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イングリッシュブルーベルのうみ 第肆話

神様、どうか、神様。

泣いている、あの子。

どうして、こんな?どうして、こんなに?どうして、こんなにも?あぁ、どうして?

誰かのも分からない、真っ赤な返り血を浴びて咽び泣く、あの子を見つけて。

神様、どうか、神様。どうし様もない、興奮を知ってしまった僕を罰して下さい。


−俺と一緒に、行くか?−

目覚めると共に、左頬の鈍い痛み、全身の言い表しも誤魔化しも効かない、確かな痛みがワタルに起き上がりをするなと訴え掛ける。だが、起き上がらなければ、自身は独り。何をするにも、自身が主体とならなければならない。

ゆっくりと起き上がり、襖を開き、厠を何とか済ませると腰掛け畳に腰掛け、ゆっくりと息を吐いた。

「何で、ツバメはあんな事…ツバメは、此処を出て行かなくとも大丈夫なのに…」

すると、家の中からでも此方に向かうのが、はっきりと分かる大きな足音が徐々に近付いてきた。

「あの足音は…−三角(ミスミ)の小父−さん…?」
ゆっくりと立ち上がると同時に、所在確認も無しに扉が音を立てて開いた。
「ワタル!!生きているか!?飯は食えたか!?歩けるか!?」
「三角の小父さん、訪ねてくれてありがとうございます…大分、良くなりました」
「そうか!!足りないものがあれば何時でも言ってくれ、分けれるだけ分けてやるからな」
言いながら、三角の小父は抱えていたカゴから野菜や米袋を食卓に置き始め、野菜の泥を洗う為か蛇口を捻り、水を流し始めた。
「あの…小父さん…」
「あ?何だ!?悪いな、水流しているから、でかい声で話してくれ!!」
「…僕、此処を出ます!!」
「はぁ!?」
「…直ぐにではないんですが、でも、近い内に…」
「何でぇ?」
慌てて蛇口を閉めると、三角の小父は食卓の椅子を抱えるとワタルの前に置き、どっかりと座ると左足を小刻みに揺らし出した。
「僕、やはり此処で生きていたら駄目なんです…周りの人を不幸に…する、というか…」
「ツバメに何か言われたか?それとも、本家からお達しでもあったか?」
「ツバメに核心を突かれて、決心が付きました…出る事は、前々から考えていました…只、中々、決心が付かずで…迷って…」
「お前、−外−を知っているのか?」
「え?」
「今、外がどんな状況で、どんな社会構成になっていて、何よりも、どの御家が頂点に居るのか…」
「…それは…」
「辿り着いた先で何とかなるなんて甘い考えは持つな、此処は北の外れ…先には山間部もあれば、海も当然ある…しかも、西と南に辿り着くよりも前に都市部がある…お前、都市部の御家が今誰か知っているのか?」
「ううん」
「−冷環(サメザワ)−家だ、あの第二次世界大戦を指揮したな」
「さめ…ざ、わ…」
「冷環家は完全に西と南と対立し、東と北の全てを掌握している…だが、冷環家はまだ此処を感知していないし、お越しになった事もない」
「そんな…だって、お米を授けてくれているのは本家がお仕えしている御家なんでしょう?だったら、その冷環という御家じゃないの?」
「俺も其処までは詳しくないから何ともだが、本家では一つの噂で朝から晩まで騒がしくなり始めている…だが、騒がしい事を当主様達が注意しても否定はしなかった、つまり…」
「その噂は…真実…」
「なぁ、何の噂で持ちきりか知りたいか?」
「はい」
「−瑛未(エイミ)−という新家が、近々お越しになるらしい」
「…えいみ…何処の土地の御家なんですか?」
「ない」
「え?」
「だからこそ、皆が慌てふためき始めている…出自のない御家なんて俺ですら聞いた事が無い」
「僕もです、出自があっての御家、御家あっての土地、土地あっての民…これが成り立ちの最大原則な筈です、間違ってなければ」
「間違いない、それを丸っきり無視した御家なんて前代未聞だ…冷環様がこの事を何処までご存知なのか、如何せん、主様から何もお達しがないからな…」
「もし、その事で益々、此処が慌ただしくなるなら…尚の事、僕は此処を出ます…小父さんの言う通り、僕は外の事を何も知りませんが今を逃したら、僕はまた堂々巡りをしてしまう…外が騒がしくなり始めているのは何かが変わる兆し、それに肖る訳ではないですが僕自身も変わろうと思います」
強い決意と固い眼差し、三角の小父は口を開き掛けたが自身の脳内で何かの算段か処理が完了したのか少し浮き掛けていた腰を改めて椅子に落ち着かせると左足の小刻みの揺れも自然と止んだ。
「はぁ…足は…?」
「足?」
「歩き、な訳ないよな?」
「列車が動いていれば、列車を…先ずは、駅舎を探さなければなんですが」
「ー」
「小父さん?小父さん、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ、あぁ…列車、列車な…列車…どうだかなぁ…駅舎の場所を完全に憶えていたのは、−一坂(イチザカ)の婆ちゃん−ぐらいだったからな」
「でも、一坂のお婆ちゃんは…」
「…あぁ、ちょっと間に合わなかったな…」
「一坂の兄さん、まだ家から出れそうにないですか?」
「まだ、二日しか経ってないからな…何とか、聞いてはみるが」
「ありがとうございます、もし、難しそうなら自分で何とかするので大丈夫です」
「決意は固いんだな」
「はい、皆さんにはご迷惑を決して掛けない事を約束します」
「ー」

木々に囲まれた、緩やかな坂を上ると右手に小さな家屋が現れた。慣れた足取りで、往来の踏襲で出来た道を進み、静かに玄関に辿り着くと扉をゆっくりと開いた。

「居るか?」
朝にも関わらず、薄暗く、埃の所為か視界も悪く、微かな黴臭さも臭った。
「それが、最後の思い出か?」
何となしに辿り着いた居間の隅に何かを抱えながら、膝を折り畳んだ人間が其処に居た。
「見た所、明後日には此処も崩れ去るな…どうする?本家は保護の意を申し出ているが?」
言いながら、三角は懐から−一坂へ−と書かれた封を差し出した。
「…大分、減ったからな…−回収−を生業にする奴は…」
「どうする?お前が良ければ、隣を貸すが?」
「あれ?あの女は?」
「駄目だった、だから、喰った」
「…お前が一因かもな、此処の崩壊は…」
「いや、駒がついに動き出した」
「!!…ワタルか?…」
「あぁ、駅舎を探し出して此処を出るそうだ」
「何を与えた?」
「瑛未で本家が騒がしくなり始めている」
「それだけか?」
「後は外についても、冷環や第二次世界大戦も少々」
「反応は?」
「何も無い、予想の範囲内だ」
「ー」
「後は隣に並ぶか、背後で振りをするか、前から突き付けて阻むか」
「どれに勝算があると思う?」
「俺は、背後」
「押し問答も無く、君と意見が合致するのが逆に恐いが…」
言いながら、一坂は立ち上がり、向かいの茶箪笥右下三段目の把手を引き、ソレを掴むと三角の前に広げた。
「ー」
「年寄りだったが、中々、しぶとかったな…最後は…まぁ…ご想像にお任せします、だ」
「其処までして守りたかったのか、触れてほしくなかったのか、気付かれたくなかったのか…真実を独占したかったのか」
「まさか、本家を乗っ取る積りだったとか?」
「そんな訳あるか、こんな見捨てられた場所…だが、唯一の懸念点が此処で急浮上する…想像はしたくもないが」
「瑛未か…」
「全く、何処までも面白くて飽きないな此処は…−あいつ−には感謝しかない、あぁ、あと−あいつ−もか…」
「何処まで、楽しめるかだな…一度死んでいるんだ、もう怖いモノなんて何も無い…俺は最後の最後まで思うがままに好きな様にやらせてもらうぞ」
「悪いが、それは俺も同じ…昔の好で今は黙っているが、その時が来たら…」
「あぁ、その時が来たら」
「「ー」」
「で、やっぱり、コレがどうしても俺等に付き纏う…全く、一体何なんだ、コレは…」
「あの時も…あぁ、そうだった…拙いな、浸り過ぎた、俺も喰わないとな」
「ー」

一坂が三角の前に広げたモノ、恐怖に震えながら何かを書いた紙が幾重にも散らばっていた。血痕の痕らしきモノが付着した紙、書き途中で耐え切れずに書き殴りで恐怖を誤魔化そうとした紙、震え過ぎて、大凡、文字とは認識出来ない何かが端から端まで一切の隙間無く埋め尽くされた紙。その紙と紙の合間、聞き慣れない咀嚼音を響かせながら何かを喰う一坂が先刻から握り締めて離さなかった紙が丸まって転がり落ち、徐々に音を立てて開き始める。

その時。薄暗く、光の差し込まない、空間に一筋の日差しが差し込んだ。何時の間にか、迷い込んだ小鼠が器用に障子を齧り破り、全速力で天井裏へと逃げ込んだ為だった。

部屋一面に大小様々な−車椅子と扉−が描かれた紙が幾枚、幾十枚、幾百枚と貼り巡らされていた。
三角は感情の無い眼差しで、ソレを見回し、口端を歪め、皮肉の微笑を零した。

「最後まで愛してやったんだから、いい夢ぐらい見させてくれよ?」





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