イングリッシュブルーベルのうみ

それが、母親らしいのか父親らしいのかは分からない。だが、賜えた名前は呼んでくれた。殆ど、毎日同じ内容で在り来りながらも食事は与えてくれた。玄関の引き戸を開けば「いってらっしゃい」閉じれば「おかえり」と言ってくれた。

その日、母は父を殺した。道具を用いて?言葉を投げ付けて?分からない、憶えていない、思い出したくない、どれかなのか?どれでもないのか?途切れ途切れの不鮮明な記憶に色と臭いと明かりが灯るのが、何時の間にか血塗れの母親が何かを叫びながら倒れ込んだ父親の顔面を何かで殴り付けていた。其処からだった。

何故か、顔面だけを殴り付けていた。
骨が砕け、陥没し、凸凹になり、顔面が顔面としての機能を正常に果たせなくなり、歪に不細工に本人が本人で在る確かな認識として不可欠な顔面は、あっという間に失われた。それでも、母親は父親を殴り付けていた。もう、砕ける音も潰れる感触も止め処無く溢れ出る生命の臭いも空気と同化し、只の光景に成り果てていた。

親族呼称で呼ぶ、その人間は振り返った。それは、母親なのか?女か?人間か?分からない。何せ、顔面は真赤を通り越して只の赤色だった。人間を象るといわれる、二つの眼球、一本の鼻骨、唇、それだけは認識出来る。幾人もの想像を遥かに越える、正に化物が其処に居た。


胎を痛めていないのに、私の子供と自負する子供が私を見ている。私を未だに、「お母さん」と呼ぶ。

人間を一人、殺した。愛する人間、愛していた人間、愛している人間、愛していたかもしれない人間、愛する人間、愛を愛で返してくれなかった人間。

其の未来は訪れない、掴みきれない、噛み締められない、飲み干しきれない、絡まない、零れ落ちない、夢にすら成りきれない。

そう、思っていた。

−ーちゃんの次ね、彼、コレを褒めてくれたの−

その人は、姉を愛していたから。

−ごめんね、ーちゃん、私、やっぱりー−

姉も、その人を愛していたから。

それで、良かった。それが、良かった。それなら、良かった。それでは、駄目だった。それだけでは、駄目だった。それでも、駄目だった。


「教えてあげましょうか?恋を愛に挿げ替える魔法を」


泣いている。胎を痛めていないのに、私の子供と自負する子供が私を見て、私が殺した人間に抱き付いて。彼を未だに、「お父さん」と泣き叫ぶ。

あぁ、夢の終わり。愛の果て。綺麗な言葉で、汚いモノを覆い纏っても何も変わらない。汚いモノは何時までも汚いモノ。魔法は初めから何処にも無い、此処にも無い。在るのは、汚い醜い汚れた掌。そうだ、一人目ではない。二人目だ。変わらない変えられない曲がらない曲げられない、真実。忘れた振りの演技は何時の間にか、自分自身よりも上手くなっていたかもしれない。


追い駆けた、追い付ける筈もないのに。アレの所為で汚れきった足裏は実によく滑る、追い付きたい一心で体も口腔内も血だらけだ。疲れた、走れば走る程に傷付くのなら、諦めればいいだけ。背中を向けて、全力で走り去った其の人は人間を殺した。父親だった人間を、それが許されない事は何となく分かる。何となく、いけない事だと。何となく、してはいけない事だと。だから、走り去ったその先は何となく分かる。

悪い事をすれば、咎人へと成り下がり、あの遠い遠い、遥か遠い海の向日から人魚が現れ、仄暗い海へと引きずり込まれた咎人は喰い千切られ喰い破られ喰い殺され、人魚の糧となる。

だとしても、だったとしても、ソレを言葉にするには回転木馬に餌を与える人参が足りなかった。だから、今は只、走るしかない。あの人と同じ様に、涙を溢れさせながら。泣きじゃくりながら、只管に走るしかなかった。


見下ろせば、海だった。あの時も、海だった。結局は予定調和、仕組まれ、敷かれていた。その、最も愚かな結末に自ら、笑顔で進んだ阿呆な自分自身。最後まで笑顔で進み、笑顔で落ちるしかない。歯が音を立てる、荒波で映らない、私の最後の笑顔を誰か描いて。私が私で私だった、最後の瞬間を誰か描いて。そして、褒めて。慰めて。呼んで。愛して。愛して欲しい、愛して欲しかった。

−君の笑顔が、一番ー−

続編で描かれたいと誰が望んだ?お下がりではない、身代わりではない、代理ではない、使い回しではない、在り来りではない、唯一人の唯一無二の特別でも特上でもない、誤魔化しの効かない、拍手の無い舞台の主役に束ねきれない花束を。

もう、親族呼称で呼ばれない。擦り切れ噛み切れ、上手く呂律が回らない口が、「待って」「行かないで」を繰り返す。

何か、其の人は叫んでいた。波音で掻き消される、その言葉。何故、今にも滑り落ちそうな危険な場所に佇む其の人は一歩近付けば一歩後退るのか?縺れながら、後退る。それ以上は、本当に危険だ。一体、目の前の人は何を怖がっているのか?目の前に居る人は誰なのだろう?何故、自分は向かい合って「待って」「行かないで」を繰り返し叫ぶのだろう。だけど、今はその二言が大事で重要だと直感した。だが、片隅では分かっていた。其の人は、間もなく飛び降りる。だから、近付くのを止めた。それでも、後退る。もう少し、大胆に。ほら、もう、其の人は死しか考えられない。言葉の一方通行に始めから信号機は存在しない、それならば、伸ばしきった手も開き掛けた唇も生者目線の詭弁も否定も何もかも諦めて。それが、名も知らぬ、其の人の救いになるのなら。

最後に、其の人は「ごめんね、お姉ちゃん」と叫んで飛び降りた。その瞬間は、実に呆気なかった。空は変わらぬ青空で、風は穏やかに流れ、海は寄せては引いてを不規則に繰り返す。其の日の一日は、此処から始まる。

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