悶々もモヤモヤももものうち

大好きなうさぴーへ

こんなこと、久しぶりです。なんだかすべてがうっとうしくまとわりついてきて、お腹の底にうねうねと渦巻く気味の悪いものがたまっていて、体は全然何もしたくないのに頭は遥か先を走りながら焦っています。最近は学校も楽しくて、告白してしまいますと推しがextraのタイミングで配信してくれて他にも嬉しいこともあって、ほんとにここ1年近く、こんなことなかったんじゃないかと思うんですけど、急にズドーーンとなっています、昨日今日と。だから今日も10時まで寝ていた上に起きても全然勉強ができなくて、焦ってもっとひどくなって、どうにもならないと悟ったのでそうだ、noteを読んでみよう、と。いつもは大好きなYouTubeも、今日はもう見る気になれなくて、ふと思い出したんです。既に一度読んだものでしたが1つ文章を読んで、潮が引くように気持ちが楽になって、無駄なものが薄れていくのを感じました。心からの、感謝。。不快なすべてが消えるわけではないけれど、それが自分の中にあるのにそれに飲み込まれていたような、視界がそれでいっぱいだったような状態から、ちょっと大きく見られるようになりました、きっと。そうじゃなかったら言葉になんてできやしませんから。

そういえば、昨日友達に教えてもらったんですが、何か悩みがあったらそうやって、ちょっと大きく見つめなおすといいんだそうです。なんでも、弟さんのバイブル本である「ブッダとシッタカブッタ」によるとか。教わったことをよりによって余裕がない状況で早速実践できるほど、この考え方をマスターできたわけではないんですが、美しく強い言葉の力を借りて私が幸運にもやってのけたことを思い返してみると、確かにこれだな、と。なんだか今日は指示語擬態語が多くてわかりにくいですね、ごめんなさい。ああ、自分は何かで悩んでいるんだな、と認識した、という感じでしょうか。

もうひとつ、記事を読みました。ちょっと前にいろいろタグなんかをめぐってサーフィンと呼びたくないけれどnoteを歩き回ったことがあって、そのときに、あ、この人の文章好きだな、と思った方が何人かいらっしゃって、今も定期的に覗きに行ってしまっているのですが、その中の1人の方。自分の感情を、完全でないまでもちゃんと言葉にして紡いでいけるひとって、憧れます。むしろ完全でない方が好きです。葛藤があって、迷いも悩みもあって、それで確実に伝わってくるものがあるから。noteで他の人をフォローしようかな、と思ったこともあるんですが、それでその方にフォローされてしまうのがちょっと怖くてできないでいます。Twitterにさえ、ちょうど1年前に足を踏み入れた新参者なので一般論はよくわからないんですが、フォロバって文化、あるじゃないですか。noteのこの空間は、何もないまっさらなものに言葉を書きつけていく、その行為のちょっと無意味なところというと語弊がありますが、何も求めないでいられるところが好きなんです。だから誰かをフォローすることで、そしてそれを理由に誰かにフォローしてもらうことで、自分が何か見返りを求め始めるような気がして嫌なのかな。Twitterも、ものすごく小さいアカウントだけれどちょっと承認欲求が膨らんできている自覚があって、それがあんまり好きではないからです。ただ、もし本当に私の文章を読みたいと思ってくださるひとがあって、フォローしてくださったらそんなに嬉しいことはないし、読むときだって何度も見に行くならフォローっていう機能を使った方が便利なんでしょうけれど、ね。もし私だったら、フォローされたら嬉しくて、そのフォロワーさんを見に行って、ちょっとでもいいなと思ったらすぐにフォローを返してしまう。Twitterではそうやって、あとからこっそりフォローしたことを後悔して、でも外すのもやりずらくて困ってしまったこともありますし、私自身フォローされたことによるバイアスというか、そういうものによってフォロバしてもらってもこのnoteでは特に申し訳ないので、結論フォローはしばらくしないことにしました。書きながら、なんで自分はこんなつまらぬことをぐちぐちと1000字近くも書いているのだろうと呆れておりますが、、。

ずっと、ポジティブな思考の方が自分も周りも楽しくて悪いことない、という信条でおりましたが、ここはちょっくら、ネガティブを吐露してみよう、とそういうわけです。どんな結果が得られるか、実験じっけん。今はなんだか頭の真ん中、耳と耳の中点くらいのところの感覚が鈍くて、頭が豆腐とはよく言ったものだなという気分です。豆腐は豆腐でも、今日のお昼に食べた高野豆腐みたいにしゅぼしゅぼしているかしら。この豆腐、マッシャーでつぶしてしまいたいですね。目は鉛、食塩水を加えて沈殿させて、熱湯でとけるやつです。

書き物の話に戻りますが、自分とものすごく似ている方がいらして、勝手にすごく共鳴して嬉しくて、そういうのも好きなんですけど、そうでなく、ちょっと考え方が違うな、とこれも勝手に思う方の文章も好きです。あまりに違いすぎると疲れるのですが、言葉の調子とかリズムとか、そういうものが少し近くて、考え方がちょっと違うような、そんな感覚が好き。読んで最初は、それは違うでしょ、と思ってしまうんですが、ちゃんと考えるとたしかにそういう道もあるな、と。新しい思考回路の道しるべというか、考える種をくださるような、そんな感じがします。

思えば今仲の良い友達が2人いるのですが、1人は家の環境とか好きなものとか、結構近くて、一緒にいて安心する、心休まる、そんなひとです。もう1人は、かなり違うところが多いひとだと思います。けれどお互いに傷つけないようにする方法とか誠実さとか大事だと思う場面での真剣さとか、そういう絶対に譲りたくない一線は一緒なんです。そして、深い話をするときは特に、同じ事柄について、別の方向から光を当てる、というのは、1人目の子の言葉の受け売りなんですが、まさにそんな感じです。ちゃんと同じ事柄に同じくらいの温度で目を向けられるだけの、お互いに対しての理解があって、でもちょっと考え方が違うので程よい刺激になって楽しい。3人でいて、他の2人でものすごく意気投合して盛り上がってしまう時はちょっと寂しいけれど、でもそれもお互いの違いの大きさの違いゆえ、しょうがないんです。とってもいい3人だなあ、と思います。

いつ書こうかなあと思っていたんですが、数カ月前、その2人とも付き合い始めてしまいまして、高校生活ももう終わりだなあと思うと、私も恋をしたああい!という気持ちがどこからともなくいきなりわいてきてしまったんです。このもやもやがそこに起因するとは私も考えたくありませんし、もしそうだったら、なんだそんなことかよ、と笑ってくださって構いませんが、ここ数週間はなんとなく、恋がしたい気持ちです。いや、さすがにこのもやもや全部がこれのせいとは思いませんが、ちょっとはあるのかな。特別に好きな人がいるわけでもないのにこんなふうに思ってしまうなんて、けしからん、と自分でも思うんですが、気持ちは自分で止められませんものね。今まで3年間、そんなことに全く興味もなかったのに、どういうことなんでしょう。そこまで、私は人に流されやすいんでしょうか。今まで自分でアタックしたことはあるけれど、誰からも告白されたことなんてなくて、2人とも中学の時も高校でも何度もあるみたいなので、いいなあ、私ってそんなに魅力ないかあ、と今更ながらにちょっとがっかりしてみたりもしています。魅力がないのと、たぶん壁が高いんだと思います。そんなにとっつきにくいかな、というようなことをこぼしたら、姿勢がいいからだよ、と言ってくれた優しい男の子もいましたが。

誰でもいいからとりあえず彼氏がほしい、みたいなの、私が1番嫌いなことなので、それにだけはなりたくないと思って、でも考えてみたらクラスの子はみんないい子なので、もしもし私のことを好きなんて言ってくれるひとがいようものなら、もっとその人のことを知りたいなと思います。まだそんなふうに考えたことはなかったけれど、知らないだけかもしれないから、知りたい。そう思える人は、いっぱいいます。思えばあの時隣の席になったひとも、山登りで同じ班になった子も、校外学習に一緒にいった子も、もっと話してみればよかった。仲良くなるぞ、とまではいかなくても、この人のことをもっと知りたいな、とそういう気持ちでいたら、もっと楽しかったのかもしれないな、と思います。学校に行くのもあと3日になってようやく気付く、わたし。自分で壁を作っているつもりは毛頭なかったけれど、こういう心構えが「ない」という、そのことが壁になりうるのかもしれません。

なんでしょう、やっぱりこのもやもや、私の汚い恋への欲望だったんでしょうか。今回は布石とか伏線とか、全く考えずにいつものように連想ゲーム、浮かんだことをそのままその順番に書いてきたのですが、今書いたこと、初めの方で書いたフォロー云々の話に酷似していてものすごく悔しいです。この記事で1番つまらない段落になったな、と思っていたのですが、どうやら私の頭の真ん中近くに陣取っていた考え方みたいです。姿を変えて、2回も出てきやがりましたから。自意識過剰というか、うぬぼれというか、自分のそういうところがにくらしいです。

もっと素直な、等身大のまっすぐな人間になりたいな。

2021/12/11

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