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いろんな事がある中で、思い出したい事。

私達の年代になると、親の病気や介護などのテーマが現れてきます。

年齢、年齢に応じたものがあると思うのです。

だから、 
自分のことだけ考えていたらいい時代は思いっきり、 
自分の事に悩んだり、走りきったり、疲れたり、 
動き回ったりしたらいいように思います。

もっと大きな時間でいろんな時代がありました。

その事で、ふっと思い出すのがおばすて山のお話です。

いろんなストーリーがあるでほうが、

私は、中山靖雄先生の著書

「すべては今のためにあったこと」二冊分は、 
先生からお話を聞き取り書かせて頂きました。

是非この本は読んでいただきたいです。

https://www.amazon.co.jp/すべては今のためにあったこと-中山靖雄/dp/4759312757

その中で、本の中に入れれなかったおばすて山の節があります。

ここで、ご紹介させていただきます。

先生の話し言葉を残しながら。

どんな事をしてでも、私達まで命を繋いでいこうとした先輩方のお話です。

 
中山先生のお話より

おばすてやま

ご存知だと思いますが、「姥捨て山」の中に、こんな話があるんです。

姥捨て山っていうのは、自分の子どもが生まれると、 
そのお母さんやおじいちゃん、年寄りをその捨てに行かなきゃ、 
食い扶持べらしをしなければいけない。

だけど、
とうてい、自分のじいさんや、ばあさんや、おやじや、おふくろを捨てにいくことできません。 
とうてい、自分のじいさんや、ばあさんや、おやじや、おふくろを捨てにいくことできません。

だから、ほんとは捨てに行かねばならんけどもなぁって悩むんです。

そんな中「よし!もういい!」って、
「ばあさん、最期までおれがめんどうみよう!」って心に決めるわけです。

そうすると、おばあちゃんが息子の悩みをわかるもんですから、

「山へ行こうよ」って背中に手をかけおぶさろうとするんですよね。

「もういいよ、ばあちゃん、死ぬまでうちにいたらいいがね」って、

「ばあちゃん一人ぐらい面倒みれるよ」ってこういうわけです。

するとおばあさんが
「そんなこと言ったって、あんた村八分にあったらどうするの?」と。

「いいって。村八分になったって、ばあちゃん一人ぐらいなんとかなるって。家族ぐらいどうにかするよ!」ってこう言ったら、

おばあちゃんが
「だってあんたは、いいかもしれんけども、あんたの子どもや孫はどうするの?」ってこう言うわけですよね。

それでしかたなし、おんぶして、捨て行くわけです。

その捨て行く途中で母親が、子どもの背中で何をやるかって言ったら、

柴の枝を足元へ、ぽつんぽつんと、こう足元へ落としながら行くんですよね。

そして大きな岩陰のとこへ母親を捨てて帰りがけた時に、

母親が「おまえ帰り道がわかるか?」って声かけるんですよね。

ところが振り返ってしまうと自分の母親だから、帰れないじゃないですか。

2、3歩行きかけて、そしたらまた母親が

「おまえ帰り道がわかるか?」って声かける。

もうたまらなくなって逃げ出すんですよね。

その時に母親が

「柴の枝がおってあるから、折れた柴をつたわって帰れよ~!」って叫ぶ。

あれが姥捨てっていう民話の最後にあります。

「道すがら しおりしおりて折る柴は 我を見捨てて 帰る子のため」

自分を見捨てて帰る子どものために、柴の枝を折って、

道をつけずにおれないっていう、そんな命がけの愛の連続の中で、

我々があるっていうのがわかった時に、

今度は我々が次の世代に何かをという、そんなことになるような気がするんですよね。

「知ることの深さは愛することへの道」

それが、まんまるくなるひとつでないかなって思います。

そんな先輩の世界があったんです

17歳の女の子が、こないだこんな詞を投書していました。

『かたちあるもの 目に見えるもの 耳に聞こえるもの 
それだけしか 信じることが できないとするなら 私はさびしい。
愛情 平和 思いやり 一番大切なものは 見えないところにあるのだから』

愛情とか平和とか思いやり、
一番大切なものは見えないところにあるのだから・・・っていうんですよね。

私は、ほんとに我々が今こうして生きていることすらも、

ほんとに見えない世界の連続の中で、今あるそのことがわかった時に、

次の世代に何かをっていう思いが湧きます。

まんまるくなっていきたいなぁっていう機会があると、 
そういう思いがわくと思うんです。

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