安官(USMS)の特別捜査官の訓練よりもはるかに長い。現在は1週間の基礎前段階、12週の犯罪捜査官訓練プログラム、14週の特別捜査官基礎訓練コースで構成され、訓練を終えて初めて、特別捜査官は現場の事務所に配属され、3年の見習いを経て一人前と見做される。

火器の規制

ATFは、アメリカにおける火器の規制を担っており、販売業者に連邦火器免許(Federal Firearms Licenses,FFL)を発行し、免許者の検査をつかさどる。また、国内の銃犯罪を減らす計画にも関わっており、不法にを所持する粗暴犯を見つけ出し、逮捕している。ほかにも、法執行機関に押収された銃の入手経路などを調べることで、若年者が銃犯罪に手を染めることを防ぐ戦略や、現在も続いている犯罪に使用された銃の包括的な追跡戦略にも関与。「国内統合弾道照合ネットワーク」(National Integrated Ballistic Identification Network,NIBIN)を通じて、州や地方の捜査官を支援している。

爆発物の規制

1970年の組織犯罪規正法(Organaized Crime Control Act,OCCA)の規定により、ATFは国内で爆発物を規制し、爆発物に関する罪を犯した人物を訴追する。顕著な成功として知られるのは、1993年世界貿易センタービル爆破事件で使われた車の動きを洗い出し、計画に関与した人物の逮捕を導いた捜査である。アメリカ同時多発テロ事件後に制定された、連邦政府の免許なしに爆発物の使用や所持を制限する安全爆発物法(Safe Explosives Act)の施行もATFが担う。ATFはFBIが捜査を担当する国際テロに関係するものを除き、国内で起きた爆弾事件の多くの捜査を先導する連邦機関とみなされており、特別捜査官はみな、爆発前の捜査について訓練を受けている。また、約150人の高度に訓練された「認定爆発物スペシャリスト」(Certified Explosives Specialists,CES)として知られる専門家集団を抱えている。CES隊員は商業用の爆発物と同様に、IEDに対しても訓練している。現在は米軍に爆発後の証拠回収手法を教えているほか、州や地方警察の爆発物処理班とも緊密に連携している。

批判

ワシントンD.C.にあるATFの本部庁舎。

1990年代のATF

1990年代初めにATFとFBI人質救出チーム(HRT)が関わった2つの事件が批判を集めている。「ルビーリッジの悲劇」 (Ruby Ridge) は、ATFが1990年6月、情報提供者になることを拒んだランディー・ウィーバー(Randy Weaver)に嫌疑を掛けたことから始まる。ウィーバーは1991年2月20日、裁判所に出廷しなかった(ただし、これは保護監察官リッキンス(Richins)が出頭日を3月20日と誤って伝えたせいである)ため、連邦保安官局(USMS)が法廷に連行しようとした。ウィーバーは家族とともに山の頂上にある小屋にこもった。1992年8月21日、USMSの監視チームと銃撃戦になり、保安官補ビル・ディーガン(Bill Degan)と、14歳だったサミュエル・ウィーバー(Samuel Weaver)、ペットの犬が死んだ。連邦政府の法執行官が殉職したことからFBIが現場を引き継ぎ、HRTが配備されたが、偵察・監視行動の錯誤が重なった結果、狙撃手のロン・ホリウチ (Lon Horiuchi) が発砲してウィーバーと友人が負傷し、妻のヴィッキ(Vicki)が死んだ。司法省のその後の調査と議会の公聴会を通じ、ATFやUSMS、連邦検事局、FBI・HRTの行動に対する疑問や、USMSやFBI本部での情報の誤った取り扱いが提起された。ルビーリッジ事件は、武装権の法的権利について活動する人々からの非難にさらされた。

2つ目の事件は、1993年2月28日、テキサス州ウェーコ近くの宗教セクト、ブランチ・ダビディアンをめぐる「ウェーコの悲劇」である。ATFの捜査官がマスメディアを引きつれ、マウント・カルメル・センターと呼ばれたセクトの建物に連邦政府の捜索令状に基づく家宅捜索に入ろうとした。セクトは捜索が近いことを知らされており、奇襲効果は失われていたのにもかかわらず、ATFの指揮官は捜索を強行。結果、銃撃戦が起こり、6人の信者と4人の捜査官が死亡した。FBIのHRTが現場を引き継ぎ、51日に及ぶにらみ合いが続いたが、4月19日に火災が施設から起こった。事件後の捜査により、20人の子供を含む76人の遺体を施設内から発見。大陪審は76人が自殺か、施設内の人物により死亡したとしたが、火災の原因として当初、装甲車がランタンやプロパンガスのボンベを破裂させた説と並び、HRTの放った可燃性の催涙ガスが原因とする説があり、捜査方法に批判が集まり、法執行機関の過剰な権力行使を告発する声があった。催涙ガスの発射から火災まで3時間以上かかっていることや、盗聴された教団の会話などから、現在は装甲車を迎え撃つための放火説が有力である。 この事件については、その他にも批判がある。(ブランチ・ダビディアン#逮捕にあたっての問題点の項目参照)

ティモシー・マクベイはこれらの事件を、1995年4月19日に起こしたオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件の動機として挙げた。

ファスト&フューリアス作戦

2006年より2011年にATFが実行したアメリカからメキシコへの銃密輸を防ぐためのおとり捜査(Operation Fast and Furious、映画「ワイルド・スピード」の原題にちなむ)が失敗したことにより、批判を浴びている。この作戦は密輸を行う売人を摘発するだけでは問題解決に遠いとして、アリゾナ州より意図的に2000丁もの銃器を流出させて銃を追跡し麻薬カルテルを摘発するというものだったが、作戦の成果はほとんど出ず、流出させた銃は行方不明となった。そして2010年12月14日にアメリカ国境警備隊のブライアン・テリー(Brian Terry)がメキシコとの国境から10マイルの場所で発生した銃撃戦で死亡した事件など200件以上の殺人事件で、この作戦で流出させた銃が使用されたことがのちに発覚した。

この一件に関してATFは関与を否定していたが、司法長官のエリック・ホルダーは2011年11月、アメリカからメキシコへ銃が流出したこと正式に認め、ATFの主張を撤回した。しかし一方で2012年にホルダーはアメリカ合衆国下院による聴聞会に召喚された際文書の提出を拒んでおり、議会侮辱罪で告発された。

アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


1950年代から現代

州北部ではさらに数十年間鉱業が重要な産業であり続けた。1980年代初期にショショーニ郡のバンカーヒル・ミル複合施設が閉鎖し、地域の経済を深刻な沈滞状態に追いやった。そのとき以来、アイダホ州北部での観光産業の実質的な隆盛で地域を快復に向かわせた。湖の側のリゾートタウン、コー・ダリーンは地域の観光客の目的地になっている。

1980年代から北アイダホでは極右勢力や生存主義者政治集団が勢力を伸ばしており、特に顕著なものはネオナチの見解を持っているアーリア民族軍だった。これらの集団は州のパンハンドル地域、特にコー・ダリーンの近辺に集中していた。アイダホ州は政治的には保守的だが、その住民の大半はそのようなイデオロギーを拒絶している。

1992年、アイダホ州北部の小さな町ネイプルズに近いルビーリッジで、連邦保安官FBIと白人分離主義者でアーリア民族軍に参加していたランディ・ウィーバーとその家族の間に、紛争が起こった。銃撃戦と連邦保安官の死に続いて、ウィーバーの息子と妻が国民の注目を集め、そのような状況で連邦制が権力を行使することについてかなりの量の議論を呼んだ。

2001年、ハイデン湖に位置していたアーリア民族軍施設が裁判の結果差し押さえられ、組織はアイダホ州から出て行った。同じ頃、ボイシ市はアンネ・フランクの銅像を飾り、彼女やその他多くの著作家の人間の自由や平等を称える印象的な石造人権記念碑を建立した。最近の世論調査では、アイダホの市民は異なった文化や民族性の人々を受け入れる傾向にある。




ネバダ核実験施設からの放射能廃棄物

ネバダ核実験場で行われた大気圏内核実験に起因する、人口当たり沃素131甲状腺線量異常発生数

アイダホ州は1950年代と1960年代にネバダ核実験場で行われた核実験に起因する死の灰が降った州の一つである。連邦政府が発行した報告書では、これら実験の結果として多くのアイダホ住民が被災し今も苦しんでいることを示している。2007年9月現在、連邦議会は犠牲者に対する補償努力を続けている。

アイダホ州の歴史出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ブランチ・ダビディアンのような終末思想を持つ宗教団体の取り締まりであっても適正手続きの原則が守られる必要があるという事。



ブランチ・ダビディアン(Branch Davidian)は、アメリカ合衆国を拠点とする新興宗教セブンスデー・アドベンチストの分派の「ダビデ派セブンスデー・アドベンチスト教会」(通称:ダビデアンズ)から、1955年に分裂・分派したプロテスタント系のセクトである。

概要

1930年にセブンスデー・アドベンチスト教会を破門されたブルガリア出身のヴィクター・ホウテフが、1934年ヨハネの黙示録による終末思想を思想体系とするセクト、ダビデ派セブンスデー・アドベンチスト教会を結成した[1]。この一派は、ホウテフの著書にちなんで「羊飼いの杖」とも呼ばれた。1955年にホウテフが死去し妻のフローレンスが指導者となり、1959年に終末が到来すると予言した。しかし、予言が外れたために教団は分裂し、ユダヤ系のベンジャミン・ローデンが次の指導者となって教団名をブランチ・ダビディアンに改めると共に、マウント・カルメル・センターを建設した。

1978年にローデンが死去し、妻のロイスが後継となるが、1986年にはロイスも死去する。その後、ロイスの息子ジョージと、特別な予言力を持つと自称するバーノン・ハウエルが後継者争いを起こし、1987年には両派閥による銃撃戦に発展してジョージを追い出した。この事件はメディアに大きく取り上げられ、ブランチ・ダビディアンの名を人々に意識させた[1]

1990年にハウエルが新教祖に就任したのをきっかけに選民思想を説き、ブランチ・ダビディアンの信者達だけが最終戦争に生き残ることをに認められた民と位置づけ、カリスマ的な独自の布教で信者を獲得した。ハウエル自身はデビッド・コレシュ英語版)と改名。デビッドはイスラエル王国ダビデ王にちなみ、コレシュはバビロン捕囚のユダヤ人を解放したペルシャ皇帝キュロス2世にちなむ。教団は最終戦争に向け武装化を強力に推進し、大量の銃器を不正に獲得、司法当局やマスメディアに注目されるに至る。

1993年2月28日テキサス州ウェーコの教団本部(マウント・カルメル・センター)に対し強制捜査が行われるが、ダビディアンはバビロニア軍隊に攻撃されるであろうとの予言を信じていたため、連邦捜査官をバビロニア軍隊と思い込んだ信者の応酬はすさまじく、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)の捜査官4名、ダビディアン側6名の死者を出す。さらにはATFから捜査情報が事前に漏れていたため、テレビ局のカメラの前で銃撃戦の様子が放映され、世界中に衝撃を与えた。

1993年4月19日、炎上するマウント・カルメル・センター。FBI撮影。

この後、捜査はFBIが引継ぎ、全米国民が見守る中、51日間の膠着が続いた。ダビディアン側は武器弾薬に加え、1年分以上の食料を備蓄し籠城した。同年4月19日、司法長官ジャネット・リノは強行突入を決行。FBIやATFは軍から借り受けた十数両に及ぶ戦車装甲車M3ブラッドレー騎兵戦闘車9~10両、CSガス(催涙ガス)で武装したM728戦闘工兵車4~5両、M1A1エイブラムス主力戦車2両、M88装甲回収車1両)、武装ヘリコプター催涙弾などで突入した。ところが、信者は意に反し投降しなかった。その後、突然建物から出火、教団本部は炎に包まれ、ほとんどの信者は焼死した。コレシュを含め81名の死者を出し、内子供が25名、生存者は9名であった。

詳細は「ウェーコ包囲」を参照

ブランチ・ダビディアン本部爆発炎上事件は、発生直後にはブランチ・ダビディアンを危険なカルト集団として批難する声が大多数だったが、時が経つにつれてアメリカ南部では南部特有のメンタリティから事件を悲劇として捉え、連邦政府を批難する声が増えていった[1]。1995年には北テキサス憲法民兵によってウェーコに信者を悼む記念碑が建てられている。

本部を失ったものの、教団自体は現在も"The Branch, The Lord Our Righteousness "と改称して存続している。指導者はローデン夫妻の信奉者のCharles Paceで、信徒は1200人とされる。

逮捕にあたっての問題点



この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2020年7月)

FBIと銃撃戦の末、コレシュは80人の信者を道連れに自殺。信者のほとんどは焼死と見られるが、出火原因が問題になっている。

装甲車ランタンプロパンガスのボンベを破裂させた説や、可燃性の催涙ガスにFBI側の銃火が飛んで引火したという説も一時取りざたされたが、催涙ガスの発射から火災まで3時間以上かかっていることや、盗聴された教団の会話などから、現在は戦車を迎え撃つための放火説が有力である。

FBIは1発も実弾は発射していないと主張していたが、当初FBIが発火剤入りの催涙ガスは使用していないという虚偽の説明をしたことから、この主張も疑われた(ただし、火災発生までの時間の関係から、この催涙ガスが発火原因になった可能性は無い)。マスコミが赤外線カメラヘリコプターから撮影した映像には銃弾の発射の模様が映っていると言われていたが、実際の発砲を赤外線カメラで撮影した光とは全く違っていたことが判明し、またよく見ると銃口と光の位置がずれているので、何かの反射光を捉えたと、ナショナルジオグラフィックチャンネルの「衝撃の瞬間」は結論している。また、信者が脱出しようとしていたところに少なくとも2回の実弾攻撃を加えたという証言があるが、信憑性は定かではない。

逮捕状の請求や武器の使用に法律違反があったのは確かであり、子供がいるにもかかわらず催涙ガスを使用したこと(子供用のガスマスクが無かったため、大変な苦痛にさらされていたと推測される)。また、ATF職員との銃撃戦についても、信者のうち4人が無罪となった。信者の1人は昼食を食べていたところを、壁を貫通した砲弾にあたって死亡している。

また、FBIは4月14日にコレシュが送ってきた降伏の手紙を司法長官に渡さなかった。内容は「刑務所で信者たちに布教ができるように計らえば投降する」というもの。

一連の教団施設攻撃は、適正手続き(due process)という点から政府の対処に問題ありとして批判を浴びている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ブランチ・ダビディアン



トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson1856年12月28日 - 1924年2月3日[1])は、アメリカ合衆国政治家政治学者。第28代アメリカ合衆国大統領を務めた。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党の大統領である。「行政学の父」とも呼ばれる。

概要

進歩主義運動の指導者として1902年から1910年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から1913年までニュージャージー州知事を務めた。1912年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党セオドア・ルーズベルトウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位では無く、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。

1885年にブリンマー大学歴史学及び政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を受ける。1888年にコネチカット州ウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任し、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。

1887年に執筆した論文『行政の研究』(ザ・スタディ・オブ・アドミニストレイション)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]

大統領

当初の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰し、国際連盟の創設に尽力した。その功績により、ノーベル平和賞を受賞している。敬虔な長老派教会の信者であったウィルソンは、教訓主義の深い感覚をインターナショナリズムに取り入れた。それは現在「ウィルソン主義」と呼ばれる。ウィルソン主義は、アメリカ合衆国が民主主義を標榜し国内外の政治体制の変革を追求することを使命と見なすことであり、今日も議論されるアメリカの外交政策の指針となった。ただし、ここまでの成果は慈善家のクリーブランド・ドッジ英語版)の協力無しには得られなかった。

ウッドロウ・ウィルソン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



戦争を終わらせるための戦争」(せんそうをおわらせるためのせんそう、英語: The war to end war)は、第一次世界大戦を表すために使われた言葉。「すべての戦争を終わらせるための戦争」(英語: The war to end all wars[1])とも呼ばれる。もともとは理想主義的な言葉であるが、現在では軽蔑的に使われている[2]

起源

1914年8月、第一次大戦の開戦直後、イギリスの作家で社会評論家のハーバート・ジョージ・ウェルズロンドンの新聞紙に幾つかの記事を発表し、これは後にThe War That Will End War『戦争を終わらせる戦争』という題で本になった[3][4]。ウェルズは戦争を起こしたとして中央同盟国を非難し、ドイツ軍国主義の敗北のみが戦争の終結をもたらすと論じた[5]。1918年発表の In the Fourth Year の中で、ウェルズはより短く、"The war to end war"(戦争を終わらせるための戦争)とし、この中で彼はこの言葉が1914年の後半には流布していたとしている[6]。事実、この表現は世界大戦の最も一般的なキャッチフレーズとなった[5]

後世、一度しかこの言葉を使っていないウッドロウ・ウィルソンにこの言葉が帰せられることになった[7]。「世界は民主主義にとって安全でなければならない[8]」という言葉とともに、人類の自由を守るためにアメリカが戦争に参加することが必要であるというウィルソンの信念として表される[7]

戦争を終わらせるための戦争出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



平和に関する布告(へいわにかんするふこく、Декрет о мире)は、1917年11月8日ユリウス暦10月26日)に起きたロシア革命十月革命)中に、ウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権の第2回全ロシア・ソビエト大会で発表された布告である。

その内容は、「無賠償」・「無併合」・「民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案したものであり、新生ロシア最初の対外政策であった。この平和に関する布告は、ウッドロウ・ウィルソンに「世界に貴重な原則を示した」と称えられ、当時のドイツオーストリア・ハンガリー労働者だけではなく、[1]諸外国の民衆や被圧迫民族解放理論に多大な影響を与えた。

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新世界秩序(しんせかいちつじょ、: New World Order、略称:NWO)とは、国際政治学用語としては、ポスト冷戦体制の国際秩序を指す[1]。また陰謀論として、将来的に現在の主権独立国家体制を取り替えるとされている、世界政府パワーエリートをトップとする、地球レベルでの政治経済金融社会政策の統一、究極的には末端の個人レベルでの思想や行動の統制・統御を目的とする管理社会の実現を指すものとしても使われる[2][3][4][5]

概要

New World Orderという用語自体は第一次世界大戦後頃から英米政治家によって多用されるようになった。公式で確認されている中でも、国際連盟の設立とベルサイユ体制の構築によって大国間の勢力均衡が大きく変化したことを指したアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンや、第二次世界大戦の悲惨な帰結を見たイギリス首相ウィンストン・チャーチルが、破滅的な第三次世界大戦を避けるには国民主権国家を廃絶し世界政府の管理による恒久的な平和体制の実現が不可欠であるとして、この言葉を使った[6]

SF小説家歴史家としても著名なH・G・ウェルズは国家の存在を認める国際連盟を批判し、主権国家の完全な根絶と、高級技術官僚や少数のエリートによる世界統一政府を通じた地球管理を訴え、1940年に『新世界秩序』(New World Order)を出版しその持論を述べた[7][8]

この用語が一般にも広く知られるようになったのは、1990年9月11日に時のアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュ湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチであった[9]。下記は1991年3月6日の『新世界秩序(New World Order)』というスピーチの一部の抜粋。
Until now, the world we’ve known has been a world divided—a world of barbed wire and concrete block, conflict and cold war. Now, we can see a new world coming into view. A world in which there is the very real prospect of a new world order. In the words of Winston Churchill, a "world order" in which "the principles of justice and fair play ... protect the weak against the strong ..." A world where the United Nations, freed from cold war stalemate, is poised to fulfill the historic vision of its founders. A world in which freedom and respect for human rights find a home among all nations.

今日まで我々が知っていた世界とは、分断された世界―有刺鉄線コンクリートブロック、対立と冷戦の世界でした。今、我々は新世界への到達を目にしています。まさに真の新世界秩序という可能性です。ウィンストン・チャーチルの言葉で言えば、"正義と公正の原理により弱者が強者から守られる世界秩序"です。国連が、冷戦という行き詰まりから解放され、その創設者の歴史観を貫徹する準備の出来た世界、自由と人権の尊重が全ての国家において見出せる世界です。
その他に、ヘンリー・キッシンジャービル・クリントントニー・ブレアゴードン・ブラウンジョージ・ソロスデイビッド・ロックフェラージョー・バイデンなどもこの語を使ったことで知られる。

そして、New World Orderの概念は、もはや陰謀論ではなく、今や公然の物として現れ、隠されなくなっている。
The United Nations New World Order Project is a global, high-level initiative founded in 2008, and led by Jayme Illien, and Ndaba Mandela, to advance a new economic paradigm, and a new world order for humankind, which achieves the UN’s Global Goals for Sustainable Development by 2030, and the happiness, well-being, and freedom of all life on Earth by 2050.

国連新世界秩序プロジェクトは、2030年までに国連の持続可能な開発のためのグローバル目標を、そして、2050年までに地球上の全ての生命の、幸福、健康、自由を、達成する、人類のための新経済パラダイムと新世界秩序を進めるために、2008年に設立され、ジェイム・イリエンとンダバ・マンデラによって率いられた、グローバルで高レベルのイニシアチブである。 — https://unnwo.org/

新世界秩序出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



管理社会(かんりしゃかい)とは社会の形態を表す言葉の一つ。社会統制により個人が抑圧・否定される社会。

意味

情報技術発達することで、社会の多岐にわたる事柄に関して徹底した情報収集と集中管理が技術的に可能となる。これを社会で包括的かつ積極的に導入し、社会のなかの個人や組織を統一管理しようとする社会またはその概念や風潮をいう。

古くは各々の物々交換であったやりとりを、通貨を介する方法に統一管理されたこと、さらには銀行で決済を行ったりするようになったことも、経済(経国済民)の面での管理社会化といえる。さらに現在は、プリペイドカードなどの仮想通貨も普及しつつある。

運用次第では、人間に関しても病歴[1]などの個人情報や、移動場所[2]や購買履歴などの生活・行動に関する様々な情報が収集され、それらが特定個人の情報として(横方向にも)関連付けられる。個人の行動様式も把握可能になる。

一方で、便利さの裏返しとして個人の情報を特定機関(多くは政府)に預けることになり、アクセスできる者の不正窃視・改ざん、情報漏えい、また個人の行動が監視・記録されることで個人の信条や趣向などが解析され、政府などが個人の自由権利を抑圧したり、特定組織人のみが利するような極めて不平等・不自由な社会となっていく。

この言葉は、1960年代より日本の学会マスコミで用いられるようになった。個人の信条や行動が監視され、抑圧・統制されるようになる社会といった否定的な意味合いで用いられることが多い。「1984年 (小説)」では、特定政党が牛耳る管理社会・監視社会で、情報操作により一般市民が愚民化・奴隷化し、それに対する抵抗も無に帰すフィクションが描かれている。

管理社会出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



作品背景

オーウェルは1944年には本作のテーマ部分を固めており、結核に苦しみながら1947年から1948年にかけて転地療養先の父祖の地スコットランドジュラ島でほとんどを執筆した[4]。病状の悪化により1947年暮れから9か月間治療に専念することになり、執筆は中断された。1948年12月4日、オーウェルはようやく『1984年』の最終稿をセッカー・アンド・ウォーバーグ社(Secker and Warburg)へ送り、同社から1949年6月8日に『1984年』が出版された[5][6]

1989年の時点で、『1984年』は65以上の言語に翻訳される成功を収めた[7]。『1984年』という題名、作中の用語や「ニュースピーク」の数々、そして著者オーウェルの名前自体が、今日では政府によるプライバシーの喪失を語る際に非常に強く結びつくようになった。「オーウェリアン(Orwellian、オーウェル的)」という形容詞は、『1984年』などでオーウェルが描いた全体主義的・管理主義的な思想や傾向や社会を指すのに使われるようになった。

当初、本作は『ヨーロッパ最後の人間(The Last Man in Europe)』と題されていた。しかし1948年10月22日付の出版者フレデリック・ウォーバーグに対する書簡で、オーウェルは題名を『ヨーロッパ最後の人間』にするか、『1984年』にするかで悩んでいると書いているが[8]、ウォーバーグは『ヨーロッパ最後の人間』という題名をもっと商業的に受ける題名に変えるよう示唆している[9]。オーウェルの題名変更の背景には、1884年に設立されたフェビアン協会の100周年の年であることを意識したという説[10]、舞台を1984年に設定しているジャック・ロンドンのディストピア小説『鉄の踵(The Iron Heel、1908年刊行)』やG.K.チェスタトンの『新ナポレオン奇譚(The Napoleon of Notting Hill、1904年刊行)』を意識したという説[11]、最初の妻アイリーン・オショーネシーの詩、『世紀の終わり、1984年(End of the Century, 1984)』からの影響があったとする説などがある[12]アンソニー・バージェスは著書『1985年(1978年刊行)』で、冷戦の進行する時代に幻滅したオーウェルが題名を執筆年の『1948年』にしようとしたという仮説を上げている。ペンギン・ブックス刊行のモダン・クラシック・エディションから出ている『1984年』の解説では、当初オーウェルが時代設定を1980年とし、その後執筆が長引くに連れて1982年に書きなおし、さらに執筆年の1948年をひっくり返した1984年へと書きなおしたとしている[13]

オーウェルは1946年のエッセイ『なぜ書くか(Why I Write)』では、1936年以来書いてきた作品のすべてにおいて、全体主義に反対しつつ民主社会主義を擁護してきたと述べている[14]。オーウェルはまた、1949年6月16日全米自動車労働組合のフランシス・ヘンソンにあてた手紙で、「ライフ」1949年7月25日号および「ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー」7月31日号に掲載される『1984年』からの抜粋について、次のように書いている。
わたしの最新の小説は、社会主義イギリス労働党(私はその支持者です)を攻撃することを意図したのでは決してありません。しかし共産主義ファシズムですでに部分的に実現した(…)倒錯を暴露することを意図したものです(…)。小説の舞台はイギリスに置かれていますが、これは英語を話す民族が生来的に他より優れているわけではないこと、全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうることを強調するためです[15]
しかしアメリカなどでは、一般的には反共主義のバイブルとしても扱われた。アイザック・ドイッチャーは1955年に書いた『一九八四年 - 残酷な神秘主義の産物』の中で、ニューヨークの新聞売り子に「この本を読めば、なぜボルシェヴィキの頭上に原爆を落とさなければならないかわかるよ」と『1984年』を勧められ、「それはオーウェルが死ぬ数週間前のことだった。気の毒なオーウェルよ、君は自分の本が“憎悪週間”のこれほどみごとな主題のひとつになると想像できたであろうか」と書いている[16]

1984年 (小説)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



平和(へいわ、: peace)は、戦争暴力で社会が乱れていない状態のこと。

概説

戦争は人類と同じくらい古いように見えるが、平和は現代の発明である[1]

国際関係において「平和」は戦争が発生していない状態を意味し、元来、戦争は宣戦布告に始まり平和(講和)条約をもって終了し、これにより平和が到来するとされてきた[2]国際連合憲章の下では、一般に、自衛権や安全保障理事会の決定に基づくもの以外の武力行使は禁止されており、伝統的な意味での戦争は認められなくなっている[3](戦争の違法化)。しかし、武力紛争は現実には発生しており[3]、特に第二次世界大戦後の武力衝突では宣戦布告もなく休戦協定も頻繁に破られるなど旧来の戦争の定義をあてはめることが困難になり戦争と平和の時期的な区別も曖昧になっているという指摘がある[2]。また、従来、国際平和秩序はあくまでも国家間での平和の維持を共通目標とするものにとどまり、各国の国内の人民の安全まで保障しようとするものではなかったため、各国の国内での人道的危機が国際社会から見放されてきたのではないかという問題も指摘されており、人間の安全保障と平和の両立が課題となっている[4]

国家間の平和から人間の安全保障への展開

上のように人間の安全保障と平和の両立が新たな課題となっている[4]ルドルフ・ジョセフ・ランメル英語版)によって20世紀に発生した政府権力による民衆殺戮の犠牲者数は戦争犠牲者数を上回るという研究が出されるなど、従来の平和創造の歴史は国家間の平和にとどまり必ずしも人々の安全確保のためではなかったことが問題視されるなど伝統的な平和観の変容が指摘されている[5]。国民統合が進まず政府の統治の正当性が確立されていない多民族国家発展途上国では、外部脅威に加えて反体制派(運動)や分離主義(運動)といった内部脅威が存在し、内部脅威への強権的な対応の帰結として戦争の犠牲者数を上回るほどの多くの命が政府権力の手によって奪われるという人道的危機を発生させた[6]。その背景には、武力行使が禁止され侵略戦争は減少したが、国際政治での勢力拡張の様式が旧来の侵略や領土併合ではなく同盟国や友好国の数を増やすことに変化した結果、同盟国や友好国の内部で発生する非人道的行為が看過されることになったこと[7]、核時代の黎明期に「平和共存」平和観が支配的になり、人権侵害を止めるための外交的圧力がかえって国際関係に緊張をもたらし核戦争にまで発展する恐れがあることから敵対する陣営内の人権問題への干渉は互いに控えねばならず、人権の抑圧等が看過せざるを得ない状況が出現したことが挙げられている[7]

2001年1月に緒方貞子国連難民高等弁務官(当時)とアマルティア・セン・ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長(当時)を共同議長とする「人間の安全保障委員会」が創設され、2003年2月の最終報告書では「安全保障」の理論的枠組みを再考し、安全保障の焦点を国家のみを対象とするものから人々を含むものへ拡大していく必要があり、人々の安全を確保するには包括的かつ統合された取り組みが必要であるとしている[8]。グローバル化や相互依存の深まりによって、戦争に限らず、貧困、環境破壊,自然災害、感染症、テロ、突然の経済・金融危機といった人々の生命・生活に深刻な影響を及ぼす国際課題に対処するためには、従来の国家を中心に据えたアプローチだけでは不十分になってきているという背景もある[8]

一方、1990年代のバルカン半島情勢への対処以降、人道目的のための武力行使(人道的介入)が増加している。これは国家中心的で伝統的な主権の概念よりも人権と正義に関する国連憲章条項が重視されるようになったことと関係があると広く考えられているが、人道目的のための武力の行使や武力の行使の示唆に対しては異論もある[9]

平和論の類型

今日までの平和論は軍縮・軍備管理による平和、戦争違法化による平和、経済国際主義による平和、相互信頼による平和、集団安全保障による平和などに分類される[10]。このほかに20世紀末に民主主義による平和論が考えられるようになった[11]

勢力均衡

19世紀のヨーロッパにおいては、勢力均衡が大局的な平和に寄与すると考えられていた。これは当時のヨーロッパの大国がそれなりに釣り合いの取れた国力を有したことと、最有力国であるイギリスヨーロッパ大陸の覇権争いから距離を置き、バランサーとして振る舞うことで成立した。ただしこれで維持される平和は大国間のものにすぎず、ヨーロッパ外の勢力は次々と植民地化されていった。また19世紀後半に入ると勢力の均衡が崩れ、軍拡競争の果てに第一次世界大戦の勃発によって勢力均衡方式は破綻した[12]。ただしこの理論は第二次世界大戦後、アメリカ合衆国ソヴィエト連邦による冷戦の中で復活し、ハンス・モーゲンソウらの唱える現実主義は勢力均衡の重要性を論じた[13]。やがてケネス・ウォルツネオリアリズムを唱え、従来の勢力均衡理論に変更を加えたものの本質的なものではなく、2大勢力の間の勢力均衡こそが最も安定すると論じた[14]。ウォルツの理論は勢力均衡論に大きな影響を与え、突出した大国が覇権を握る状況が最も国際情勢が安定すると唱えるロバート・ギルピン覇権安定論[15]、均衡の対象は強国ではなく最も脅威とみなされる国家となると唱えるスティーヴン・ウォルト脅威均衡など[16]、さまざまな理論へと発展していった。

軍縮及び軍備管理

軍縮・軍備管理による平和としては、国際連盟規約ワシントン海軍軍縮条約弾道弾迎撃ミサイル制限条約戦略兵器削減条約核拡散防止条約などがある[10]。こうした軍縮を行う国際機関としては、ジュネーブ軍縮会議が前身も含めれば1960年から活動を行っているものの、21世紀に入ってからの活動は停滞が続いている[17]

第一次世界大戦後、国際連盟規約で軍備縮小が定められ、1922年のワシントン海軍軍縮条約では列強各国の海軍艦船の制限が取り決められたものの、この割り当てに対して日本などでは強い不満が起きることとなり、のちに日本は1930年のロンドン海軍軍縮会議からも1936年に脱退し、1935年の第二次ロンドン海軍軍縮会議などの努力もあったものの、結局軍縮は失敗して第二次世界大戦へとつながっていくことになった[18]

第二次世界大戦後の軍備管理条約は、まず世界中に拡散してしまった核兵器の軍縮から始まった。1963年の部分的核実験禁止条約では地下核実験を除く核実験が禁止され、1970年に発行した核拡散防止条約ではアメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国の5ヶ国以外の核保有を認めないことで核保有国の拡大にとりあえずの歯止めをかけた[19]。核実験に関しては、1996年に地下核実験も含む全ての核実験の禁止を定めた包括的核実験禁止条約が採択されたものの、一部国家において批准がなされておらず、条約は未発効のままとなっている[20]

また、1967年にラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)が調印された[21]のを皮切りに非核兵器地帯の設定が世界各地で進められ、1985年の南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)[22]、1995年の東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約)[23]、1996年のアフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約)[24]、そして2006年の中央アジア非核兵器地帯条約(セメイ条約)[25]と、相次いで非核兵器地帯が設定された。

冷戦における二大大国であるアメリカとソ連の間でも1969年に第一次戦略兵器制限交渉が開始され、1972年に調印されたのを皮切りに、第二次戦略兵器制限交渉(1979年)、中距離核戦力全廃条約(1987年)、第一次戦略兵器削減条約(1991年)と相次いで戦略兵器削減条約が締結された[26]。1990年にはヨーロッパ通常戦力条約が締結され、通常戦力の削減も行われた。1991年にソ連が崩壊した後もロシアとのあいだで第二次戦略兵器削減条約(1993年)が締結されたもののこれは発効しなかったが[26]、のちにモスクワ条約 (2002年)[27]第四次戦略兵器削減条約(2011年)が発効するなど核軍縮の努力は続けられた。

各国の主権の及ばない地域においては、1959年の南極条約において南極における一切の軍事行動が禁止され、1967年の宇宙条約において地球周回軌道や宇宙空間に大量破壊兵器を運ぶ物体を乗せること、および月など他天体における一切の軍事行動が禁止され、さらに1971年の海底核兵器禁止条約における大量破壊兵器の設置を禁じるなど、軍事行動の禁止・抑制が相次いで決定された[28]。ただし宇宙条約では宇宙空間における通常兵器の使用は禁じられておらず、宇宙における軍備管理の議論も停滞している[29]

化学兵器生物兵器に関しては、1925年のジュネーヴ議定書で使用が禁止されたあと、1975年の生物兵器禁止条約によって生物兵器の開発・生産・貯蔵等が全て禁止され[30]、次いで化学兵器の生産・貯蔵等も1993年の化学兵器禁止条約によって禁止された[31]

通常兵器に関しては、1980年の特定通常兵器使用禁止制限条約において地雷焼夷兵器の使用制限が取り決められ[32]、1997年の対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約(オタワ条約)において対人地雷の使用、貯蔵、生産、移譲等の全面禁止が定められ[33]、2008年のクラスター弾に関する条約ではクラスター爆弾の全面禁止が決定された[34]

戦争の違法化

戦争の違法化は国際連盟の設立を機に、1928年の不戦条約で戦争放棄に関する初の多国間条約が成立し、第二次世界大戦後には国際連合憲章の武力行使禁止原則(国際連合憲章第2条4項)に発展した[10]。国際連合憲章第2条第4項では「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と定められている[35]。ただし、国連憲章51条によって、他国からの侵略に対する防衛は自衛権として明確に例外とされ、認められている。自国のみの自衛権だけではなく、ある国が侵略を受けた際に第三国が共同で被侵略国を防衛する集団的自衛権も、同条項にて明確に認められている[36]

経済国際主義

戦争は資源や食糧を求めて他国を侵略することで発生することから、資源の共同管理や自由貿易(資源・食糧を金銭で獲得できる制度)を実現すれば戦争はなくなるという考え方が経済国際主義による平和論である[10]。この説の起源は古く、1910年にはイギリスのラルフ・ノーマン・エンジェルが当時の貿易統合の高まりを見て、経済緊密化による戦争抑制を唱えた[37]ものの、その4年後の1914年には第一次世界大戦が勃発した。やがて21世紀に入ると、エリック・ガーツキーが商業的平和論英語版)を唱え、貿易の依存関係ではなく直接投資の拡大が平和をもたらすのに大きな効果があると論じたが、この論には反証も挙げられている[38]。この理論は一般論としても支持者が多く、例えばコラムニストトーマス・フリードマンは1996年に「ゴールデンアーチ理論」を提唱し、ゴールデンアーチ、すなわちマクドナルドが進出するほど中間層が成長した国どうしでは戦争は起きないと唱えた。この理論はいくつかの例外を含みつつもある程度持ちこたえていたものの、2022年のロシアのウクライナ侵攻によって、両国ともにマクドナルドが進出していたために完全に崩壊した[39]

相互信頼による平和論

戦争を偏見と民族差別に起因するものとみて相互信頼を構築することによって戦争が予防されると考える平和論である[10]。国際連盟の知的協力委員会及び第二次世界大戦後のユネスコの活動、国際親睦団体による国際交流や留学制度にその思想が引き継がれている[10]

集団安全保障

国際社会で集団的な制裁の仕組みを作ることによって戦争を防止しようとするもの[10]集団安全保障体制は、国際連盟で初めて制度実現し、その後、国際連合で整備拡充されて今日に引き継がれている[10]。集団的自衛権との違いは、集団的自衛権が基本的に同盟国間で適用されるのに対し、集団安全保障は国際社会全体での対応を念頭に置いている点である[40]

リベラリズム

リベラリズム的平和論としては、まず機能主義が現れ、協力が困難な安全保障問題ではなく、経済や文化など協力しやすい特定の分野において交流を深め、国際平和を確実なものにしようと説いた。これは19世紀後半以降の各種国際機関の設立をもたらした。次いで1950年代には新機能主義が登場し、特定分野での協力を深化させて政治的信頼を醸成し、政治統合によって国家主権を徐々に超国家機構へと移行させることで平和を構築しようと考えた。これは欧州経済共同体の設立などの成果をもたらしたが、1960年代には行き詰まった。1970年代にはジョセフ・ナイロバート・コヘイン相互依存論を唱え、複合的な国家間の相互依存関係が深まることで平和の可能性が高まると説いた[41]

民主的平和論

民主国家の間には相互に戦争を抑制する制度と文化が備わっていると考え、世界のすべての国を民主化させることにより平和を実現しようとするのが民主的平和論である[11]。この思想の起源は古く、すでに18世紀にはイマヌエル・カントがこれに類似した論を提唱していたが、1980年代に入るとマイケル・ドイルブルース・ラセットらがこれを立証し、民主的平和論を確立させた[42]。民主国家間での戦争が少ない理由については、民主主義国は内政において議会などにより平和的に紛争を解決する規範を持っており、それを相手国にも期待できるためという説[43]や、民主国家においては権力分立が確立しており、国民が選挙世論を通じて政府の暴走を止めることができるため、政府や政治家もそれを念頭に置いて平和的政策を採らざるを得ないという説[44]、また民主国家では政府の透明性が高く、相手国の情報がお互いに得やすいため相手の反応や限界が見極めやすいから[45]、民主国家が仮に参戦した場合は非常に継戦能力が高く危険なため[46]など、いくつかの説が存在する。

なお、成熟した民主国家間において戦争が起きにくいことにはほぼ合意が存在するものの、急激な民主化は必ずしも平和をもたらさない場合がある。これは、国内の政治情勢がまだ安定しておらず、先鋭化した国内対立が軍事的対立へとつながる場合があるためである[47]。また、独裁国家における戦争可能性はその政治システムによって左右され、文民による集団指導体制では武力行使の可能性は低くほぼ民主国家と同じ程度であるのに対し、独裁者一個人に依拠する体制では戦争に及ぶ可能性が高まると考えられている[48]。厳格なジャーナル「政治交流」によると、民主政治と平和の関係は誤りであり、実際には民主国家間の貿易や同盟の拡大が平和の原動力であるという意見もある。同誌によれば、権威主義が復活しつつある世界において、民主主義と平和の関係を真に理解する必要性が迫られているとのことである[49]

平和出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ウィルソン主義(ウィルソンしゅぎ)またはウィルソニズム英語: Wilsonianism)とは、外交政策に関する定見の一種である。アメリカ合衆国大統領(1913-1921)であったウッドロウ・ウィルソンの考えや提案に由来する。彼は、第一次世界大戦を終結させ、世界平和を促進するための基礎として、1918年1月に有名な「十四か条の平和原則」を発表した。また、国際社会が戦争を回避し、敵対的な侵略を終わらせることを可能にするために、国際連盟を提唱した。ウィルソン主義は、リベラルな国際主義の一形態である[1]

原則

ウィルソン主義の共通の原則には、次のようなものがある:民族自決の重視[2][3]
民主主義普及の提唱[4]
資本主義普及の提唱[5]
集団安全保障の支持、アメリカ孤立主義英語版)への(少なくとも部分的な)反対[6]


歴史家ジョアン・ホフは「『普通の』ウィルソン主義が何であるかは、今日でも論争の的になっている。ある人にとってはそれは民族自決への固執に基づく『刺激的なリベラルな国際主義』であり、またある人にとってはウィルソン主義は『世界に対する人道的介入の模範』で米国の外交政策を慎重に定義された制限的な武力行使の模範としている」と述べている[7]。アモス・パールマターは、ウィルソン主義を、集団安全保障・開放外交・資本主義・アメリカ例外主義門戸開放政策への支持と反革命を指向し、「自由主義的介入主義・民族自決・不介入・人道的介入」から同時に構成されていると定義した。

ウィルソン主義出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



十四か条の平和原則(じゅうよんかじょうのへいわげんそく、: Fourteen Points)は、1918年1月8日アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則である。

十四か条平和原則(じゅうしかじょうへいわげんそく)[注釈 1]十四か条平和構想(じゅうよんかじょうへいわこうそう)[注釈 2]十四か条(じゅうよんかじょう、じゅうしかじょう)[注釈 3]ともいう。

概要

アメリカは1917年4月6日ドイツ側に宣戦を布告し[1]第一次世界大戦に参戦した。そして、アメリカの兵力と豊富な軍需物資によって、ドイツ側は劣勢に立たされた。この第一次世界大戦中、1918年1月8日に上下両院合同会議での演説によって、その講和原則、ひいては大戦後に守られるべき国際的な平和の構想を全世界に提唱した[1]。翌1919年1月に開会されたパリ講和会議においては、米国全権代表となったウィルソンはこの十四か条の平和原則をアメリカの中心的主張とし、それはヴェルサイユ条約の原則となった。また、この平和原則はレーニン政権の「無併合、無賠償、民族自決」という講和の原則を発表したことに応じることを目的ともしていた[2]

内容

「十四か条」の各項目は以下の通りである。第1条:講和の公開、秘密外交の廃止
列強中心の「旧外交」の温床となっていた秘密外交の廃止と、外交における公開原則を提唱した。ただし、イタリアは1915年のロンドン秘密条約において「未回収のイタリア」の獲得を約束されていたので、秘密条約を無効にする平和原則は受け入れられなかった[3]
第2条:公海航行の自由
第3条:平等な通商関係の樹立
第4条:軍備の縮小
第5条:植民地問題の公正な措置
民族自決」の一部承認(後述)。
第6条:ロシアからの撤兵とロシアの自由選択
第7条:ベルギーの主権回復
第8条:アルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還
普仏戦争の結果ドイツ領となったアルザス=ロレーヌ地方のフランスへの返還が含まれる。
第9条:イタリア国境の再調整
第10条:オーストリア=ハンガリー帝国の民族自決
オーストリア=ハンガリー統治下の諸民族の自治の保障。
第11条:バルカン諸国の独立保証
第12条:オスマン帝国支配下の民族の自治保障
オスマン帝国統治下の諸民族の自治の保障とダーダネルス海峡自由航行英語版中国語版)。
第13条:ポーランドの独立
18世紀ポーランド分割の結果消滅していたポーランドの復活・独立。
第14条:国際平和機構(国際連盟)の設立

十四か条の平和原則出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』