見出し画像

なんでもない日常を模型で再構築する

これまでに作った模型を振り返ると、陸海空問わずモチーフ選びからジオラマまで、ずいぶんと現実的な、所帯じみたものばかりだなあと思います。

画像1

画像2

画像⑫PBB装着

画像4

戦艦や駆逐艦など艦艇は豊富なプラモデルですが、意外と一般的な貨物船は製品化されていなかったりするので、ゼロから自分で作ったりもしました。

模型雑誌やSNSでは兵器や戦場を題材にしたジオラマが数多く紹介され、作り込みや世界観に圧倒されることしばしばですが、私はミリタリーに詳しくないのでどちらかといえば日常的な題材に惹かれます。日常の光景なんかわざわざ模型で作って何が楽しいんだ、ありきたりな光景をジオラマにする意味があるのか、と思われるかもしれません。

ところで、私は作曲家・伊福部昭(1914~2006)が好きです。「ゴジラ」の音楽を書いた人、といえばピンとくるかと思います。伊福部昭は北海道出身で、いわゆる日本的・西洋的と呼ばれる音楽からは距離を置き、独自の音楽を書き続けました。

伊福部は自作について「我々に内在しているが、まだ歌われたことのない歌声を喚起したい」と述べました。この「我々に内在しているが、まだ歌われたことのない歌声を喚起したい」という言葉に大きく感化されました。この世界にはまだまだ模型になっていないモチーフはたくさんありますが、一見なんでもない、取るに足らない光景の中にこそ、自分の手で再構築する意義のあるモチーフや光景がまだまだあるのではないか、この世界に存在するが、まだ製品化されていない、ジオラマになっていない光景を喚起したい…と思うようになりました。

画像5

そうやって模型を続けているうちに、作った模型に大きな反響をいただいたり、「リアル」と言っていただいて嬉しくなったり面映ゆくなったりしました。とにかくありがたいことです。

プラモデルやジオラマは作り込まれ、リアルであればあるほど良いものだ、と思いがちですが、あくまでもリアルかどうかは結果であって、自分が認識している世界を出力したものが現実の世界にどれだけ肉薄しているか、が一番大きな楽しみだと思います。
 筆を尽くして描き込んだ肖像画が全く似ていないのに少ない線で書いたデッサンが何よりもその人に迫ることもありますし、写真のような猫の絵よりも一本の線で輪郭を描いた水墨画の猫の方が何よりも猫に見えることもあります。

よく論争になる「考証」も、「現実ではこうなっている」という事実と、「自分には世界がこう見えている」という独り善がりのぶつかりあいで、どちらかに軸足を置かざるを得ないにしても、「リアル」を再現することだけに躍起になって、自分にはこう見える、という印象や楽しみをスポイルするのは寂しいことだと思います。
 見識が浅くても「うおー俺には世界がこう見えているぞ!」というエネルギーを模型として結実させることができたときは、もうリアルかどうか、上手いか下手かは関係なく模型をやっていてよかった、楽しかった、と思うものです。当然、のちに見識が深まって「俺はなんて恥ずかしいものを作っていたんだ!!!」と赤面し、さらに精進しようと意気込むことも、趣があって良いことです。
 子供の頃は、牛乳パックも船に見えましたが、今では大手メーカーのプラモデルの艦船にさえ「ここがリアルじゃない」と文句をつける大人になってしまいました。ゲーテは「真の教養とは、再び取り戻された純真さに他ならない」と語りました(と、伊福部昭が著書で引用していましたが原典不詳)。真の教養にたどり着き、純真な気持ちで模型に向き合える日を願ってやみません。

夜勤明けの朦朧とした変なテンションでだらだらと書き連ねましたが、模型を楽しむにあたって何を考えているのか振り返ってみました。

なんでもないモチーフを模型にしたい!と思うとき、何年何月の何々海戦で戦艦何々は何何迷彩だったのか…というのと同じくらい、「家の前の道路と歩道と未舗装の空き地の境目ってどうなってるの」「空港のボーディングブリッジってどうなってるの」と悩むのも楽しくなります。

まだまだ模型にしたいモチーフや光景がたくさんあるのですが、労働の隙間のわずかな余暇しかなく、さらに手も頭も遅いので一生の間にどれだけ作れるか、それが悩ましいところです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?