イングリッシュブルーベルのうみ 第拾壱話

微かに聞こえる阿鼻叫喚を背景に、シズクは煙草に火を付け、目の前に対する人間が居るにも関わらず大きく吸い込んだ紫煙を吐き出した。隣に立ち控える人間は、言葉では窘めはしなかったが視線の鋭さは増した。

「色々と騒がしくなっている様だが、いいのか?」
「構いませんわ、レオが対処していますから」
「飼い慣らしに完全成功した様だな、おめでとう」
「どの立場と目線で仰っているのか…ですが、賛辞の言葉は素直に嬉しいですわ、ありがとう」
「俺だけを呼び出したのは、ソニアとワタルを人質に南行きの切符を奪い取る算段か?」
「南…行きの切符?何の事でしょう?私は純粋に貴方と話がしたく、ツバメに呼んで来てもらっただけよ?」
「だからと言って、お前等の加工場で呑気に茶を飲みながら世間話をする気は毛頭ないが?」
「加工場なんて、此処はそんな恐ろしい場所でなくてよ?ご存知なくて?此処は−学校−という、大人が子供に教育の施しを与える場所なんでー」
「二百五十三人」
「ー」
「嘗て、第一次と第二次の大戦の合間に白乃は北への侵略侵攻を行うに辺り、此処に在ったとされる小さな村を活動拠点に選定した」
「ー」
「名前が定着していない赤子や幼子は手当たり次第に殺戮し、男は暴力で組み敷き、女は凌辱で組み敷き、生きたまま名前を引き剥がし、互いが互いに無理矢理名前を喰わせ合わせ、あの箱庭は完成に至った」
「そんな陰惨な過去が、私と何の関係がありまして?それを考え付いたのも実行したのも、白乃の二代目…私は何も希望も切望もしていません、それに、アレは箱庭ではなく楽園です」
「ー」


数時間前。

意外にも、瞼はしっかりと閉じていた。ゆっくりと持ち上げつつ、自身の現在過去未来と無意味な振り返りと無駄な郷愁を馳せながらシズクは起き上がった。隣を見ると変わらず、静かに寝息を立て、無意識な癖で眠るソニアが居、何巡目振りかの穏やかな朝に戸惑いながらも苦笑を零し、急遽の客室を見回した。

すると、隅に画材と折り畳まれ重なり合った絵の束が自然と視界に入り、気が付けば、布団を出、其処に向かい膝を折ると指先を伸ばした。

「ー」
子供の真っ直ぐな笑顔の絵とはにかんだ笑顔の絵の合間、その絵は此処にも居て此処にも在った。
−車椅子と扉−の絵、そして、解読不可能な文字の羅列。恐らくは、この絵を描いた人間が生きていた通り目の文字だろう。何時かは帰る積りだったのか?忘れたくとも忘れられない帰り道を書き殴ったのか?時に繊細に時に激しく、車椅子と扉を取り囲む様に隙間無く、決して忘れまいと思いは決意に、決して逃すまいと熱意は呪いに。だが、触れてても撫でても何の感覚も呼び起こされないという事はコレも只の絵に成り下がり紙切れへと成り果てた。単純な残骸、敢えての綺麗な言葉を用いれば、故人の遺品。
「起きても、大丈夫そう?」
「あぁ、眠れたか?」
「凄く久方振りに、眠りを体感した気がする」
「…そうか」
「それが、−弥丈部 爽 (ミツカベ アキラ)−の絵?」
「あぁ、弥丈部爽…なのか?だった?のか、ではない、のか確定の証拠を集めきれていないが…」
「また、もどき…の可能性も、か」
「性別不明年齢不詳、だが、弥丈部爽という名前を持つ人間が居る事は確実に確定している」
「そして、不意に現れる…美術教師という仮面を被って、無垢な子供達の前に…ありがとう」
シズクから差し出された煙草を受け取り、ソニアは火を付け、苛立ちを鎮めるかの様に大きく吸い込むと態とらしく大きく紫煙を吐き出した。
「過程と経緯は不明だが、弥丈部爽はワタルの母親役の女の姉に狙いを定めていたが、姉は死亡…恐らくは、三角関係とかいうくだらない諍いで母親役の女は実姉を殺したんだろう」
シズクも煙草を咥えると先端をソニアが咥える煙草の先端に押し当て、火を付けた。
「列車で聞かせてくれた話は此処に繋がるという事か…だが、弥丈部爽は姉に狙いを定めていたにも関わらず、何故に妹と?しかも、此処で夫婦なんて仮初の舞台に?」
「単純な話、名前の喰い過ぎだな」
「弱い人間が等価交換の原理を無視した末路か、救い様が無いのが益々浮き彫りになるな」
「自身の本名を剥ぎ取り、愛着も執着も無い−弥丈部爽−の名を何等かの理由で喰い、演じたくも無い父親として偽造の名を更に喰えば、嫌でも狂い始める」
言いながら、シズクはソニアにその成り果てた紙切れを渡した。掴むのも面倒ではあったが、指先は自然と伸び、ソレを掴み、ソレを認識する。ソレが、永遠にソレのままで在るから居るから。何時でも、ソレはソレだから、憎らしく悲しく虚しい位に。
「…何て、書いてあるのかな…」
「さぁな…俺達の通り目の文字でも言葉でもない…言えるのは、解読不能…それだけだな」
「ー」
「一緒に行くのか?駅舎探しに」
「え?」
「ワタルと、律儀にお前と行動していいかと尋ねられたから」
「…答えなくてもいいから、一緒に探すのを手伝ってくれないか?と切願はされた…正直に言うと、彼女が分からない」

さぁ、人間になろう

「ー」

足はあの人の素敵な右脚を、左脚は未だ決められない、眼も耳も腕も指先も肌色も選べば限りが無い、あなたはあなたのままでは所詮、戯言か睦言の世迷言、言霊にも使えない

「あれだけの純粋さと無垢さは狂気に近い、清廉潔白で居様とする心掛けや姿勢とも違う…何だ…あれは、本当に…自然…そう、あまりにも自然体で」

頬張り尽くしの満腹祭り、人間になる為の人間は余す事無く揃っているよ、端から端まで喰い尽くして最後は人間になろう

「その先を言えば、自分自身で自身を負に貶めるぞ?余計な苛立ちを抱えたくないなら、言えばいいが…」

分かっていて、海水を含ませた訳では無い、踊り明かした夜の先の向日の曲がり角の突き当りの半歩手前で気が付いた虚しさに気付いて欲しくなかったから

「…気持ち悪い…」
「ー」

祝福の為に弔う為に、同時に花弁を撒こう
降り頻る雨と雪に隠され、誰にも気付かれない背中の足跡は最初で最後の愛なんだ

「あー、すっきりした…これきり、これきりで彼女を非難も冒涜もしない…あぁいう人間も居る、それだけに思い留まる様にする」
「珍しいな、随分と感情なんかに振り回されている…まさか、こんな明快単純な狂い場で自身の磁場が狂わされているのか?」
「ー」

朝食が出来た事を告げ様としたと同時に始まってしまった、問答の会話劇。三者三様の視線は噛み合わない、絡み合わない、それなのに盗み見つめる様にゆっくりと密やかに秘めた視線は、コレとアレの糸先をまた再び、窒息寸前まで結び苦しめ上げて弾き切れ飛び散る悪戯のえげつなさに微笑を零し始める。


「まさか、彼女が白玉安子だったのかい?」
「いや、こいつは白玉安子の名前を喰った、お門違いの狂信者」
耳を塞いでも閉ざす事は出来ない、悲鳴と慟哭に頭を固い石に打ち付ける鈍い音と重さと痛みを体現する鎖の擦れ音。三角と一坂は、まるで目の前の異常で異質な光景に気付いていないかの様に自然と普通に会話を続けた。
「俺、彼女の演技好きだったんだけどな…まさか、結婚相手が君だったとは、馴れ初めを聞いても?」
「只、出逢って、単純に褒めて、不自然に愛されて…そして、こいつに殺された…それだけ」
「…あぁ、そういう事…」
自傷行為に飽きたのか、限界まで鎖を伸ばし、涎と胃液を撒き散らし、焦点の合わない血走りの眼球はしきりに何かを三角にねだり始めた。
「可哀想だね、名前を失くすのは」
紙切れの様な何かを与えると、奪い取る様に大口でそれを咥え頬張り、呑み込んだ。が、次の瞬間には全身を異常なまでに震わせ、それを吐き出したが、それでも収まらず、また狂った雄叫びを挙げ、暴れ始めた。
「へぇ、これが名前を奪われた者の末路ですか…あれだけ打ち付けているのに死なないんですか?」
「とうの昔に死んでいる、が、名前を喰われ、自身が何者か見失った今では死さえも認識出来ない…つまり、半永久的に生を課され狂わされ、確かな死を得る為に名前を求めて暴れ続ける…そして、俺達、第三者はこいつが何処の誰か名を知らないから、精神が狂った誰かが頭を石にぶつけて暴れているの認識止まりだ、死という正確無比な認識が第三者から齎されなければ、こいつに死は永遠に訪れない」
「認識の噛み合わせが合致しない限り、齎されない死…いやはや、怖いですねぇ、三角さんは…そんなに愛していたんですか?」
「当然、愛していたさ、あいつが描く車椅子と扉は今でも忘れられない…無慈悲な程に最高で完璧で、そして、満たされない」
「…そうですか」
「だが、そろそろ頃合いだな…」
「それは?」
「白玉安子直筆の名だ…出来れば、もう少し順応出来そうな人間に喰わせたかったが、等価交換を無視して事は何時までもそう上手くはいかないからな」
「一坂さん、三角さんの考え分かります?」
「大凡は、だが、当初の計画から少しずれ始めているのは確かです」
「もしかして、僕が訪ねて来たからですか?」
「怖いですよ、初恋を知らないまま大人になった子供が初恋を知り、独占欲を受け入れたら」
「おやまぁ」
薄暗い空間に歓喜と恍惚と拒絶と恐怖の笑い声と泣き叫びが木霊しても、貴方の名前を誰も知りません。












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