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海と和解する

まえがき

海が嫌いだった。
まだ幼児の頃、私を抱っこした父親が海の中で転んで、海に放り出されたらしい。
その時のトラウマなのか、子どもの頃から水が苦手で、泳ぎが下手。
海を見るとき、美しいという感情より先に、怖いという感情が溢れる。

そんな私の海嫌いを決定的にしたのは、東日本大震災だった。
当時、私は東京にいた。
パニック状態の街の中で、テレビ越しに押し寄せる津波。
濁流が全てを飲み込む姿は、液晶画面を挟んでいても、十分すぎるほどの恐怖感を私に刻み付けた。
帰宅困難者になり、次の日の朝、ようやく動いた電車に乗り、友達の家に向かった。
地震で散らばった部屋を片付けながら、何気なくつけていたテレビで、原子力発電所がボンと、白い煙を上げるのを見た。

私の地元は福島だった。福島第一原発の近くに行ったことはなかったが、原発のフォルムは、地方ニュースでよく見かけていた。
それが、爆発している。
現実味のない映像に、呆然としたのを覚えている。

それから、1、2年、首都圏で過ごした。
東京の街は、震災直後こそ、放射能や、計画停電や、反原発運動で盛り上がっていたが、数年もたてば落ち着きを取り戻し、原発事故のことなど忘れたかのように、明るいネオンが戻っていた。
しかし、時たま実家に帰省すると、そこには別世界が広がっていた。
私の実家は、原発から離れていて、風向きから放射線量も高くない位置にあった。
しかし、周囲を出歩けば、除染で出た土をまとめたフレコンバックの仮置き場、突如置かれた線量計、地震でガタガタになった道…。
親戚の子は、首から線量計を下げ、母親は震度4くらいでは動じずに階段を上り下りするようになっていた。

この、首都圏と福島のギャップ。
これは、何か、私を突き動かすものがあった。
こっちに戻って何か、復興のためにすべきなのではないだろうか。
その、「何か」が何なのかはわからないまま、私は福島で働くことになった。

南相馬市に赴任したのは、2016年の春だった。
被災地となった地域の大部分を管轄として、地域振興をする仕事だった。
この時、南相馬市の一部にはまだ避難指示が出ていて、日中の立ち入りは可能だが、夜間の宿泊は制限されていた。
海沿いを中心に、街のあちこちで工事が行われていて、圧倒的に街には男性が多かった。
避難で人手不足だったこともあり、スーパーは6時にしまっていた。

赴任してすぐ、海に行ってみた。
かつて公園とともに整備されていた北泉海岸は、護岸工事の真っ最中。
工事現場の荒涼とした雰囲気とあいあまって、寂し気な気配を漂わせていた。
この海が、たくさんの命を奪った。
そう思うと、怖い、という感情と、悼みの気持ち以外に、湧いてくるものはなかった。

このエッセイは、2016年春から2022年春まで、南相馬市に住み、「被災地」と呼ばれる場所を駆け回った一人の記憶である。
被災者ではない。
何かを為した人でもない。
ただ、傷ついた地域が、抗い、修復し、回復していく姿を、間近で見ていただけ。
その姿をできるだけそのまま記録したい。
それだけの試みである。

あぶくまの夜

あぶロマ

海沿いに住んでまず最初に嬉しいのは、海産物のおいしさである。
とは言っても、赴任当初は漁も制限の真っ最中。それでも浜の目利きが選んで、宮城から入荷してくる魚は美味しかった。
逆に、山に行って海産物の刺身が出てくるとガッカリする。やはり地のものを食べたい。
山の美味しいものはいろいろあるけど、いろんな意味で印象に残ってるのはどぶろくである。
もともとアルコールに弱いのだけど、「お金を出しても口にはできない、秘密のうまい酒」というと、やはりそそられる。
私が憧れのどぶろくと遭遇したのは、あぶロマの飲み会だった。

あぶロマとは、「あぶくまロマンチック街道推進協議会」の略称である。
かつて、日本各地で、ドイツのロマンチック街道のような観光ルートを作ろう!という運動が盛んだった時期があるらしく、その時に、国道399号という阿武隈山系を走るルートを「あぶくまロマンチック街道」と名付けられたらしい。
その活動を担うのが「通称あぶロマ」で、私の組織もそこに属していた。
このあぶロマに属しているのは、飯舘村、浪江町津島地区、葛尾村、田村市都路地区、川内村の5市町村。
いづれも山脈の中に位置する、とてものどかな地域だ。
その地域の住民有志をメインに、自治体などがサポートする形で構成されていた。

このあぶロマの会合に初めて行ったとき、独特の会議の進め方に面食らったのを覚えている。
どちらかいうと、「寄り合い」といった雰囲気で、メンバーが割と言いたいことを言う。
結構好き勝手言っているようなんだけど、最後にはしっかり着地する。
形式的な会議と、タスクをサクサク整理していく打ち合わせのいずれかしか経験していなった私としては、あぶロマの会議の雰囲気が一周回って非常に新しいものに思えた。

しかし、あぶロマの底力を感じたのは、いざイベントをするときだ。
こんなんで大丈夫か?と思うくらい、ゆるい雰囲気の会議で内容を固め、イベントのための資料も特に用意はしない。
しかし、いざイベントがはじまると、バッとメンバーがやるべき仕事をやって、ちょっとしたトラブルもすぐに解決して、非常にスムーズにイベントが進む。
イベントごとにありがちな、当日になってあれがないこれがない、マニュアルに想定してない事態が発生した、責任者が多忙でコンタクト取れないからわからない、とかでイライラするという事例が全くないのだ。
なんなんだ、これは!

正直に言おう、「寄り合い」的な会議も、マニュアルも作らないイベントスタイルも、最初は、「古い」「遅れている」という印象を抱いた。
でも、いざやってみるとどうだろう?
イベントの満足度も高く、楽しく、そして何より、この組織には「やらされ感」がないのだ。
メンバーはみんな、やりたいからやっている。そして、一人ひとりが自主的にやっているから、作りこまなくても、自然と活動がうまく回っていく。
これって、理想的な組織運営の在り方なのではないだろうか。
マネジメントの観点から、むしろ最先端なのではないだろうか。
なんだかんだで魅了され、この会の活動には業務外でも積極的に参加するようになっていた。

あぶロマのメンバーは、大体がシニア層だ。
地元にずっと住んでいる方もいれば、移住者の方もいる。
みなさん、ぱっと見は、正直に言うと、普通のおじちゃん、おばちゃんだ。
しかし、一人一人のスペックが非常に高い。
ちょっとしたことなら自前で何でもできてしまう。
私は出演していた当時、番組を見ていなかったのでわからないけど、「DASH村のあきおさん」というと、多くの人はぱっとイメージできると思う。
何を隠そう、このあぶロマを構成する浪江町津島地区こそ、かつてDASH村があった場所、そして、葛尾村に現DASH村があるのだ。

あぶロマの地域は、全域、避難指示が出た場所だ。
私が赴任した当初、避難指示が解除されていたのは、半分以下の地域。
残りはまだ避難指示が出ていた。
震災前は、盛んに活動していたと聞いているけど、私はそのころのことが分からない。
震災後、ようやく活動を再開し始めた頃に、私はジョインしたのだった。
活動再開後は、避難指示された地域でのツアーや、地域外でのイベントでのPRなどが主な活動だった。
避難先から会議に来ている人も多かった。

きのこを食べる

あぶロマで特に印象に残った話を一つ。
「川内村のきのこを食べる会」という集まりがあるらしい。
川内村は、もともといろんな種類のきのこが採れるというのが魅力の一つだった。
本州で川内村だけで取れるきのこもあるらしい。
しかし、震災後、きのこや山菜類は、放射性物質が多く残りやすいという理由で出荷が制限されていた。(福島県全体がそうだった)
ただ、ここでポイントなのは、「出荷」が制限されているということだ。
つまり、きのこを市場に出回らせてはいけないというだけで、その辺に生えているきのこを勝手に食べるのは自己責任ということだ。
よく考えれば当たり前だ。
私たちは、毒きのこだって、法律で食べることを禁じられている訳ではない。
その辺に生えているものを食べて、お腹を壊しても自己責任、という理屈と同じで、放射性物質が高いきのこを食べたかったら自己責任で食べてもいいのだ。

ならば、食べよう!という人たちの集まりが、「川内村のきのこを食べる会」らしい。
そもそも現在規制がかかっている線量は、大量のきのこを毎日食べたら数十年後のリスクが数%高まるというもの。
それほどたくさんのきのこは食べないし、自分は他にも不摂生をしている。その程度のリスクは受け入れても構わない。それよりおいしいものを食べるという効用を優先するというロジックだ。

私は、この話を聞いて、素直に、かっこいいと思った。
自分にとって何が幸せか、何は受け入れられるリスクで、何を優先すべきかがはっきりしていることが、「主体的に生きている」姿に映ったのだ。
私は、「リスクが高いから食べるべきでない」と権威に言われてしまうと、「食べないでおこう」と自動的に考えてしまう。
もちろん、リスクを考えた上で、主体的に食べないという選択をするならそれでもいい。
問題は、そこまで深く考えないで、「こうすべきと言われたからそうする」という生き方を選んでいるということだ。
自分自身に選択の軸がないし、リスクを正確に見積もることも面倒臭がってしまう。
自分は、いつも「べき」で生きているなと感じることがある。
何をす「べき」かだけで考えて、自分が主体的にこれがし「たい」がない。
だからなんだか、生きている実感が希薄で、自分という存在が、空虚な気がしてしまうことがある。

きのこを食べる。
それだけ聞くと小さなことに思えるかもしれないが、この選択には、その人の哲学があるように感じた。

主体的な選択とどぶろく

主体的な選択、という意味では、あぶロマには、とてもパワフルな女性がいる。
もともと農業をやっていたその女性は、津島から福島市に避難して、避難先で農業を始め、6次化を成功させていた。
浪江町という町は、リボンのような形をしていて、右側のリボンのふくらみが海に面している町の中心部、左側のリボンが津島地区というイメージだ。
この津島地区は線量が高く、なかなか避難指示が解除されなかったが(2023年現在、ようやく避難指示が一部で解除)、海側は2017年に避難指示が解除されていた。
それを受けて、さっそく福島市の農園に加えて、避難指示が解除された浪江でも農業を始めるというのだ。
浪江の避難指示が解除された地区と、福島市では移動に1時間30分はかかる。
それでもやるという意思の強さと行動力、折れない心に、感銘を受けた。

「それだけ頑張れる力の源は何ですか?」と、質問をしたかった。
しかし、結果としてそれはできなかった。なぜなら、それはあぶロマの懇親会の後で、しこたまおいしいどぶろくをいただいた後、女湯の大浴場でなされた会話だったからだ。
私は質問をあきらめて、水を求めて浴室を離れたが、時すでに遅し、脱衣所でぶっ倒れてしまった。
(直後に救助してもらい、事なきを得ました。その節はすみませんでした。)
主体性を巡る重要な質問の答えの代わりに、私は「どぶろく」と「飲酒後の入浴」には気を付けるべしという、なんとも情け無い教訓を得たのだった。

あかりのない夜

被災地をみせるということ

私の担当する業務の中に、「被災地のツーリズム」というものがあった。
被災した地域を案内して、東日本大震災・原発事故とはどういうものだったのか、今、地域はどんなふうになっているのかを見ていただくという内容だ。
これは、正直に言って、難しい業務だった。
もちろん、地域の中には「見て、忘れないで欲しい」と考える人もいれば、「見世物じゃない」と考える人もいる。
どちらの気持ちもわかる。
ただ、私としては、これだけの被害があって、自然災害の要素と、人的要因と両方ある複合災害を、なるべくありのままに見てもらうということには、ものすごく重要な価値があるのではないかと考えていた。
だから、この業務は積極的に取り組んでいた。その過程で、きっと誰かを傷つけるだろう。それは仕方のないこととして、それもこの仕事の業として受け入れるぐらいの気持ちで、真剣に取り組んでいた。

旅人と旅する

コロナ禍前でインバウンドが盛んだったこのころ、被災地に関心を持っていたのは日本人だけではなく、少なからぬ外国人が地域に来ていた。
中には悪意を持ってセンセーショナルな動画や発信をする人もいて問題になったが、大部分が、真摯に、津波や原発事故で有名になったFUKUSHIMAがどんな状態なのかを知りたいというニーズだった。
南相馬市の南側に位置する小高区は、震災後は避難指示が出て、一度は住民が一人もいなくなり、2016年に避難指示が解除された地域だ。
そこには、外国人向けのゲストハウスがあって、そこに宿泊する旅人と、つたない英語で、何度か飲みに行ったりしていた。
小高というのは不思議な地域で、こういう外国人を自然体で受け入れていた。
飲み屋のおっちゃんも英語交じりの不思議な日本語で、旅人に話しかける。
私には通訳できる英語力なんてないので、へらへら笑ってるだけだったが、でもなんだか知らないが通じ合って、よくわからない盛り上がり方をして、旅の夜は楽しく暮れていった。

こういった知的体力が求められる場所にお金も時間もかけて積極的に来て、何かを受け取って帰っていく。
もちろん一部の人とはいえ、こういう人が世界にはたくさんいるということに、まず驚いた。
そして、考えた。
日本とは何が違うのだろう?
日本向けだと、どうしても「お勉強」というニュアンスが強くなる。
でも、外国人はそういう気張りはなく、もっと自然体で学んでいる。
この違いは何だろう?

原発事故というテーマ

原発事故というテーマは難しい。
まず理解するのが難しい。
理系の、放射線の知識が必要になる。そして、文系的にも難しい。
どうしても、反原発/原発推進のイデオロギー的な話になりがちである。
そういうものを一旦横に置いて、ありのままの地域を見てほしい。
原発の功罪をフラットに見て欲しい。
そう考えて、行程を組んでいた。
原発の功罪という視点で、2つだけ書きたい。

1つは、福島第一原発事故は、最悪の事故ではなかった、それでも、あの事故がなければ失われずに済んだ命があるということ。
最悪、東日本が壊滅してもおかしくなかったのに、あのレベルで済んだ原因は、精密には解明されていない。
そして最悪のシナリオではないとはいえ、避難が困難だった入院患者などの命が失われているということ。
そして、原発事故に絶望して命を絶った人もいるということ。
そのあたりの生々しさは、現地に来てみないと伝わらない気がしている。

そしてもう1つ、震災後、福島県は、日本で唯一脱原発を明言している。
そして、再生可能エネルギーの推進を進めている。
海沿いも、山肌も、太陽光パネルで覆われている。
とある山の山頂付近は、巨神兵のような風力発電が立ち並ぶ足元に、太陽光パネルが埋め尽くすというSFのような風景になっている。
今でこそ、それこそ環境破壊ではないかという声も大きい。
でも、原発に頼らず、脱炭素を進め、しかし現在の生活水準は下げないというのは、そういうことなのだ。

原発も、太陽光パネルも、そのこと単体を非難するのはたやすい。
しかし、ウクライナ侵攻によって電気代が跳ね上がれば、途端に生活が苦しくなるのもまた事実。
一つ一つを細部まできちんと見て、そのうえで、何を受けいれて、何を切り捨ているのか、全体的に考えていくというのは、この上なく知力が求められる作業だ。
そして、このエネルギーという問題は、個人の選択だけでは済まない。
国の、社会の選択だ。
合意形成の難しさもある。
この、難しいことを、難しいまま受け止めて、ゆっくりでいいから、咀嚼する。
そういう経験は、ニーズが高いとは言えないだろう。
でも、そういうことを受け止めて、考え続けるという経験は、「社会」というものを形作っていくためには、大切なことなのではないかと思う。

社会

「社会」というものを、「どこかの誰かが作っていて、一市民である私は、それに従っていればいいもの」と捉えるなら、それは必要のない作業だ。
しかし、理想を言うのであれば、「社会」とは、市民一人ひとりが、創りあげていくものであるはず。
「社会」をそういうものと捉えた時、この地域から得られる学びは、「社会の構成員としてのわたしたち」にとって、大きなものだと思う。

この地域に来る外国人には、「社会の構成員としてのわたし」としての自覚が当たり前にあるのではないか、そのあたりに違いがあるのではないか、そんなことをふと思った。
あの頃の小高の夜は、とにかく暗かった。
暗くて、人気のない道を、一期一会の旅人と歩いている。
その感覚は、なんだか不思議で、自分も旅をしているような感覚になった。

星の怖さ

街のあかりがないと、目立つのは星の光である。
南相馬市と飯舘村を結ぶ八木沢峠を夜超えている時、あんまり星がきれいだから、車を安全な場所に寄せて、ちょっと降りてみたことがある。
山の静けさの中、空をヴゥワッと星が埋め尽くしていて、あまりの迫力に怖くなって急いで車に乗り込んだ。
真っ暗だと、星はきれいを通り越して怖いんだ。
それは驚きの、初めての経験だった。
でも、考えてみれば、「怖いほどの満天の星」を知らないのは、現代の先進国に住んでいる人達だけなのかもしれない。
歴史的には、こういう夜空を見てきた時代の方がずっと長いし、今でも世界にはそういう場所があるだろう。
本当は、夜とは、暗闇とは、星に恐怖感を抱くほど、恐ろしいものだった。
エネルギーというものが、それを忘れさせていた。

エネルギーをはじめとする現代社会の便利さが忘れさせているもの。
夜の闇の恐ろしさ。
自然は与えもすれば奪いものするものということ。
人間は本来主体的に生きることができるという自覚。
社会は自分たちが作っているものという自覚…。
他に、一体、何があるだろう。

おわりに

2021年の夏になる前に、私は仕事を辞めた。
2019年から一年産休をもらい、復帰してみると、何もかもが変わっていたのだ。
私がやってきたことは、コロナ禍を理由にすべてストップしていた。
人員は刷新し、もう、そんなこと、やらなくいいんじゃない?上の言うことさえ聞いてればいいんだよ、という雰囲気になっていた。
新しい上司と地元の人たちと交流の場をセッティングしても、ドタキャンされた。

もう、この職場は、地元の人たちに交じってどぶろくを飲み、全裸でぶっ倒れるような女は求めていなかった。
見方を変えれば、これはつまり、それだけ復興が進んだということなのだろう。
平常モードに戻ったともいえる。
しかし、それは、私がこの場所を去るべき時が来たことを、同時にあらわしていた。

あれだけ頑張っていた仕事が、こんな風に否定されて、かつて大好きだった職場を嫌いになって辞める。
その精神的ダメージは少なくはない。
傷ついた私が時たま向かっていたのは、海だった。
かつて、怖くて仕方がなかった海だった。

北泉海岸は、5年の間に工事も終わり、海と公園が一体となった場所として、生まれ変わっていた。
毎年夏には海開きするようになった。
もともと非常に波がいいこの海岸は、サーフィンのメッカ。
たいてい海に向かうと、颯爽と波に乗るサーファーたちがいた。

私は、海水浴場の南端まで歩いていく。
そして、渚沿いに、北端までゆっくり歩く。
ただ、ひたすら、波風に髪の毛をかきむしられながら、ひたすら歩く。
空と海が反射して、空気までもが薄いブルーに包まれる。
少しひんやりしている。
私の身体は、風に負けじと体温を上げる。
足に飛沫がかかる。
それも気にせずひたすら歩く。
するとどうだろう。
風は、余計なものをすべて、吹き飛ばしてくれる。
そこには、ただの純粋なものが残る。
ただ、いま、生きている。
大きな自然の中に、その一部として私がいる。
そういう感覚になる。

それは、海沿いまで行かなくても、街全体がそうだった。
海と山に囲まれた、農・工業が発展するにはあまりにも狭い地形。
しかし、その土地の中を、海風は爽やかに駆け抜けて、余計な感情や、ダストのような悩みは吹き飛ばしてくれる。
そんな気配に包まれた街だった。

私は今、家族の都合で、別な街に住んでいる。
山に囲まれたこの場所で、なんとなく「よどみ」を感じた時は、あの場所の空気が懐かしくなる。
時々、あの空を思い出す。
太陽は西の山に沈んでいくのに、東の海の淵からもワッと空が紅梅色に燃え上がる、あの独特の夕焼け。
そして、虹。
端から端までくっきりと、きれいに二重にかかる虹が、あの地域では頻繁に見ることができた。
海がある街の独特の鮮やかさを、懐かしく思い出している。

この文章を書きながら、海を生みと誤変換した。
海は、自然は、奪いもするが、与えもする。人はそういう自然を「カミ」と呼んで、畏れ、敬った。
そういう太古からあった、信仰ともいえないような当たり前の感覚を、ただ、思い出しただけなのかもしれない。

私のいた数年の間に、この地域もかなり復興した。
現在では、福島第一原発を抱える双葉町、大熊町も避難指示が解除され、一時期はゴーストタウンと化していた地域にも、少しずつ、人の暮らしが戻りつつある。
こうやって、全てのものは移り変わっていく。
でもそれは、全て、ただぼーっとしていたら流れていくものではない。
その陰には、人が、意思を持って動かしている。その集合体が、街を、地域を変えている。

狂暴でもあり、慈愛も深い自然の一部として、たまたま今、存在しているいのち、というだけの自分。
そのいのちを、「べき」ではなく、主体的に発露させて生きていく。
その営みの集大成として、社会が形づくられていく。

ここで過ごした数年間を振り返った時、そんな世界の在り方の輪郭が、おぼろげながら浮かんでくる。
きっと、これはこれからの私の道標になってくれるだろう。

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