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RIP Charlie!

 赤の他人であるにもかかわらず、その人の死は自分の中に想像以上の喪失感をもたらし、訃報を聞いてから丸一日ほどは「RIP」という文字をSNSに書き込む気にもならなかった。そのニュースに反応してはいけないと無意識が自分に語りかけ、自分もまたその通りだとばかりに、そのことをあまり考えないようにしていた。

 それほどまでに大きな衝撃を受けたのは、その人の思い出の断片すべてに音楽が絡んでいるからに他ならない。そして誰の言葉かは忘れたが「全ての音楽は記憶を伴う」……その結果、音楽を媒介としてその人の記憶は自分自身の過去の断片とも深く紐付けられている。実に私の50年余の半生のうちの40年以上の月日の記憶が、濃淡こそあれこの人(たち)の音源や写真、映像の記憶と紐付いている。そしてそれは、とりわけ悩んだりハードな人生経験の記憶を伴って甦ってくるのだ。

 考えてみれば、死とは死者よりも生者、とりわけ残された者に関わる出来事だ。そして故人を偲ぶとは字義通り死者を偲ぶことではなく、故人と自分との記憶を宝箱から出し、息を吹きかけて布で磨き直すことだ。だから適度な距離感の知人の死は、時として人生の記憶の彩りを一瞬より鮮やかにするという、ある種甘美な作用を伴うことがある。

 しかし自分の人生に一定以上の大きさで影響力を持つ人の訃報、もはやその人との記憶の延長線上に更新はないという宣告は、自分自身の「小さな死」をも意味することになる。本人にとっての人生とは結局は記憶の集積だ、という意味において。

 今回、彼の死を理解することは、すなわち自分の人生の小さな死を受け入れることでもあった。だから訃報から丸一日、半分は自分に向けて発する哀悼の言葉がにわかには思いつかなかったのだと思う。

 希代のモンスターバンドの名ドラマーの死には、世界中の様々な人から弔辞が寄せられている。ピートとかリンゴのメッセージは素晴らしかったし、ポールは動画をあげた。ロニーやダリルのコメントにもグッと来るものがあった。

 でも今回、ミックとキースという盟友二人の投稿にコメントはなかった。コメントしなかった理由は分からないが、しかし僭越ながらその心情は少しだけ分かるような気がしている。


 



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