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わたしを愛してくれたもうひとりの母へ #ひかむろ賞愛の漣

 「わたしはいっちゃんの第二の母だから」
彼女はいつもそう言って笑っていた。その笑顔に、また会えるのだと信じて疑わなかった。別れはいつも唐突だと、身に染みて知っているというのに。


 彼女の訃報を聞いたのは、実家から引っ越して5年程経った頃だった。実家は同じ関東圏内だから、帰ろうと思って帰れない距離ではない。だが電車で少し大回りをしないと帰れないこと、特急電車を使わないと時間がかかること、あまり父と顔を合わせたくないことなどを理由にして、あまり帰っていなかった。
 その日、久しぶりに実家に電話を掛けた。電話で話すのはいつも祖母だった。7人家族で、家族の中で一番小柄で一番働き者の、わたしのおばあちゃん。小さい人形が大好きで、旅行に行くと必ず人形をお土産にしていた。ガラス製、陶器、木彫り。色んな人形が祖母の部屋に飾られていた。
 祖母と話していて、ふと祖母が言った。

 「そういえば、じゅんちゃんが亡くなったんだよ」

 あまりに唐突で、言葉が出なかった。それでも、知らないと伝えると、祖母は「あれ、違ったかな」と言い始めた。その日電話で話し始めてから、少しの違和感があった。時間の感覚がずれていたり、少し話が噛み合わない部分があった。もしかしてと思い、久しぶりに父に電話を代ってもらった。
 認知症だった。あのはきはきした祖母が。あんなに働き者で、出かけることも大好きで、祖父と1か月に1回は必ず車で遠出をしていた祖母が。それでもまだわたしの声を覚えてくれていたことが嬉しくて、でも祖母が言ったことが気になって、父に訊ねた。幼馴染の母が亡くなったと祖母が言ったのは、ただの勘違いなのか人違いなのか、と。

 本当だった。


 香川県から北関東に引っ越したのは、3歳を過ぎた頃だったと思う。父の実家があって、祖父母と同居することになっての引越だった。母はあまりの田舎の慣習に、なかなか馴染めないところがあったという。それを助けてくれたのが、わたしと同い年の息子を持つ「じゅんちゃん」だった。
 看護師をしていて、明るくてよく笑う背の高い人だった。田舎特有の、「同じ町内の子はうちの子と変わらない」的な雰囲気の中、わたしを含めた10人程度の同い年の子たちを、地区行事のたびによく面倒を見てくれていた。小学校に入るまで女の子はわたししかいなかったことと、妹同士も同い年だったこともあってか、じゅんちゃんは我が家にとても近しかった。家に遊びに行ったことも数えきれず、地区行事があって母がすぐに迎えに来られない時、じゅんちゃんの家で待っていたことも両手では足りない。最早そこは幼馴染の家ではなく、わたしにとっては「じゅんちゃんの家」だった。

 小学校に上がった頃だっただろうか。やはり地区行事があって母の迎えをじゅんちゃんの家で待っていた時があった。母はじゅんちゃんに、「ごめんね、いつも見てもらって」と申し訳なさそうに言った。すると、彼女がわたしの頭を撫でながら言った。

 「大丈夫、わたしはいっちゃんの第二の母だもんね。このくらい平気だよ」

 わたしはじゅんちゃんが大好きで、幼馴染よりじゅんちゃんに会いたくて家に遊びに行ったこともあるくらいだから、本当に嬉しかった。母のように慕っていた気持ちが伝わっていたのだと、飛び上がるくらい嬉しかった。


 父から訃報を聞いたわたしは、母に頼んで幼馴染の家に電話をかけてもらった。じゅんちゃんの夫が電話に出て、じゅんちゃんが前の年に亡くなったことを話してくれた。病気になり、最後は自宅療養だったこと。最後まで、引っ越していったわたしと母のことを気にかけていたこと。

 涙が止まらなかった。どうして連絡をしなかったのか。実家に帰ったことがなかったわけじゃない、なぜ立ち寄らなかったのか。じゅんちゃんはいつも優しくて、自分の子供のようにわたしや妹のことも見てくれて、遊んでくれたり叱ってくれたり、本当に「第二の母」だったのに。
 言い訳を並べたらきりがない。わかっている、すべて「言い訳」に過ぎないんだと。それでもじゅんちゃんのことを思い浮かべると、こういう場面ですら彼女はきっとこう言うんだろうと思ってしまう。「わかっているから気にするな」って。

 笑うと細い目がさらに細くなって、手がとても温かい人だった。好きなところを挙げたら際限がない。看護師の仕事をしていた頃も、わたしが病院に来ていると知ると病棟から顔を見せに来てくれた。わたしの通院先の総合病院が、じゅんちゃんの勤め先だった。わたしの病気がわかった時も、抱きしめて「入院が必要な病気じゃなくてよかった」と少し泣いていた。白い看護師の制服がよく似合っていたことを、今でも鮮明に覚えている。


 ねぇじゅんちゃん。会いに行けていなくてごめんね。きっとじゅんちゃんは「自分のことをちゃんとしなさい」って言うんだろうと思うけど。結婚したことも、報告できないまま。色々あるけど、わたしは今日もちゃんと生きているよ。わたしの後悔なんてきっとお見通しで、笑って撫でてくれるんだろうなって思うけど、いつかまた会えたら、謝らせてね。そのあとに、じゅんちゃんに話したいことが山のようにあるから、前みたいに笑って聴いてね。

 わたしの「第二の母」になってくれて、ありがとう。



 光室あゆみさんの「石と言葉のひかむろ賞」に参加させていただきました。

 テーマが「慈愛」と知って、思い浮かんだのは彼女のことだけでした。他の内容にしようと考えたけれど、書けませんでした。後悔もあるので少し哀しい言葉になってしまった部分もあります。それでも、わたしの大切な大切な人のことを、ここに残しておきたかった。
 あゆみさん、こんなに素敵な企画を、ありがとうございました。




2020/2/9

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