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イングリッシュブルーベルのうみ 第伍話

「ーに滞り無く行われたとの事です」

−俺と一緒に、行かないか?−

「ー」

−どうして?ツバメは此処に居なきゃ、ハギとレオを幸せにするんでしょ?−

「しかし、これで、冷環様からご享受と思われていた米は全て…やはり、瑛未からという事になるのでしょうか?」
「馬鹿を言え!!出自の無い家が米を提供出来る等、有り得ない!!あれだけの実り豊かな米を毎度下賜出来る肥沃な土地は明解な出自を持つ家でなければ不可能だ!!」

−いや、…それに俺も何時かは追い出される身だ…早いか、遅いか…それだけだ−
−…ツバメ…僕はー−

「様、レオ様?」
「!!」
「ご思案を巡らせていた所、大変申し訳ありません…瑛未様からの三通目の手紙は届いたのでしょうか?」
「…いや、恐らくは使者が直接に此方へ向かうのかもしれない…」
「左様で、ご座いますか…」
「ところで、冷環の処罰決行は事実か?」
「はい、此方をー少々汚れていますが…」
「午前の回収分か?」
「はい、暴れ回り、手が付けられなかった為に…弐の婆様の許可は頂きました」
「…主だけでなく、一族諸共か…」
「−巴里−が介入したとの噂も」
「巴里だけの可能性とは限らない…自分自身が自分自身を殺しに来るかもしれない」
「レオ様!!お叱りを覚悟で言わせて頂きます!!巴里だけでなく、その様な世迷い言を信じてはなりません!!決して!!断じて!!」
「ー」
「何なりとご処罰を」
「…思慮が定まらなさ過ぎて世迷い言を声にしてしまった…非は此方に在る」

突然の謝罪に卓に座した者達は一同に目を丸くし、目配せで会話を始めた。有り得ない、有ってはならない。絶対的な者が絶対ではないと、絶対を否定してはならない。それでは、絶対を拠り所に弱者の肩書を負った者達の根幹が揺らいでしまう。絶対は不変でなければならない、不変だからこそに弱者は弱者のままでも日常という名の奇跡を手にする事が出来る。

「ところで、この記事の持主はあまり冷環に興味が無かった様だな…冷環の記事は明らかな、切り抜きの裏側だ」
「その様で、現場に居合わせた者によるとうわ言の様に−人魚−を迎えに来たとしきりに叫んでいたそうです」
「!!」
「しかも、この絵が肉体の彼方此方から」
「まさか…」

赤が茶に変色し、妙な乾付きと湿り気を帯び、恐らくはその臭いは永遠に残り続ける。それは、生命の匂い。香しき麗しき、その臭いは永遠に。

「確か、一坂の婆が密かに隠し持っていたとの噂もあります…しかし、一坂の婆は…あれ?…え…えっと…」
「間もなく、三日が経つ…早い者は今日の夜中辺りだろう」
「ですが、我々の中からは完全に排除出来た筈では?…ツバメの父親だった男、最大の諸悪であったワタルの両親だった男女も…まさか、まだ?」
「ー」
「如何なされますか?一坂の家までならば、まだ間に合いますが?」
「いや、もう退場した者の後追いは只の無駄だ…家屋も明日には失われているだろう」
「「ー」」


「レオ、おかえりなさい」
「遅くなって、すまない」
「う、ううん…大丈夫…縫い物をしたり、本を読んだり…ちゃんと、一人で居たわ…」
「参の婆から聞いた、居室には昼餉と夕餉の運び込み以外は誰も入って居ないと…」
言いながら、上衣を脱ぎ、ほぼ放り投げると寝台に寝転び、ハギに体を擦り寄せた。
「今日は、何人だった?」
「…八人…だったわ…」
「安心しろ、彼等は幸せに成れる…君はまた、救われない人間を救った…やはり、君は唯一人の存在だ…」
「…疲れたの?」
自身の左手をそっと掴み、掌に口付けたり、頬を擦り寄せたりと子供の様な甘え仕草で甘い睦言を続けるレオにハギはゆっくりと尋ねた。
「…君を抱きたくて仕方ないんだが…」
「…今日は、ゆっくり休みましょう…朝から忙しそうだったし…」
「…それじゃあ…」

不意に触れる、唇をなぞる指先。それは単純な合図、それは不明確な命令。瞼を閉じ、ゆっくりと近付く吐息の音と温もりと感触。触れる、唇。触れない、指先と指先。絡まない、視線と心。見失った昨日と認めなかった明日。其処には此処に居ない何処にも居ない、お菓子の帰り道を失った滑稽な男と女だけ。

静かに寝息を立て、僅かばかりの安堵の表情を浮かべ、ハギは眠っていた。そっと、髪を撫で、頬に触れ、レオはゆっくりと起き上がり、寝所を出た。脱ぎ散らかした上衣を衣掛けに掛け、長椅子に腰掛けると目を閉じ、天を仰いだ。軽く吐息を吐き、自身の下半身を見下ろしたが全くの平常時のままだった。触れた筈、重ねた筈、絡めた筈、それなのに。

「…俺は…」

「レオ様、ご寝所にお伺いの無礼お許しを」
「構わん、如何した?」
「また、暴れ者が…」
「ー」


「頭に、との事でしたので明朝処分の予定でしたが…」
鎖の擦れ音、猿轡を噛み締め続け、叫び続けた所為か徐々に朱が滲み始め、時折、白目を剥きながらも何かを訴えたいのか限界まで開かれた瞼が音を立て、その先まで開こうと血管が不自然に浮き上がり始めていた。
「何故、不純物が此処まで…ハギはこいつに違和を感じると言わなかったか?」
「頭は指しましたが、それ以外は…恐れながら、名札だけしかご覧になっていないので…」
「…条件で発動か…猿轡を外せ」
「危険です!!」
「言葉を繰り返させるな」
「ー直ぐにー」
両側に一定の距離を取りながらも臨戦態勢を取る者達を更に下がらせ、右手を軽く上げ、猿轡を取らせた。
「言葉すら忘れた者よ、聞こえぬとは承知の上だが、名は?」
冷静な声音で尋ねる合間も猿轡が外れた事で、耳を塞ぎたくなる金切声と奇声が室内に木霊した。
「ー」
レオは大股で足音を立てながら近寄ると利き手一本で、咽頭を捕まえ、ゆっくりと締め上げ始めた。それでも唾を撒き散らし、地鳴りの様な呻き声を挙げ、息苦しさも相まり、視線が定まらず、不規則な痙攣も起こり始めた。表情を変えず、変わらぬ握力で一点を見つめたまま。やがて、何で推し測ったか急に利き手を外し、咽頭を解放した。急な酸素吸入に因り、全身を震わせ、胃液を吐き出しながら、呼吸を整え様と生存本能が命に生きろと命じた。
「叫ぼうが喚こうが、お前の命は朝日が昇ると共に潰えるのは確定している…それは、至極どうでもいい…だが、お前は此処では異質そのもの…通常ではあり得ない存在だ…何故だ?何故、お前は此処に居て、此処に居る?」
未だに、全身を震わせ、あらゆる体液を垂れ流ししたまま、僅かながらに唇が何かを紡ぎ始めた。
だが、それが何を意味するか誰にも理解出来なかった。分からない、純粋にそれだけだった。まるで、初めて出逢う異国人と対話をする様な、一方的にぶつけられる言葉の様な何か。レオは僅かに驚嘆で目を見開きながらも、直ぐに腰に携えていた鞘から刀を抜くと切っ先で心臓を貫いた。
「「レオ様!!」」
心臓を貫かれながらも、相手は未だに何かを叫ぼうとしてか大口を開き掛けた。心臓を貫いた刀を素早く引き抜き、返り血を浴び続けながらもレオはその口腔内に向けて切っ先を振り下ろした。吊り下がり型に鎖で戒められていた為、首だけが不自然に反り返り、太く鈍く重い砕けた音と止め処無く溢れる血の臭いが辺りに充満し始めた。
「ー」
「レオ様、直ぐに湯浴みを!!此方の処分はー」
「言葉を聞いた者は居るか?」
「え?」
「いや、湯浴みの支度を」
「直ぐに!!」
周りの混乱と激しい足音を背景に、レオは口腔内から刀を引っこ抜いた。心臓から止め処無く溢れ出ても、口腔内から新たに血は溢れ始める。赤く赤い、単純に真赤に染まったその人間は不規則な脊髄反射を数秒繰り返すと事切れた。


「…」
湯浴みを済ませ、レオはそのまま一坂の婆が住んでいた筈の場所へ向かった。が、其処は雑草が生い茂り、人間が住んでいたと思われる形跡は何一つ残っていなかった。
「…やはりか」
「おやぁ?レオ様じゃないですか?こんな下界に何かご用で?」
ゆっくり振り返ると、三角が暗がりですら分かる不自然な笑みを浮かべて立っていた。
「一坂は?」
「私の居宅に仮住まいです、ほら、家はそれですし」
「逢えるか?」
「まだ、三日ですよ…ご温情を」
「俺が此処までやって来た理由は分かっている筈では?」
「私は只の者として宛てがわれ、此処に居て此処に居るだけ…それをお運命として、ご命令なさったのはそちらでは?故に、私は何も知りません」
「ー」
「何があったのかは存じませんが、その様に誰かの命の匂いを纏う程に…いやぁ、怖いお方だー」
まだ言葉を紡ごうとする三角の眼前に、レオは懐からソレを取り出すと突き付けた。だが、三角は不自然な笑みを浮かべたままで軽く小首を傾げた。
「コレは?」
「お前等の−通り目−の文字では?」
「これが…文字?ご冗談を、こんな子供の様な落書きが…」
「昨晩で四人目だ、文字形書式は違えど、皆一様に−人魚−の文字を書いている」
「…人魚…」
「我々は他通り目との交易も介入も侵入も断じて許さない、我々は我々だけでありそれ以上もそれ以下もない」
目を丸くしながらも、三角は最後までレオの言葉を聞いたが終わり間際になると笑いを堪えきれなくなったのか肩を震わせ、やがて、鳥達が逃げ出す程の大きな笑い声を上げた。
「何を綺麗事を申し上げているのですか!?貴方方のが余程罪深い!!我々ぇ!?何時誰が貴方方に傅いたと!?無理矢理、此処まで拉致し、強制的に其の者の本名を奪い取り、赤の他人の名を七日七夜喰わせ続け、全くの別人に仕立て上げ、此処に捨て置く!!」
「ー」
「本名の所在地は、あの小娘しか分からない…だが、能力が至っていないのか正確無比な部位まで掌握出来ずにお前等は生きたままで肉体を刻み続け、名を探さなければならない…所在地が頭に在る者は明朝に海へと捨てられる」
「ー」
「だが、悪いが、俺達はこの狂気なお飯事には一切の興味はない…破滅し様が自滅し様が、どうぞ、ご自由に」
「お前を招き入れたのは、誰だ?ツバメの父親だった人間か?どうやって、此処を!!」
「レオ様レオ様、落ち着いて…此処が手遅れなのは、君自身がよぉぉく分かっている筈だ…綻びはもう破綻にしか転がり落ちない」
「ー」
「一切の興味はないが、折角の機会だ、酔狂な猿芝居は最後まで楽しませてもらうな」
「ー」

鳥達の会話が何時もより、騒がしい。不意に瞼が持ち上がり、ワタルは起き上がった。身体の回復は順調で、今日からは一人で畑仕事も出来そうだった。三角に先日の礼を言いに行く事と一坂に弔慰を伝えなければならないと、ワタルは身支度を整えながら何となしに考えつつ、玄関の引き戸を引いた。

「!!…レオ様…」
まさか、想像すらしていなかった人物の背中が視界に飛び込み、ワタルは数秒、呼吸を忘れた。
引き戸が開き、その声を聞きながら、立ち上がり、レオは振り返った。朝焼けに、その痛々しい頬の貼り物がより一層に目立ち、レオは僅かに眉を潜ませた。一方、朝焼けの眩しさと不意な出来事に視線の位置が定まりきらないワタルは耐えられず、言葉を発した。
「如何なされましたか?朝早くから、今日の薪運びはツバメが担当で…自分は、休みを頂戴…して…います」
「分かっている」
何時の頃から、不意に彼は大人になった男になった。背丈は自身より頭二つ分高くなり、声音も随分と低く暗く重くなった。僅かばかりの記憶では、昔はもっと楽しかった。筈。自身とハギとレオとツバメ、三人で交代しながらハギを手伝い、無邪気に遊んだ。ほんの少し前な筈なのに、思い出すのに時間が相当掛かる。だが、楽しいという感覚は永遠に在る。それは、何よりも確かに此処に在って此処に在る。
「何か、ご用ですか?」
「いや、只…歩いていたら、此処に辿り着いて、腰掛けていただけだ」
「そう…ですか」
見下され数秒、レオは再び、ワタルに背を向けて歩き始めた。ワタルはその背中を見送りつつも、言うべきか迷ったが覚悟を決めると小さく叫んだ。
「レオ!!」
「ー」
「あ、あのね…僕、此処を出ると決めたんだ!!駅舎を探して、列車で…」
「ー」

何時もならば、完璧な身形で自身が起きるのを静かに待ち、目覚めると同時に彼は髪を撫で、目覚めの挨拶を言ってくれる。だが、居なかった。
「…レオ…」
ゆっくりと足代わりの車椅子を引き寄せて、起き上がり、体を委ね、ハギは寝所の襖を開いた。
衣掛けには、昨夜脱ぎ捨てた筈の上衣が掛けられ、それ以外は不自然なまでに何もかもが昨日のままだった。
「ー」
暫く、静止したままのハギは不意に自身の文机に向かうと引き出しをそっと引き、中から紙を取り出した。
「…どうして…」
それは、二日前に切り刻んだ筈。それは、一週間前に破り捨てて、川に捨てた筈。それは、十日前に燃やした筈。なのに、引き出しを引けば、それはまっさらな状態でハギの前に再び姿を表す。無言の嘲笑いと共に、黒髪を掻き毟り、隠し持っていた鋏を取り出し、ハギはそれに向かって何度も何度も振り下ろし、左に右に上に下に刻み始めた。罵詈雑言の声も密やかな純真無垢な恨み節も無く、只管、ただ只管に無表情のままで振り下ろし続けた。

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