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マイ ファイア/ブーガルー ジョー ジョーンズ


マイ ファイア!モア オブ ザ サイケデリック ジャズギター/ブーガルー ジョー ジョーンズ
プレスティッジ 7617
1968/10/21

ジャズ史には偉大なる3人のジョー ジョーンズがいる。1人はジャズドラムの礎を築いた「パパ」ジョー ジョーンズ、2人目はパパの後に出現したフィラデルフィア(フィリー)の天才ジョー ジョーンズ、そしてソウルジャズ界のスーパーヒーロー、ブーガルー ジョー ジョーンズである。
とは言っても、この日本で通じるのは最初の2人だけ。なぜなら3人目のブーガルー ジョー ジョーンズは日本では1990年代にレアグルーブやクラブジャズという文化が入って来るまでは全くと言っていいほど誰にも相手にされなかったギタリストだからだ。

にもかかわらず、元町Doodlin’でジャズギターといえば、このブーガルーの人気は断トツだった。なにせDoodlin’所有のジャズレコードのうち、ギター部門では圧倒的な枚数を誇るのはグラント グリーン。そして2番目となればケニー バレルでもウェス モンゴメリーでも、ましてやジム ホールでもなく(1枚もない)、このブーガルー ジョー ジョーンズなのだ。しかも皆にゴリラーマンと呼ばれ親しまれている。一体ゴリさんがここまで人々に愛されるジャズギタリストであるのは何故なのか。この章ではその秘密を解き明かすとともにゴリさんの経歴を探って行ってみようと思う。

Doodlin’所有のゴリさんことブーガルー ジョー ジョーンズのリーダーアルバムは数えてみると全部で8枚あった。これはプレスティッジより発売されたもの全部だが、全てが日本のレキシントンという小さなレコード会社がファンタジー社のオリジナル ジャズ クラシックスと提携して、レア グルーヴやアシッドジャズのブームに乗って1990年代にシリーズとしてリイシューされたものばかりだ。このレキシントン社というのは渋谷に本社があったらしいのだが、この頃には特別にプレスティッジ ジャズオールスターズと銘打ってバーナード パーディーを中心にしてヒューストン パーソン、ソニー フィリップス、メルヴィン スパークス、デヴィッド T ウォーカー、ヴァージル ジョーンズ、ルー ドナルドソンらを呼びコンサートツアーを行い、僕らを狂喜させたうえ、そのライヴ盤も発売したという会社で、当時まだ20歳代だった僕なんかあまりにも興奮して履歴書を持って入社試験を受けようと真剣に考えたほどだ。

したがって僕がブーガルー ジョー ジョーンズの名を知ったのはこのシリーズのリストを見てからだ。ブーガルーだけではない、チャールズ アーランドやメルヴィン スパークス、プーチョ&ラテンソウルブラザーズの名を知ったし、OJCのラスティー ブライアントのレコードで覚えたソニー フィリップスのリーダーアルバムがこんなにあるのか、とか正しいジャズジャイアントであるはずのソニー スティットがプレスティッジでこんなカッコ良さそうなものを出していたのか、とかを教えてくれたのもこのシリーズである。ブルーノートの「ブハイナズ デライト」のリバティー盤がミュージックマンで売られているから仕事が終わればダッシュで買いに行こうとか、ウィントン マルサリスの新譜が出たとか出ないとか、とほざいていた時代、マイルスのマラソンセッションやサキソフォンコロッサスみたいなものがプレスティッジの全てだと思っていた。なのでこの発売は衝撃的であったのがつい昨日の様に思い出される。そして、こんなワルいムードのジャズレコードがかつて存在したのかとも。
Doodlin’に来られる僕の師匠ともいえる故吉田輝之氏は、この頃に紹介されたプラスティッジのジャズファンクのミュージシャンらを「富士の樹海の中を垣間見る様でした」と仰ったがその通りだと思う。
そんな中でもゴリさんのレコードはビジュアル的にもひときわ謎めいていて、悪の魅力が満ちていた。

レキシントンから発売されたレコードは神戸元町のハックルベリーか梅田東通り商店街のVICへ行けば普通に買えた。当然一か八か騙されたつもりで1枚入手してみよう、それなら安全策としてサイドメンに自分好みのプレイヤーが参加しているものを、と考えるのはジャズファンとしては自然なことだろう。そして選んだのは大好きなピアニスト、ハロルド メイバーンが参加の「MY FIRE!」だった。

プレスティッジの「マイ ファイア(7617)!」はタイトルが示す通り、当時ヒットしていたドアーズの「ハートに火をつけて」をギンギン、キンキンに弾き倒したLIGHT MY FIREで始まる。そしてその衝撃がこれまでアート ブレイキーやハンク モブレーやロリンズ、コルトレーンを信奉していればジャズスポットで話が通じると安心していた僕の人生を一変させた。あまりにも快楽的、あまりにも危険なムードに満ち溢れていたのだ。今まで活字で覚えた気になっていたジャズとはあまりにも違う、底がないグルーヴとノリに動悸を覚えた。
これを聴いて以降、僕がこのNOTEで噛みつきまくっている旧ジャズ喫茶でジャズを覚えた人とはまっっっっっっっっっっっっったく話が通じなくなったし、通じさせる気もなくなった。そしてこれこそがジャズの本質なのではないかと固く信じさせられた。
このアルバムはブーガルーのギターにメイバーンのピアノ、ルー ドナルドソンのレコードで知ったペック モリソンのベース、なんか良いレコードで良い演奏を聴かせてもらった記憶のあるビル イングリッシュのドラムにリチャード ランドラムというコンガ奏者が加わったシンプルなジャズクインテット編成のものであるが、これがジャズであるかないかという不毛な議論より間違いなく素晴らしい音楽をジャズ的に演奏したものだと胸を張って主張したい傑作である。タイトル曲以外にも「セントジェームス病院」や「タイムアフタータイム」などでのメイバーンは相変わらず颯爽としているし、とんでもない黒いムードに覆われて聴き応えに溢れかえっているうえ、「テイクオール」などのオリジナルはバンドが一体となってグルーヴしており、これをジャズギターの真髄をとらえたジャズファンクであると言わず何をそう言えばいいのかと、こちらが開き直りたくなるくらい完璧なレコードである。

そしてこれがあるから、という理由で安心してソウルジャズに特化したDoodlin’を神戸元町に開業したのだが、運命というのはそんな生易しいものではなく、今から約10年ほど前、オープン前に金も持っていないのに角をひとつ曲ったところの中古レコード屋さん、ハックルベリーを覗いたところ、ブーガルーのレキシントン盤が一挙に6枚も売りに出されていて、僕は狂喜して月の家賃、電気代、水道代を握りしめて全部買いしめてしまったのだ。
僕の人生は自分で言うのも何だが、親父の死、挫折、三度の大失恋、離婚(失恋に含まれず)、失業、合計六度の救急車、アートブレイキーとの出会い、アルコール依存症など、なかなか波乱万丈であったとは思うが、この一気6枚買いは、間違いなく人生のターニングポイントを迎えるものであった。そしてそれは旧ジャズ喫茶族との小競り合いの始まりでもあったが、ジャズ喫茶文化なんて全く気にしない通常のお客さんは皆、このブーガルーを聴いて大いに喜び、レコードカバーを見てゴリラーマンと呼び、特別に愛してくれた。なにせゴリさんのバラードを聴きに毎日来てくれる人がいて、おかげで家賃と光熱費が払えたのだから。庶民の味方でつくづく音楽好きに愛されるゴリさん!いや、一人だけだがかつてジャズ喫茶に通っていたという年配の紳士ですら、ゴリさんを聴いて好きになられ、CDを見つけ購入して嬉しそうに僕に見せてくれたものだ。
くり返すが、とにかく音楽ファンに愛されるゴリさん。それは「マイ ファイア!」を聴いてもらえれば、ジャズ喫茶族以外の健常者なら理解してもらえるのは確実なのだが、その「マイ ファイア!」ですら、彼にとっては例外的なジャズらしい作品であって、他はもっともっと人間味溢れる音楽そのものの高揚感とファンクネスを感じさせられる傑作ばかりだった。

Ivan “Boogaloo” Joe Jones は先ほども述べた様に、この日本では全くジャズギタリストとしては相手にもされなかった。したがって彼の経歴はこれまでのジャズ書にはこれっぽっちも明記されていない。
しかし、ジャズファンクのプレイヤーのことならば、我々にはこれがある!と引っ張り出したのが、名書と謳われた原田和典著「コテコテデラックス」だ。当然ジャズファンクのスーパースターであるブーガルーを軽々しく扱っている訳はなく、しっかりとブーガルーの経歴を他の本で正しいとされるジャズミュージシャンと同等に紹介していてくれて大変有り難い。
それによるとブーガルーは1940年、ヴァージニア州ウェストヴァージニアという街で生まれたとある。この州はアメリカでは歴史のある由緒正しい州であり大西洋側にはそれなりに名所も多いが、面積としてはアパラチア山脈が多くを占めていて、産業は石炭くらいしか無く、白人でも山間部はかなり閉鎖的ないわゆるプア ホワイトと呼ばれる貧困層が多い土地である様だ。彼の生まれたウェスト ヴァージニアという(州ではない)町はネットで探してみたが見つける事は出来なかった。ただ名前からしても山間部の貧困な町であったのではないかと想像がつく。サウンドは当時のジャズファンクプレイヤーの多くと同様、研ぎ澄まされた感覚を持つ超オシャレで洗練されているが、その反面、ゴリラーマンと(愛されている故に)アダ名されるほど、容姿はサエない地味な黒人であるのは、そんなところで育ったからかも知れない。まあそれ故に何か特別に好きになるのだけれど。
ギターを覚えたのは15歳のとき、レコードで聴いたタル ファーロウとビル ドケットのバンドでホンキートンクを流行らせたビリー バトラーが好きで、それらを手本にし猛練習したという。ニューヨークに出たのは1966年頃で、プレスティッジのリチャード グルーヴ ホルムズの「スパイシー」で初録音を経験する。ここでもう既に人並み外れたノリを披露したためか、翌年3月には同じプレスティッジより「イントロデューシング ザ サイケデリック ソウルジャズギター オブ ジョー ジョーンズ」という、時代を物語った様な仰々しいタイトルの初リーダー作を録音。これは2つのセッションを記録したもので、リメリック ノウルズ ジュニアという聞いたこともない名前のオルガン奏者と共演したプレスティッジらしいソウルジャズ路線のものが半分だが、残り半分はロン カーターとベン ディクソンというバリバリのジャズアーティストと共演したギタートリオ作で、共に非の打ち所もないオシャレで洗練されたサウンドを聴かせてくれる極上のジャズアルバムだ。その要素としてはあのウェス モンゴメリーやジョージ ベンソンに肉迫していると言っても過言ではないと思う。

そこからどういう訳か1年半の日数が開き、録音した2作目が今回取りあげた「マイ ファイア! モア オブ ザ サイケデリック ソウルジャズギター オブ ジョー ジョーンズ」だ。ここではメイバーンのピアノとの共演であるが、既にこの時代を反映させたノリノリ、コテコテという後のイメージに直結するサウンドが聴き取ることができる。一体この1年半の間に何があったのか?アパラチアの滝に打たれ、洗練さを洗い流し、コテコテを手に入れたのか?その点については今のところ謎のままだが、おそらくこの先も謎のままで終わるだろう。

続いて69年3月にはその名も「Boogaloo Joe Jones」を発表する。ブーガルーという愛称を使うのはここから始まったのだが、実はそれまでの2つにはこの愛称はまだ付けられていなかった。なので、この章のタイトルでブーガルーと記したのは間違いであり反則であるのだが、これほどまでに名前を知られていない凄いギタリストがいた事をもっとたくさんの(ジャズ喫茶族を除く)ジャズファンに知ってもらいたい一心でインパクトの強い方で紹介させてもらった。そしてこの「Boogaloo Joe Jones」こそがテナーサックスにベース入りのオルガン クインテットという典型的で理想的で楽しい楽しいカッコいいジャズファンクのフォーマットで録音されたもので、これが大いにウケたのか、以降70年「Right on Brother」、70年「No Way」、71年「What It Is]とこの編成の傑作を連発して行くことになる。どれもこれもファンキーだけではない、超がつくほどの高尚なナンバーで埋めつくされていて、特にこれらの作品に片面に1曲づつくらいに収録されたI’ll Be ThereやAin’t No Sunshine、I Feel The Earth Move Onといったポップチューンの痛快さと、高すぎるテンションには目眩を覚えるほどだ。原田氏の解説によれば「No Way」からセミアコのギターを演奏し出すとあるが、ギターの知識が全く無い僕にはそれがどういう事を意味しているのかは解らない。ただ、そこからゴリさんの真髄が発揮されて行ってるのは明白だ。
これらの作品ではオルガンならソニー フィリップス、チャールズ アーランド、ブッチ コーネル。サックスならラスティー ブライアント、グローヴァー ワシントン jr.、ドラムはバーナード パーディーという豪華絢爛なジャズジャイアントが揃い踏みしていて、もう聴いているといつ天国に召されてもいい!と感じてしまう。ゴリさんは大衆のためのジャズファンクを芸術の領域にまで高めたとんでもないギターアーティストだ。

この後、相変わらず痛快でファンキーながら少し力み過ぎたかマンネリに陥った感のある72年「Snake Rhithm Rock」を挟んで、ついに数少ないリアルタイムでゴリさんのレコードを聴いている人達の間では彼の最高傑作(そしてこれ以外は聴く価値はないとされた)とされる73年「Black Whip」を発表する。これは再びロン カーターを起用した上に今までの編成に大胆にもパーカッションやソプラノサックス、エレクトリックピアノを導入して、あのヤボったい容姿のゴリさんがまるでCTIのアーティストか、と錯覚させられるほどの力作で、初リーダーの洗練さと後の大衆ファンク路線のコテコテぶりが見事に同居している上に、ポール マッカートニーの「マイラヴ」を情緒いっぱいの泣きのプレイで聴かせてくれるために、当時の最先端サウンドのものとして評価されたみたいだ。もちろん僕もこれが最高傑作であるというのに異存は無い。

以上が駆け足で辿ったゴリさんことブーガルー ジョー ジョーンズのプレスティッジイヤーズである。ゴリさんはこの後、プレスティッジを出て、ジョーカーなるマイナーもマイナーなレーベルに「Sweet Back」というアルバムを吹き込むが、これがリーダーとしては最後のものとなった。これには名曲「さらばジャマイカ」が収録されていて非常に聴いてみたいのだが、残念ながら何度も入手できるチャンスがあったにもかかわらず、今だに未聴だ。
66年にデビューして、たて続けに9枚の傑作を放って忽然として消えたゴリさん、一体何があったのだろう。ゴリさんが最後に残した記録としては、僕は偶然にこれを入手していたのだけれども、ミューズから1981年に出た、1978年8月にウィリス ジャクソンとヴォンフリーマンがラーレン(どこか知らん)という地のジャズフェスティバルに出演した模様を収めたライブ盤「Lockin’ Horns」である様だが、この地点では裏面には相変わらずヤボったく、少しアフロヘアーが伸びた姿を拝見出来るが、演奏の方も相変わらずノリノリで元気いっぱいだ。
その後、引退したという噂は流れたものの、ゴリさんの行方は全く誰も知らないし、知ろうともしなかった。しかし90年代になってからのアシッドジャズブームを受けてゴリさんを呼ぼうとして探した人の話では、見つかったのは見つかったものの、現在はトラックの運転手になっているため、もう復帰する気はございませんと返答されたという。さらに現在はSNSの時代になり、何かのジャズのグループサイトで現在のゴリさんの近況を電話インタビューするというラジオ番組が紹介されて、それを友達が教えてくれたが、その時は(生声で)今はニュージャージーの教会でゴスペルの演奏をしているとの事であった。ただそれでも確認すると今から20年以上も前の放送だった。
1940年生まれが正しければ、現在は84歳になられているゴリさん、ギタリストならば日本ではその年齢になっても活躍している人はおられる。それに教会で弾いておられるのなら、まだ往年のプレイを覚えておられるかも知れない。どうかどうか、どなたか確かめて、この謎多きジャズギターの隠れ巨匠を日本に連れて来てもらえませんか?いや聴けるのであれば、僕はアメリカでもどこでも行くけれどもね。

最後にギタリストとしてのゴリさんの分析だが、僕はミュージシャンでは無いし、音楽ファンとしてこのコラムを書いて行こうと決心しているため、音楽的な説明はしない(できない)のだが、原田氏のもう一つのコテコテ本である「コテコテサウンドマシーン」に著者の見解が記されているので、ここに一部紹介しよう。
「和音の使いかたは多彩で細やか、音色の粒は揃っていて、彼が有する最高のテクニックは、ちょっと聴いただけでは技巧は目立たない。つまり楽器と自分が一体化しているということに尽きるのでは無いか。指をやたら早く動かすことよりも、一音一音が持つうねりに重きをおいたプレイ。どこまでもシンプルで、それゆえに聴く者の心を高ぶらせる。彼ほど自分が表現したいことと、それを実現させうる技巧がバランス良く釣り合っているプレイヤーの数など、本当にわずかに違いないのだ」
テクニックに頼らず、マインドで勝負するジャズミュージシャンに対して、これほど愛を持って賞賛しきった名文は無い。流石僕が勝手に師匠と決めているコテコテデラックスの著者原田和典氏だ。特にゴリさんの場合、どこまでもシンプルというのが、その人と成りを象徴しているという意味で大事だ。どういうことかと言うと、この60年代から70年代というのはベトナム戦争や公民権運動の嵐が吹きあれた時代に呼応して、エレクトリックギターが日を追うごとに過激化して複雑な響きをかき鳴らして世界を変えていった頃だ。しかし、ゴリさんのギタープレイはPAやアンプやエフェクター、ディストーション(これらもよく解っていないのですけど)といった機材などを使わずに、まるで出たとこ勝負とも言える、これがギターだ!というものだ。このため、本当は壮絶なテクニックを有するのに、何か不器用な印象を持ってしまう。

その不器用さが、あの昔の区役所の職員の様な黒縁眼鏡に腕カバーしてそうなザ オッサンという風貌と合わさって、僕らのハートを撃ち抜くのだ。そしておっさんは、週に一度、地元のブルース好きが集まる店でギターを弾き倒し、若いブルースメンの度肝を抜くのだ。そして意外とおモテになってたりする。

あまりにも人間味に溢れたブーガルー ジョー、あまりにも大好きなゴリラーマン。僕は元町Doodlin’を通して、ここまで音楽好きに愛されたプレイヤーを見なかった。

小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。

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