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ジョー キャロル


ジョー キャロル
エピック ECPZ-12
1956/4/6、5/1、18

それにひきかえ、本当に腹が立ったのは、「バードランド」に出たときだ。バンドは良いミュージシャンが揃っていて、問題はなかったが、道化ばかりやるジョー キャロルとかいうボーカリストが最悪だった。すべては奴のせいだった。ディズのことは大好きだったが、彼がいつもやるあの道化だけは嫌でたまらなかった。だがそれは彼のバンドでのことだから、オレが口を出すことじゃなかった。しょうがないから黙って見ていたが、本当に気分が悪くなってしまった。

マイルス デイヴィスが自叙伝で語ったディジー ガレスピーとジョー キャロルについての言及の一部だが、まあ随分ボロクソにコキ下ろされたものだ。
チャーリー パーカーやバド パウエル、タッド ダメロンらと共にビバップの創始者であり象徴となっても、個人でひたすら突き進み続けて、挙げ句の果ては自滅してしまったパーカーとは正反対に、この音楽が持つ爆発力と芸術性を損なわないまま、黒人の一般大衆のために普及させたディジー ガレスピーとジョー キャロルの共同作品は、12インチで発売されたものなら、私の著書「炎のファンキージャズ」でも絶賛を送った「スクールデイズ(レジェンド MG6043)」、「DIZ’N BIRD IN CONCERT(ルースト LP 2234)、「ザ チャンプ(サヴォイ MG 12047)」などがあるが、 私などに言わせてもらうと、どれもこれもビバップという音楽の持つ躍動感と燦然とした輝きが一体となった黒人大衆のためのジャズの最高傑作ばかりである。まあ全てあのディジーの絶好機を捉えたものばかりなので、当然なのではあると思うが。

そしてジョー キャロル個人として絶対に聴いて欲しくて今回紹介する作品が、このエピックから発表された、その名も「ジョー キャロル」である。これは1956年の4月6日から5月18日の間に行われた3回に渡るセッションを1枚にまとめた作品であるが、ディジーは参加していない、ジョー キャロルの単身リーダーアルバムである。これまでは「スクールデイズ」以外はディジーの作品のうち2~3曲で脇役として登場していたジョーだが、ここでは全編に渡って実力の全てを出し切った正にジャズボーカルアルバムと呼ぶに相応しい気合いの入ったものである。
3回に渡るセッションのうち3つに共通したメンバーがピアノのレイ ブライアントで、他にもビバップを代表するドラマーとして知られるオシー ジョンソンやベースのオスカー ペティフォード、ミルト ヒントン、菅楽器にはジミー クリーブランド、セルダン パウエルなどの名プレイヤーの名前が連なる。まあこのメンバーを得ているので本作がジャズとして有り余るほどのクオリティーに満ちているのは想像される通りだとして、肝心のジョー キャロルは他のディジーのアルバムで聴ける通り全身全霊をかけて体当たりで歌っているは、過呼吸一歩手前くらいの息の吸い込みから発せられるスキャットの迫力と楽しさは間違いなく前例のないものだと確信できるほどの斬新さだ。本作にはディジーのバンドでの十八番である「スクールデイズ」「オー シュビドゥビ」がいつもの様に楽しく聴くことが出来るが、意外なのは「スイングしなけりゃ意味ないね」や「ルート66」「オー レディー ビ グッド」という今ではいささか手垢にまみれてしまったスタンダード曲が物凄いクオリティーとオシャレ感覚に満ちていて、その圧倒的な実力を見せしめている。何よりも驚きなのは「ルート66」で、圧倒的に歌心に満ちたうえビバップの持つ洗練されたカッコ良さを聞かせてくれるテナーサックスのジム オリバーなるプレイヤーで、これは相当な実力を持った隠れた名手であると僕は考えている。この人のソロが聴けるだけでも正にめっけもんなアルバムなのだ。
繰り返すが、ディジーとジョーが大衆のために演奏した音楽は正に前例の無い尖りに尖ったもので、つまりはこの精神こそがビバップの本質なのでは無いか?ジョー キャロルの歌は教科書や手本なんて存在しない唱法故のビバップの持たなければいけない要素の全てがある。何よりも革新的で生命力に満ち溢れている、こんなアルバムを作りあげるジョーは正にバップボーカルとR&Bのパイオニアにして時代を先取りする感覚を持ったジャズアーティストと認めざるを得ない。

でも気になるのは冒頭に記したマイルスの発言である。生涯においてクリエイティブな音楽に対して前向き(すぎるほど)な姿勢を崩さず新しい音楽に理解を示したあのマイルスが、ここまで黒人意識に向き合ったジョー キャロルの音楽をこれほど批判する原因がわからないのである。
気をつけなくてはいけないのは、我々ジャズファンはマイルス デイヴィスの様な偉大なアーティストが間違った事を言う訳はないという前提を勝手に作りあげ、その尊敬心からマイルルの言う事は全て正しい。そしてマイルス以外やマイルスと反対側のミュージシャンなどは聴く価値などないと盲信してしまうところだ。特に権威主義と尊敬心に踏み込んだら歯止めが効かなくなる日本のジャズファンは注意が必要だ。マイルスが否定したという理由で、このジョー キャロルが聴かれもしないで安物の道化だとイメージ付けされる様なことは絶対にあってはいけない。しかし、日本のジャズ喫茶でジャズを知ったジャズ原理主義者はそれを後世に伝えて日本人の文化的民度の低さを世界に知らしめかねないのだ。聴きもしないで!!

とはいえ、この僕も当然のことながらマイルス デイヴィスのことはこれ以上尊敬出来ないほど尊敬しているファンの一人である。しかし今世間を騒がしているダウンタウンの松本人志さんと同じで、だからといって全てが正しいのかといえば、僕はそれはないと断言したい。
マイルスの自叙伝は今だに僕はまるで聖書の様に暇さえあれば適当に開いて読んでいるほどの愛読書であるのだが、マイルスは60年代において、彼が好きでたまらないジョン コルトレーンが認めたカルテットのピアニスト、マッコイ タイナーや、当時もの凄い勢いで評価されていたセシル テイラーの音楽が「わからない」と発言している。これはどういう事かというと、あのマイルスでさえもあの時代についていけないスタイルもあったという事である。それにけっこうなやっかみ屋さんでもある。だから我々ジャズファンはそんなことを認めたうえで、欠点にこそ等身大のマイルスを知り好きになり尊敬するべきだと思う。日本のジャズ喫茶でジャズを知ったジャズ原理主義者特有の過剰な信奉、鵜呑み、思い込み、従順は、結局どこかで人を傷つける新興宗教問題やいじめ、パワハラ、誹謗中傷問題に繋がるケースも多いと思う。これまでのジャズ喫茶の親父や知名度の高いジャズミュージシャンの言うことはナニガナンデモ正しいというのが黒人音楽に対する理解度の低さに繋がっているのは、再三このブログで警告している通りだ。

マイルスが酷評したからといってディジーのエンターテイメント性やジョー キャロルの実力とは何も関係はない。
ではなぜ、あのマイルスがここまで尊敬しているディジーに対して批判の言葉をぶつけたか、結局それを考えるのが一番大事なことではないかと僕は考える。
それについて僕の考えはこうだ。

マイルスはあまりにもディジー ガレスピーを尊敬しすぎていた。そして音楽性を評価し尽くしていた。
それは恐らく同じトランペッターだからだろうが、マイルスはその頃にはもうとっくに白人聴衆に対して笑顔を見せ喜ばす態度を拒否し、それがまた逆にマイルスらしさとして自身と新しい黒人ミュージシャンの価値を高めた。マイルスはそれに自信を持っていたのだろう。
そして自分以外でそうあるべきミュージシャンの第一人者がディジーだった。
なのに主に白人の聴衆はディジーのエンターテイメントぶりばかりで喜び、周りもそればかりがディジーの本質と決めつけ評価し、肝心な音楽的なことは一向に取りあげない。これに対する苛立ちがディジーの振る舞いを道化だと言い、ジョー キャロルがとばっちりをくらった。全てはマイルスのまっすぐさが所以なのではないか。こう解釈すれば、誰も評価を落とさず我々は自分の聴きたいジャズを楽しめる日々が過ごせると思う。そしてこれこそが権威主義がはびこっている日本のジャズ評論がやらなくてはいけないのにやらなっかた事なのではないか。

マイルス自叙伝は日本版が発売された時には、かなり日本のジャズファンの間では評判となり、僕と同じで聖書の様に読み返されている。したがってマイルスの言及を読んで鵜呑みが本質なジャズ喫茶族にはR&B寄りだという理由でほとんど無視されていたジョー キャロルの評価は元々低かったものが、最低のレヴェルにまで落ちた様だ。日本のジャズ評論家やジャズ喫茶の親父がいかにジョーを無視していたかは、ディジー ガレスピーがニューポート ジャズ祭に出演した模様を記録した超名盤「ディジー ガレスピー アット ニューポート(ヴァーヴ MV4021)」で聴かれる僕が考えるジャズ史上最高名演である「スクールデイズ」における「不躾者さ俺たちは」「学校が何だってんだ、右向け右?左向け左?それがどうしたー!!」という明らかに現代のラップの原型となった歌を、日本盤ライナーノートで70年代の評論家が、どう聞いてもディジー本人の声なのに歌はジョー キャロルと記されている。それはカッコいいからジョーではなく、ガレスピーバンドのヴォーカルでR&Bなんだからデーター上から見てジョーに違いない。R&Bなんて間違っていても誰も気にする訳でもないだろうという理由で適当に記されたのは明らかだ。レコードの裏にはジョー キャロルの明記は無いのに。また「スクールデイズ」ではあまりにもエキサイティングでクリエイティブなテナーサックスのブロウが僕を正気ではいられないほど悶絶させてくれて、生涯一番好きなテナーソロは?と聞かれたら一生これを挙げるのだが、こんなものメンバーを見ればあの偉大なホンカーでありジャズマン、ビリー ミッチェルに決まっているだろうが、ライナーにはベニー ゴルソンと記されている。評論家はメンバーを見て唯一知ってる名前だからゴルソンに違いないと判断したのだろう。そしてそれが通る。まあ昔の評論家やジャズ喫茶族のR&Bに対する認識度なんてその程度だったのだ。

しかし、昔の評論家やジャズ喫茶族の文句ばかり言っていても始まらない。こんな70年代のジャズ評論やジャズ喫茶族の言うことなどどこ吹く風とばかりカッコいい音楽を追求して、生活までカッコよくすごそうとする現在の若者の間ではチャーリー パーカー レコードという謎のレーベルから1961年に発売されたジョー キャロルの「マン ウィズ ア ハッピーサウンド」というレコードがスペックス ウィリアムズというオルガンに現在では人気ナンバー1 ギタリストのグラント グリーンが参加とあってコレクターズアイテムとなって人気が出ているという。ジョー キャロルの歌もカッコいいと彼らは理解しているみたいだ。R&B>JAZZという理念を持つ通常の音楽ファンなら嬉しいでは無いか。いつもの結末だが、結局は昔のジャズ評論家やジャズ喫茶族の常識は今は全く通じず、だからジャズは今面白くなっているのだ。

言い換えるのは今回は遠慮しよう。

著者 小倉慎吾(chachai)
1966年神戸市生まれ。1986年甲南堂印刷株式会社入社。1993年から1998年にかけて関西限定のジャズフリーペーパー「月刊Preacher」編集長をへて2011年退社。2012年神戸元町でハードバップとソウルジャズに特化した Bar Doodlin'を開業。2022年コロナ禍に負けて閉店。関西で最もDeepで厳しいと言われた波止場ジャズフェスティバルを10年間に渡り主催。他にジャズミュージシャンのライブフライヤー専門のデザイナーとしても活動。著作の電子書籍「炎のファンキージャズ(万象堂)」は各電子書籍サイトから購入可能880円。
現在はアルバイト生活をしながらDoodlin’再建と「炎のファンキージャズ」の紙媒体での書籍化をもくろむ日々。

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