見出し画像

【番外編】ジョン・レノンという生き方は楽じゃなかったんじゃないだろうか?

ビートルズの最後の新曲となる「Now And Then」がリリースされる。
ビートルズと聞いて、心の底から「おおっ!」と感じる人は、もうだいぶ少なくなってきているんじゃないだろうか。ほとんどの人にとっては、「へえ」とか「ふうん」とか、「あの人たちまだやってるんだ」、くらいになってるんじゃないだろうか。リアルタイムでジョン・レノンが殺されたニュースを聞いた自分としては少し寂しいものがあるけど、もう50年以上も前に解散したグループなんだから仕方ないというところか。
ところで、ビートルズを聞いていつも思うのは、ジョン・レノンという生き方は、もしかしたら、かなり楽じゃなかったんじゃないだろうか、ということだ。
実体がイメージに追いつかないことほど失望させられるものはない。
他人が抱く自分に対するイメージが大きすぎれば大きすぎるほど、それに追いつけない自分がいるとイライラするし、挙げ句の果てには自分に失望して心の平衡を保つのが難しくなったりしてしまう。
ジョン・レノンは当時押しも押されもせぬカリスマだった。でもミュージシャンとしてはどうだろう?いま改めて彼の曲を聞くと、彼はむしろ昔の時代のロックンローラーの最後のひとりという感じで、どこか垢抜けない感じがある、それが古臭いというところまで行かないので今でも聞けるけど、音楽の才能からすればやっぱりポール・マッカートニーのほうが上だろう。特に後期は。
もちろん、はじめの頃はジョンとポールの音楽の才能は拮抗していたと思う。レノン・アンド・マッカートニーと言っても全く問題ないくらいに同じくらいの才能だった。
でも、だんだんと状況が変わってきた。カリスマとしての存在感はジョンのほうが圧倒的に大きくなっていく一方で、音楽面ではポールの才能のほうが光っていった。実際、ビートルズで名曲と呼ばれているものの多くはマッカートニーの作品だ。対外的にはカリスマとしてもてはやされているのに、作品的にはポールの影に押しやられてゆく。それにもかかわらずレノン・アンド・マッカートニーのクレジットのおかげで、世間的には作品の多くに自分が大きく関わっているように表示されている。これではまるで、中身のない膨らませた風船のような状態ではないだろうか?
世界を相手に風船のままでいるなんて、普通の神経では耐えられないだろう。やっぱりクスリにでも頼らないと過ごせないのだ。で、彼は本当にクスリに頼ったり、訳の分からないインドの導師にのめり込んでいったりしてしまった。オノ・ヨーコと結婚したのもこんな精神状態が関係しているんじゃないかと思ってしまう。
音楽の才能ですっかり自信が持てなくなっていたときに、当時それなりに有名な前衛芸術家であったオノ・ヨーコと意気投合する。というか、前衛芸術家に認められて、やっと心の拠り所ができたんじゃないだろうか?とはいえ、それでもレノン・アンド・マッカートニーの重さから逃れられないので、ついにはビートルズを解散して、レノン・アンド・マッカートニーを解消してしまう。
世間が自分に期待する才能に自分の才能が追いつかないとしたら、ホントに楽ではない状況だ。解散してからもジョン・レノンはオノ・ヨーコに「なぜ他のミュージシャンはいつもポールの曲をカバーして、僕のはしないんだろう」と尋ねたという。もうここまで来ると、一時期はノイローゼに近い状態に追い込まれていたのではないだろうかと疑いたくなる。
もしも、ではあるけれど、もしもジョンが自分の道を作曲家ではなくて作詞家の方に向けていたら、もっと違う生き方になったのではないだろうか、と思う時がある。カリスマはメッセージを発信するものだし、メッセージ性が高ければ高いほど、カリスマとしてさらに輝けただろう。
ところで、あちこちで、ビートルズの最後の新曲「Now And Then」のクレジットが、ジョン・レノン作になっているのが実はちょっと気になっている。本当にそのクレジットのまま発売されるのだろうか?
最後までレノン・アンド・マッカートニーであってほしいと思うのは自分だけではないと思うけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?