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「人は、究極には存在そのものがその人という表現だ」と私は思っている。私の場合、その表現を「もう一つの椅子」というフレームワークに託しているのだと気がついた。 2014年以降、自分のやりたいを少しづつ体感として試して、かなえて、失敗して、学んで。これまでの様々な出来事や出会いの点と点が、一つのストーリーとして繋がって表現できるような気がしたので、 「もう一つの椅子」のポートフォリオ的な、プレゼン資料を作ってみました。 PCでみると見やすいです。矢印を押しながらプレゼン動か
8年前の年末のこと、私は地元のハローワークにいた。 その年の春の終わりに軽いうつ病と書かれた診断書を片手に仕事をやめた。 心も体も弱っていた私は、1ヶ月の間は食べる時とお風呂に入る時と心療内科に通院する時以外は布団の中にいた。 心療内科では、毎日家事でできたことに丸をつける表をもらって帰った。 そして「ただ生活する」ということをまず取り戻した。 病院に通い始める前日までも当たり前のようにやっていたはずの、洗い物をするとか洗濯を干すとか、ささやかな生活動作すら、疲れすぎていた
ノラ椅子について人と話すうちに、私のノラ椅子への思いは「研究」という形で結実していくことになりそう。 学問分野だと「文化人類学」とか「社会福祉」の領域からのアプローチで、まちの風景研究。 保育士としてサポートしている「こどもみらい探求社」さんがFacebookで月に一度配信する「世界を広げる時間」というコーナーに「ノラ椅子」をテーマに出演しました(2021年11月9日)。 「ノラ椅子とは?」にはじまり、「ノラ椅子」の何について、なぜ研究しようとしているの?もはやそれが椅
路上観察をベースにした研究のアイデアについてあるとき話していたら、なぜ風景に関心を持つようになったのですかと質問されて、疑問に思った。 いつからわたしは風景を特別なものとして生きているのだろうか? ひとつ思いつくのは、高校生の頃だ。いわゆる渋谷系といわれる音楽や単館上映の映画が好きだったわたしは、土日や学校帰り、生まれ育った千葉から東京の渋谷へ電車で1時間半かけて遊びに行っていた。わたしが高校生の頃は渋谷のセンター街を闊歩するコギャルがメディアでは大ブームで渋谷は怖いイメ
詩と生活のZINE『ゆめみるけんり』の「いま寄り添うためのことば」の投稿の呼びかけをみて、詩を寄稿しました。 趣旨はこちら 詩を寄稿するのは初めてのことで、気持ちはとてもざわざわしています。 私は、起きたことに対して、不器用でも戸惑いながらでも、自分に正直に向き合い、言葉を紡げる方のことが好きです。 この趣旨には、その正直さを感じたので、自分の作品に対して、最も厳しい審査員である自分を一旦脇に置き、偶然手にしていたロシアの映画監督・タルコフスキー日記に励まされ、寄稿に
「もう一つの椅子」は、「いろんな居場所の隣に「どうぞご自由にお掛けください」とあなたのために椅子を用意しておく」そんなコンセプトの、主宰する私の半径で起きる小さな親切のおすそ分け活動の総称です。 2020年、ステイホーム生活でハマったのが石を磨くことなのですが、どうせなら、複数人がzoomのギャラリービューで並んだ状態で、30分くらい、無音で、何かをひたすら磨く動画を作ろうと思い立ちました。 私の隣で、言葉を交わさないけど、みんな思い思いに、それぞれの場所で、磨きたいもの