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イングリッシュブルーベルのうみ 第陸.参話

ぱちん

非力で弱々しい音、それでもワタルの心を追い詰めるには十二分だった。

−…うそつき…かけないっていったのに!!−
−…え…あれ?−

状況が全く分からないワタルは顔を真っ赤にし、ワタルが描き終えたばかりの絵を破り捨て、ワタルの頬を叩いたハギを目を点にして見返す事しか出来なかった。

−かけないって、いった!!−
−う、うん…かけない…かけないよ…−
−かけてるじゃない!!−

全くの無意識だった。それなのに、その言葉を聞いた瞬間。懐かしかった嬉しかった、単純な名称でソレに対して思入れを持つには自身は幼すぎる。だが、ソレはワタルの何かを呼び起こした。
気付けば、ソレは形となって紙に描かれた。

−車椅子と扉−

描き終えるとワタルは無性に泣き出したくなった。溢れ出そうになる涙を抑え様と必死になっていると後ろでワタルが描き終えたのを覗き込んだハギが金切り声を挙げ、紙を奪い取ると一体何処に隠れ潜んでいたのか子供とは思えない荒々しく乱暴極まりない手付きで紙を破り割き、力の限り、ワタルの頬を叩いた。

−うそつき!!ワタルはうそつき!!あたしのこと、よんでくれない!!かけないって、いったのにかけてる!!うそつき!!!うそつき!!!−

叫びながら、ハギは大声で泣き出し、泣き叫びを聞き付けたハギの世話係を務める女達が慌しい足音を響かせ、部屋に突撃し、泣きじゃくるハギを我先にと宥め始めた。

−ワタル!!お前は御当主様のお情けで本家に迎え入れて頂けた!!その御恩をこんな形で返すなんて!!−
−お前はやはり罪人の子だ!!−
−二度とハギ様に近付くな!!−
−早く去ね!!いや、とっとと早く死ね!!!−

女中に抱き抱えられても、まだ大声で泣き叫び続けるハギを呆然自失に見送り、ワタルは頬を擦りながら、破り捨てられた紙の断片を拾いながら、我慢していた涙を溢れさせた。

あんなではなかった、何時から?分からない、それなのに?気付いたら、そう、今もだ。何故?違う、そうではない。それなのに、何故?何故、彼女を皆、−違う名−で呼ぶのか?

−…−フクコちゃん−…どうしちゃったんだろ…−


「何だ?聞きたい事って?」
「…えっと…」
いきなり、一坂の自宅に放火したのか?と聞く訳にもいかない。ワタルは瞬間、逡巡し、閃くとツバメに向き直った。
「あのね、最近、夜何処かに出掛けているのかな?と思って…」
「…は?」
「この間、三角の小父様にお野菜を分けてもらったからツバメにもと思ったんだけど…明かり、付いてなかったから…早寝していたら、悪いと思って持ち帰ったんだ」
「ー」
「ー」
厳しい顔付きのまま、黙り込んだツバメに何か悪い事を尋ねてしまったのかとワタルの心中は緊張を通り越し、混乱を催し始めた。
「…悪い、言えない…」
「い、いいんだよ!逆に僕が気軽に尋ねて、ごめんね!」
「いや…聞き返しで悪いが、どうして、そんな事尋ねるんだ?」
「あ…その…えっと…」
「別に答えなくていいぞ、俺も答えなかったし」

肩を回し、斧を手に取ると、山に刃物の鋭い切れ味の音が響き始めた。まさか、疑念が生まれ様としているとはツバメは露にも思っていないだろう。村の連絡網である朝の集いは、なるべく隅の目立たたない場所で聞いている為、大体の出席者の顔は分かる。強制的な習慣ではない、だが、足並みを揃えたかの様に気付けば、ほぼ全員が其処に居る。だが、ツバメは幼い頃に一度か二度、父親に連れられて来ていたのを何となく憶えている。それ以来は、只の一度も来ていない。状況が拙くなるのは確実必須となった。ワタルは、決心を固めると芝居を打つ事を選択した。

「火事が、あったんだ」
「火事?」
「う、うん、二ツ目の囲いで…後始末がきちんと出来てなかったみたい…僕やツバメは外れ場で、家々の距離はあるし…一坂の兄様や三角の小父様は不自場(フジバ)に家を構えているから、大丈夫だろうけど、万が一はあるから気を付けた方がいいと思って…それに、外れ場に住んでいるとはいえ、僕達は此処の一員だから…迷惑を掛けない為にも、朝の集いにこれから出て…」
「ワタル」
「な、何?」
「悪いが、なるべく瞬きせずに俺の目を見れるか?」
「何で?」
「いいから」
「う、うん…分かった…」
「ー」
「ー」
「ー」
「ー」
「…放火の可能性もあるのか?で、容疑者候補は俺か?」
「え…」
「はぁ…分かりやす過ぎ…だけど、お前が疑われているんじゃなくて、良かったよ」
「…」
「これで、お前が列車で出て行ったとなると状況としては最悪な結末になる…本当は誰の家が燃えたんだ?それとも、別の何かが燃えたのか?」
「本当に…何も知らない?」
「全くな、しかも、内々で解決し様としていると様に感じる…大方、朝の集いでも何も話されていないか緘口令が命じられているか」
「…」
「放火されたのは…一坂の兄さんの家か?」
「!!何で、さっきから言い当てられるの!?僕、何も言ってないのに…」
「どれだけ、お前とご近所付き合いしていると?お前は元々分かり易くて、隠し立て出来ない…しかも、嘘を付いている時は必ず両目とも右の方向を見つめる」
「…何か、悔しい…」
「なら、お前も隠し立て出来る様に腕を磨け…ま、それで、感情に器用になられてもそれはそれで物悲しいけどな」
「…ツバメ…」
「ほら、もう太陽は昇った…大きな一歩を踏み出したお前には半日すら惜しいだろう、急いだ急いだ」
「うん、ありがとう…あ…僕は、ツバメが犯人だとか村で放火があったなんて、微塵にも感じないし思っていないからね、それは信じて欲しい…いってきます」
「ー」


地図も無ければ、文献も無い。足跡も指差しも無い中で、どう探し出せばよいのか。ワタルは取り敢えず、小高い山を登り、村の全景を再確認し様とした。
「…久方振りだな、此処に登るの…」
幼い頃、ゆったりとなら歩けたハギを支えながらレオとツバメ、秘密の冒険と洒落込んで四人で山登りを楽しんだ。幾つか点在する、腰掛岩の一つに腰掛けると田畑を耕したり、稲を世話したり、牛や馬を引っ張ったりと長閑な一日が其処に在った。村を見渡し、視線を遠くに向けると未だ先見ぬ、森や山々が村を囲い、列車も駅舎も何も影も形も無かった。只只、深い森だけが其処に広がっていた。
「やっぱり、ないよな…一坂の兄様が来た後に、取り壊されちゃったのか…」
先の状況の好転が望めない事を感じ、溜息を零すと僅かに自身を呼ぶ声が聞こえた気がした。立ち上がり、辺りを見回す、見えない。だが、呼んでいる。耳を澄ます、微かに何かを頼りに此方へ向かって、細い、棒?その方向へ向かって、歩き出すべきか?少し、鮮明に何かが転び、砂利の飛び跳ねる音、考えたくはない。でも、考えてしまう。その人物を視認してしまう事、名前を呼んでもらう事、微笑んでくれる事、誰よりも愛おしくて大好きな

「…ワ…タル…ワ…タ…ル…居る?…居たら、お願…い…返事し…て…」
「ハギ!!!」

確証を得たら、全速力だ。ワタルは全速力で、下り始めると息を切らし、細い棒を頼りに、傷だらけの細く、白い脚を震わせながら、此方に向かって来るハギと鉢合わせた。

「ハギ!!大丈夫!?どうして、こんな所まで!?」
「…よか…った、逢えなか…ら、どう…し様…と」
「車椅子は?入口に置いて来たの?」
「恐かったけど…歩けた…ワタ…ワタルに逢い…たくて」

痛々しいまでの健気さに、ワタルは抑えきれずに大粒の涙を流し、自然とハギを強く抱き締めた。入口に車椅子があるなら、レオが血眼になって探さなくとも此処に居るという目印にはなる。抱きから解放し、涙を拭うとワタルはハギに尋ねた。

「ハギ、沢が近くにあるから其処まで運んでいいかな?触られたくない場所とかある?」
「…え、でも…」
「薪運びで鍛えていたから、僕は大丈夫」
「い、いいの?」
「其処の水は、とっっても美味しいんだよ…ハギが良ければ…それに、僕喉乾いちゃって」
はにかんだ笑顔で精一杯の冗談を言うと、ハギも落ち着いたのか甘い微笑を零し、そっと頷くと白く細い腕を伸ばした。
「お願いします」
「任せて」

視認では、傷は膝頭を擦りむいただけの様だった。だが、ワタルは細心の注意を払い、ハギを横抱きに抱えると見晴らしの近くにある沢へと向かった。
「…綺麗…」
「ね、それじゃあ、あそこに座ろうか」
足に負担を掛けず、下ろして、そのまま座れる岩場を見付けるとワタルはゆっくりとハギを座らせた。
「ありがとう、ワタル」
「気にしないで、ちょっと待ってて…」
川に向かい、何枚かの布を鞄から取り出すと一枚は殆ど絞らず、もう一枚はしっかりと絞りきり、ハギの前に膝頭を付いた。
「ごめんね、器が無くて…これ、洗い立てのだから大丈夫なんだけど、飲めるかな?」
「平気、頂きます」
ハギは布を受け取り、顔を持ち上げると水を絞り出し、喉を潤した。その間、ワタルは怪我の確認と汚れた肌を丁寧に拭き始めた。
「ワタル…」
「ん?何処か痛いところ、ある?」
「…この間はごめんね、レオに海へ連れて行ってくれる話をしちゃって…」
「僕は平気だよ、それより、ハギの方が怒られてないか心配だった…どうして、レオはあんなに怒りっぽくなったんだろ…昔は、もっと…あ!ごめん…ハギの大切な人なのに」
「ううん…レオは…何だかもう…遠い人になったみたい…」
「遠い人?」
「毎日、愛していると抱き締めて囁いて口付けてはくれるけど…何だか、視線や心が…遠くて…」
「…ハギ、泣かないで…」

人間同士の諍いは何となしに想像して、ソレらしい言葉を何となく紡げる。だが、男女の何かしらの何かしに因る問題は全く分からない。同意同調の頷きは嘘になる、慰めの言葉すら紡げない。
自身に充てがわれた性は女、既定路線を歩んでいれば異性に恋をして一喜一憂して、瞬間を永遠と誤解して浮かんで沈んで、再び、浮かんでは沈む。それが、生きる理由と息巻いて。だが、ワタルには何も無かった。人間が人間に好意も嫌悪も抱くのは当然の事だ、他人なのだから。それ以上もそれ以下も無い。浮かびも沈みもしない。

「…ワタル、お願いが…あるの…」
「お願い?」
「此処を出て行かないで」
「ー」
「ワタルが此処を出て行ったら、私一人になっちゃう…私、もう…一人は…いや…」
「ー」

大好きな人を笑顔にする為に、選ぶ選択。そう、決めた。そう、決め込んだ。それなのに、その人は泣いて、自身が居なくなる事に怯えていた。想像よりも現実は味が濃く、重く、残酷だった。レオは、ツバメは、彼等の愛情と呼ばれる感情はハギを孤独にするという逆効果を齎しているのか?何故、こうも望む結末に辿り着くまでの犠牲は増えるばかりなのか。

小さな肩を震わせ、涙を零すハギに指先を伸ばして涙を拭わせる事も出来ないワタルは沈黙を選択し、右膝を拭き終え、左膝を拭おうとした。

「…して…」
「え?」
反射的に顔が持ち上がった、あれだけ肩を震わせていた筈のハギの涙はぴたりと止み、その視線はワタルの向こう側を見ていた。絶望ではない、恐怖に震える唇。想像をしなかった訳では無い、あくまで、想像止まり。現実には有り得ない、有ってはならない、有ってしまったら最後。その結末は。

反射的に振り返った先、川向こうに人間が居た、二人。有り得ない、川向こうは禁足地。踏み入れたが最後、生きては帰れない。そう、何時の間にか本能に刻まれていた。それなのに、人間が二人居た。ワタルはその人間二人を見つめ、

「…綺麗…」

と呟いた。

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