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イングリッシュブルーベルのうみ 第陸.弐話

「僕に何を尋ねに来たのかい?」
「はい、その前に」
「前に?」
「…もう一つ…」
「?」
「…あれ?えっと…」
「ワタル?どうかしたのか?」
一坂の問い掛けを聞きながら、ワタルは駅舎や列車について尋ねに来たのと、あと何か。何か、もう一つ。大事な何かを尋ねか伝えかしたかったにも関わらず、何一つ、頭文字さえ思い出せなかった。
「おいおい、どうした、ワタル?一坂の方が、困っているぞ」
朝餉の味噌汁を啜りつつ、三角は何処か楽気に一坂とワタルを見合った。
「ご、ごめんなさい…思い出せなくて…」
「いや、僕の事は気にしなくていい…三角、困っている人間を面白がるな、趣味が悪い」
「はいはい、俺は静かに朝餉を頂きますっと」
「悪いな、ワタル、続けて」
「は、はい…一坂の兄様は学者さんで、此処に来られる前に色々と各地を回られたと昔言っていたので…もし、駅舎や列車について憶えている事があったら…」
焼き立ての卵焼きを箸で半分に割り、咀嚼し、味噌汁を啜ると白米を一口頬張り、ワタルの言葉を聞いていたが飲み込み終えると一坂は箸を置き、茶を啜った。
「ワタル、前途ある君の願いを聞きたいのは山々だが先日の火災で僕の家屋は全焼…僕は身一つで此処に居て此処に在る…つまり、協力がしたくても出来ないんだ」
「え?全焼…?」
「あぁ、真夜中だったから鐘は鳴らしていない」
「でも、皆、そんな話は…朝の集いの時も…」
「とある可能性と理由があって…僕が皆にお願いして、あまり表沙汰にはしない様にしてもらっているんだ」
「ー」
「放火の可能性があるからな、ご馳走様でした」
沈黙に大人しく従っていた、三角は回りくどい会話に痺れを切らしたのか食べ終えた食器を重ね、立ち上がると台所へ向かいながら決定打を放った。
「放火!?」
「…三角…驚かせて悪い、だが、本当の話なんだ」
「…何かあったんですか?…」
「個人的な何かがあった訳では無い、とは思うんだが…まだ、何とも言えない…」
「ー」
「ワタルも気を付けた方がいい、個人的な何かなら僕一人で対処出来るが不特定多数を狙っているなら事態は厄介な方向に転がる」
「こんな小さい村で、そんな…まさか…」
「土地が大きかろうが小さかろうが、相対するのは結局は小さな人間同士…食うか?」
「頂く、ありがとう」
「…頂きます…」
台所から戻って来た三角は果物を切り分けた小皿三つを器用に運び、一坂とワタルの前に置いた。
「んな、しょぼくれるな、手伝えなくて悪いがお前はお前がするべき事に全力で取り組め」
意気消沈し、朝餉も半分程度、見た目から甘みたっぷりの果汁を溢れさせる果実もそのままに項垂れてしまっていたワタルの頭を三角は強くも優しく撫でると軽く肩を叩いた。
「…はい、ありがとうございます」
「何だったら、三角はワタルと一緒に行動したらいいんじゃないか?方々探すのは一人では大変だし、危険では…」
「い、いえ!三角の小父様にはもう言ってありますが、皆にはご迷惑を掛けないと誓ったんです…それに、ツバメも手伝ってくれると…言って…」
ツバメの名が出た瞬間、三角と一坂は一瞬だけ鋭く視線を交わした。何故だか目敏く、その瞬間を見付けてしまったワタルは言葉を続けながら小首を傾げた。
「ワタル、君には酷な話がもう一つある…聞き遂げてくれると約束してくれるか?」
「…はい」
「実は…放火の容疑者として、ツバメの名前が挙がっているんだ」
「ー」

ワタルを見送り、居間に戻ると高笑いを抑えながらも笑い転げる三角が居た。
「君、本当に趣味が悪いぞ?」
「いや、だって…あぁ、涙まで出ちまった…あんな、馬鹿を通り越して…恐怖を感じるぞ、あの信じやすさは」
「単純に純粋なだけだ、馬鹿が付く程」
「しかし、これでツバメとの距離は出来上がるがツバメの方はどうする?」
「頃合いを見て、始末する」
「上手くいくか?レオもだが、どうもまだ何か隠しているぞ、あの餓鬼共」
「共闘ではないのは断定出来る…が、厄介さの割合でいくとツバメの方が圧倒的だ…若しかしたら、アイツはツバメに真実を話したのかもしれない」
「ー」


眩しい朝とは真逆に重く暗い表情のまま、ツバメは薪割りの為に山を分け入った。


−ツバメ、俺はお前の父親ではない…俺は父親役を引き受けて、お前と住んでいる…それだけだ−

取り敢えずの衣食住と適当な言葉の取り交わし、それでも、何時でもその見上げる背中をツバメは何となしに養育者、保護者、保育者、永遠に定義が定まらない父親ではないかと認識していた。だが、感情を持つ眼差しで彼を見つめると何時もこの言葉を言われ、何時の間にか感情を持つ事を諦めた。

−ツバメ…お前は未だ、俺を父親だなんて愚かな事を考えているか?−

近い昔か遠い昔か。珍しく、向かい合わせで食事を囲んだ際に不意に尋ねられた。まさか、そんな事を尋ねられるとは思わず、ツバメは何とも言えない表情になった。

−何故?−
−…俺は俺の役目を果たした…近い内に俺は居なくなる−
−…役目…?−
男は言葉で返さず、物質で返答した。差し出された茶封筒にツバメは箸を置き、皿と茶碗を横にずらすとその茶封筒を引き寄せた。中身を取り出すと数枚の−車椅子と扉−が描かれた絵と一枚の学生服を着た女性が写し出された写真が入っていた。
−…誰?−
−俺が唯一愛した人だ−
−死んだの?−
−殺された−
−誰に?−
瞬間、ツバメは最もしてはいけない質問をしてしまった気がした。誰に、なんてツバメには至極どうでもいい話で名を聞いた所でその背景は粒も掴めない。況してや、他人だと一線を引かれながらも、取り敢えずの他人と同居して今更何の感情を持てばよいのか。だが、言葉は既に滑り落ちた、もう後戻りは出来なかった。

−ワタルの父親役だった男だ−

何故だか、不思議な納得がツバメに起きた最初の感情だった。あぁ、やはり、やはりそうだったのか、やはり、やはりなのか。だが、予想は確信へと踏み出していない。中途半端なままでは、

−ワタルの父親…役の人間と知り合いなのか?−
−知り合い…いや、美術の臨時講師で俺達は生徒だった−
−え?−

おかしい。何かが、そう、何かが、おかしい。
確か、何時からか、先駆者として色々な知識を教えてくれている一坂の兄と自身の様に教える教わる者はある程度、年月が離れている筈では?だが、目の前の男とワタルの父親役だった男は明らかに同年代。それなのに、あり得るのか?自身では句読点の打てない疑問を解決する答えが。

−俺は復讐の為に、自分の父親を殺した−
−え?−
−ある人物と取引した際に教わった…その為には、自身以外の名前が必要となった…俺の父親は早くから壊れていたから、絞めるか突き落とすかのどちらかで簡単に死ぬ人間だった−
−自分の生誕のキッカケとなる人間を…そんなに簡単に殺せるのか?−
−ツバメ−
−何…?−
−その名は、本当のお前の名前ではない、俺の弟の名だ−
−…弟−
−弟は幼くして死んだ…父親は俺よりも弟を愛していた…名前を喰って、より一層分かった…もう、既に、父親からは俺の名前はとうに消えていた…−
−どういう事だよ−
−言葉通りだ、名前を喰った−
−名前を食って、本人に成れる訳がない!!−
−成れるさ、現に俺のこの顔付きは父親そのままだ、ワタルの父親役の男は逢った事がないから目の前の人物が本当は誰かなんて気付いてもいなかった…最後まで−
−…そんな…−
−それになぁ、ツバメ…お前は生前の弟が書いていた名前をもう既にたらふく喰っているぞ?−
−な…嘘だ…どうやって…−
−名前が書いてある紙を細かく切り刻み、味噌汁に混ぜて、俺がお前に喰わせていたからな…今も喰い終わっただろ?−
−!!−
男は視線で、終えた汁椀を指し、衝撃で固まったままのツバメを嘲笑った。


−私は好きよ、その名前−

どうしようもない不安と焦り、その身体と視線は何時まで経っても振り返らない。それなのに指先を伸ばせば、無邪気に柔らかい掌は残酷に温もりを教える。

−…もし−
−ん?−
−もし、俺が君を抱きたいと言ったら…抱かせてくれるか?−
−ツバメ…?−
−もう、レオと寝たんだろ?−
−…そ、それは…−
−君は愛を知った優しい人間だ、だったら…傷付いた人間の一人ぐらい、哀れんで慰めてくれないか?−

残酷になるしかない、世界はこんなにも歪で歪んでいるのだから。交わるのは一対だけ、神様の意地悪な花畑に迷い込んだ蜘蛛は蝶に恋をした。蝶は空を舞い花々を飛び交う、それが愛ならば、飲み干そう、その蜜を。溶けても爛れても、飲み干そう、その蜜を。


「帰っちゃうの?」
衣に袖を通すと同時に甘い声が、心を擽る。
「もう直ぐ、レオも戻って来る…それに朝の支度も始まる、俺も薪割りに行かなければ」
言葉を聞きながら、ハギはツバメの腰に細く白い腕を絡ませた。絡んだ腕を邪険にせず、ツバメはさせたい様にさせた。
「ツバメは、本当にお利口さんね…私が泣いていると必ず来てくれる…抱き締めてくれる、口付けて慰めてくれる…ありがとう、優しいツバメ…」
「ー」
「最近、レオは慰めてくれなくなっちゃった…私がきっと役に立たないから…だから、こうして、外にも出してくれなくなった…私がもっと…」
ツバメは性急に腕を振り解き、振り返ると強く強く抱き寄せてハギの唇を貪った。
「…ツバメ…」
「君は只管にレオを愛せ、それに伴う虚しさ、寂しさ、侘しさは俺が全部打ち消してやる」
「…私を世界で一番、悪い女にしたいの?…」
「…あぁ、俺だけしか知らない…悪い女で居てくれ…永遠に…」


朝の空気を吸い込み、深く深呼吸し、瞼を持ち上げると同時に軽い足音が此方に向かって来た。逐一、場所が変わるのにも関わらず、迷わず、此処に辿り着ける人物は一人しか居ない。

「…ツバメ、おはよう…」
「体はもういいのか?」
「…うん、迷惑を掛けて、ごめんなさい…」
「いや、お前、駅舎を探すんだろ?だったら、薪割りと運びは…」
「あ、あのね、ツバメ…聞きたい事があるんだ」
「ー」


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