咲かない春

 まだ冬の気配が色濃い春の始め、君は突然、僕の前から姿を消してしまった。

 桜が咲いたらお花見をしようね、と約束していたはずなのに、どこかに行ってしまった。同じ空の下、何食わぬ顔で元気にしているのか、それともふとした拍子に開いた異世界へ通じる穴とか扉から向こう側に行ってしまったのか。
 いくら探しても君は見つからず、僕はその過程で心をおかしくしてしまったらしい。
 同僚と話している間に日本語が喋れなくなったり、前触れもなく自分の意思と無関係に奇声を発してしまうこともあった。勿論仕事のミスも増えた。三十部でいい資料を三百部用意したり、取引先に商談に行ったはずなのに辿り着いた先が樹海の入り口で、見回りをしていた警察の人に保護されたりもした。迎えに来てくれた上司は何故か泣いていた。
 一年くらいした頃に呼び出され、会社が雇っている医者と話をしたら診断書が出た。それにより、僕はしばらく仕事に行かなくて良くなった。休職というものらしい。
 なんだかよくわからないけれど、言われるまま色々な書類を役所に出したら毎月何もしなくてもお金が入ってくることになった。贅沢さえしなければ生き延びることができるだけの額だ。
 そうやってどんどん時間は過ぎて日は経って、いつの間にか君がいなくなって二回目の春を迎えていた。

 春はなんとなくあったかくて寒くて、それでいてやけに乾燥する。
 冬の間は大丈夫なのに、どういうわけか僕は春先になると手指にアカギレができる体質だった。
 簡単な夕飯を作って食べ、使い終わった食器を洗った時、やっぱりというか、案の定というか、左手の第一関節のところがびきりと割れた。桃色の中身が見えて、それはたちまち赤い血で塗り潰された。
「あー」
 やる気のない声が出る。こんなの慣れっこだから、ちゃんと防水のカットバンを用意している。けど、なんどやっても嫌なものだ。
 中断し、水気を拭ってカットバンをきつめに巻いた。
 昔は消毒してよく乾かすのがいいって教えられたけど、最近はその逆なんだという。湿潤療法。よくうるおしておくこと。

 そのまますぐに食器洗いを再開し、折角シンクを空っぽにしたというのに、僕はその後珈琲を淹れてしまった。働かざるものだが、珈琲くらいは嗜好品として嗜ませてもらってもいいだろう、と、何処の誰でもない架空の人に許しを乞う。どうせインスタントだし。
 君が居なくなってから、僕は誰かに許しを乞わなくてはいられなくなってしまった。
 前日、一緒に笑いながらご飯を食べて同じ布団で寝たんだ。また明日ねって、小鳥が啄ばむようなキスをしたんだ。それなのに君はいなくなってしまった。影も形もない。あるのは戸籍と少しの荷物だけで、それは君が「過去に」存在したことしか教えてくれない。一切を慰めてはくれない。
 こんなことはあまりにも非現実で、無茶苦茶だと思った。例えば君に他に好きな人ができてその人と駆け落ちしたとか、そういうんだったら傷ついたけどまだ納得できたと思う。
 理解不能なほど理不尽だ、という事実は傷の傍にいつまでも居座り、かさぶたになった途端に剥がしてしまう。そうして、いつまでも生傷のまま僕を苛み続ける。
 珈琲を飲みながらそんなことを考えているうちに、生傷はどんどん深く抉れ広がっていき、僕が必死で築き上げたささやかな日々を壊してしまいそうになる。
 何もかもを投げ出して今すぐにベランダから飛び降りてしまえば。首を吊ってしまえば。医者に処方された薬を全部一気に飲み干してしまえば。
 そんな空想は一時的な逃げに過ぎない。でもそれでもいい、一時でも逃げ出したいし、それらを数珠繋ぎにして延々と繰り返したら、僕は永遠を作れるかもしれない。君の不在を否定するための世界に閉じこもれるかもしれない。
 僕の甘えを、しかし珈琲の苦さは許さない。僕が本当の意味で正気を失うことをけして見逃さないから、僕は空にしたコーヒーカップをおとなしく洗って流しに伏せて置いて、歯を磨き寝る前の薬を飲んできちんと眠る。
 君の居ないこの世界は正しくまわっていて、僕はそれにいつまで経っても馴染むことができない。果たして馴染むことが必要なのかどうかなんてわからないけど、でも、少なくとも僕は突然いなくなったりなんてしないで、ここにこうして正気のまま立ち続けている。

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