祖母の食卓(20160415)

四月に吹く風を身体で浴びるたび物悲しくなるのはきっと、その風が舞いあがらせる冬の死骸がもう手の届かないところへいってしまった大事な人たちのことを思い出させるからなんだろう。



祖母が死んだのは冬の初めだった。
祖母の庭で遊んだのはいつも真夏だった。
それなのにどうしてだろう、彼女の事を思い出すのはきまって、冬と春のあわいにあるこの曖昧な季節。


曇った空は心なしか明るく、景色は瑞々しさをたたえてこの時期特有の希望めいた予感に溢れている。
春を迎え入れるために人々は明るい色の服を纏い、木々の新芽が急ピッチで伸びてゆく。
満開を過ぎた桜はまだ残る冬の名残ごとはらはらと舞い散り、どこかへ消えていった。


足元へ目をやればオオイヌノフグリやらヒメオドリコソウ、ナズナがひっそりと咲いている。
それらを祖母の庭で見た覚えはまるでないのに、草の緑が、花の青紫や白い色が、あの日風に揺れていたグラジオラスや菊、百日草の花の色に変わって私を呼んでいる。


けれど私は知っている。
祖母が私を彼岸へ招くような人ではなかったこと。
強く、厳しく、うんと優しい人だった。
生きていくための基本や人間がどんなに否定しても捨てられない、心に深く根を張る悲しみを宥めながら生きていく術。
大事なこと全部を、私は彼女から教わって来たのだから。


これは郷愁だ。
二度と手に入らない日々を愛でながら懐かしむ事を赦された、特別な季節なのだ。


夏のお盆の時期は毎年、祖母と妹の三人で早くに亡くなった祖父や曾祖父母たちの墓を参るため、バスでも一時間かかる道のりを歩いた。
茹だる熱気、強すぎる陽射しの下、私たちは一体どんな言葉を交わし歩いていたんだろう。
何も思い出せない。
ただ、祖母がいつもより少しだけおしゃれをしていて、差していた淡いモスグリーンの日傘がとてもきれいだった事を覚えている。


朝早くから歩いて、お昼の遅い時間に帰って来て昼寝をして、夕飯を食べるのがいつもだった。
献立は祖母の畑で採れる野菜が沢山、魚、あるいは肉が少し。
野菜は台所にいつも溢れていて、何を食べても美味しかった。
そういえば独り暮らしを始めてからいつも無意識に選んだり作る献立は大体が祖母の家で食べた献立だと気付く。


ピーマンと茄子は味噌炒め。
モロヘイヤとツルムラサキはおひたし。
トマト、トウモロコシは三時のおやつ。
シャケは辛塩、おにぎりの具は筋子かたらこ。
じゃがいも、みょうがはお味噌汁の具。
きゅうりは醤油と辛子で漬物に。

自分で肉を選んで食べないのも、もしかしたら肉嫌いだった祖母の影響なんだろうか。
大好きだった祖母、突然死んでしまった祖母、事故にあったというのにその死に顔はやたらきれいで、まだその命をなんとかして取り返せるんじゃないかと本気で思った。


もっと子供の頃、父方の祖母が死んでしまった時にはクラスで流行っていた「願い事が何でも叶うおまじない」を試してみるくらいしか出来なくて、でも大人になった今なら手立てがあるんじゃないかと、なんでもいい、間に合う方法があるんじゃないかと信じた。
けれど悲しいかな、私は大人なので、そう期待してしまう以上に、そんなことあり得ないと知っている。


届くはずがないのだ。肉体からはぐれた祖母の魂は途方もなく大きくて温かい何かに吸い込まれどこかへいってしまった。
きっと今頃はどこか知らない国の、家の、誰かの子供として生まれ、大事に育てられているのだろう。


「おばあちゃん、どこいったの?」


今更そんなことは言わない。
今更もう、涙も出ない。
望むと望まないとに関わらず、私の心はしっかりと祖母の死を受け入れてしまった。


そしてきっと、そこから本当に大事なことが始まるのだ。


祖母の魂を受け継ぎ生きていくという、涯てのない日々。
祖母の魂は旅立ち、祖母が祖母として生きた人生は終わってしまったけれど、祖母が遺してくれたものはどこへもゆかない。
私の母が、私が、私の妹が、妹の子供が生きている限り在り続ける。
祖母は母であり私であり妹であり妹の子供なのだ。


今日の夕飯は豆ごはんに、ピーマンと茄子を味噌で炒めよう。
醤油を少しだけ入れるのが美味しい。
味噌汁の具はしじみにしよう。
きゅうりの漬物も、作らなくては。

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