見出し画像

[映画]PERFECT DAYS

鑑賞自体はかなり前にはなりますが、
ヴィム・ヴェンダース監督の映画
「PERFECT DAYS」
を鑑賞して感じた事を書いていきます。

以下、ネタバレも含みますので
未鑑賞の方は鑑賞後にお読み頂くことをお勧めします。また、あくまで一個人の感想ですので
これが正解!というものではありません。
こんな見方もあるよね、というレベルでお楽しみください。


あらすじ

東京・渋谷でトイレ清掃員として働く平山(役所広司)は、静かに淡々とした日々を生きていた。同じ時間に目覚め、同じように支度をし、
同じように働いた。

その毎日は同じことの繰り返しに
見えるかもしれないが、同じ日は1日としてなく、男は毎日を新しい日として生きていた。

その生き方は美しくすらあった。
男は木々を愛していた。木々がつくる木漏れ日に目を細めた。
そんな男の日々に思いがけない出来事がおきる。それが男の過去を小さく揺らした。

PERFECT DAYS 公式サイトより引用



感想

役所広司さん演じる平山の丁寧すぎる暮しっぷりにフォーカスされる事が多い本作ですが、私は、この映画の主旨は別にあると捉えました。
それは"木漏れ日"になぞらえた、現実における個人の価値観の流動性、そして共存の表現です。

本作における登場人物は大きく2グループに分けることができると考えます。

1つめのグループが、主人公平山を始めとした、資本主義的な考えとは真逆の生き方をする、マイナーな価値観をベースに存在する人やモノ。 
2つめのグループが、平山の姉のような資本主義的な価値観、すなわちメジャーな価値観をベースに存在する人やモノです。

平山とその姉の関係性にフォーカスすると、資本主義の"影"でマイナーな価値基準を形成しながら毎日を生きる平山と、資本主義の社会、すなわちメジャーな価値観での成功を手にしている"光"としての姉という構造が見えてきます。
姪っ子は、その2つのグループを揺れ動く、まさしく木漏れのような立場と言えます。

また、映画全体を俯瞰して見ると
オリンピックのに向けて作られた豪華なトイレと、その影としての清掃員を務める平山。
そしてその平山やトイレを起点に繋がり、揺れ動く人々という構造も見えてきます。

加えて本作の中では、
マイナーなものがメジャーになる描写や
マイナーなものがメジャーなものに取り込まれてしまうような描写が多くありました。
それらのシーンは"光" と "影"の移ろいゆく相互の関係を描写していると考えられます。

一方で、現実世界がそうであるように
平山の様な生き方をする人達は常に少数派です。

だからこそ、平山は自分たちの世界、即ち"影"の側に、新たな人が加わることを心から喜びますし、誰かが抜けてしまう事を心から哀しんでいるのだと思います。
"影が重なって濃くならない訳がない"
という発言は、少数派として生きる平山の心の叫びであったと私は捉えています。

終盤、平山自身も元は上流階級の人間であった事が終盤で示唆されます。
ラストシーンの涙は、彼の側から離れていった物達への想いから流れた物だったのでしょうか。
それとも、自身がもう"光"の側には戻れないことを想っての物なのでしょうか。

私は上どちらも正解だと考えます。 
世の中白か黒かでは分けられない。にも関わらず、完全な中立もありえない。
常に自分の取るべきスタンスを明確にしながらも、他者との断絶ではなく共生を意識すべき。
そのような前向きなテーマをこの映画から感じました。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?