サングラス日和

親愛なるうさぴーへ

今日は暑いといって差し支えないくらいの気温で、日差しも強くてサングラス日和でした。サングラスをしてキャップをかぶって、半袖でピクニックに行きました。日焼け止めアンチの私も、今日はさすがに塗ってみました。そんなことを書いていたら、ちょうど雷が鳴りだして、今はお手本のような夕立が続いています。何かを孕んでいるような低いうなりだったものが、突然降りだした大雨とともに変化して、抑えきれぬ憤りの音になりました。決してそんなことはないのに、世界がぐわんぐわん揺れる感じがします。そっと窓から顔を出してみたら、ぴしゃりと小さなしずくに誘われました。でもこういうお天気の日に、おうちの中でかくまわれている気分って、いいですよね。決してそんなことはないのに、いつもよりも家が安全な場所になった気がします。

気持ちを昼間に戻しましょう。サングラス、よかったです。明るい日差しの下でも目が疲れないしまぶしくないし。まぶしいという意識で頭を満たさずに済むだけでなんてすばらしいか。まぶしがり屋で目の弱い私には魔法のようでした。もっと前からつけていればよかったな、でもちょっと勇気が出ないな。
しばらくサングラスをかけたまま過ごしてからふと外すと、世界の明るさに驚かされます。かけてから時間が経つにつれて、徐々に暗さに慣れていって、いつの間にかサングラスを通した景色がいつもと同じに見えるようになって。草の緑も、空の青も、雲の白も。白なんて、これ以上白くなり得ないように見えてきます。でもやっぱりそれは茶色いレンズ越しに見えているもので、ほんのちょっとだけ違う色なんです。

怖いなぁ、と思います。二重に。

1つには、気づかぬうちに世界の見え方が変わってしまっていること。一度慣れてしまったらもう元の色を思い出すことはできなくて、独りでサングラスをかけたり外したりしながら恐ろしくなりました。色眼鏡で見てはいけないよ、とはよく言う話ですが、いけないと言われても難しい。ぼーっと生きていると、他人にかけさせられたバイアスに気づかずに過ごしてしまうなんてことがありそうです。一番初めの変化の発端で気づいて、なんとか外そうとあがいてゆきたい、それか新しい色を甘んじて受け入れるとしても、少なくとも以前に違う色を見ていた自分がいたことを覚えておきたいな、と思います。いつかどこかで必要になったときに、取り出して眺められるくらいには鮮明に。自分であえて眼鏡をかけることがあるとしたら、それはできれば外し方まで知っている時だけにしたいとも思います。

2つ目は、どの見え方も結局、相対的なものでしかないということ。よく考えるのですが、私の色の見え方と友達の色の見え方が同じである保証はどこにもありません。この葉っぱの色とこの絵具の色が近い、という感覚は共有できますが、それが実際にどういうふうに見えているのかは、わかりようがないんです。もしかしたら、私に見えている世界が他の人に見えている世界の完全な反対色で構成されているかもしれない。青に見えているものは、オレンジかもしれない。そんなどぎついことが起こっていても、それでもすべての歯車は狂わずに動き続けてしまうような気がしてなりません。それを確かめる術は思い付かなくて、それならば自分が一番気に入った色眼鏡をかけて一生を過ごすのもよいのかもしれないな、とも思います。

なんだか色についての話ともっと抽象的な世界観についての話とがごちゃまぜになってわかりにくいですね。色については本当に相対的だけれど、世界観については言語化できる分、ずれを認識することができると思います。だからそのずれが限りなく小さい人と一緒にいると心地よいし、余計な言葉がいらなくて楽しい。逆にとことん違う人と話すと、刺激になっておもしろいんだろうな。

書いているうちに、いつの間にか雨の音がやんでいました。今はとても静かで、パソコンの内部から聞こえるうなりとキーボードの音が最前列から聞こえてきます。太陽が運んできたはつらつとした砂埃が雨で洗われた後の大気の、さりげなく包み込むようなひんやりと心地よい友情を、マッチ箱に閉じ込めてここに置いておきますね。

2022/05/22

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?