創作欲に追いつかない頭

別に創作を仕事にしたいわけではない。
ありがたいことにもうすぐ好きなことを仕事にできるが、独創性を全面に出すような業務内容ではない。キーボードをぶん殴って編集ソフトを動かしているから、活きることはあるかもしれない。

小5の頃の将来の夢はお笑い芸人になること。芸歴30年くらいで後輩から「笑いの神」とか呼ばれたいと卒業文集に書いたけど、これ実際に言われてたらそれは慕われてるんじゃなくていじられているだけだなぁとか、芸歴30年って今ではそこまでベテランって感じではないなとか、大人になってみるとわかる。
そこから将来の夢は現実と親の顔色を見ながら変動していくわけだけど、「何かを生み出したい」という軸はあった。
自由帳とプリントの裏側にコントの台本を書いていた小学生時代と、ノートの一番最後のページを破いてマンガを書いては没収されていた中学時代を経て、高校から大学のサークル引退まではドラマの脚本を書きまくった。
その頃思いついて形にできないままだった話も2つほどあるが、このまま死んでいく未来しか見えない。

サークル引退後はコロナ禍やら自身の状況の変動が大きすぎてじっくり何かを書き連ねる時間も、それを形にする時間も人脈もなくなってしまい、何かを作りたい気持ちだけが心にもちゃっと居座っていた。

何より創作の原動力というか、根元にあったものが歳を重ねるほどに薄れて消えていく感覚がある。
自分では自覚できていなかったが、おそらくうまく言語化できない過去の自分の気持ちを救済したかっただけだった。男女の友情はあっていい、自分(主人公)は捻くれているし無礼者だけどきっと優しさを持っている、そんな自分(主人公)は誰かに必要とされていい、大事にされていいと言い聞かせていたのかもしれない。完全なる自己満足。
さすがに結婚もして親になればその辺は頭で理解して実感もできる。
過去の自分が苦しんでいた原因も、親との歪な関係、発達のこと、習い事での体罰、震災で同級生に会えないまま中学生になり周りの成長についていけなかったこと、それらをひっくるめてきっと子どもの頃からうつだったのだと、今なら説明できる。そしてそんな過去の自分はこれから少しずつ救われる予感がしていて、それは私ではなく身の回りの人間や医療などの専門知識がそうしてくれるのも実感している。
私がいくら救われようが、当時のやらかしも無礼も取り消せないがこれは自業自得である。

別に趣味の範囲での創作なら、どこかで見たような話でもいい。学生時代のように映像や音声にこだわらない形でいい。
それでも何も生み出せないのはもう「どこかで見た話」すら思いつかないからだ。もう、頭が創作に向いていない。

授業中でも移動中でも雑談中でも常に頭の中がごちゃごちゃと騒がしい中で、運が良ければ連想ゲームのように繋がってひとつの話が完成していたし、今でも連想ゲームが始まる瞬間はあるけど続かない。
面白い夢を見たからいっそ発信しよう!と思って先延ばしにして忘れたりもする。

ここまで読んでいただいた方には信じ難いかもしれないが、私はよく文章を褒められるタイプだった。
活字は目が滑って読めないから読書はそこまで好きではなかった。本をたくさん読んだから!とかではなく、文法や単語の間違いを細かく指摘してくれる両親のおかげだ。作文とかうまいタイプ。でも自分の気持ちを言語にするのは苦手だから感想文とかお礼の手紙は苦手。
文章を書いて提出するような課題や学生時代のレポートはやっつけでもとりあえず点はもらえる程度の文は書ける。でも高校時代の小論文模試はD判定。
せっかくある程度の文章を書ける力があって、常に心がモヤモヤしているのに、それらを合わせて発散できない。
「鬱だ!」と叫ぶんじゃなくて、せめてフィクションでいいから救われていたい。
でも頭脳がそれに追いつかない。

深夜だからバーっと吐き出すつもりでここまできたけど、何が言いたいのかというと

何か脚本を書きたいです!!!!プロットでもいいです!!!!誰か一緒に形にしてくれ!!!!

ひとりで全部やろうとするとずっと先延ばしにしてそのまま命が果てる。大会や発表の場もないから当然締め切りも存在しないので無謀です。

年齢に対してかなり幼稚でペラペラな人生です。顔や言動にもそれが滲み出るどころか溢れ出しているような人間です。
それでも人の心を打つようなものを作りたいとは言いません。ただ自分の人生と心のほんの一部を晒して自分と誰かが救われたら嬉しくて、それを共通の趣味と呼べる人がいたらもっと嬉しいです。

おしまい


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