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なぜ人は五億年ボタンを押すことができるのか

 五億年ボタンという思考実験がある。
 ある特殊なボタンがあって、押すと100万円もらうことができる。だが、その代わりに押した人間は、何も無い奇妙な空間にとばされて、死ぬことも眠ることもできずに、五億年のあいだただただ存在し続けるはめになる。この期間が終了すると、その人は不思議な力で、ボタンを押した直後のその時間、その空間に戻ってくることになる。ただし、五億年という時間の記憶を消去されて。
 つまり、本人の意識では、ボタンを押すだけで大金が手に入ったようにしか感じられない。五億年のあいだ虚無の世界に存在していたらしいが、そんな記憶はまったくないのだから当然である。

 さて、このボタンを押すか、押さないか、これが思考実験の内容である。

 実際問題、押すか押さないかは私にとってはどうでもよい。
 思考実験というのは、ある現実の選択について議論するといったものではない。それは、極端な問題をぶつけることにより自らの思考や思想の質を検証するためのものである。思考実験とは、まさにこのような意味で「実験」なのだ。あの有名な「トロッコ問題」も、このようなものとして、功利主義や義務論の思想、そして読者や哲学者の思考を実験にかけるところに意味があったのであり、現実の交通システムの問題としてはもちろんナンセンスである。

 おそらく「押す」と答える人は案外多いだろう。すくなくとも、そう言い切った人を目にしたこともあるし、私だって、そう選択する気持ちを理解できる。なんだかんだ言って、実際に私が経験するのは、「ボタンを押す→100万円を手に入れる」だけなのだ。五億年だとかなんとか言われても、それは一切記憶にないのだ。
 だが、同時に押すことをためらう気持ちも分かる。私は決して知ることができないが、押した場合の世界には五億年のあいだひたすらただ存在するという苦行を受ける私がいるらしい。この苦しみを私は記憶していないので、ただ想像してみることしかできない。
 このことを「その苦しみを直接味わうことはできないが想像してみることはできる誰か」というふうに抽象化してみるならば、これはあらゆる他者に当て嵌まる条件である。そう考えると、「押す」ことを選択する人は、自分の利益のために他者を犠牲にすることを厭わない人間なのだろうか。
 そのように見ると、「押す」人間はきわめて利己的な思考の持ち主のようにみえる。
 ・・・・・・だが、この思考実験において、五億年の苦行を味わうのはあくまでも私である。それは誰かよく知らない人ではない。あくまでも私が犠牲になるらしいのだ。

 あるとき、私は友人とこの思考実験についての話になった。彼は「押す」と明確に答えた。そこで、私はこの友人にたいし、条件を少し変えた五億年ボタンを提案してみた。この五億年ボタン・バージョン2は押すと見知らぬ誰かを五億年のあいだ謎空間にとじこめる。もちろん、この記憶も消去されるので、その誰かはそんなことがあったと想像することさえできない。このボタンなら押すだろうか、押さないだろうか。
 友人は押すと答えた。この五億年ボタンの唯一の不利益な点は、どうやら私の知らない私がひどい目にあったらしい、と知っていることによって若干不快な気分になるというところにある。このバージョン2なら、そんなことを想像する必要がない。また、私のかわりにとばされた誰かは、そもそもこんなボタンの存在を知らないのだから、そんな想像をするわけがない。「あ、いまもしかしたら自分の記憶していない自分が謎空間に五億年ほど閉じ込められたかな」などと脈絡なく思いつく人間はめったにいないだろう。

 そこで、私は条件をさらに少し変えた五億年ボタンを提案してみた。もしもとばされる誰かが自分の親しい人間、親兄弟、友人、恋人、尊敬している誰か、あるいはペットの犬や猫だとしたらどうだ。押すか、押さないか。
 ここで友人ははじめて躊躇した。

 このバージョン3のボタンを、おそらく友人は押さないだろう。そして、私も押さないだろう。
 もしも「押す」と答える人がいるならば、その人の思い浮かべている「親しい人間」というのは実際にはそこまで「親しい」わけではないのだろう。なるほど、その誰かは何もなかったような顔をして、今日もその人と顔を合わせるだろう。彼はその人を非難しないだろう。彼は被害そのものを知らないのだから。
 だが、この条件で満足するとしたら、その人は、「その誰かが傷つくことはわまわない」が、「非難の目をむけられることは避けたい」と考えているにすぎない。つまり、その人は、彼を人間関係上傷つけることは避けているが、しかし傷つけることそのものはまったく差し障りない、と考えていることになる。
 本当に親しい人間、大切にしている存在ならば、そんなふうに考えることはできないだろう。

 「親しい人間」というふうに条件をしぼったら、押すのをためらうだろう。なのに、なぜ人生においてもっとも親しい人間、病めるときも健やかなるときも例外なく常に付き添っている人間、つまり私という人間をとばすという条件で、「押す」と答えることができてしまうのか。私はそんなことを言った。
 この時、私は友人に「五億年ボタンを押すことができるかできないか」を聞かれていたので、バージョン3のボタンを押せないようにバージョン1(もとの五億年ボタン)も「押せない」と答えようとしていたことになる。

 だが、「押せない」と答えようとした瞬間に、「私は本当は五億年ボタンを押すことができる」ということに気づいてしまった。「私」という人間を謎空間にとばすことと、親兄弟・友人を謎空間にとばすことは同じではない。そして同じでない上に、そこには断絶がある。「もっとも親しい人間」というふうに親しさの程度をあげることでは、けっして「私」にたどり着くことはできない。
 そもそも、人生において、「私」とはもっとも疎遠で、よく知らない存在なのではないか。ときに敵として立ちはだかり、足をひっぱってくる存在なのではないか。
 いや、そんなふうにへんに達観してみせなくてもよい。そもそもあらゆる行動において、人は自分を使い回し振り回し、そうして自分の欲するものに達しようとする。人は、愛する者のためなら死ぬことも場合によっては辞さないし、理想のため、名誉のため、あるいは快楽のために自分の存在すべてを使い潰すことさえありうる存在だ。
 五億年ボタンを押すことは、バージョン3のボタンを押した場合と同じような罪悪感をかきたてない。多少の不快な想像を伴うにせよ、私は最終的には次のように考えるだろう。どうせ犠牲になったのは私自身なのだ、と。

 私は先に、五億年ボタンを「押す」選択を利己的な選択かのように捉えた。しかし、実際には、この選択は、人は自分というものをいくらかの利益のためならどうにでも切り売りしてしまうこともできる、ということを示している。そして、この選択をこのように抽象化してみた場合、これは「労働」そのものであることに気付く。
 時間を切り売りして、自由な時間には酒でもかっくらって労働の嫌な記憶から逃れる。このように普通の労働を描写してみるなら、五億年ボタンは経験的には時間を一切使わない上に「忘れる」という処置を完璧に施してくれるきわめて良心的な「労働」であるとさえ言えるだろう。
 ここで思いだされるのは、この思考実験はもともと『みんなのトニオちゃん』という漫画の一エピソード「アルバイト(BUTTON)」に由来するという事実である。表題からわかるように、ここで「五億年ボタン」はアルバイトとして扱われる。「いいバイト」を探すスネ郎とジャイ太を前に、トニオは「一瞬で100万円稼げるバイトでちゅ」といって五億年ボタンを差し出す。五億年ボタンはここでは労働の比喩、というより(スネ郎やジャイ太にとっては)労働そのものとして提示されているのである。

 結局、私は友人になんと答えたのかはおぼえていない。私は押すのだろうか、押さないのだろうか。いまでも私は明確な答えを出すことができない。できれば押したくないものだ、とはなんとなく思うが、しかし本当にこのボタンの目の前に立たされたなら、私はほんのささいな差で押したり押さなかったりするだろう。わずかに魔が差せば押すだろうし、わずかに躊躇すれば押さないだろう。
 「五億年ボタン」というギミックの魅力はここにあるのだろう。読者はスネ郎の末路を見てさえ、「もしかしたら自分も押してしまうかもしれない」と考えてしまう。ここに、このエピソードの恐ろしさがある。

 ではなぜ人は五億年ボタンを押すことができるのか。
 私は先に「あらゆる行動において、人は自分を使い回し振り回し、そうして自分の欲するものに達しようとする。」と書いた。行動において、人はひたすら自分の外に価値を見出しそこへ向かって走り出す。そして、行動こそ、人間の本質なのである。

人間は、屋根茸き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中にじっとしていることだけだ。
            ――――パスカル(『パンセ』断章138より)

 パスカルはここで「行動」という人間の本質をけっして単純に肯定していない。行動を本質とする人間は、つねに価値を自分の外に置いて、それを求めてひた走るから、けっして安らぎをつかむことがない。こうして人間の生は不安定なものにならざるをえない。そしてその不安定さを蔽い隠し、自分という虚無と向き合うことを避けるためにさらに行動へと駆り立てられることになる。この不安をこそパスカルはつきつめようとしたのだった。

 こういうわけで、人は自分の存在そのものを賭け事のコインか何かのように使ってしまうことができる。そして、人は五億年ボタンを押すことができるようになるのである。

 ところで五億年ボタンは、押した人間に対し100万円と五億年の「「何もしない」をする」を提供する。別に拷問されるわけでも強制労働をさせられるわけでもない。だから、これは苦行でもなんでもない、と言い張ってみることも可能である。
 だが、五億年ボタンを躊躇なく押せる人間ほど、五億年はおそろしい苦痛であるはずだ。自分という存在を別の何かのために軽々と放り捨てることのできる人間が、五億年のあいだ、自分以外何も存在しない空間に閉じ込められる。五億年のあいだ、自分という虚無と向き合いつづけさせられる。どんな行動も意味をなさない誰もいない空間で一人きり。
 つまり、五億年ボタンを押すことのできる人間は、それゆえに五億年ボタンの恐ろしさを想像することができる。五億年の「「何もしない」をする」を苦行として感じることができるわけである。

 さて、五億年ボタン、押しますか?


 

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