エンパイアステイトビルも、エッフェル塔もいらない。〜目的のない人生と都市を彷徨うおとぎ話〜

「お金を使い切る前に死ぬはずだった」

Netflixを契約している。
が、このところ忙しく、ほとんど見ていなかった。
マイリストには、マッチ度97%と表示される私好みで、まだ見ていない作品が溜まっていく。
見たら絶対好きと分かっている作品を見るのは面倒くさい気持ちが勝る性分で、でも何か見たいなあ、というぽっかり時間の空いた一人の夜、ふと「フランス」と検索に入れた。

すると出てきたのが、
「フレンチ・イグジット〜さよならは言わずに」
制作年は2020年と最近の作品で、主演はミシェル・ファイファー。

不思議な映画だった。

〜あらすじ〜
ニューヨークで夫の遺産で贅沢な暮らしを続けるミシェル・ファイファー演じるフランシスと、息子のマルコム。管財人から強い警告を数年前から受けていたものの、暮らしを変えず、とうとう遺産を使い果たす。小さな頃からの親友・ジョアンは、破産の噂が飛び交うニューヨークから出て、ジョアンが所有するパリの小さなアパートメントに住むよう提案し、その提案を受けて息子と共にパリへ旅立つ。

物語の冒頭の方で、管財人に、贅沢三昧で過ごし続けた理由を問われたフランシスは、「お金を使い切る前に死ぬはずだった」と呟く。

自宅にある高価な家財道具などを売って、パリで暮らす当面の資金を得たフランシスは、鞄に無造作にユーロの札束を放り込む。パリのアパートに到着すると、空っぽのクローゼットにその札束を並べる。

パリでも節約とか計画性いう言葉は存在せず、ひと束ひと束とあっという間に減っていく。

<以下、ネタバレを含む>

この物語のキーになるのは、フランシス親子が飼っている黒猫。
何の手続きもせずパリに連れてきているようで、入国審査に引っかからないよう、船でパリに到着する直前に、睡眠薬で猫を眠らせ、お金の入ったかばんにこれまたぶち込む。
この黒猫の秘密が分かってくるあたりから、映画自体はオカルト的な意味で不思議度を増すのであるが、この映画を不思議たらしめて、なんだか魅了されてしまう理由は、フランシスのお金の使い方と息子との独特な関係性だったり、お金が減るのと反比例して、人として何か欠けているフランシスやマルコムに懐いてしまった人たちがアパートメントに増えていく可笑しみだったりする。

まずお金の使い方について
フランシスは、お金を支払すぎる、のだ。
タクシーの運転手やカフェで渡すチップ、そして理由あって探偵を頼むときの着手金。「マダム、多すぎます」と言われるほど、域を超えた額を手渡すのである。
それでもまだ減らぬ札束を前に、アパートの目の前の公園にいた警察に対して勇敢な行動が印象的だったホームレスの青年に、札束ごと渡そうとする。(ただし”矜持”溢れる青年は、自分に必要な分だけ少量を抜き取り、あとは隣にいるホームレスにあげれば全部もらってくれるだろうと助言し去る。助言そのまま、残りの札束ごと、彼女はあげてしまう。)

パリで、お金を使い切ること。
それが彼女の行動の目標になっているようなのだ。
同様にパリで、彼女の命を使い切ることが彼女の運命だということも、物語が進むにつれて分かってくる。

息子マルコムもとらえどころなく興味深い。
父が死んだ後、突如、寄宿舎学校に12歳の彼を母が引き取りに来るまで、マルコムは両親とは暮らしていなかった。だから父親の愛情も知らないし、どこか人としての感性に欠けている(例えば、これから別れようとする恋人に花を持ってきて彼女を傷つけてしまうし、自分がパリに旅立つということが恋人との別れと同義だという自覚がそもそもない)。
夫の病死に際して数日間放置し「通報義務を怠った」として逮捕され、保釈後も、遺産で贅沢三昧で暮らす母と同じく、何を目的にして生きているのか、はっきりしない。

黒猫がいなくなる事件を通して、ある意味陳腐な破綻した家族のストーリーが明らかになっていく。だが、それをも超えて、世間の評価と言ったものに我関せずで、我が道をいく母と、12歳で引き取られたその日からその母と馬が合い、”相棒”のような関係だったことが、マルコムの回想で明かされる。

二人の元に集まってくる人々も個性的だ。
ニューヨーク時代の社交界でフランシスに憧れていた、パリに暮らす未亡人ミセス・レナード。
ニューヨークからパリに向かう客船で出会った、特殊能力で死期が近い人を見分け、猫の秘密を知る占い師・マデリン。
逃げた黒猫探しのためにマデリンを探してくる私立探偵ジュリアス。
マルコムの元婚約者で、マルコムを忘れられずパリにやってきたスーザンと、マルコムにライバル心を燃やしてついてきたスーザンの現在の彼氏トム。
フランシスがカフェで書いていた自殺を仄めかす手紙(出さないはずだったが、カフェでチップをもらい過ぎた店員が送ってしまう)に驚いてニューヨークから駆けつけた親友・ジョアン。

人間は、誰しも”ダメ”なやつで、”不思議”なやつで、でも、なんとなく生きてるでいいのではないか?

私は、フランシスの目的は何なんだろう?を探ろうとして、全く見当たらず、それを見つけたくて見続けていたのだが、「お金を使い切って死ぬこと」が彼女の目的であり、かつ「パリで死を迎えること」が彼女の運命であることがわかった時、合点した。

人は、お金の計画的な使い方だとが、人生で何を成しとけるとか目標志向的に生きがちだ。少なからず「高所得の仕事をするのは良いこと。だが、手にしたお金を浪費することは悪。目的を持って人生設計をし、何かを成し遂げる人が立派な人だ」という社会一般に蔓延する”わかりやすい指標”と無縁でいられないだろう。

パリの入国審査で、旅の目的を聞かれたフランシス。
「エッフェル塔を死ぬまでに見たくて」と答えている。
となれば、パリに着いたことを示すために、パリの象徴であるエッフェル塔のカットを入れることもできるのに、
この映画、一回たりとも、エッフェル塔が画面に映らないのだ。

パリに来たものの、やっぱりやることがなく退屈していたマルコム。
クリスマスプレゼント(フランシスの散財)で自転車を手に入れ、軽やかに街中を走るのだが、やっぱりエッフェル塔は映らない。セーヌ川らしき運河(と言っても綺麗なところではなくグラフィティーの落書きだらけ)に来ても、映らない。

思えば、ニューヨークでも、セントラルパークのような公園は映ったが、ニューヨークの象徴のエンパイアステートビルやタイムズスクエアなどの高層ビル群は全く映らない。

これがニューヨーク、これがパリ。
そういう”わかりやすい指標”は一切見せずに、
そこがどこであろうと、フランシスという人は
「周囲の評価には我関せず、お金を使い切り、命を終わらせる」だけ。

人生設計を立てることが善とされる社会では、かえって、「お金がなくなったらどうしよう、死んだらどうしよう、家族や友達がいなくなったらどうしよう」と不安とストレスがつきものだ。
だから、計画的な資金計画だとか、健康に気を使うだとか、友達に気を遣うだとか、不安とストレスをコントロールするための、結局は、ストレスフルな生活を送っている。

フランシスという人の生き方は、一貫して、潔いほど、それらがなかった。

わがままに生き、好きなようにお金を使い、ただ道端で死ぬ。
人生なんぞ、それだけで良いと、この映画は私に思い出させる。

「フレンチ・イグジット」は、目的もなく漫然と彷徨うことができる都市のおとぎ話なのかもしれない。

今日も、ほんの少しのユーモアで、名もなき誰かと、猫が彷徨える都市でありますように。