愚かな先入観について

 公家というものがある。政治家というものがある。農家というものがある。画家というものがある。すべての名詞に、家、が、ついている。この、家、が、くせ者である。
 公家には、職業選択の自由はあるが、天皇家には、ないかもしれない。政治家の子供はもちろん、大工にもなれるし、日本酒職人にもなれるだろう。
 農家は? 愚かな先入観は、農家は家業を継ぐべきだ、と勘違いしてはいないか? 私は色々思いあたる。ちなみに私の家は農家ではない。しかし、日本人の8割は、祖先は農家であった筈である。そこで思い至る。日本人の8割は、家庭教育として、農業に恨みがあるのでなかろうか。土を嫌いであるということは、本当は、土が好きなのが、権力者に虐げられ、自分で、それは自分ひとりきりで、世界を考えることを忘れた、さ迷える、異邦人たちではなかろうか。さ迷っている、魂は、戦前には、天皇陛下に集った。江戸時代には、徳川に集ったのである。家業が神楽であった私は、いるかいないか、わからない神に遣えていたために、権力権威に対する感覚が、多少、違うのではなかろうか。神楽は、さの神、すなわち、さくら(桜、とは、さの神の倉、というのが語源である)を神とし、稲を神とし、山を神とし、すなわち、ふつうに八百万の神だよねみたいな感じであるから、はたからみると、信念が足りないように見えるのだが、これ以上は、怖いから今は書かないが、とにかく、農業は、特別、農家がすなるものではなく、そういう決まりは、きっと、古代の豪族あたりが決めたに違いない。
 時代は、21世紀であるから、普通に、職業としての、農業を、私は労働の義務として果たしているのである。願わくば、若い優秀な人が、農業をやって欲しいものだ。特に農家である必要は、法律上も、ないのである。
 必ず誰かは食料生産をやるべきだ。でなければ国が滅ぶ。兵站と弾薬が滞り、アメリカに負けたのだ。精神論のみでは、自殺か奴隷化かである。
 自分の頭で考えない、とは、精神の奴隷化を意味する。その精神は、容易く、権威に洗脳される。危険な時代が、数年前から、始まっているのである。
 歳をとると、知ったかぶるように、なるのだろうか。歳をとっても、知らないことは、知らない。何故なら、それは理性の背理だからだ。歳をとるとは、諦めを明らめ、大宰治のように、聖諦、とは、いかないかもしれないが、諦めを即且向自、絶対矛盾の自己同一として、諦めと諦めの悪さの矛盾が同居することであって欲しい。私は、そういう老人になりたい。

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