小難しいタイプの自分語り

 先日の散文の中でわたしの共感性の低さについて少し触れたと思うので、これをいくらか掘り下げたいと思う。たとえふざけ散らかした文章と言えど、数年ぶりのアウトプットがわたしの脳に与えた影響は、どういうわけか美意識や創作観に繋がってしまい、かつ、なんか元気になったのである。今日わたしめちゃくちゃ喋るやん? って思いました。

――まず、わたしの共感性の低さがどこに由来するのかということから始めるのだが、恐らく、美意識だと思う。というのも、わたしは素人ながら、かねてより創作に携わり、読むにせよ書くにせよ、主体となるわたし自身が最も重要であった。受け取り手としてなにを読み取り、書き手としてなにを手渡すか、これらがわたしの中心にあり、すなわち常々他者の動向を気にすれど、そこには絶対の客観性を持ち、分析する性格を持たねばならない立場にある。わたしにとって感情は観測しうる事象であり、コミュニケーションの手がかりではなかったのだ。共感は自他の一時的な同化であり、わたしは共感させる立場なのだ。

 この気取った事情により、恋愛という、とくにコミュケーションの要する環境に身を置くことに多大な労力を払うこととなった。他者との関わりの中で共感は、分析の労力に置き換えられる。対象の仕草や表情、声の抑揚、自他を取り巻く環境等々を瞬間ごとに整理して、論理的解釈で以てして二の句を継がねばならない緊張ときたら! 納得して然るべき情動などないのだ。あるのは理解のみ。

 そして、そこに美意識という語句が関わってくる。まず美意識というのは読んで字のごとく『美』への意識である。わたしの美意識というのは『美』を『真実』とほとんど同義のものとして、求めるべき絶対の存在なのである。そして厨二病ご用達と名高い哲学者ニーチェ曰く『真実』とは存在しえない概念であり、あるのは『解釈』のみである。なればこそ、存在しえない『美』の、もっとも『真実』らしい『解釈』こそが、創作者として求め続けねばならない一生の命題足り得るのであり、これがわたしの『創作観』となる。これがわたしの生活にもたらした懊悩こそが、共感という、解釈を他者と共有する行為の難しさなのである。


 さて、聡明なる諸氏にすれば『恋愛』は主体的な行動であり、共感性の低さを理詰めで解決しうるのであれば、そこまでイヤイヤすることはないのではないか? とお気づきのことだろう。諸氏のような勘の良いガキが嫌いなわたしは更なる説明の起筆に追われるのであるが、起こす筆がQWERTY配列に置き換わった現代においてはまだ容易いことを踏まえ、遅々として進まぬ本筋を逸れて恋愛がわたしにとっていかにクソかをより詳しく述べておこうと思う。これは科学の勝利であり、読者に対するわたしの勝利である。なんで負けたか、明日までに考えといてください。


 恋愛を行う上で対象となる人物はふつう、ひとりであり、論理に基づく情動の解釈は付き合いが長くなるにつれ『傾向と対策』とでもいうべき、ある種マニュアルじみたものが出来上がってくる。それを持ち出せばほとんどの労力を動的なところに集中できることにはできるのだが、恋愛の真の問題点とはそこではない。本当の問題は、拘束時間である。

 先述の『傾向と対策』ができあがるまでの期間など実のところ、たいしたことはない。なぜなら恋人という存在は友人と比較しても、時間の濃密さが段違いなのである。あまりにもセクシーなわたしはそれについてよく知っているし、それが長期間にわたるどころか、未来への期待に繋がることさえ重々理解している。臥所を共にするたび、契約じみた言葉を交わすのは本当に気が重い。手元にマニュアルがあるなら尚更、それは知り尽くした世界であり、共に歩むことはマンネリに思えてしょうがない――ここまではただのダメ男なのだが、わたし個人の本当にダメなところとは、対象への注視を強いられる状況が続くあまり、共感させる立場である、という創作者の傲慢な前提条件に支障をきたすことと、また、その傲慢さが共感の伴わぬ関係を見透かされ、責められるような心持になる2点である――要するに、気疲れから逃げたくなるのである。

 これによりわたしの中に芽を出した悪い種は恋愛事そのものへの嫌悪感に繋がり、おのずとラブソングなどを避けるようになった。それがそのまま美意識というものに根を張り、わたしの求むる『真実』らしい『解釈』というものを恋愛から遠のかせた(ただし、一応の釈明として『恋愛』と『愛』は別のものであり、これらが同様に忌避されるものではない)。


 ただここまでの殆どはただの寄り道であり、本題は美意識そのものにある。反芻するようだが、求むるべき『美』は存在しえない『真実』であり、妥協案としてそれらしい『解釈』を求めるとはどういうことかというと、それは創作者に委ねらえるのだが、わたしにしてみれば『普遍』であるということである。それはこの世のすべての調和を目指す仔細な規律のようなものであり、また、すべての人が一様に嚥下しうる清涼さのようなものでもある。それが具体性か抽象性かを判断し得るものならば話は簡単なのだが、実際、具体性を持った抽象性、すなわち聖像のようなものである。そんな曖昧模糊としたものの解像度を突き詰めることが、存在しえない『美』の追求であると思う。

 ラブソングにもその試みは当然としてある。それが芸術作品である以上、必ず解釈が存在する。人気を博す作品というのは実のところ、共感性を通じて人々に見せた『美』を持つということであり、すなわち普遍に近いのである。不遜なわたしもそれを快不快のみで断ずる気はなく、食傷気味であるとか、どこかに感じる退屈さというのは、それらの作品がより正解に近づきつつあるか、わたしが正解を見つけつつあるということなのではないかと思う。恋愛というテーマにおける聖像の解像度はすでに充分高まったのだろう。まあそもそも件の通り、わたしは恋愛嫌いなんだが?


 せっかくここまで書いたので、聖像の例を挙げたい。久々の創作なので質は悪いかもしれないが、共感させる=各々の解釈を1点に絞る、ということについて、具体的なシーンの例を用い説明したい。


『学友から離れたところに立つ少女は片手につり革を握り、空いたもう片方の手で器用に本を読んでいる』


 さて、以上の一文が読み手になにを想起させただろうか? それこそが解釈であり、決して普遍でない美なのである。かいつまんで説明すると、まず『学友から離れた』という文から、少女が孤立している可能性が生まれるが『本を読んでいる』という文からによると、読書のために離れて立っているという解釈も(いささか乱暴ながら)できる。それどころか『学友』という単語から、少女の服装が学生服である、と多くの人は考えるだろう。それは夏服か冬服か? セーラー服かカッターシャツかブレザーか? スカートかパンツか? もしかするとジャージかもしれない……かと思えば、少女の年齢次第で、学生服ではないかもしれない。また、両手が「かばんを持つ」という行為に使われてないことから、少女のかばんは肩にかけられる学生かばんだったりとか、リュックサックだとか、足元に置かれているのだとか、様々な解釈ができる。そもそもここはどこだろう? 電車かバスか? 時間帯は? それに伴い、車内の込み具合は?……これ以上説明しなくとも理解できるであろうが、例に挙げた一文では普遍的な解釈は生まれない。ただひとつあるとするならば、少女がつり革につかまれるほどの身長を持つことから、中学生以上であるということくらいだろうか。

 長々と書いたが、とどのつまり文章中にあるニュアンスの連続の先に、すべての人々が共通した解釈を持つことはほぼないということである。もちろん、文章そのものが非常に短いという問題はあるのだが、読み手ごとの解釈というのはその人の今までの経験に左右され、書き手の想像するそれとは違う。それが各々の『美』といえるだろう。そこに普遍性を求めるならば、文章はより具体性を増し、抽象性を失ってゆく……ありていに言えば、こんなんハゲるわ。だからわたしは筆を折ったわけで。めいめい勝手な解釈をしおってからに、羊か貴様らは。

 それで……この散文の着地点が見えなくなってきたところであるが、なんというか、やっぱり自分語りであり雑な八つ当たりなので、このまま落ちるところまで落ちてもいい気がしてきている。こんなものは別に読まなくてもいいし、絶妙な生きづらさを遺して何のためにもならなかった『文芸』という、個人的な創作活動への送別なのである。惜別を語るならば、ほんとうに無為と化してしまう半生の慰みに、己の血肉を3500字の解釈に還すならば、それは未だ続く人生の一里塚になる。説明不足の感は否めないけど、もう肩甲骨が痛いのでおしまいです。

 

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