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イングリッシュブルーベルのうみ 第漆話

「あれ?どっち?」
思わず、飛び出した質疑は子供じみた言葉だった。森を、只只管に森を歩き、歩き続け、漸く、森の先が開き始めた頃、目的地と指された場所に辿り着いた。

その向日、茫然自失の恐怖に慄く眼差しと具現化された美しいモノを見るかの様な眼差し。そのどちらか、はたまた、そのどちらもなのか。ソニアは、質疑と共にシズクを見、彼の視線の行く先で判断し様とした。が、彼は均等にどちらも見、また、どちらも見ていなかった。彼の視線には、何時何時も正解がない。

「…シズク、取り敢えず、行くか?」
「あぁ、足音が複数…此方に向かって来ている」

状況が悪い、ハギを抱えて急ぎ逃げるか。何故、川向こうから此方へ向かって来るのか、同じ姿形の存在。同じ人間と呼んでいいのか?何か、別の類?だとしたら、何なのか?精霊?幽霊?まさか、神の遣い?そんな大きな何かが、こんな小さく何の変哲も無い村に?あれやこれやの想像と思慮を巡らせている間に此方に向かって来る。

川の上を、歩いて。

その光景を見た瞬間に、ワタルは決心と覚悟を決めるとハギを横抱きに抱えて走り出した。

「ごめん!!乱暴にしか走れないけど、許して!!」
「ワタル、あれは何なの…何なの!?」
「分からない!!取り敢えず、今はー」

川の上を歩く。そんな常識離れをした行為を行えるなら、先回りして前に立ちはだかるのは常套句に近い位、簡単に行えるのかもしれない。

気が付けば、前に居た。かなりの至近距離、改めて、これは何なのか?見た目は男、年齢はレオやツバメと同じ位?もう一人は、もう少し幼く見える。二人共に良く言えば、透き通り濁りの無い眼差し。悪く言えば、濁りが無さ過ぎで出口の無い眼差し。見つめ返せば、自分の全てが見透かされる。睨み返したいが、それが憚れる。

「…貴方達は誰ですか?…」
当然、狙いはハギだろう。ハギは、唯一無二の存在。だが、理由が思い当たらない。他の家との揉め事や遥か遠い先に在ると言われる、都市部との諍いはまるで有り得ない。では、何故?何故、彼等は此処に居て此処に居るのか?取り敢えず、ワタルはハギを抱える腕の力を少しだけ強めた。
「…ワタル…」
「大丈夫、ハギは僕が守る…必ず」


何故、こうも歪で歪んでいるにも関わらず、光景は完成しているのか?シズクは目の前の光景をどう咀嚼するべきか、逡巡しては小動物特有の虚勢の威勢で威嚇を続ける人間を見つめた。
「俺の名はシズク、隣に居るのはソニア」
「貴方達は何なのですか?」
「何なの?というのは?明確な解答が欲しいのなら、問い掛けは断定的に行うべきだが?」
「…幽霊ですか?」
「は?」
「だって!!川の、川の上を歩いていたじゃないですか!!そんなの普通は有り得ない!!」
「川…川って?」
「川は川ですよ!!貴方達は川向こうから突然現れた、此処は川向こうは絶対に渡ってはいけない、行ったら最後、二度とは戻っては来れない」
「あぁ、そういう事か」
「え?」
「恐らく、君達は境界線の内側に居るから川に見えたのかもしれないけど…川は何処にもないよ」
「ー」
優しい声音で言われるとより一層の残酷さが増す、丁寧な口調が加われば尚更味は濃くなり、飴玉と偽った鉛玉が口の中で消化不良を起こし、舌先で溶け切れず、何時までも転がる。無い?川が無い?境界線の内側?突如として齎された真実に、ワタルは完全に言葉を見失った。
「急過ぎたかな?」

ソニアの質疑に応答し様としたが、向側に居た時よりも足音は確実に近くなっている。まだ、出逢うのは尚早だ。もう少し、此処の全体像を把握してからでも遅くはない。シズクは軽く吐息を零すと、絶対に言わない言いたくない言葉を急ごしらえした。

「突然の話で悪いが、協力してくれないか?」
「…え?」


「あの子は何時もあの役割を押し付けられているのかな?」
「人間二人揃えば、順列は産声を挙げる」
「…あぁ、血まで出ている…」
「暫く待つか」
煙草に火を付け、燻らせている間に誰かの怒声と泣き声と弁明の声、偶に聞こえる暴力の音。ソニアは事の成り行きを、シズクは白煙を吐きながらのんびりと通り過ぎる青空を見上げていた。幾らかの時が過ぎ、ソニアはシズクを促し、座り込んでいたワタルの元に向かった。
「大丈夫?」
「平気です、ハギが隣で状況を説明してくれましたし、それに…」
立ち上がりつつも、ふらつきが治まらないのか左に右にと危うい立ち上がりとなり、思わず、ソニアは手を差し伸べた。
「すみません…情けない所を」
「情けないとか関係ないと思うよ…あれは、完全に暴力だ、誰が見ても」
「ー」
「ー」
「あ」
「どうしたの?」
「急な事態で、言わないままでした…改めまして、僕ワタルと言います」
「あぁ、そういえば…でも、あれだけ、訝しんでいたのに何で素直に僕達を受け入れてくれたの?」
「完全に受け入れた訳でありません…まだ、疑問や疑惑は残っています…ですが、それを解消しないまま、いきなり本家に突き出すのも間違っていると思ったので…」
「それはそれは、お優しい事で」
「シズク!」
「…お二人は兄弟なんですか?…」
「いや…でも、俺達は二人で一つ、永遠にそれだけは変わらない」
「…二人で、一つ…」
「話途中で悪いが、コレを見た事や聞いた事、若しくはコレを描く変り者は居ないか?」
呑気な会話に痺れを切らしたか、シズクはソレを広げるとワタルに突き付けた。ソニアは早急過ぎるという、小さな非難の眼差しを向けた。突き付けられた、ワタルはそれをゆっくりと受け取るとじっと眺めたが直ぐにシズクに返した。
「いえ、見た事も聞いた事も描いている人も知りません」
「…そうか」
一瞬だけ、シズクの寂し気な表情を垣間見た気がした。だが、ワタルはソレを初めて見たから嘘も言い訳も出来ない。少し大き目の古びた紙、何の道具を使って描かれたかは分からない。だが、−車椅子と扉−が描かれている事だけは分かった。瞬間、懐かしいと思ったが、それは此処では当たり前で在り来りな海の匂いを感じたからかもしれない。


−この人の名前は…−

同じ年月な筈なのに、ハギは隣の子供が怖くて仕方なかった。何時も、自分を−フクコ−と見知らぬ名前で呼ぶ。怒っても否定しても泣いて拒絶しても、子供は自分をフクコと呼ぶ。だから、何時も大きく泣き叫んで大人を呼ぶ。周りの大人は兎に角、ハギを甘やかした。起こすのも着せるのも食べるのも浸からせるのも寝かせるのも何もかも何時でも何処でも、大人がやってくれた。それは、歩き難いハギを憐れんでも慈しんでいる訳でも無い。それが、此処に居て此処に居る大人達の存在理由になっているからだった。だから、大きな声一つでも挙げれば脱兎の如く、駆け付けてハギを慰め宥め、目の前の子供を怒鳴り付ける。それを何時も目の前の子供は、理解出来ない表情で受け入れる。理不尽だからではなく、大人達が違う名前で呼ぶからだ。ハギを、ハギな筈なのに、彼女はハギであってハギはいない、大方はハギであるのに多分、ハギではない。と言わんばかりに、それが余計な不安と混乱と恐怖を与える。

しかし、ハギが一度甘えた声で謝罪すれば目の前の子供は無邪気、明確には呑気な笑顔で「大丈夫」という。何が、大丈夫なのか?実に曖昧で後味の分からない三文字。そして、何時も通りにあれを差し出す。

−仲良くしたいのに、教えてくれないの−
−どうして、みんな、教えてくれないんだろう?−
−分からない、お父様が凄く困っているの…助けて、ね、−
−分かった、待ってて−

その子供は、それを受け取るとじっと眺め、指先でなぞり、上から下、下から上、右から左、左から右。斜め、裏返し、それを繰り返す。

−あった、ハギ、あったよ…この人の名前は…−
−ありがとう、ワタル…私、ワタル大好き−
−へへ、僕もハギが大好き−

抱き付き、頬を擦り寄せて、甘える。ワタルは、それを受け入れ、それを享受する。簡単で単純、この子供は本当に簡単で単純だ。

−まだ、仲良くしたい人達が居るの…休みながらでいいから、教えてくれる?−
−うん、仲良くなれる様に頑張るね−

だから、この村は町に成る後一歩まで人が人で人に人と溢れた。ハギの父親は喜んだ、彼の理想が何なので、どれだけの現実に打ちのめされたのかハギは永遠に知らない。理解はしない、到底出来し、寄り添う事も労る事も面倒だ。だから、子供のままで、甘える子供と甘やかす父親というあり大抵の親子像を演じればいい。

それだけの筈だった。

ワタルの母親が父親を殺した、母親は崖から海へと飛び込んで自殺した。ハギの父親が居なくなった、ツバメの父親も居なくなった。

大人達が此処に居ない、何処にも居なくなった。其処から、此処は綻び始め、音も無く崩壊し始めている。いや、ワタルの目の前で母親が海へ飛び込み、その後、ワタルが全ての記憶を失くし、車椅子と扉を描く事を忘れ、その人間の本名を明かす術を見失った事から此処の崩壊は始まったのかもしれない。


収まらない怒りを何とか鎮めてはいるものの、その表情は隠しきれなかった。ハギが泣きながら懸命に事情を説明していた気がする、だが、それよりも思い通りにならない人間に対して鬱屈した感情と暴力という名の粛清を行うのに全力だった。何故、自身の思い通りにならないのか?何故、背を向けて遠くに行ってしまいそうになるのか?こんな筈ではなかった、気が付けば、望まない方向ばかりに向いている。いや、向かわされている。
若しくは、突き落とされている。

あの、女々しく、泣きながら、此処に居て此処に居ない者の名を呟きながら消失した男に。


とても、可愛い可愛い女の子だった。

後ろ指を指される家だと、幼い頃から理解していた。恭しく、野菜や果物に米を届ける者達は脂っこい笑顔で差し出すものの、帰り道には本性丸出しの顔であれやこれやの文句ばかりを言っていた。

−白乃−、それが、この家の名だ。

四人目の女との間に産まれた僕は、兎に角大人しく暗くひ弱だった。好色な二代目はありとあらゆる女に手出ししては孕ませ産ませた。だが、殆どは死んだ。何故なら、白乃は呪われているから。名を賜わせた冷環の意思を無視し、−北−へ侵略という名の進行を勝手に行った白乃は其処で罪を犯し、呪われた。何の罪を犯したかは分からない、勝ち気で傲慢で口五月蠅い母親もそれに対しては口を噤んだ。そして、僕が辛うじて一人で歩ける様になると同時に母親は抱えきれない札束を何とか抱えて出て行った。一度も、振り返る事無く。

好色の父親が、子育てという最大の自己犠牲と最上の愛情表現に心血を注ぐ訳もなく入れ替わり立ち替わりの継母や嫌嫌ながらも致し方なくの女中達に気紛れに育てられた。

それでも、何故だか金だけは在った。だから、他家の女やその両親は嫁がせ様と性としての魅力はまるでない僕宛に毎日の様に手紙が届いた。在り来りな文章と使い古された常套句。だが、一通だけ、その手紙を今も忘れない。描かれていたその絵は。僕は初めて、僕として、僕の意見を述べた、「彼女と祝言を挙げたい」と。

優しい愛おしい麗しい愛する人、拙い愛し方でも全力で受け入れてくれた愛する人。

そして、産まれたのはとても可愛い可愛い女の子だった。

その純粋で唯一無二の柔らかさを早く一緒に共有したく、彼女に見せた。彼女の表情が固まった、眉が潜まり、魔法が解け現実を知った片方の靴で一か八かの賭けをした無意識の少女の様に。

「可愛くない」

そして、何時の間にか彼女も居なくなった。


満月だけは、何時も味方で居てくれた。様な気がする、他の景色の邪魔立てがないから余計にそう感じさせるのかもしれない。後、どれ位で消失するのか?下半身はもう完全に消え去った筈。在るという幻想を抱かせない程に消失した事実をはっきりと認識出来る。これが、消失。あの誰にも見つからない見捨てられた箱庭の楽園で何人も人間にこの絶望を与えた。だが、その罪を犯したからこそに本当の楽園を与えられた。

たった一人の、自分と同じ弱く、弱い、本当に弱いままで逝ってしまった娘のフクコに。

−フクコちゃん、君には大勢の味方が付いている…だから、大丈夫…君は、一人じゃない…大丈夫…−

フクコと頻りに誰かに宛てがわれた名前を呟いて涙を溢れさせては溢れている。その名前は誰に宛てがわれたは分からない、只、元凶の要因である事は間違いない。だから、自分は此処に居て此処に居る。−白乃を根絶やしにしろ−、それが祈りか願いか呪いかは分からない。只、それだけが存在理由。それしかない存在理由に、追い縋るしかない。消え去りながら、視線が此方に向いた。何かを喋っている、分からない。それが、言葉なのか歌なのか妄言なのか世迷い言なのか。

そして、その存在は完全に消え去った。
何時の間にか握り締め、半ば右掌に馴染み、その感触を忘れていた。白い紙、ゆっくりと開く。

−アナタ ノ ナマエ ハ キョウ カラ レオ デス ケンメイ ニ ガンバッテ クダサイ−


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