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ファーザー アンド サン/ブランフォード マルサリス


ファーザー アンド サン
ブランフォード マルサリス&エリス マルサリス
CBSソニー 12AP3357
1987年

現役としての僕のアイドル、ブランフォード マルサリスに再登場していただきましょう。
2年ほど前、関西のある有力ジャズフリー冊子が自分のアイドルは?というテーマで特集を組んだのだが、これは今現在関西のライブシーンでバリバリ活躍する若手から中堅のジャズプレイヤーに寄稿させたもので、心配してた通り若いジャズミュージシャンは頭にいらん一言がつくくらい真面目なので、その選択はアイドルという興味深いテーマだったのに、音楽的に尊敬する既に何十年も前にこの世を去ったジャズジャイアントを選んでいたり、現役でも音楽理論で尊敬できるとかテクニック論で好きとか注目しているとかの理由だったりで、せっかくの面白いテーマが台無しやなあと感じたものだ。なにせ僕はどうやったら薬師丸ひろ子ちゃんと知り合えるか本気で悩んで数学のテストでマジで0点を取ったことがありますからねえ。見たことあります?0点の答案用紙。アイドル特集をやるなら1人くらいはそういう冗談感覚で選んでくれても良かったのに。

さて僕がブランフォードをアイドル視する大きな要因は、サックスが上手いなんてくだらない理由ではなく、彼のスマートでカッコいい容姿と天真爛漫とも言える言動に憧れと頼もしさがあるからだ。
ところが、ジャズ界のアイドルであるが故にブランフォードは若手のトッププレイヤーとしてスパイク リーの映画の音楽を吹き込んだりして注目されていた時期に日米のジャズシーンで大変な騒動を起こしたことがある。まあ騒動と言ってもテレビタレントがタピオカ店を恫喝したとかでは無いし、今となっては大した事ではないのだけど、それはこんな内容である。

発端は1993年のアメリカ版プレイボーイ誌へのインタビューだ。ブランフォードは全米の人気テレビ番組「トゥナイトショー」にレギュラー出演することになったので、多分そういう事に関するインタビューのはずだったものが、どういう訳か日本人ジャズリスナーの話になってしまい、次の内容を話してしまった。
「日本人というのは、僕のコンサートに来る客について言えば、まるでクラシック音楽と同じで、誰かに良い音楽で聴いていた方がいいからと教えられてやって来るのさ。それで頭をひねってパチパチ拍手して帰って行く。彼らは歴史とか伝承的なものに目がないんだ。でも(ジャズを)理解しているかというとほとんど理解はしていないね」
要約したので、「巨人はロッテより弱い」と言ってないのに言ったとされて逆転優勝された近鉄の加藤哲郎の談話のようになってしまっているかも知れないが(今だに駒田が憎い)、早い話、これは「日本人なんてジャズはさっぱりわかっちゃいねえ」と解釈され、当時オオゴトとなってしまったのだ。

ここで、時代を遡って検証してみよう。今の大学でジャズを研究している若者には全く理解できないだろうが、この1993年当時の日本はまだまだバブル期だった。お金が余っていたのだ。その景気の良さがジャズにどのような影響を与えたかと言えば、日本のレコードメーカー(僕はその頃の日本のレーベルはメーカーと呼んでいる)がニューヨークのジャズを金で買い上げるがごときに進出し、現役で活躍しているミュージシャンにジャズ喫茶で正しいとされている懐メロジャズを再演させて、それらが申し合わせた様にスイングジャーナルのディスク大賞なんかを受けたりしていた頃。ニューヨークの人気ジャズクラブのスイートベイジルなんて金を出す日本のメーカーの言いなりになって日本人好みのプログラムを組まされ、レコーディングして売り出されていたという時代だ。バブルが弾けて日本人が飽きるとすぐにクローズしたなあ。

まあこんな調子だったので、おそらくアメリカのメディアは日本に反感を抱いていたのだろう。何せエコノミックアニマルそのものでしたからね。だからインタビューもトップジャズプレイヤーに日本の悪口を話させたかったのでは無いかな。それだとブランフォードはまんまと術中にはまってしまったと取れる。天真爛漫ですぐ思った事を口に出す彼らしい話だが、そういったところが好きなのだ。そして、アメリカのジャズ業界からは、大スポンサー様である日本人に何て失礼な事を言うのだ、と叱られたみたいだ。M1終了時に大物女性審査員をユーチューブで罵倒して大騒ぎになったお笑い芸人みたいなものか?いや、ちゃうか。

しかし、擁護する訳ではないが、ブランフォードの言葉はまともに日本のジャズリスナーのカッコ悪さを言い表していると思う。
ここまで読んでいただいている読者の方なら、ははーん、そうやってお前はまたジャズ喫茶でジャズを覚えた原理主義者の悪口に話を持って行こうとしているんだろう?と勘ぐられていると思うが、実はその通りで、ブランフォードの見た日本の客というのは推測するにレコードを聴いている時は会話をしてはいけないというのが美徳とされたジャズ喫茶族ばかりだったのでは無いだろうか?誰かと言うのはジャズ喫茶の親父か常連客だろう。そして時代的にその頃にブランフォードの取り巻きだったCBSソニーや斑尾ジャズフェスやサントリーホワイトのCMの関係者など、俗に言う業界人は皆ジャズ喫茶でジャズを覚えた人達だったのが想像できる。それだと例の「ソウルやポップスのヒット曲、8ビートや16ビートはジャズミュージシャンが金を儲けるために演らされている」というタチの悪い論調を鵜呑みにしている人達であった可能性が大な訳で、そんな人が自分の覚えた(植え付けられた)正義感で、当時のジャズ喫茶好みのアコースティックでシリアスなジャズを演奏していたブランフォードに「ジャズはやはりこうでないといけませんよねえ、ブランフォードさんの演らないジャズなんか程度が低くて聴く価値なんてありませんよねえ、近頃の若い奴らなんてヒップホップなんか聴いてジャズを解っていませんよねえ」などと恥晒しなことを意見してしまってたのでは無いだろうか。言っておくが、僕が聞いたブランフォードという人はそんなもんに首を縦に振る人ではない。

当時何かで読んだのだけど、ブランフォードと言う人は歩いていてマクドナルドを見つけるや、すぐに飛び込みマックシェイクを買う、ゲームセンターでパックマンばかりして遊ぶ、ソウルのヒット曲はみんな歌える、元々ヒップホップが大好き、という人だったという。つまりブランフォードは我々がクソ真面目な優等生面した若手ジャズ奏者に持つイメージよりももっともっと普通でチャメっ気のあるアメリカ黒人の兄やんであり、それ故アフロアメリカン意識が高い人だといえる。その上、彼はニューオリンズ生まれで、同地では名ピアニストで高名な音楽の先生であり、ニューオリンズ センターフォー クリエイティブ アーツの責任者として多大な功績を残したエリス マルサリスを父に持っている。
このニューオリンズ、知っての通りジャズが発祥した町として歴史的に名を残している上、食い物が特殊で美味いとあって全米有数の観光地になっているが、調査によるとその人口は全米で最も貧困な黒人層がかなりの割合を占めているという。したがって親父マルサリスの学校には音楽がなければストリートギャングまっしぐらで犯罪に手を染めていた若者もかなりいたのではないかと思う。だとすれば彼らを心配して面倒を見るのもエリスは積極的に行っていたのでは無いか。ニューオリンズはそんな町であり、今年井田一郎が日本で初めてジャズを演奏して百年になるとして何かやろうとしているジャズの街神戸の古いお役所の人が間違って見てしまったハイカラな白人的なジャズの街ニューオリンズへの夢とは本質的に月とスッポンなのであり、ブランフォードは息子としてその現実を見ているアフロアメリカンなのである。そんな彼に、本でジャズのルーツはブルースであると読んだだけで自分は黒人の味方であると信じてしまっているのに,ジャズに命をかけて反差別を訴えた偉大なるサムクックやアレサ フランクリンやジェームズ ブラウンを持ち込むのはコマーシャルに流れたと盲信しているジャズ喫茶族が正義感を振りかざして金をちらつかせていれば、前記の様な発言をしても仕方がないのではないだろうか。それに日本では全く無名だけど、ニューオリンズで大衆にウケる音楽を演奏し続けている隠れたる名手を尊敬しているかも知れないしね。何せソウルのヒット曲はみんな歌える人なのだから。
ブランフォードの言うジャズを解っているやいないはサキコロのオリジナル盤を持っているとか、ヴァンゲルダーの刻印入りの「離心点」を2千円以下で買ったなどの話では絶対に無い!そんなマニアがブランフォードにジャズを解っているという程で話してしまった結果としてのあの発言だったのだと僕は思う。

ではそんなブランフォードと日本との関わりが作ったレコードから僕が宝物にしている貴重なものを1枚紹介しようと思う。
バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発が出た(打たれたのは槇原)1985年くらいから日本のサントリーのホワイトウィスキーはCMにニューヨークの現役レジェンドジャズミュージシャンを起用してきた。とても洗練されたカッコいい映像で、最初はロン カーターで評判を取り、クラーク テリーとジョンファデス、ハービー ハンコックも出た。酒飲みの僕はこのサントリーホワイトは安値であるのに美味い、おまけに瓶がノスタルジックで典型的なウィスキーのデザインなので、今も世界のウィスキーの中でも1,2を争うほど好きなのと、ちょうどジャズに興味を持ち出した頃にプレイヤー自体の容姿を含めたビジュアルのカッコ良さでいつも魅入っていたものだ。
1987年、CMに登場したのはエリスとブランフォードのマルサリス親子。ちょうどブランフォードがスティングのバンドに加入して話題をかっさらっていた頃なので、本当にいいタイミングで起用したものである。このスティングバンドとジャズとの関わりも思い入れがいっぱいなので、いつかは文章にしてみたいと思っている。
日本はまさにバブル絶頂期、ジャパンマネーが欧米コンプレックスを吹き飛ばすがごとき(結局コンプレックスが助長されたけど)世界を買い占めようとしていた時代。サントリーも当然このCMを題材にレコードを制作し、コンサートツアーも行われた。ロンカーターの時はCM効果で満員となったのは良かったのだけど、CM放映が終わり、もう一度来た時は全く人が入らなかったという。この話題に上がれば何でも飛びつき、飽きたらそっぽ向く日本人の特徴もどうにかならんものかと思う。
ブランフォードとエリスの場合は、CMのために録った2曲を両面にカプリングした12インチシングルが発売された。それがこのファーザー アンド サンである。これはCMでもタイトルとしてデカデカと表記されていた。ブランフォードのワンホーンカルテットでベースはメッセンジャーズのロニープラキシコ、ドラムは当時No.1売れっ子ドラマーだったマーヴィン スミティー スミスである。今では口に出すのも恥ずかしい新伝承派ですわ。

このレコード、日本の洋酒メーカーのCM用の録音なので、プロデュースも日本人だろう、誰かな?(そうだとしても知っているわけはないのに)と見てみたら、それはデルフィーヨ マルサリス。家族ではウィントンのもう一つ下の弟で、トロンボーン奏者だったはず。それがどういう事かというと、この仕事は日本のメーカーのためとはいえ、マルサリス一家の主導で進められていたのがわかる。当時からこの一家はそのくらいの実力を持っていたのだ。

そしてその実力は聴いたらわかるというもの。まさに45回転による音の良さを超越したどんでもないカッコ良さとしてハネ返ってくるのだ。
A面に収録されたのはブランフォードが作曲の「STEEP’S YEEK」。これが当時のブランフォードのアルバムでもほとんど聴けないくらいのハードバビッシュなもので、もの凄い痛快感と爽快感に満ちた快演である。ブランフォードはこの頃読んだ他のインタビューで、自分が演奏する時は今回は自分がベン ウェブスター、今回はウェイン ショーターになったつもりで吹くと言っていたが、これなど相当ショーター他グリフィン、モブレー、コルトレーンといったハードバップ最盛期のプレイヤーを意識しているのではないか。アップテンポで吹ききるきっぷの良さは正に現代のナンバーワンテナープレイヤーの名に恥じない。僕はサックスなんて吹けないし、音楽の勉強なんてジャズメッセンジャーズを聴きあさるくらいしかしていないので、知らんけどだけど、このハードバビッシュというものの奏法というのは、かなりの技巧と高いセンス、黒人音楽に対する知識を持ち合わせていないと上手く表現できないと思うのだが、そんなこと誰に言うとんじゃと一喝されそうなほどのカッコ良さにホワイトのソーダ割を一気に飲み干してしまいたくなる。
B面にひっくり返して「COMING HOME」はエリスとブランフォードの合作。タイトルからすれば南部出身の親子らしく郷愁の響きを持った牧歌的なものかと思うが、意外とこれはブルーノートでショーターやハンコックやサムリバースの世代が演っていたものに近いニュアンスが聴き取れるもの。ブルーノートのこういったレコードは当時は新主流派と呼ばれたが今では50年以上前のもので、もう最新とはいえないかも知れないけども、これが録音された87年ならばまだ20年前の出来事だ。57年も生きると20年なんてすぐである。この演奏を聴くとエリス マルサリスはニューオリンズに帰ったがためにオールドジャズを教える先生というイメージがつきそうなのが、実はハンコック、チック、マッコイなどと比べても引けを取らない技巧と音楽性を持ったプレイヤーだったのが解る。それに加えてA面でのハードバビッシュなバッキングとソロのブルージーでノリの良さと聞きやすさなどは圧巻としか言いようがない。音楽的に高度でカッコよくて聴きやすい、ジャズプレイヤーにこれ以上のものを求めるのは無理だ。恐るべしエリス マルサリス!エリスを聴いてホワイトもう2杯。

さて、先ほども少し触れたように、このレコードは12インチシングルとして世に出たものだ。日本で初めてこれを出したのはさだまさしの「親父のいちばん長い日」だったと記憶するが、この頃、流行のポップスやハウス、テクノなどがよくこの形で出版されていてオシャレだなあと思っていたけど、ここまで良い演奏なので、出来たらこの2人の共演としてこのまま12インチLPかCDの作品として残してもらいたかったなあと思う。確かウィントンは「スタンダードタイム Vol.2」として親子の共同作品を残したはずだ。しかし、ここまで痛快感と爽快感に酔いしれるのは45回転ならではの音の迫力があってのものかも知れないと思うと複雑だ。
レコードというのは化学的にも回転数が早い方が音が良いというのは常識らしい。では何故?という質問を元町Doodlin’時代によく来られるマニアの人に聞いてみたことがある。しかしその答えは円周率とかよくわからない難しい言葉が出て来て数学のテスト0点の僕にはチンプンカンプンで、結局適当に解ったふりして頷いていた始末であった。僕の頭の回転がついて行かなかったのだ。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建をもくろむ日々。

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