イングリッシュブルーベルのうみ 第拾話

前から数えで四列十五番、貴方との出逢いは其処から。演目は、春を忘れた民に春の尊さ有難さ美しさを伝え、取り戻す為に立ち上がらせる春の女神の戯曲。

貴方の役は春を見失った民達の心の寄る辺、けれども一瞬の欲で自滅する太っちょな小母役。

貴方は演じきった、その役を楽気に切な気に憐れに満足気に。舞台が終わり、終演の合間に見た貴方の素顔の垣間。貴方は、満ち足りていた。拍手喝采は、殆どが主演者に送られていた。だから、貴方へと拍手喝采を送った。貴方は、気付かない。それでも、送った。送り続けた。

女優 −白玉 安子− (シラタマ アンコ)

貴方が大好きでした。


あまりにも瞬間過ぎて、分からなかった。

その人物は、演じる事が好きな人だった。季節の節目で行われる小さな祭りに、自分も参加をしなさいとよく誘ってくれた。其処で、彼女は小さな芝居を何時も行う。たった一人で、何役も重ねて、自分自身を見失う位に何かに追い立てられる様に掻き立てられる様に急き立てられる様に。小さな芝居となると、演目は自然と滑稽で簡単な内容になる。一度だけ、遠くから観た事がある。

私利私欲で自滅し、罰として春を忘れた太っちょな人間が改心し、赦される一人芝居。

時に激しく穏やかに、悲しく可笑しく、また可笑しく。芝居が終わり、爽やかな汗を流しながら皆に喝采の拍手を受け、彼女は満面の笑みで手を振り返す。あんな風に求められ、認められ、喝采を受ける。何故、こんな小さな村で彼女は繰り返されるだけの日々に満足しているのか?街へ繰り出さないのか?もっと大勢の人間からの喝采を浴びるに相応しい人物な筈なのに。

まさか、そんな彼女が喚き散らす様に泣き叫ぶ様に其の名を叫びながら、笑顔の全速力で此方に走って来た。血だらけの裸足で、痩せこけた顔付きと四肢で、見失った境界線の向側に旅立った眼球の視線は一点に定まらず、上下左右と不規則に動き、歯が音を立てながら限界の先まで口角を持ち上げ、その異常さに拍車を掛けた。

「ワタル!!!!ワタル!!!!久し振り、元気!?私は、とても元気!!!元気だわ!!!」

瞬間、近い様で遠い記憶が蘇った筈。それなのに、何故なのか?何故だか?何故に?思い出せない。目の前の人物の名が、思い出せない。隣に立つ、ソニアもこの異常さと異質さに全身が緊張に包まれた。

「ねぇ、ワタル!!!!私の名前を呼んで!!」
「…え?」
「私の名前を呼んで!!私の名前を呼んで!!呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで!!!!呼んでよ!!!!呼びなさいよ!!」
「ー」

村中に響き渡る大きな叫び声に、前後左右から村人が集まり始めた。ソニアは軽く舌打ちしながらも覚悟を決めると衆人観衆に、自身の存在を認識させる事を認めた。誰かが、先手を打ったのは間違いない。ハギではなく、ワタルに奇跡を起こさせるのが目的。村人ほぼ全員がワタルを認めない信じない許さない、それがこの異質な箱庭が平穏安泰に居続ける為の必須条件の一つ、どんな形であれ最低最下の存在は必要だ。だが、白乃の二代目はその存在として何故、ワタルを選んだのか?完全に白乃の二代目は選定対象を間違えている。故意か偶然か?想定内か想定外か?だが、白乃が潰えた今ではもう答えを知る者は誰も居ない。ハギも白乃の二代目の愛娘−フクコ−ではない、フクコの名前を喰らった誰か。だが、その喰らった誰かもまた−ハギ−という名も喰っている。シズクが話していた様に肉だけを喰い、骨まで喰わない贅沢者。白乃の二代目が想定していた穏やかで細やかな世界は当初から壊れていた、これも北に侵略侵攻を行った白乃に背負わされた呪いなのか。

「ー」
村人達のざわめきを背景に、ワタルは掴まれた両腕を振り解く事も出来ず、只々困惑した。名前を呼びたい、あれだけ蔑まされて追い遣られた自身を憐れんで声を掛けてくれた慈悲深い人間の名前を呼んで願いを叶えてやりたい。それなのに、何時の間にか姿が見えなくなり、久方振り姿を見せたと思えば霞んだ記憶の中でも思い出せる美しい輪郭線。それは何処へやら、掴んでいる腕は傷だらけ泥だらけ、爪は噛り引っ掻き毟り、あらゆる負担を掛けたのか剥がれているのも何枚かあった。一体、この人間に何があったのか?この人間の名前は?早く思い出さなければ、こんなにも哀願している切願している。だが、思い出せない。思い出せない。応えは、そう決まっていた。恐らく、最初から。

「…ごめんなさい…貴女の名前が…分かりません」

一瞬の静寂。

村人達のざわめきも戸惑いも一瞬、停止した。だが、直ぐに同調のざわめきがより一層濃くなり大きくなった。知らない、知っているか?聞いていない、聞いたか?そう、彼女の名前を知らない。知り合った筈、触れ合った筈、交わした筈、それなのに名前が思い出せない。名前を知らない。名前が分からない。

現実を突き付けられた彼女は、辺りを見回し、定まらない視線が更に慌ただしく動いた。掴んでいた手も振り解き、後ろへ二歩下がると乱れていた黒髪を更に掻き毟ると悲鳴とも絶叫とも慟哭とも取れない叫び声を挙げ始めた。

似ている、あの時と。だが、狂う理由が違う。あの人は自身が追い詰め突き落としたから、彼女は恐らく、誰かに名前を喰われている。喰われれば、彼女は彼女では無くなる。彼女を誰も認識出来なくなる、彼女は只の名無しの人間。被害者でも加害者でも参加者でも当事者でも傍観者でもない、只の名無しの人間。只の名無しの人間に向けられる視線、只の名無しの人間を指しながらの内緒話。受け止めきれない現実と加速する事実に、彼女は何処に隠し持っていた小さな刃物を取り出すと振り上げ、左腕に突き刺した。周囲の悲鳴とざわめきを拍手喝采と誤認識したのか、彼女は満面の笑みを浮かべると一気に引っこ抜き、四肢のあらゆる箇所を切り裂き、刺し、引っこ抜き、また切り裂き、刺し、引っこ抜き、時々は同じ箇所を刺し続けた。

「…めて…止めて…お願いです!!!!止めて下さい!!!!死んでしまう!!!!お願い!!!」
「呼んでよ!!!!私の名前を呼んで!!!!」
「…それは…」
「呼んでよ!!誰かぁ…誰か誰か誰か!!!!」

尚も刺し続け、切り続ける彼女は自身の血溜まりに足を滑らせると大きく滑り転がった。ワタルは一目散に駆け寄ると、刃物を取り上げ様としたが何処に余力が残っていたのか尋常でない素早さで刃物を取り返そうとワタルを殴り付けた。だが、これ以上の自傷行為は危険だと直感したワタルは掌が傷付いても絶対に渡すまいと強く強く刃物を握り締めた。殴っても蹴りつけても意味を成さないと理解すると、彼女は削れ折れて隙間が生まれた歯で思いきりワタルの手に噛み付いた。

「ワタル!!離れろ!!!彼女はもう名前を誰かに喰われている!!喰われたら最後、もう誰も彼女を呼ぶ事は出来ない!!!」
「嫌です!!謝らなきゃ…僕に、助けて欲しいと求めてくれたのに…なのに、なのに!!!」
削れた所為か、鋭くなった歯がどんどんと手に食い込む。痛い、だが、離してしまえば彼女は死んでしまう。呼んで欲しいと、ちっぽけな自分に求めてくれた。突然の出来事に、戸惑い困惑している。だが、助けたい助けなければならない。辿り着いた先で、やはり彼女が死を迎えなければならないとしても。

その時、ワタルにふと不思議な感覚が訪れた。噛み付いて離れない彼女の口元からは、溢れ出た唾液と鮮血が滴り、首筋に次々と流れている。痛みに呻く視界の中、その一部に何かを感じた。熱を伴う何か、言葉では言い表せない何か、その何か。ワタルは自身を否定した、その答えは辿り着いてはいけない。それが、彼女が求めて止まないモノだとしても、その答えを答えとして認めてはいけない。しかし、ワタルの抵抗虚しく、彼女は刃物を取り返すと瞬間も見逃さず、ワタルの視線が一極集中した首筋に思いきり突き刺した。

「!!」
「ワタル!!」
これ以上の残酷な現実を見せてはならないと、ソニアはワタルに駆け寄ると彼女から距離を取り、抱き留めた。突き刺したまま、上下左右に刃物を動かすと何かに触れたのか彼女は満面の笑みを浮かべ、刃物を思い切り引っこ抜くと遠慮なく指を傷口に突っ込み、ソレを抜き取った。鮮血が噴き出し、血塗れのソレ、眩い太陽に翳す。

満面の笑みを浮かべ、何かを言おうとした彼女だったが当然、何も言えないままで大の字で後ろに倒れ込み絶命した。絶命しても尚、溢れては溢れる鮮血に誰かが悲鳴を挙げ、辺りは大混乱に陥った。抱き留められたまま、顛末を目撃したワタルは泣き叫びながら駆け寄り、臭いも染み付くのも厭わず、彼女を抱き起こし、強く抱き締めた。

ソニアも厭わずに歩み寄り、強く抱き締めたまま動かないワタルを見つめ、何かを握っている彼女の左手を掴んだ。それは、小さな紙、小さな文字、鮮血で真赤に染まっても分かるその文字。

「…白玉…安子…」



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