公開アーティストインタビュー「色眼鏡をのぞく」 アーティスト:稲富要

本展「COLORED GLASSES」にて公開アーティストインタビューを行いました。今回は、2022年12月1日(木)に行われたアーティスト稲富要さんのインタビュー内容をお届けします。

インタビューでは本展示のテーマに対する考えや、出展いただいた《淡い朝焼け》、《叢》、《堰切》の3点の作品について伺いました。


《淡い朝焼け》

《淡い朝焼け》
2021年、デジタルイラスト

―《淡い朝焼け》はいつ頃描かれたのでしょうか?

これは2021年の2月か3月あたりかと思います。1、2年くらい前ですね。


―この作品の制作背景など教えてください。

《淡い朝焼け》は、絵の練習をしようという気持ちで、沢山描いてこう!っていう時期に描いた作品です。描き終わったものを見返してみて「気に入っているな」と思ったのがこの作品ですね。


―作品のタイトルについて、なぜ《淡い朝焼け》にしようと思ったのですか?

練習でたくさん描いていたんですけど、そのときに「気に入っているんだよね」って人に見せたりするときに、今みたいに「どういう感じで描かれたんですか」って聞かれることが結構多かったんです。そのときに私が設定を後付けしていったというのがこの絵の背景になってくるのですが(笑)

後付けの理由ではありますが、この作品は少女と大人の女性の転換期を表現した絵なんですね。「少女から大人へ変化していく段階」と、朝焼けという「夜から朝へ明けていく時間帯」とを関連させて描いている……というのがタイトルの由来、とこんなところでしょうか(笑)


―私、気になるポイントがあるんです。それは描かれている女の子はそのクールな表情とは裏腹に、幼い印象を与えるツインテールのお団子という髪型をしているところです。

髪型に関しては、私がこの髪型を描くのが凄く好きだからですかね。なんとなく気づいたら描いてしまうなってくらい……。

でもそうですね、この子、髪型とか髪色が現実世界に存在する少女だとしたら派手な部類に入るじゃないですか。このモラトリアムでないと許されないような髪型とか髪色と、さっき仰ってくださったクールな表情というところで、対比的に少女と大人というのを表現しています。という後付け(笑)

冷めた目でシュッとこっちを見てくる女が好きなんです(笑)

―この絵、ぱっと見で朝焼けなのか夕焼けなのかがよくわからなかったんですけど、こちらは朝焼けということで……。

そうですね。パッと写真とかを見てどっちが朝焼け、どっちが夕焼けってあまりわからないと思います。この絵はまさにそこで、女性としての目覚め、つまり朝焼けであるのか、それとも少女時代の終焉としての夕暮れであるのかということを描いています。
背景のオレンジ色のグラデーションがありますよね。これは朝焼けと夕焼けのどちらに捉えていただいても大丈夫です。ですが、タイトルには時間の進み方の方向として少女から大人にはなれるけれど、大人から少女になるのは基本的に難しいということで、朝焼けを採用しました。

―朝焼けということは物事が好転していくことの暗喩のように感じるのですが、少女から大人に変わるというのは前に進んでいるってことなんでしょうか。

好転……ですか。私は彼女の人生が今後どうなっていくのかは……、描いてる人間としてどうなのかというところなのですけれど……、こう、未来が好転したらいいですねって(笑)

投げっぱなしですみません。

―いえ……!ありがとうございます。

―では、表現についてですが、近くでよく見てみると色と色の間に線が入っていて……。

これは私が一度ザッと描いた後に、ソフトの編集機能で加工する影響ですね。自分自身が描いた絵から一段階ソフトを通して違う表現にすることが好きなんです。

―そこに何かこだわりがあるのでしょうか?

今回展示している作品は3点全てデジタルペイントですが、デジタルって絵の具とかで描くよりも自分で制御できる範囲がとても広いと思うんです。そんなときに敢えて自分の制御下から作品を手放すことで、思いもよらなかった色が出てくるというところに面白みを感じています。デジタルでありながら不確定な要素が出てくるところが楽しくて、私は加工をしていますね。

―ちなみに、一旦手を放すことによってこの絵に現れた予想以上なこと、予想もしなかった箇所はありますか?

そうですね、この《淡い朝焼け》は色を調整したんですけど、もともと全体的にもっとくすんだ色で描いていました。でも編集するときに「彩度を高めにしてみたらどうだろう」と思ってと動かしてみたら、少女としての利発な感じと澄んだ聡明さが出てきたように思います。

―作品を鑑賞していると分かるのですが、髪の毛の感じなどがとても細かい線で描かれていますよね。髪の毛にこだわりはありますか?

髪の毛を描くのは好きですね。描いているときはただただ苦行ですが、パッと目を離して全体を見てみると、「頑張ってるな〜」と思いますね。

―なるほど、ありがとうございます。


《叢》

《叢》
2022年、デジタルイラスト

―次の作品は《叢》(くさむら)という作品です。まずこのタイトルの《叢》って難しい漢字ですね。私が「くさむら」って聞くと「草むら」という字をイメージするのですが、このタイトルにした理由を伺ってもいいですか?

この《叢》は中島敦の「山月記」という小説から取っています。


―その「山月記」という小説はこの絵に関係しているのですか?

そうですね、結構関係しています。
この作品はCOLORED GLASSES展を開催するということでテーマを頂いて描いた作品です。頂いたテーマが「許容・容認・抱擁」というものでしたから、他者との関わり、コミュニケーションをとても意識した作品になりました。

自分自身が人と接するときに、自分をどこまで押し出すのか、どこまで他人を受け入れるのか、せめぎ合いがあるなと。そのときにちょうど「山月記」の虎になるっていう表現を思い出しまして。個人的にその表現が好きなんです。

この「山月記」に影響を受けて、自己顕示欲に呑まれたり、上手くいかなくて嫌になったりというときに「虎になりそう」って思います。
そういう虎的な自分が、自分が!っていう気持ちとそれを抑えつつ付き合っていくということを……ああ、虎になりそう。

―「山月記」は李徴という主人公が自身の自尊心から落ちぶれてしまったことをかつての友人に語っていくお話ですね。他者との関わりやコミュニケーションを意識したときに、自我を理性で抑えつけると仰っていましたが、何かそういう経験があったのでしょうか?

経験というよりも、「山月記」を読んだりだとか、他者との関わりにおける「許容・容認・抱擁」を考えたりしてみると、自分自身をどこまで押し出し、どこまで抑えるかが人間関係の肝なのかなと思いました。
「山月記」そのものは他者との関わりが云々というよりも自己評価と世間の目の齟齬だと解釈しています。だからこそ私は自分の虎性を客観視し、他者の評価とすり合わせて、上手に付き合うことが巡り巡って他者との関わりに表出してくるのかなと。巡り巡ってというほど遠い位置にある話ではないと思いますが。

―他者との関わり合いの中で自分の虎の部分といかに戦っていくのかということは稲富さんならではの感情だなあ、と。私は思ったことをパッと口に出してしまう人間なので特に、稲富さんならではの他者との関わり、コミュニケーションに対しての考えなのかなと思いますね……。

そうですかね(笑)もしそうなら、そういう自分にしかない思いを表現できていたら嬉しいです。

―作品に描かれている女の子2人は虎のようですね。

「虎を殺す絵」と描き始めた絵なので。ツインテールを虎の耳のように見えるようにしたり、髪の毛の流れで縞模様を表現したりというのは虎らしく見せるための工夫ですね。

―スニーカーのところにも足にトゲトゲ、爪みたいのがあって虎のような表現ですね。スニーカーにこだわりが感じられるのですが、スニーカーがお好きなんですか?

スニーカーも好きですし、靴が好きですね。この靴も考えているときはとても楽しかったです。
これは作品とは関係ない話なのですが、歩くと肉球の足跡がつく靴底のデザインの靴があったらいいなってずっと思っています。

―口とか目の間の皺とか、手の間の表現が気になったのですがこだわりはありますか?

結構こだわりありますね。下の組み敷かれている女の子の口が空いているのですが、歯の一本一本を影を使って描写するというのをやりすぎない程度に、デフォルメした表現かつ鋭さが出るようにということを意識してやっていますね。

―組み敷かれている子も上に乗っている子も爪とか歯、足の影が落ちているところが尖っているんですけど、やはりこれも虎のイメージですか?

そうです。獰猛な感じを表現したくてそうしています。

―この絵の色味ははじめからこのような色彩だったのでしょうか?

最初はもっと全体的に明るい感じでした。これも加工であとから変えていきました。
色味は「山月記」をイメージして、月夜の草むらでパッと月明かりに照らされている感じで……。光の当たっている部分の白がもっと前に出てくるような感じにしようと考えながら色味を調整していました。

―たしかに、月に照らされている感じがありますね。

ー背景に青い四角形がありますが、手足がそこからはみ出したことによって躍動感が現れているように思えます。

それはもう完全に狙っていますね。四角い安定した形から部分を飛び出させたり、手なんかを遠近感感じさせるようにがっつり大きく描いたり、そんなところで差し迫っている感じを出したいというのはありますね。

―遠近感を使っていることに何かこだわりはありますか?

遠近感があると迫力出るじゃないですか。え?わかんない、出ると思います!出るということで!(笑)
今回のこの絵も、人が人に乗っかって踏みつけているというシーンなので、迫力と少しびっくりする感じが出せたらいいなと思っています。

―《淡い朝焼け》とはまた違った色の塗り方ですよね。色の見え方について意識されたことはありますか?

この絵に関しては色の数を搾るのと、場所によって色面で構成していくっていうのにこだわっていますね。グラデーションとかではなくて……。

―パキッとした色味で、なるほど!
ところで、下の女の子は叫んでいるように見えるのに対し、上に乗っている女の子は余裕綽々というか、こちらを鋭く見ているのですが……。

案外、上の子も下の子も余裕綽々ではなくて、いつこのパワーバランスが逆転するかわからない緊張感があります。

上の子の視線は、その視線の向く先が描き手である私自身であるか、それ以外の人であるかによって違う意味合いを持つと思います。描き手というのは、自分の考えたことを描いているわけじゃないですか。その考えて描いた「モノ自身」がこちらを睨みつけてきている。この描かれた「モノ自身」というのは私であり、その視線の先にも「描き手である私自身」がいる。組み敷かれた子も含めれば、私の三竦み状態です。今は誰も動かず膠着状態ですが、もし私が何かの拍子に虎になれば、上に乗っている女の子は虎になった私を殺しに来るのかもしれない。逆に彼女が虎になったときに、私自身が今の彼女のような役割として絵の中に介入していくのかもしれないです。そういう視線ですね、私、つまり描き手にとっては。

でも多分、私以外の鑑賞者はこの視線について私と違う受け取り方をするんじゃないかなって思いますね。思います、というか違うはずなんです。描き手は私だけなので。この絵を見る人は誰もが彼女の視線の先にいるけど、それぞれ感じ方は違うと思います。そこが見た人に色々と聞いてみたいポイントでもあります。私は真に作者以外の立場でこの視線に晒されることはできないので。

―私にとってはですね、あの目線に当てられるとちょっと「うっ。」ってなりますね。「次はお前だぞ」っていう。やられるかなって。やっぱり下の子は下の子で辛そうですよね。手も踏まれているし、痛そうですね。

そんなふうに思ってもらえると嬉しいです。それぞれの人がそれぞれ感じたように思っていただければ。


《堰切》

《堰切》
2022年、デジタルイラスト


―次は《堰切》(せき)なんですが、これもまた難しいタイトルですね。

この《堰切》というのは「堰を切る」という言葉からですか?

そうです。

―何かが溢れ出す感じが伝わるタイトルだと思うのですが、この絵も波が少女にぱっと来ていて、感情か何かが堰を切ったように溢れ出していると思いました。

そうですね。まさにタイトル通りで、抑圧している感情などが堰を切ったように溢れ出すということを表現しています。タイトルの《堰切》は、パッと見「せき」と読めないと思いますが、まさにそんな感じで読めない、言語化できないもやもやした感情っていうものが何かのきっかけでぱつんとはじけて出てきてしまうっていうようなものですかね。

この女の子もまた、先程の《叢》と同じ感じで「叫びたがってるんだ!」じゃないですけど、

そういうのありましたね(笑)

―ありました(笑)
この作品も本展示の「許容・容認・抱擁」に合わせて制作してくださったと思うんですが、他者との関わりやコミュニケーションを考えてこの絵を作られたんですかね?


そうです。先程の《叢》と同じく他者との関わりにおける自分自身を見ている作品なのですが、《堰切》は他者を受け入れようとする自分自身が強く現れている作品だと思っています。どちらかというと受容するっていう方を中心に考えたものですね。


―私的には、出す方だと思っていました。

結果としては出すという表現になっているんですけど、そこに至るまでの過程として、受け入れるというよりも積み重なっていってしまうことについてが主題です。有意義な蓄積ではなく、不要なデータが知らないうちにメモリを圧迫しているような。他者を受け入れるうちに溜まっていったものが、外に放出される。

なんだろう、例えば袋があって、そこにどんどんいろんなものが入っていって満杯になって、さらに何かを入れようとしたときに、耐えきれずぱつっと弾け出てきてしまう、溢れてしまうというような。


―そうですね、他者との関わりの中で受け入れられないことって結構ありますよね。それを受け止めるときのストレスや嫌な感情が積み重なって溢れ出すのかなと思いました。

そんな感じです。

―そして、一番気になるところなのですが、作品中の波は布のように見えます。波の布のような形態から、私は勝手に波が女の子の着ているものだったのかな、と。波は波ではないものを表現していると思ったのですが、そこには何か意図がありますか?

そうですね、私はそこをあまり意識していませんでしたが、確かに言われてみれば海や波という液体よりも、だいぶモノらしい表現になっているなと。言われてみて確かにと思ったポイントですね。
この絵を私が鑑賞者として客観視したときに思うのは、普段抑圧しているものが出てしまっているという場面において、衣服という自分を隠すものが波という表現に重なっているのかなということですね。だから、仰っていただいた通り、布っぽい波の表現になっている意図もその辺りなのかなとは思います。
あと、「包み隠す」という言葉がありますよね。「包み隠さず言う」っていう行為は「受容する」こととも重なってきていると思っています。包むという行為は布ありきのものですから、その辺りもでしょうか。

―この作品における感情の出し方というのは、自分ひとりで発散しているのでしょうか?それとも誰か相手に感情をぶつけているのでしょうか?

これは多分相手、対象がいると思います。いると思いますが、その対象に対して正当に感情をぶつけているわけではありません。

ふとしたときに、凄くどうでもいいことで怒ってしまうことってあるじゃないですか。ストレスが溜まっていたりだとか、何か悩んでいることがあったりとかっていうときに、ペンが落ちた音にすごく怒ってしまうみたいなことがあると思います。それってペンが落ちたこと自体が許せないほど悪いことではないじゃないですか。でも自分の感情が弾けたときに、そのきっかけを与えたモノがいて、その対象にあたり散らしてしまっているっていう状態。これは感情を出すっていうよりも出てしまっているというのが正しいかもしれないです。

また袋の例えになりますが、知らないうちにいっぱいになっていた袋が弾けてしまうきっかけは、本当に特別なことでもなんでもなく、ただ図らずも最後の一つになったというだけの、たったひとつの取るに足らない出来事にすぎないのだと思います。

―目元のしわや涙など、漫画的な、記号的とも言える表現が見受けられますね。

私のコンプレックス的な部分として、アカデミックな感じの、ザ・絵画!ザ・芸術!みたいなことをきちんとやったことがないというのがありまして。最近は開き直って、それならそれで私の表現ってことでいいのではないかと思っています。

―なるほど、稲富さんは今までデッサンとか油絵とかは……。

ほとんどないですね。

―デジタルイラストだけなんですね。

そうですね。
他の作家さんは日本画や油絵、版画だったり映像だったりだとかするんですけど、私は3点全てデジタルの平面で。

―では自分で模索し続けて出た絵柄というか。

そうですね。特に誰かについて教わったりしたことは無いので、そういう意味で言えばそうかもしれない。でも確実に影響は色々なところから受けていますね。

―この絵も《淡い朝焼け》じゃないですけど、色面の間に線が入っているというか……。これも加工ですか?

そうです。この絵も一度手を離して、色味も調整してこの形に落ち着きましたね。

―「一度手を離す」と仰っていますが、元の色にこだわりとかは……?

私は色に関する感覚に自信がなくて、自分の色彩感覚を疑いに疑っているんですね。なので、一旦手を離すと言うとなんだかかっこいいことをしているようにも聞こえますが、調整しないまま出すのは不安なんです。
元の色に対するこだわりについて言えば、一番初めに選んだ色に対する執着はないです。青色Aが初めに選んだ色ならば、加工後も基本的には青であることには変わりないので、青色AがA’や A +になっても全然構わないです。

―ところで、この少女の周りが明るくなっていますよね。少女の存在感が増している気がするのですが?

やはり主役なので、主役に目がいって欲しいなということで分かりやすいように明るくしています。

―もう一つ気になるのが、この絵の背景は空が赤色なのですが夕焼けに見えるなと思っていまして。時間軸とかあるのでしょうか?

これは時間というよりも感情の色の方が近いですね。激しく赤い感情を、彼女は溢れさせていると思うので。
ところで、ちょっと個人的に伺いたいのですが、野村さん(インタビュアー
)はこの絵をどう鑑賞されました?

―私はですね、すごく共感できるところがあります。私は自分で温厚なタイプだと思っているのですが、たまに家族とかに当たってしまうときがあって。そのときに「なんでこうしてくれなかったの」とか、理不尽な怒りじゃないですか。それを思い出しますね。相手は絶対に悪い訳ではないし、絶対責任はないですが怒ってしまって。私にとってあの少女の涙というのは、感情を当ててしまった人への申し訳なさというか。そういった涙なのかなと思いますね。

面白いですね。私はそういう解釈を持っては描いてはいなかったので、そんな見え方もしているんだなと、今聞くことが出来て良かった。

―今回、稲富さんには《淡い朝焼け》《叢》《堰切》の3点を展示していただきましたが、本展示のテーマの「許容・容認・抱擁」にどんなことを考えましたか?

そうですね。「許容・容認・抱擁」っていうテーマを頂いて、COLORED GLASSES展ですから「色眼鏡」ということで、「自分は他人をどう見るか?」と一番初めに考えていたんですね。コミュニケーションの上には必ず他者が居るじゃないですか。「人と関わるってどういうことだろう」と思い、その違いを受け入れることや色眼鏡で人を見てしまうということについて考えていたんですけど、そこを考えるにあたってまず「自分自身に立ち返る」というところに思考が向かいました。コミュニケーションというフィールドの上には必ず他者がいますが、それに相対するように自分がそこにいる。一人称視点で対話を考えると自分の存在は見えにくい位置にありますが、コミュニケーションを通して誰かを知ろうとするならば、また同時に自分を知ってもらおうとするならば、まずは自分を知らないと、と。人との関わり云々の前に「自分自身ってどういう人間なんだろう」、「自分が人と関わるときや一人で居るとき、どういう風に物事を考えているんだろう」というところを思考していました。

新しく出てきた作品たちを見ても、割と自分自身がどうするかっていうところに焦点を当てた作品だと思うので、今回の展示のテーマは自分自身について改めて考えるきっかけになりました。

―ありがとうございます。

また今回のインタビューを受けていかがでしたか?

野村さんに私から質問してしまったのですが、私の考えとは違った受け取り方をしていただいたようで、とても嬉しかったです。
ありがとうございました。

―皆さんもぜひ自分なりの解釈というものを考えてみてくださいね。


稲富要

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