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時間って何だろう?

自粛要請が続き、個々の時間軸も大きく変化している今、あらためて「時間って何だろう」と考えてみた。
 
自身、これまでかなり自由に生きていたつもりだったが、ふと立ち止まって振り返った時に「かなり型にはまった時間の流れの中で活動していた」ことに気づかされた。決まったスケジュールで拘束され、時間の枠組みの中で生きている。「変化を好む人間」を自称している自分でさえ、安定した変化のない状況を、知らず知らずのうちに選択してしまったのだ。
 
そもそも人は、自由を好む。だが、それは決められた時間軸やルールの中で得られる自由だ。例えば「今日は時間を全く考えずに1日ボーッとできた」と言っても、本当に何もしなかったわけではないだろう。テレビやネットを見たり、本を読んだり。何かしら行動している。行動そのものを「無」にするのはとても難しい。しかしこれまで「無心」になったと感じた瞬間は何度かあった。カサブランカの海岸で水平線を見ていた時や、京都の龍安寺の景色を眺めていた時、ガウディの建築に一歩足を踏み入れた時は、気がつけば3時間以上が経過していた。いずれも景色や環境に没入し、「考えている」のではなく「感じている」自分がいたと思う。
 
考えてみると「時間」という単位は、日常生活を送る上では便利で楽なものだが、人間から様々な能力を奪っていった。例えば、直感力やリズムを読み解く力。江戸時代以前、人々は自然のリズムを備え、体内時計も機能していた。その一例が、農民の起こした「一揆」。目的を達成するためには短期間で集まり、一気呵成に推し進める必要があった。時計を持っているわけではないのに、誰もが決まった時間、決まった場所に集まることができたのだ。また、嵐や雪の到来を予測できる能力もそれ以前の人には備わっていたという説もある。

もしも「時間」という単位が生まれていなかったとしら、今の生活はどのような状況になっていたのだろう。

注目すべきは、それでも時間には「誰にも平等に与えられ、そして自由に使えるもの」であるということだ。1年365日、1日24時間。その時間を変えることは誰にもできないが、その密度や奥行きや流れを変えることは自分次第でできる。例えば、一つのゴールのないテーマと遊ぶ。未知のアートや食ととことん向き合う。バーチャルでなくリアルに。時間は単位から一気に解放されて自由のリズムに変化し奥行きと密度を生み出していく。時間を意識すると左脳が動き出し、アドレナリンが抑制されて快感中枢の働きが弱まってしまうそうだ。一方、何かに没頭したり夢中になったりして時間を忘れている時は、右脳が活性化し、快感中枢も刺激されている。
 
自由に時間を楽しむ。「○時だから」という考え方から離れ、時間軸を捨てて過ごすというのはいかがだろうか。まさに不自由な今だからこそ。

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