読書まとめ『ホモ・デウス下』ユヴァル・ノア・ハリ

前回の上巻の続きです。

現代の契約

 現代というものは取り決めだ。私たちは皆、生まれた日にこの取り決めを結び死を迎えるまで人生を統制される。そして自分がどんな取り決めに同意したのかを理解しようとする人は、まずいない。
 一見する現代とは極端なまでに複雑な取り決めのように見える。契約社会全体を一文にまとめると「人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する」というものだ。
 近代に入るまで、ほとんどの文化では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられていた。その構想は全能の神あるいは自然の永遠の摂理の手になるまで、人類には変えれなかった。この宇宙の構想は人間の命に意味を与えてくれたが、同時に、人間の力を制限した。
 近代以前の人間は、力を放棄するのと引き換えに、自分の人生が意味を獲得できると信じていた。「結局は最善の結果に繋がる。仮に今ここでなくても、あの世では」
 現代の文化は、宇宙の構想をこのように信じることを拒む。私たちはどんな壮大なドラマの役者でもない。意味などない。科学的な理解の及ぶかぎりにおいて、宇宙は盲目で目的のないプロセスであり、響きと怒りに満ちているが、なに一つ意味はない。芥子粒のように小さい惑星で無限小の時を送る間、私たちはあれこれ頭を悩ませ、あちこち歩き回り、良い結末も悪い結末もない。結末など全くない。物事が後から後から怒るだけだ。現代世界の人は、目的があるとは考えない。原因があるとだけ信じている。もし現代というものにモットーがあるとしたら「ひどい事も起こるものだ」となる。 

チスイコウモリとは違う銀行家

 現代における力の追求は、科学の進歩と経済の成長の間の提携を原動力としていた。今日では誰もが成長で頭が一杯なのに大して、近代以前の人々は、成長など眼中になかった。君主も聖職者も農民も、人間による生産は概ね一定しており、他人から何かくすねない限り豊になれず、子孫が自分たちより高い水準の生活を送れるとは思っていなかった。
 というのも新規事業の資金調達が難しかったからだ。当時は信用に基づく経済活動がほとんどなかった。経済が成長すると誰も信じていなかったため、停滞が停滞を生む。
 現代社会では信用の力が強まり、新規事業の成功が積み重なった。将来を信じ、信用も拡大し、利率も下がり、企業家は前より簡単に資金を調達できるようになり、経済が成長する。
 これは理論上は単純に聞こえるが、なぜ人類は近代になるまで、こうならなかったのかというと、成長が私たちの直感や、人間が進化の過程で受け継いできたものや、この世界の仕組みに反していたからだ。自然界の系の大半は平衡状態を保ちながら存在していて、ほとんどの生存競争はゼロサムゲームであり、他者を犠牲にしなければ繁栄はない

ミラクルパイ

 人間は進化圧のせいで、この世界を不変のパイと見るのが習い性となった。もし誰かがパイから大きく一切れを取ったら、他の誰かの取り分は確実に小さくなる。したがって伝統的な宗教では、既存のパイを再配分するか、天国というパイを約束するかし、現在の資源の助けを借りて人類の問題を解決しようとした。
 それに対して現代は、成長経済は可能であり絶対不可欠であるという固い信念に基づいている。飢餓や疫病や戦争といった問題は成長を通してしか解決できない。
 1生産が増えれば、より多くを消費して生活水準を上げられ、しかもそのおかげで、より幸せな人生を楽しめるとされている。
 2人口が増えている限り、現状を維持するためだけにも経済成長が必要とされる。
 3人口増加が止まったとしても、中産階級が現在の生活水準で満足できるとしても、貧困に喘ぐ何億の人々に対しては、どうるべきなのか?豊な人から少しを取り上げて、貧しい人にもっと与えることは可能だ。だが、そのためには非常に厳しい選択を迫られることになり、恐らく多くの人の恨みを買い、暴力行為さえ招きかねない。そうした厳しい選択や恨みや暴力を裂けたければ、もっと大きなパイが必要になる。
 現代は「より多くのもの」を、宗教的原理主義や第三世界の独裁主義から結婚生活の低迷まで、ほとんどありとあらゆる公の問題や個人の問題に適用できる万能薬に変えた
 成長にこだわるのは分かりきった話かもしれないが、鎌倉時代の将軍や漢王朝の皇帝は、自らの政治的命運を賭けて経済成長を保証することはなかった。現代の政治家が政治生命を経済成長に賭けているとおいう事実は、成長が世界中でほとんど宗教のような地位を獲得したことを物語っている。実際、経済成長の信仰を宗教と呼んでも間違っていないのかもしれない。
 したがって、「より多くのもの」という信条は、社会の平等を維持したり、生態の調和を守ったり、親を敬ったりといった、経済成長を妨げることは全て無視するように個人や企業や政府に強いる。そのため強欲な実業界の大物や金持ちの農場経営者や表現の自由は保護されているが、自由市場資本主義の邪魔になる生態系の中の動植物の生息環境、社会構造、伝統的な価値観は、排除されたり破壊されたりする。
 自由市場資本主義には断固とした答えがある。経済成長のためには家族の絆を緩めたり、親元から離れて暮らすことを奨励したりする。この答えには事実に関する明言ではなく倫理的な判断が関わっている。経済成長と家族の絆どちらが重要だろうか?自由市場資本主義は大胆にもそのような倫理的判断を下すことによって、科学の領域から境界線を超えて宗教の領域に足を踏み入れた。
 ほとんどの資本主義者は宗教というレッテルを嫌うだろうが、そう呼ばれても仕方がない。天井の理想の世界を約束する他の宗教とは違い、資本主義はこの地上での奇跡を約束し、その上それを実現させることさえある。飢餓や疫病を克服できたのは、資本主義が成長を熱烈に信仰していることに負うところが大きい。
 資本主義は成長という至高の価値観の信仰から、自らの第一の戒律を導き出す。「汝の利益は成長を増大させるために投資せよ」だ。君主や聖職者は歴史の大半を通し、派手なお祭り騒ぎや豪華な宮殿や無用な戦争に利益を浪費してきた。「もう、これまで。十分成長した。これ以上頑張らなくて良い」と資本家がいう時点には、私たちは決してたどり着くことはない。

方舟シンドローム

とはいえ、経済は本当に永遠に成長し続けられるだろうか?いずれ資源を使い果たし、勢いが衰えて停止するのではないか?永続的な成長を確保するためには、資源の無尽蔵の宝庫をなんとかして発見しなければならない。
 新しい土地を検証して征服するというのが解決策の一つだ。事実、ヨーロッパの経済成長はと資本主義体制の発展は、何世紀にも渡って、帝国による海外の領土の征服に大きく依存してきた。
 世界には決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギー遠いう2種類の資源しかないことを前提にしている。だが実は資源には3種類ある。原材料とエネルギーと知識だ。知識とは増え続ける資源であり、使えば使うほど残りが少なくなる。
 成長へと続く科学に道は、何千年もの間閉ざされていた、それは人々が、この世界の提供しうる重要な知識はもう全て聖典や古代からの伝承のなかに含まれると信じられていたからだ。ところが、人類は科学革命によって、この素朴な思い込みから解放された。最も偉大な科学発見は、無知の発見だった。自分たちは世界について無知だと知覚し、進歩へ向かう科学の道を開いた。
 したがって、我々には資源の欠乏を克服する可能性は十分ある。現代の経済にとっての真の強敵は、生態環境の崩壊だ。科学の進歩と経済の成長は共に脆弱な生態圏の中で起こる。そして進歩と成長の勢いが増すに連れて、その衝撃波が生態環境を不安定にする。裕福なアメリカ人の暮らしを世界中の人々がするには、地球が足りない。
 私たちが進歩と成長のペースを落とせばこの危険を軽減できるかもしれないが、成長の教義はそのような異端の考えを断固として異議を唱える。そしてペースを落とす代わりに私たちは尚更足を早めるべきだと言う。もし私たちの発見のせいで生態系が不安定位になり、人類が脅かされるのなら、自らを守ものを発見するべきだ。新たな産業が皆大気と海洋を汚染し、地球温暖化と大量絶滅を吹き起こしたのなら、私たちはヴァーチャル世界とハイテク保護区を建設し、例え地球が地獄のように暑くて荒涼として汚染されたとしても、人生の素晴らしさをもたらすものを全て供給してもらうべきだ、と言うわけだ。
 私たちは生態環境の破綻が人間の階級ごとに違う結果をもたらしかねないことも憂慮すべきだ。歴史に正義はない。災難が人々を襲うと、貧しい人の方が豊かな人よりほぼ必ず苦しい目に遭う。そもそも、豊かな人がその悲劇を引き起こした時でさえ、そうだ。地球温暖化は裕福な西洋人よりアフリカの乾燥した国々に住む貧しい人の生活に、より大きな影響を与える。
 2015年のパリ協定では野心的な目標が設定され、産業革命以降の気温の上昇を1.5℃未満を目指すことになった。だが、この目標に到達するのに必要な困難なステップの多くは2030年以降に、あるいは21世紀後半までに先送りし、事実上、困難は次世代に回した。現在の各政権は環境に優しいふりをし、直ちに政治的利益を得ることができたが、一方で、排出量を削減すると言う重大な政治的代償は将来の政権が背負いこまされた。経済が成長してさえいれば、科学者と技術者がいつも世界の破滅から救い出してくれると信じている政治家と有権者が、あまりに多すぎる。こと気候変動に関しては、成長の熱狂的な信者達は、奇跡をただただ期待するだけではない。奇跡は起こって当然と考えているのだ。
 資本主義の世界では、貧しい人々の暮らしは、経済が成長している時にしか改善しない。したがって彼らは、今日の経済成長を減速することによって将来の生態環境への脅威を減らすよ措置は、どんのものも維持しそうにない。環境を保護するのは良いが、家賃が払えない人々は、氷床が解けることよりも借金の方をよほど心配するものだ。

激しい生存競争

 我々が猛然と走り続け、経済の破綻と生態環境のメルトダウンの両方をなんとかできても、個人にとっては、このレースはストレスと緊張の原因となる。世界は便利になっていくが、人々は不安や心配に悩まされている。より良くなろうとプレッシャーを絶え間なく感じてる。
 私たちはそれを上司や自分自身、ローン、政府、学校制度のせいにする。本当の責任はそこにはなく、すいべては、私たち全員が生まれた日に結んだ現代の契約のせいだ。
 したがって現代の世界は、これほどの緊張と混沌を生み出しているにもかかわらず、そうした緊張や混沌のせいで人間が個人としても集団としてもこのレースを途中で棄権しようとすることなどないように、懸命に手を尽くす必要がある。そのために、現代の世界は成長を至高の価値として掲げ、成長のためにはあらゆる犠牲を払い、あらゆる危険を犯すべきであると説く。

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