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イングリッシュブルーベルのうみ 第弐話

朝は変わらない。
晴れているか、曇っているか雨か嵐か、果てには雪か。たった、それだけの違い。

「ー」

朝鳥の鳴声に顔を徐ろに持ち上げる。託された訳ではない、強いられた訳ではい、課された訳ではない。単純にそれを担っていた人間が此処に居ない、何処にも居ない。それだけだからだ。

感触も言葉も痕跡も無く、気が付けば、居なくなっていた。何処にも、居なかった。

掌と甲を交互に見る、自身は其処まで幼くも老いてもいない、中間より半ば下ぐらい。言われるが故、性別は男。僅かに違和感を覚える家の扉を開ければ居るのは其の人だけだった。

何時の間にか、番の待ち合わせ途中の鳥達が短い会話を終えて旅っていた。一呼吸し、ソレを握り直すと振り上げては振り下ろした。

功罪の原点、火を熾す為に。朝露を飲み切る前の木々を切り落とし、適当な長さで裁断した。

「-ツバメ‐」

静寂な為に、その透き通り濁りも淀みもない、憐憫か同情か嗜虐の何れかを擽るであろう声音でも自身を呼んだとはっきり認識出来る。

「おはよう、朝の分を回収したいんだけど」
「後、十一本で取り揃う…悪いが、出来上がったのから運んでくれないか?」
「分かった、何時もありがとう」
「ー」
「?どうかした?」
「いや、俺にとっては当たり前で日常で変わる事も変える事も出来ない行為に感謝を言われてもなと思った」
「あ…ごめんね、言葉の配慮が足りなくて…」

嗜虐と寄り掛かり、宛先を書けないままで溜まっていく感情の郵便物、一番に届けたかった相手は

「嘘」
「え?」
「そうは思っていても、敢えて言葉にしてくれる人間の優しさを無碍にする程に俺は愚かじゃない」
「ツバメ…」
「ー」
「…お父さんの事、考えていたの?…」
「普段は考えないんだが、朝だけはどうしても…無意識に思い出してしまう」
「ー」
「悪い、足止めさせた」
「気にしないで、聞かせてくれてありがとう」
「いや、切り終わったら、俺も本家まで手伝う…あいつ等の小言は煩いからな」
「…」
「言っておくが、お前の為じゃない」
「うん、ハギの為だよね?」
「敢えて、名前を言うな」
「へへ、じゃあ、行って来ます」

「…父親か…」

あなたが好きな花をお飯事に見立て、嘘の誤魔化しで初恋の悪戯は只の思い出に成り下る

触れられない傷口に触れたいのならば、感度のない棘をあなたに差し上げましょうと言える程に溺れてはいない

名札のない席にあなたの名前を、それが本当のあなたを確かめる術ならば昨日はもう存在しない



生存確認の四文字に強かな粘りの感情を加えて、口々にその一つの名を呼び、頭をより深く下げる。その列を進む感情は今はもう何も無い。
「ハギ、今日は少し外が冷える…悪いが、居室で俺の帰りを待っていてくれないか?」
「…え?…あ、その…」
「まさか、ワタルなんかと約束したのか?」
「…お、お願い、ワタルを叱らないで…ワタルが海の話を聞かせてくれたから…気になって…」
「あぁ、ハギ…朝から涙を零すな…」
不意の混乱に生存確認の四文字がぴたりと止むと、その人物は二歩前に進み、翻り、膝頭を床に付け、視線を合わせ、指先を伸ばした。
「君を叱っているのではない、俺はワタルに対して怒りを感じているんだ…君は俺の大切で大事な人…君は何もかもが許され、誰も彼にも愛される存在…そんな清い君を惑わす輩は、誰であろうと許さない」
「…−レオ−…」
「更なる誉れを欲する者…お前、頭を垂れたまま、一歩前へ」
立ち上がりながら適当に周囲を見回し、その人物は面倒さ全開である人物を指した。爪先の視線を頼りに、自身を指されたと直感した者は興奮と緊張の脂汗が畳に滴り落ちない様、ゆっくり、しかして確実に頭を垂れたまま、一歩前へ進み出た。
「お前に、ハギを居室まで届ける名誉を与える…呼吸は許す、だが、一声でも発すれば…分かるな?」
発する事を禁じられた故、その者は了承の大きな頷きと汗を零さない為の小さな頷きと均等で均等ではない滑稽な頷きを繰り返した。
「ー、婆!!壱の婆!!!悪趣味な控え方は止めろ!!俺の前に出ろ!!」
「まぁまぁ、レオ様…いきなりその様な大きな声を…婆は動きが鈍いので…こうして、邪魔にならない様…あぁ、はいぃ…隅に居ただけでございます…」
「お前の下らない言い訳等、どうでもいい…ワタルは?朝の薪支度か?」
「はいぃ…薪庫に…居ります…」
「…そうか」


「よし、後二往復…朝餉の分は、皆が取りやすい様にして…」
ぽつぽつと呟きながら、ワタルは一日分の薪を大きさ、厚さ、形と偏りがない様に丁寧に並べた。
「…さてと、そうだ…ツバメに…」

「誉れ高き職を授かり、何を鈍間に…声を発さないとお前は死ぬのか?」

「…レオ…様…失礼致しました…」

足音も無く、気が付けば眼前だった。気が付けば、体が吹き飛んでいた。軽くか?激しくか?瞬間の瞬間を感知させない程の、あっという間の出来事だった。
「お前、ハギに海の話をしたな?」
「…は、はい…」
ぽたぽたと溢れ始めた鼻血、痛みの産声を挙げ始めた擦り切れの左口端、形状の輪郭がまだ浮き上がらない、それでも何となしに跡の想像が出来る左頬の鈍い痛み。
「彼女は唯一無二、此処では只一人の存在…お前如きが触れても、況してや、声を掛ける等、言語道断だ!!」
感情の沸点が飛んだ者に理由は言い訳に、感情は抵抗にしかならない。ワタルは声を発する事無くなされるがまま、その痛みを受け入れた。只、虚しく鈍い音だけが其処に在り此処に在る。
「お前、まさか、女同士だから多少は寛大にしてもらえるとか生温い事を考えていたのか?」
靴底と黒髪の摩擦が織り成す不協和音、息一つ乱さない、支配者の傲慢な問い掛け。
「…」
「どうした?応えろ?言っておくが、此処でのお前の存在価値は無以下で虚無に等しい…そんな、お前の頭を踏み潰す位、造作もないが?」
「…さんと…」
「あ?」
「…お父さんと…お母さんに…逢いたいって…」
その舌打ちが、何の苛立ちか鬱屈可は分からない。只、思いきり、背中を蹴り上げられ、薪棚へとぶつかり、朦朧とした意識の中で一筋の眩い光が自身へと振り降ろされるのは瞬間で理解出来た。究極的なその場面で自身は何を思うか?何を思い返すか?想像は幾らでも巡らせど、つまりは単純に何も無かった。やはり、何も無かった。

「朝から人を甚振って、何が楽しい?」

自身より若干背丈の高い、その人間は誰よりも独占的に沈黙という選択肢を取る、それが余計に苛立ちを増させる。今もこうして、気が付けば、右手首を掴まれ、柔らかく確実に締め上げ始めていた。

「お前、誰の手首を気安く掴んでいる?」
「刀を降ろせ、降ろしたくないなら…俺を殺せばいいだろ?」

微かで僅かな動揺、それを感じたツバメは締め上げていた手首をゆっくりと離した。言葉を発さず、レオは積み上げられていた薪を思いきり蹴り飛ばすと一瞥も振り返りも無く立ち去った。

その背中を無言で見送ると、倒れ込んだワタルの前に膝を折り、そっと触れた。
「ワタル?ワタル?」
「…ツバ…ツバメ…あれ?どうして?…」
「意識があるなら大丈夫だな、薪を片付けるから、その間はこれで鼻血を止められるか?」
「…」
鼻血と微笑みの微妙な面構えでワタルは頷くと、そっと渡された白布で鼻を抑えた。肩を優しく撫で、ツバメは立ち上がると散らばった薪達を片付け始めた。
「ワタル、お前、此処に残り続けるの止めたらどうだ?」
「…」
「今回は運良く止められたが、俺は本家の敷居を跨げない…それに、言葉悪いが正確無比に言わせてもらうとお前の存在は誰かの感情を逆撫でさせる、どうしても」
「…」
「しかも、それは良い意味よりも悪い意味でのが圧倒的に高い…これ以上此処に居れば、レオ以外の奴に殺される可能性もある」
「…」
「それに…」
立ち上がり、振り返ると起き上がりながらも大粒の涙を零し、止まり掛けの鼻血が再び溢れ出、行き場の無い感情を肩を震わせる事で何とか抑え様とする悲しい姿が在った。
「ワタル、泣くなとは言わないが鼻血止まらなくなるぞ?」
「…ご、ごめ…ごめん…ごめんね…」
「いや、俺に謝っても何の意味を持たないんだが…さっきの続き、一番はハギの為だ」
「…」
「お前が意味も無く傷付けられ、虐げられ、貶められて自身が平気でも、ハギは違う…自身の所為ではないか?自身が庇える力がない所為ではないか?後どれ位、無意味な行為が繰り返されるのか…心は擦り切れるばかりだ…お前、最近、ハギの笑った顔見たか?」
「…」
「沈黙は肯定と認識する派だぞ、俺は」
顔を挙げれなくなったワタルの隣に腰掛けると肩を一度、背中を二度、優しく撫で、ツバメは言葉を続けた。
「ワタル、後戻り出来なくなる前に…今なら、まだ間に合う」
「…うん、僕もツバメと同じでハギが一番…彼女には笑っていて欲しい…レオと幸せになって欲しい…僕が旅立てば叶うかな?」 
「確定の保証は何処にも無いが、好転の可能性の確証は増える」
「…列車、まだ動いているかな…」
「…」
「ありがとう、ツバメ、大分止まってきた…よし、そうと決まったら…」
「…そういう事か…」
「え?」
「なぁ、ワタル…俺と一緒に行くか?」
「ー」

「ー」

一本の蝋燭に百万人の褪せない欲望が染み付いて、この列車が動くのであれば

あの駅舎に辿り着いたのが仕組まれた純粋さであったとしても、もう恋はしないと諦めないで欲しい

その狂気と凶器を持って、狂喜を重ねて
渡れなかった向こう側が世界の全てではないと誰の声音なら君は頷いた?


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