Yahooニュースでロシア人迫害の歴史とチフスの記事がありましたのでPDF魚拓してチフス患者が発生したら届出必要で抗菌薬やお酒のジンでチフス患者さんを治療するよってお話します。

Yahooニュースでロシア人迫害の歴史とチフスの記事がありましたのでPDF魚拓してチフス患者が発生したら届出必要で抗菌薬やお酒のジンでチフス患者さんを治療するよってお話します。
まずはロシア人が迫害されてきた歴史とチフスの事が明記されているYahooニュース。
ロシア連邦にとってNATOが脅威である理由。







16世紀の初代ツァーリ・イヴァン雷帝以来、ロシアは領土拡張にひた走り、最盛期のソ連時代には全陸地の六分の一を占めた。ロシアの伝統的な征服欲が現在のプーチン大統領にも継承されているのは、ウクライナ侵略を見れば明らかだろう。では、なぜロシアは世界のどの民族にも稀なほどの領土拡張欲求を持っているのか。それには、13世紀のモンゴル人による侵略、そして過酷すぎる支配が、強烈なトラウマになっているのだという。※本稿は、『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』(ポプラ新書)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● 侵略者を遮るもののない大平原の悲哀 常に収奪と破壊にさらされたロシア人  「ロシアにおいて、国家という広域社会が建設されることが、人類の他の文明圏よりもはるかに遅れたという理由の一つは、強悍なアジア系遊牧民族が、東からつぎつぎにロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化があるとそれを荒らしつづけた、ということがあります。文化も、他の生物学的組成と同様、しばしば遺伝します。ロシア人の成立は、外からの恐怖をのぞいて考えられない、といっていいでしょう」(司馬遼太郎『ロシアについて』)  ロシアという国家のルーツは9世紀に現在のキーウのあたりに誕生したキエフ公国です。キエフ公国は、海から川をさかのぼって内陸に入ったスウェーデン人たちが、そこに住んでいたスラブ人の農民を支配して建国したとされています。  キエフ公国のトップはウラジーミル大公。いまのプーチン大統領と同名です。彼は、キリスト教の一派であるギリシャ正教に改宗しました。それが、やがてロシア正教になります。  13世紀になって、キエフ公国は、東方からモンゴル軍の襲撃を受けます。キエフ公国は滅ぼされ、そこから東のモスクワに逃げた人たちによって、ロシアの原型が形成されます。  「当時、ロシア平原には都市ができつつありました。その代表的な都市であるモスクワはモンゴル人によって破壊しつくされ、ひとびとは虐殺されつくしました。他の都市も同様でした。キエフも瓦礫の山になりました」(前同)  その後、モンゴル人の一部はキプチャク汗国を建国して、ロシア平原に居座ります。これが、「タタールのくびき」と呼ばれる停滞時代をもたらします。  「キプチャク汗国のやりかたは、ロシア諸公国の首長を軍事力でおどし、かれらを隷従させ、その上でかれらを通じ、農民から税をしぼりあげるというもので、これにたえられずに逃げてしまう農民もあり、悲惨なものでした。首長が、すこしでも抵抗の色を見せれば、汗国から軍隊が急行するのです。軍隊はその町を焼き、破壊し、ときに住民をみなごろしにし、女だけを連れ去るというやり方をとりました」(前同)  この「タタールのくびき」は259年の長きにわたりました。タタールとはモンゴル人のこと。「くびき(軛)」とは牛や馬を御する時に首に付ける道具。つまりロシアがモンゴルに押さえつけられていた時代という意味です。  「外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰、それらすべてがキプチャク汗国の支配と被支配の文化遺伝だと思えなくはないのです」(前同)
 こんな文化遺伝を受け継いだロシアのプーチン大統領としては、旧ソ連を構成していたウクライナが、かつてソ連に敵対していたNATO(北大西洋条約機構)に入ろうとすることは、「アメリカの陰謀ではないか」との猜疑心につながったのです。 ● プーチンが敬愛する2人の皇帝は アゾフとクリミアを征服した  2022年6月、プーチン大統領は、生誕350年を迎えたピョートル大帝の展示会を視察した後、「ピョートル大帝は偉大な北方戦争を21年間も展開した。スウェーデンから何かを奪ったと思えるが、何も奪ってはおらず、取り返しただけだ」と主張しました(ロイター2022年6月10日)。  彼に言わせれば、スウェーデンが支配していた地域にはスラブ人が住んでいた。それを「取り戻した」という論理なのです。プーチン大統領がウクライナに軍事侵攻したのも「ロシア人を保護するため」という理屈をつけています。彼がピョートル大帝を手本にしていることがわかります。  ピョートル大帝は17世紀末から18世紀にかけてのロシア帝国の皇帝です。ピョートル一世ですが、ロシアを巨大な帝国として築き上げたことで「大帝」と称されます。  初期のロシアは、ヨーロッパではスウェーデンやポーランドに押されて弱小勢力でしたが、ピョートル一世は、プロイセン(後のドイツ)の軍事や税制、官僚制などを手本に近代化を進め、帝国の基礎を固めました。  一方、南方に関してはオスマン帝国が支配する黒海沿岸に進出。いわゆる「南下政策」の端緒を作ります。冬でも凍らない港を確保したかったのです。1696年には黒海につながるアゾフ海に面したアゾフを占領します。いったんはオスマン帝国の反撃を受けて放棄しますが、ピョートル一世の死後、ロシア領となります。  ここは、ロシアがウクライナに侵攻して占領した場所です。プーチン大統領にしてみれば、ソ連崩壊でいったんはウクライナ領になった場所を、ロシアとして取り戻したという発想でしょう。  さらに北方では、バルト海の覇権をめぐって1700年からスウェーデンと戦います。戦争は21年も続いて、ようやく勝利。その戦争中からバルト海の制海権を握り、1712年、バルト海に近い場所にサンクトペテルブルクを建設し、首都をモスクワから移転します。都市名はピョートルの守護聖人である聖ペテロに由来し、「聖なるペテロが守りたもう町」の意味です。
ちなみに、この都市は1905年の第一次ロシア革命が始まった場所であり、ロシア革命が成功してソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立すると、首都は再びモスクワに移転します。その後、この都市は革命の指導者レーニンの名前をとってレニングラード(レーニンの町)と改名されます。プーチンは、ここで生まれています。ピョートル大帝に縁があるのです。  2022年9月、ロシアがウクライナの4州の自国への併合を承認した際、プーチン大統領はクレムリン(大統領官邸のある場所の通称)で演説しました。そのときの演説の一部を見てみましょう。プーチン大統領は、この4州の地域に関し、ロシアの歴史を語っています。  「我々の祖先、すなわち古代ロシアの起源から何世紀にもわたってロシアを建設し守ってきた人々の世代が勝利を収めてきたのである。ここノヴォロシアでは、ルミャンツェフ、スヴォーロフ、ウシャコフが戦い、エカテリーナ二世とポチョムキンが新しい都市を築いた。私たちの祖父や曾祖父は、大祖国戦争中、ここで死闘を繰り広げたのです」  あまり知られていない名前が列挙されていますが、ロシア帝国の英雄たちです。エカテリーナ二世は知られている名前ですね。彼女はロシアを強大な帝国にした女帝で、彼女が確保した領域は「ノヴォロシア」(新しいロシア)と呼ばれています。  ノヴォロシアとは、今回ロシアが併合した地域を含み、さらに北部に広がる地域です。敢えてノヴォロシアという名称を出したということは、先祖が確保した土地は、我々のものだというむき出しの領土欲です。  この演説に登場したエカテリーナ二世は、ピョートル大帝に続いてロシア帝国の領土の拡張を進めた人物です。ロシア帝国の悲願である不凍港を求めて南下政策を進め、二度にわたってオスマン帝国と戦い、クリミア半島を併合しています。  プーチン大統領がクリミア半島に執着するのは、ここが敬愛するエカテリーナ二世が獲得した土地だからなのです。 ● いかなる侵略者もはねのけ続けた 偉大なソ連の誇りを取り戻したい  そのロシアで1917年、世界で最初の社会主義革命が起き、「ソビエト社会主義共和国連邦(通称ソ連)」が誕生します。  ソビエトとは、ロシア語で「評議会」という意味です。革命を指導したレーニンは、議会ではなく、労働者や農民、兵士による自主的な革命組織である評議会を軸に武力革命を達成。皇帝一族を殺害します。この評議会による国家というのがソビエトの国名の由来です。
 ロシア革命に際しては、革命に反対する勢力もあり、一時は内戦が勃発します。革命派は「赤軍」を組織しました。赤は共産主義のシンボルカラーで、つまりは共産軍。これに対抗する武装組織は赤に対して「白軍」と呼ばれました。  この内戦に世界各国が干渉します。イギリスやフランス、カナダ、アメリカ、イタリア、日本などです。これらの国々は白軍を支援したのです。資本主義各国は、社会主義革命に恐怖し、なんとか潰そうとしたというわけです。  最終的に白軍は崩壊し、各国の干渉は終わりますが、アメリカがソ連を国家として承認したのは1933年になってからのことでした。国際連盟に加入が認められたのは翌1934年。ソ連が、世界各国から警戒されていたことがわかります。  ロシア革命を阻止しようと資本主義諸国が軍事介入した。これが、革命後のソ連にとってのトラウマになります。周辺の国がいつ軍事介入するかわからない。ソ連発足以降のロシアの権力者にとっての恐怖心につながるのです。  プーチン大統領は、ソ連時代、スパイ組織KGBに所属していました。ソ連崩壊後、KGBから改組されたFSB(連邦保安庁)のトップも務めていました。彼の下には、当時の部下たちが多数集められ、政権を支えています。  彼は、「ソ連崩壊は20世紀最大の地政学的悲劇」と呼びました。この言葉に、大国だったソ連の誇りを取り戻したいという思いが象徴されています。  彼にとって、第二次世界大戦でドイツの侵略と戦って勝利したソ連の歴史は大いなる誇りです。  ドイツ軍とソ連軍の大規模な戦車戦は、現在のウクライナ東部の平原地帯で展開されました。ここでソ連軍を破ったドイツ軍は、レニングラードやスターリングラードを包囲。ソ連軍に多大な犠牲が出ました。  このときスターリンは、かつてナポレオンの侵略を退けた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いはファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定し、国民を鼓舞しました。  ウクライナに軍事侵攻して以来のプーチン大統領は、かつてのスターリングラード、現在のボルゴグラードで演説し、ウクライナの指導者を「ネオナチ」と非難しています。いまのウクライナを、かつてのナチス・ドイツと同列に扱い、「スターリングラード攻防戦のように戦おう」とロシア国民を鼓舞しているのです。  戦場となった場所のうち、レニングラードはプーチンの出生地。戦争時、プーチンはまだ生まれていませんでしたが、プーチンの兄は腸チフスで死亡し、プーチンの母親も栄養失調で餓死寸前に追い詰められました。プーチンは、幼少期から、この悲劇を聞かされて育ったはずです。自国が強くなければならないと考えたでしょう。プーチンの個人的なトラウマになったのです。
 ドイツによる侵略で、ソ連は兵士や民間人など約2660万人の犠牲を出しました。日本の太平洋戦争の犠牲者は約310万人ですから、ソ連の犠牲は群を抜いていました。  ソ連はこれだけの犠牲を払ってドイツ軍を撃退。さらに東欧諸国を次々にドイツ軍から解放し、遂にはドイツの首都ベルリンに突入。ドイツを降伏させたのはソ連の功績だという誇りを持っているのです。  これだけの犠牲を払って東欧諸国を解放したソ連として、戦後は東欧を緩衝地帯として自国を守る盾にすることを考えます。  その一方で、東欧諸国の国民の間ではソ連に対する嫌悪感が広がりました。ソ連による厳しい統制や圧力があったからです。ソ連の忠実な“弟”たちであることが求められました。ソ連式の政治と経済の手法が押し付けられたのです。  しかし、スターリンの死後、「これでソ連の厳しい統制が緩むのではないか」と考えたハンガリーで、自由化に向けた動きが起きます。ところがスターリン亡き後のソ連も、多数の戦車をハンガリーに送り込んで武力弾圧。ハンガリー共産党の指導者は拘束され、やがて処刑されてしまいます。これが「ハンガリー動乱」(あるいは「ハンガリー事件」)です。ソ連の弾圧に反対して行動に出たハンガリー国民の多くもソ連軍によって殺害されました。  また1968年にも、今度はチェコスロバキア(現在はチェコとスロバキア)で民主化運動が起きると、ソ連は再び戦車で弾圧し、「プラハの春」と呼ばれた民主化運動はついえます。ソ連が崩壊した後、東欧諸国が雪崩をうって西側諸国になびき、NATO(北大西洋条約機構)に加盟したのには、こういう苦くて暗い過去があったからです。  しかし、これがプーチン大統領にとっては、「NATOが東進してきた」という恐怖感につながるのです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/29053517b51947bd1a25bf8b101f1aa8351df004
女は拉致、残りは虐殺のモンゴル騎馬軍…プーチンの猜疑心の裏に「259年に及ぶロシア暗黒史」

11/4(土) 19:02配信DIAMOND

チフスってどんな病気なの。






元々「コレラ」という病名は、ギリシャ語の「kholera」から来たもので、これは“胆汁”を意味する「Khole」に由来しています。それをコロリと呼んだのは、文字通り感染すれば2~3日程でコロリと死んでします恐ろしい病気だったからです。

一方、「チフス」のほうは、古代ギリシャの医師ヒポクラテスが命名したとされています。この病気にかかると、高熱のために幻覚や錯覚を引き起こし、ときに狂躁状態に陥ることもあります。頭に霧がかかったような、靄の中にいるような状態になるため、ヒポクラテスはこの病気をギリシア語で「霧」「もや」を意味する「typhus」と表記しました。チフスという名前はそこから由来しています。

チフスは、戦争、貧困、飢餓など不衛生な環境下において流行します。日本では、1897年(明治30年)に制定された初めての感染症対策のための法律である伝染病予防法において、腸チフス、パラチフス、発疹チフスの三種類がいずれも法定伝染病として記載されていました。また、太平洋戦争の戦況が悪化した1946(昭和21)年には3万2000の人がチフスに罹患し、シラミの駆除が大きな社会問題となりました。

現在、日本国内で大発生ということはなくなりました。しかし、あまり大きく取り上げられませんが、海外旅行の旅行先などでコレラやチフスに感染して帰ってきて問題になるケースもあるようです。

https://mag.japaaan.com/archives/87979/2
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歴史・文化
意識障害、狂躁状態…日本の歴史でも影響を与えた感染症・コレラ、チフスとはどんな病気だった?




東京都は10日、千代田区麹町のカレー店「ディップマハル半蔵門店」を利用した男女8人が下痢や発熱など食中毒の症状を訴え、うち入院した6人からチフス菌を検出したと発表した。いずれも重症の腸チフスだったが、快方に向かっている。

都によると、国が統計を取り始めた2000年以降、食品が原因でチフス菌の国内感染が確認されたのは初めて。千代田保健所は10日から3日間、この店を営業停止処分とした。

都によると、症状を訴えたのは9~39歳の男性5人、23~40歳の女性3人。8月上旬に店が調理した食事や弁当を食べた。男性従業員1人からもチフス菌を検出。従業員に症状はなかった。〔共同〕

https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG1003D_Q4A910C1CR8000/
カレー店で6人腸チフス食中毒 東京・千代田、快方に向かう

2014年9月10日 22:53



 国立感染症研究所は18日、戸山庁舎(東京都新宿区)でチフス菌を扱っていた研究者が腸チフスを発症したと発表した。

国立感染症研究所=2014年10月撮影

 発表によると、この研究者は11日に発熱や腹痛を訴え、医療機関を受診し入院。15日に腸チフスと診断された。研究者が使ったとみられる実験室やトイレなどは消毒し、周囲で新たな感染者は確認されていないという。保健所が感染経路を調査している。

 腸チフスは、感染症法で「3類感染症」に位置づけられている。通常は、チフス菌に汚染された水や食べ物を飲食して感染する。39度を超える高熱や下痢、発疹などの症状が表れ、重症化すると意識障害を起こすこともある。治療には抗菌薬を用いる。国内では近年、年間数十人程度の感染が報告されている。

https://www.yomiuri.co.jp/medical/20230818-OYT1T50226/
国立感染研でチフス菌扱う研究者、腸チフス発症し入院…保健所が感染経路を調査

2023/08/18 20:08



ここから先はチフス患者さんの治療方法に関する記事です。
私の専門はお薬なので、チフスの治療薬は第3世代セファロスポリンやアジスロマイシンなどの抗菌薬を使用するそうである。


https://kateinoigaku.jp/disease/721



原因

腸チフス・パラチフスは、それぞれチフス菌、パラチフスA菌に感染することが原因となります。感染経路は人から人への感染に限られ、感染者(無症状保菌者を含む)の便や尿で汚染された水や氷、食物を摂取することで起こります。

症状

腸チフスとパラチフスの症状はほぼ同じで、パラチフスのほうが軽症とされています。

通常、1〜3週間程度の潜伏期間を経て、高熱、頭痛、食欲不振、全身倦怠感などが起こります。症状は次の4つの病期に分かれて経過していきます。

●第1病期

体温が段階的に上昇し、39~40℃に達し、腸チフスの3主徴とされる通常時より脈拍が遅くなる比較的徐脈や、ピンクの発疹(バラ疹)、肝脾腫がこの時期に出現します。ただし、3つすべてが起こるわけではありません。

●第2病期

40℃台の高熱が持続する稽留熱(けいりゅうねつ)となり、無気力表情(チフス性顔貌)、さらに下痢または便秘などが生じます。また、この時期に重症化すると、意識障害、難聴などがみられることもあります。

●第3病期

最低体温が37℃以上で、1℃以上の上下をくり返す弛張熱を経て、徐々に熱が下がります。この時期に腸出血や腸穿孔など、重篤な合併症を起こすこともあります。

●第4病期

解熱・回復期を迎えます。

検査・診断

発熱などの症状のほかに、過去2カ月以内の海外渡航歴を確認します。腸チフス・パラチフスと確定診断するためには、細菌検査で菌の検出を行います。血液のほか、便や尿、胆汁などの培養を行います。それでも菌が検出できず、腸チフス・パラチフスが疑われる場合は、骨髄の採取を行い、培養することもあります。

治療

腸チフス・パラチフスには、抗菌薬の薬物療法を行います。これまではニューキノロン系抗菌薬が第一選択薬として使われてきましたが、耐性をもつ菌が現れてきたため、現在は、第3世代セファロスポリンやアジスロマイシンなどが使用されています。

ただ、一部地域では、さらなる耐性菌が確認されるようになっており、抗菌薬投与の開始前に、血液培養採取、検出菌の感受性確認が重要となっています。

https://kateinoigaku.jp/disease/721
腸チフス・パラチフスちょうちふす・ぱらちふす

最終編集日:2023/3/30みんなの家庭の医学

名探偵コナンでお酒の名前がコードネームの黒の組織で疑わしきは罰するのジンさんはいつもウォッカさんと行動しておりウォッカさんとの同性愛疑惑あると私は思ってます。
日本のお酒メーカーのキリンさんの歴史ミュージアムによるとジンと呼ばれるお酒はオランダ人のライデン大学医学部のフランシスクス・シルビウス教授(医師)によってマラリアやチフスなどの熱病の治療に使用されたお薬として作られてイギリスに渡った低価格の庶民的なお酒だそうである。



ジンは「薬」であった



江戸時代後期のジンボトル。オランダ製で、ボトルにはオランダの会社名「I.T.BEUKERS SCHIEDAM」の文字が刻印されている(長崎市歴史民俗資料館 所蔵)

マティーニ、ジンバック、ジントニック、ジンライム……。日本ではカクテルのベースとして使われることの多いジン。この酒、実は薬として誕生したことをご存じであろうか。

もともとジンはオランダ生まれ。ライデン大学医学部のフランシスクス・シルビウス教授によって1660年に製造されたとされる。当初は、医師によってつくられたことからも分かるように、マラリアやチフスといった熱病の治療薬として期待されていた。ジンの製造に用いられる杜松(ねず)の実は、利尿や解熱作用があると知られており、これを用いることで利尿・解熱薬として薬局で売り出されたのである。ところが、そのさわやかな香りから、薬としてではなく酒としてオランダ国内で流行。フランス語で杜松の実を意味する「ジュニエーブル」の名で広く親しまれた。その過程で、なぜかスイスのジュネーブと混同されて「ジェネバ」、さらにイギリスに渡ったときに、これが短縮されて「ジン」と呼ばれるようになったという。

イギリスに渡ったジンは、本国以上に爆発的な人気を得る。その頃のイギリスでは質の悪い酒が多かったことに加え、オランダから迎えられた当時の国王・ウィリアム三世がジンを優遇し、関税を安くしたことなどによる。このほか、原料の穀類が豊作続きで安かったこともあり、瞬く間に「安くて強い酒」として労働者階級に広まったのである。



輸入洋酒の草分け的存在

一方、日本にジンが入ってきたのは、いつのことだろうか。はっきりとした記録はないが、江戸時代には伝来していたことが確認されている。というのも鎖国時代、長崎の出島で働いていた日本人の中には、そこに住む外国人たちが飲んでいた酒のボトルを持ち帰る人がいたが、その初期のものの中にジンのボトルも含まれていたのである。これらのボトルは、観賞用や保存容器、また溶かして新たなガラス製品をつくるなど、さまざまな使い方をされたという。

とはいえ、ジン自体を一般庶民が口にできるようになったのは明治以降のこと。1870(明治3)年に横浜の外国人居留区にあったカルノー商会がジンを輸入・販売したという記録が残っている。もっとも、いまのように気軽に洋酒が飲める時代ではなく、一部の人々が楽しむ嗜好品ではあった。それでも確実にジンはわが国の文化に溶け込んでいき、カクテルのベースとして使われるようになる。特に「ミリオン・ダラー」というジンベースのカクテルは、明治時代に横浜のホテルで考案され世界に広まったもの。このように、世界で愛される日本発のジンのカクテルまで生まれている。

https://museum.kirinholdings.com/history/cultural/08.html
ジンと日本人酒と飲料の文化史