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終わりを確かめた日

1月15日に恒例の神社参拝をしたかったけれど、雇用主さんから仕事の連絡が入ったので、17日に予定を変更した。

神社の入口には、大きな鳥居と狛犬が建っている。護りの「滊」が薄れてしまったような雰囲気に違和感を覚えつつ、気のせいにして鳥居を潜った。
中央寄りに走る危ない車3台とすれ違う。
嫌な予感がした。

駐車場は車が停まっている。小正月でもなければ、日曜日でもないのに、台数が多くて意味不明。おまけに今日は月曜日ですよね?と思うくらい、参拝客が歩いている。
主に60歳前後〜70歳あたりの男女が目立ち、男性に至っては、ほとんどがスーツ姿であった。

階段を上がると煙草のニオイが鼻腔に入り、着ているコートのネック部分を摘んで、鼻から下を覆い隠す。
煙草は神様が嫌うのもあれば、私みたいに頭の天辺にあるチャクラを開いてる人間は魔が入りやすくなるので、良いことは何もない。というか、神社に喫煙場所を設けるのは、いかがなものか。

右に顔を向ける。
あんな石の彫刻あったっけ?
気味が悪い。

奥に行って狛犬を見る。昨年より覇気を失い、暇そうにしていた。
境内は神様が留守にしている。空っぽだ。

頭のなかで住所氏名、「昨年もお世話になりました、有難うございます」と告げる。
だが、「今年もお世話になります」「世界が平和でありますよう、ご守護ください」という言葉が出て来ない。
「神様が居ないのに、言う必要はあるのか?」と、私のなかに在る意識が拒んだ。

帰り際に思う。
巨大な御神木が主〈あるじ〉になって、神社を支えている。そこだけが清らかだった。

今日は何のために参拝したのか?終わってから考える。
きっと、来る理由が無くなったことを確認するためだ。

私自身の神仏様に対する信仰そのものは、形を変えていない。

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