イングリッシュブルーベルのうみ 第捌話

父であった人間の持ち物だった筈、幼い頃の自分が描かれた画用紙と描く為には必須の鉛筆と絵筆。

一人で産まれた訳では無い、生きとし生けるもの、番があり、其処で種となり、形を成し、祝福の産声を、歓喜の狂酔を挙げる。

だが、父であった筈の人間は母であった筈の人間を只の一度も描かなかった。番であった筈の二人は何時の間にか居なくなった。行方を晦ましたのか?死亡したのか?分からない、気が付けば、此処に居ない、何処にも居なかった。

ふと、思いと振り返りに馳せている事に気が付き、意識を現在に引き戻すとワタルは広げっ放しの画用紙と絵筆を片付け始めた。


「すみません、遅くなりました…今、換気しているので少し待ってて下さい」
「部屋まで、提供しなくていいんだよ?」
「いえ、居間で雑魚寝も目覚めが悪いので…お腹空いてますよね?夕餉、特に好き嫌いがなければいいんですが…」
「僕達は食事に贅を求めない、頂けるモノは有り難く頂く」
ワタルはソニアとは気兼ねなく、色々と話が出来るのでないかという感触を持ち始めた。彼なら真相や真実、未だ見ぬ何かを尋ねなくとも彼自身から教えてくれるかもしれない。

米、味噌󠄀、野菜はまだ何とかある。肉があれば、最高だが、手に入れるには男手が必須となる。三角や一坂に頼んで分けてもらえればいいが、普段は肉代わりの茸類をよく食すワタル自身から肉を頼むのは大分珍しい。何か勘繰られても困る、何故だか三角や一坂に彼等の存在を知られるのは駄目な気がしてならなかった。

「…近くに、食べられる茸あるかな…」
「足りないのなら、白米だけでも構わない」
「!!」
驚き、振り返ると火を点していない煙草を咥えたシズクが其処に居た。彼は未だに分からない、同じ人間な筈なのに同じであって同じではない。何かが違う、でも、それが何かと問われれば一文字も言葉が浮かばない。明確で不明確な違和、払いたくても纏わり付く感触の無い不協和音。だが、それは彼の名前しか知らないからだとワタルは自身を落ち着かせた。ソニアの様に段階を踏んで打ち解けられる人間も居れば、段階も手順も通用しない、ふとした瞬間を待つしかない人間も居るのだ。ハギ、レオ、ツバメ、限られた人間との取り交わししか知らなかったワタルは不思議な嬉しさの高揚を感じ始めた。定められた場所の決められた日常に小さな穴が開き始めた。二人と出逢った、あの川が境界線、彼等は言った。川は存在しない、と。つまり、川向うには全くの新しい世界…もしかしたら、見つからない駅舎が線路に列車が…。
「?どうかしたのか?」
「い、いえ…それじゃあ、白米と味噌汁、青菜の和物でご容赦を…朝、茸を調達します」
「ー」
「白米の準備するので、少々お待ち下さい…煙草は居間で吸っても大丈夫です」
「なぁ」
「はい」
「ハギというのか?あの女」
「ー」
「ー」
「彼女に手を出したら、絶対に許しません」
「手を出す、とは一言も言っていないが?」
「…何を聞きたいんですか?…」

「あの女、-フクコ-という名前じゃないのか?」

フクコ、
全く聞き慣れない三文字の名前。ワタルの記憶や認識にそれに該当する人物は一人も居ない、出会ってもいない。筈。
「彼女の名前はハギです、僕は出会ってから今までその名前で呼び、彼女もそれで応えてくれたし振り返ってもくれました」
断言するワタルに少々驚きながらも、何処かで予期か予想していたシズクはあっさりと引き下がった。
「…あっそ…」
「ー」


あの時以来、あの部屋の灯りは灯っていない。だが、灯っている。ツバメを形成する全てに緊張という二文字が走った、まさか、住人以外の誰かが居るのか?三角か一坂か?だが、それであれば居間で済む話。ハギかレオか、二人共かどちらかか?だが、何故、この頃に?ツバメは瞬間で判断し、玄関からではなく勝手口に向かった。

「…はい、あれ?ツバメ?…」
やはり、警戒心がまるでない家の主は聞き慣れた叩き音に直ぐ反応すると扉を開きながら相手を確認した。
「夜に悪い、鹿肉が余ったから持って来た」
「本当に?助かる、態々ありがとう」
「誰か訪ねに来ているのか?」
「え?」
開いた引き戸の先、目端で確認しなくとも食卓には三善分の皿が並べられているのがはっきりと分かった。流石のワタルも問い掛けと質疑の結び付きは直ぐに出来た様で、罰の悪そうな表情を浮かべ、鹿肉を受け取ろうとした手が中途半端になってしまった。
「ハギとレオか?」
「…えっ…と…」
「ワタル、俺は今お前を追い詰めているのか?」
「いや、そうじゃないんだ…どう、言葉にすればいいのか…」
「俺は待つぞ」
つまり、譲らない。退かない。頑なな態度と意思に、ワタルは空を掴んだままの手を下ろすとゆっくり深呼吸するとツバメを見据えた。
「誰にも言わないと約束して欲しい、それでなければ教える事は出来ない」
今までにない、ワタルの真っ直ぐで畏怖を僅かながらに帯びた眼差しにツバメは驚嘆しながらも自然と頷いた。

「登場人物、増えたけど…どうする?」
「別にいいだろ」
明らかに守られる側の人間と守る人間、微妙な強い人間と弱い人間、どちらがどちらなのかが分からないのが最大の謎と秘密だ。煙草を咥え、室内にも関わらず薄く色の付いた眼鏡を掛けた一方は何処か達観した眼差しで睨む様に見つめているツバメを見つめ返していた。一触即発の事態にはならないと分かってはいても、視線だけは交互に見つめ相手の一挙一動を監視している一方は生きているにも関わらず、生きていると断言出来る材料が不足している様に感じた。
「貴方方は何処から此処まで?此処に来る手段は何を用いたのですか?」
「秘密、答えても今のお前では理解出来ないだろ」
「貴方達を理解をする気はありません、只、知りたいのです」
「知ってどうする?」
「友人のワタルは此処を出る予定です、だが、出る為に必要なモノが見つからないのです…貴方方が来たという事はそのモノがある事が確定する、だから知りたいのです」
「ー」
「シズク?」
「お前、どれだけ喰わされた?」
「…喰わされたって…まさか…」
「ー」
「大凡、気付いているんじゃないか?此処の成り立ち、気色悪い程にお膳立てされた人間関係、そして、出口が在るにも関わらず出口が見付からない理由」
「だとしたら?俺はもう後戻りは出来ないと覚悟を決めた、泥を被ろうが啜ろうが俺は前に突き進む」
「怖いねぇ、盲目の愛って…だけど、椅子は音を立てないぞ?永久に」
「ー」
「シズク、彼に収まらない怒りを投げ付けるのは止めろ…喰わされた、と感じるという事は彼も被害者の一人だ」
「だが、被害者が加害者に転じれば話は別だ」
「被害者が…」
「ー」
「…加害者に」

「お待たせしました、鹿肉焼くの久し振りなんで時間が掛かっちゃって…」

「折角、美味しい食事を作ってくれたのに…ごめんね…あんな緘黙した食事になるなんて、はい、こっちは洗ったよ」
「ありがとうございます…いえ、僕は気にしていません…」
食べ終えるとツバメはワタルに短い礼を述べ、足早に家を出た。緘黙した食事だった筈なのに、嬉々とした表情を浮かべるとシズクは後を追い駆け出て行ってしまった。
「ハギとツバメ…あと、君を足蹴にしていた…」
「彼の名前はレオです、何度でも言いますがあれは暴力ではありません」
「レオ、ね…安心して、毅然と否定する君を俺は信じる」
「…どうも…」
「小さい頃から、一緒だったの?」
「はい、紆余曲折はありますが…昔から今、そして、これからもと僕は願っています」
「レオは、ハギが好き?ハギは、レオが好き?」
「はい、二人は相思相愛です」
「ツバメは君の事が好きなのかな?とても、君を心配していた感じだったけど」
「まさか、ツバメが好きなのはハギです…ハギは唯一無二の人、誰もが彼女を求め彼女を愛し彼女を慕い彼女を求める」
「君も、その魔法に?」
「何を言っているんですか?魔法なんてお伽噺ではありません、真実で事実…本当は、僕、此処を出たくはなかったのですが…僕が此処に居続けると、彼女は何時までも笑えない、皆に愛されて求められて幸せなのに、それを噛み締められないんです…あの、ソニアさん」
「ん?」
「どうか、僕に列車がある場所を…其処に辿り着くまでの切っ掛けを、僕に頂けませんか?」
「ー」


初めの感触は、半ばだろうが終わりを迎えるその時だろうが、決して、忘れない。忘れられない。

−お前、どれだけ喰わされた?−

それを束ねて、束ねて。白か赤の二色しかない花束が赦された最上の花束、拍手喝采の祝福されし、君へ。君は、愛されている。愛されているんだ。

−だが、被害者が加害者に転じれば話は別だ−

「苛立ち最高潮の所、悪いな」
分かっていた、この人間の皮を被った化物は必ず前に居ると。だから、驚きはしない。コレは人語を話す、化物。幸せを忌み嫌い、不幸せを讃美歌と豪語する、化物。
「もう、お前と話す事は無い筈だが?」
「七時二十三分」
「ー」
「彼は、何時もその時間だった」
「ー」
「彼は…あの時、あぁ、そうだ…二日後に控えた娘の誕生日の贈り物を考えていた」
「ーろ」
「娘はアレが欲しいと、でも、ソレも好きだった…だが、親としてはコレを渡したい…あぁ、幸福な張り巡らしが浮かんでは…」
「ーめろ…止めろ…」
「沈む…浮かんでは…」
「止めろ!!!!」
「だが、幸福な張り巡らしを強制的に停めさせられた…そして、数秒後、彼の四肢は電車に轢かれて向けない方向に向かされ歪められ、即死」
「ー」
「だが、彼は無縁仏として誰にも見送られず、彼を迎えに来る者は今現在も居ない…妻も娘も居た筈なのに、おかしな話だなぁ?」
「お前、あの場所に居たのか?まさか、通り目を知っているのか?」
「お前も歪みを生み出した要因の一つか、本当はワタルの方なんだろ?名前の在り処を探し出せるのは?」
「ー」
「もう、止めたらどうだ?此処の崩壊はとうの昔に始まり、結末は確定した…ワタルが此処を出て行くと決意した時、俺達がワタルを迎えに来た瞬間に此処はもう終いなんだよ」

向日葵の茎を折り続けた君へ、太陽に見られたくのないのなら雨傘を傾けてあげよう。可哀想で可愛い君は、天の川を知らずに蛍を殺しに駆け出す。

「何故、ハギじゃないんだ!!ハギだ!!愛されているのは、ハギなんだ!!俺だけの愛だけでは足りないかもしれない、でも!!ハギは皆に愛され、求められ、慕われ、愛されている!!条件は揃っているじゃないか!!」
「ー」
「だから、ワタルではなくハギを迎えに来たと言え!!!!ワタルは舞台から下りると宣言したんだ!!!!」
「ー」
「彼女を連れて行ってくれ、彼女こそが相応しい…彼女こそが、本物なんだ…彼女こそが…」
「意地汚く貪っては、骨を喰わず肉だけを喰う者を連れて行けると本気で思っているのか?」
「…彼女を…連れて行ってくれ…南に、人魚の島へ…頼む…頼む…」
「ー」

靡かない黒髪に願いの短冊を結び付けて、笹舟を浮かべるには遅過ぎた秋の夕暮れに夏の恋しい夢を思い出して、利き足を一歩前へ。

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