ただそこに在る

あたかもうんと昔から、当然在ってしかるべきでしょうという表情をして。

それはそのありようを隠そうともせず、むしろご覧あれとでも言いたげなほどに、せいいっぱいの主張を広げて、たしかに在る。しかし、ただ、在る。

よしんば、これが虚勢だと見破る者も、あるいは過去にはいたのかもしれないが、そのこと自体はことさら誰かに誇れるようなものでもないのであるから、とどのつまりは存在した足跡を残すこともなく、のうのうと在り続ける。

ようは傍から見るにつけ、無価値。

擁護するなれば無価値に見えるものにも無価値風なりの存在するための大義名分もあろう。あるいは、それが大いに関心できる論述に値するかはさておき、そのような主張ぐらいは持ち合わせていたとしても過分に滑稽なことではない。

そうでなければ、この世界に天地が創造されて以来、いずれかの時宜に淘汰されてしかるべきであるし、何らかの作用を持ち合わせていなければ道理が通らない。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」

などという文句がふと安易に想起されるが、否、これに続く福沢本人の主張は

「されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有樣雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや。
人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。
ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、
無学なる者は貧人となり下人となるなり」

である。

ただ在るだけでは、依然として価値は限りなく無に近いものであり、ただ在るだけではない他のそれらとの差が歴然とするだけだ。

ただ在るべく風をして在り続けるのか、在ろうとして在るのか。

在ろうとしているものだけが問えるものである。

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