想定の範囲外

生きる過程において、おおよそ考えられ得るトラブルに対するリスクヘッジをどんなに慎重に施したとしても、想定を超える何かが発生することは止めようもなく、それはときに人を無力にする。

想定の範囲を超えた高さの津波だったり、安全圏であるはずの歩道を何気なく歩いているところへ車が突っ込んできての事故であったり、特定の球団一筋の生え抜きのベテラン選手がFAのプロテクトから外されてしまったり、お互いわかり合っているとなんの疑いもなく思っていた人生の伴侶から突然の離婚を告げられたり、そういうもの。

唐突に発生した大きなうねり。ただただ目の前に突きつけられる事案に対して、自分に選択権があるものはひとつひとつ、その瞬間に最善と判断し得る何かしらの根拠を探し、処理する。そうでないものは、自分の機嫌を上手に取りながら、少しでも前向きに受け止められるよう、あるいはうまく受け流すよう工夫するほかない。

少なからず自らに選択権が残っているものは、まだ不幸中の幸いなことなのでもあるだろう。まだ、自分で選択して自分自身で進んでいるんだという心の拠り所を得られるからだ。

情報の流通や人と物の移動が容易ではなかった時代の多くの人は、何事もなく平穏に日々が暮らせればそれが幸せだと感じていただろうことが想像できる。生涯、その集落のことやその周辺の人間のことしか知らずに人生を終えるような人たちのほうが多数であるような時代には、他の未来を描くことすら困難だっただろうし、他の環境との比較それ自体も難しい。

一方で、なんのハプニングも発生しない人生というのは、それはそれである意味味気なく、不幸なことのようにも感じはする。

それは膨大な情報に溢れた今の時代だからこそでもある。

ある一定のハプニングに対しては、人類としての過去からの知見の積み重ねがいたるところに存在し、最悪の事態を回避する程度の対応は取れる事が多い。だからこそ、「あのときは大変だったけど、今思えばあれもまた人生の糧になったね」といった昔話にも転嫁させることも容易だ。

あとは、そのハプニングを悲観して受け止めるか、前向きに受け止めるか、人それぞれというところではあるが、ハプニングは拒否することができないゆえにハプニングなのであり、人生のハプニングは、ちょっとしたイベントごととして体験するのが吉なのだろうな、と思う。

時事的には、ジャニーズ所属の全容を知らなかったような若いタレントやビッグモーターの末端社員の多くも、そんな状況なのかな。

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