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第234号(2023年8月28日) アレクセイ・デューミンから見る「プリゴジンの乱」


【インサイト】アレクセイ・デューミンから見る「プリゴジンの乱」

 今週は時事ネタをちょっと離れて人物紹介的なことをしてみたいと思います。
 取り上げたいのはアレクセイ・ゲンナジエヴィチ・デューミンという人物。現在の肩書きはモスクワから200kmほど南に行ったところにあるトゥーラ州の知事です。
 ロシア軍事のことを扱うこのメルマガで何故、地方の知事を取り上げるのかといえば、この人物がプリゴジンとどうやら深い関係にあったらしいためです。以下、デューミンを軸としたプリゴジン像を見ていきましょう。

ボディガードとしてプーチンと関係を築く

 デューミンは1972年8月28日生まれ。ということは本号の発行日(2023年8月28日)をもって51歳となりました。割に若い政治家と言えるでしょう。
 生まれたのはウクライナに面したクルスク州で、父親は軍医としてかなり出世した人物であったとされます。デューミンは父親の勤める病院の向かいにあったヴォロネジ高等無線工学軍事学校という通信将校を養成する学校に進んで任官もするのですが、軍は1年で辞め、1995年には要人警護を担当する警護総局(GUO。後に連邦警護庁(FSO)と改称)に入っています。『コメルサント』紙の名物記者、アンドレイ・コレスニコフのインタビューに答えたところでは向こうからのヘッドハンティングだったようで、GUOの大統領通信局というセクションに回されたようです。チェルノムィルディン首相やエイリツィン大統領の出張に随行して重い通信機材の積み下ろしをしていたといいますから、出張中の要人がモスクワと常に連絡を取れるようにするのが仕事だったのでしょう。このあたり、通信将校としてのバックグラウンドが買われたものと思われます。
 ただ、その後のデューミンはGUOの花形任務というべきボディガードを務めるようになりました。最初の警護対象は当時のFSB長官だったプーチンで、2007年からはズプコフ首相の警護担当、その後、プーチンが一時的に首相に退いている間は再びプーチンの警護担当となりました。
 ちなみにロシアの大統領はボディガードと深い関係を築くことがよくあります。エリツィンは自分の不遇時代にずっとテニスの相手を務めてくれたコルジャコフを寵愛しましたし、プーチンも自分のボディガードを務めたゾロトフを大統領直轄の治安部隊、国家親衛軍(VNG)の総司令官に任命しています(ちなみにゾロトフはデューミンの上司でもあった)。
 プーチンは首相時代に自分の身辺を守っていたデューミンも気に入っていたようで、事実上はプーチンの秘書みたいな役回りを務めていたとも言われますが、コレスニコフのインタビューではデューミンはこの点を明確に否定しています。

謎に包まれたキャリア

 秘書であったのかどうかは別として、デューミンがプーチンに気に入られたことはたしかなようです。2012年には、FSOのボディーガード部門でも最精鋭の大統領警護局(SBP)副局長に取り立てられ、その少し後には新しく設立されたロシア軍参謀本部直轄の特殊部隊司令部、特殊作戦部隊コマンド(KSSO)を率いるようになりました。つまり、また軍に戻ってきたわけです。
 この当時、KSSOの下には二つのエリート特殊部隊がありました。一つは参謀本部情報総局(GRU)のスペツナズ部隊の中でも最精鋭であった第92154軍事部隊を参謀本部特殊作戦局(USO)の隷下部隊として改組した「セネーシュ」、もう一つは第92154軍事部隊を取り上げられたGRUが新たに設置した特別任務センター(TsSpN)、通称クビンカ-2です。
 この二つの精鋭部隊は、折り合いが非常に悪かったとされます。前者があくまでも「軍隊の特殊部隊」、すなわちスペツナズ部隊の流れを汲んでいたのに対し、後者は訓練教官をFSB対テロ・センターから招き、訓練や運用ドクトリンもFSB式の特殊任務部隊として組織されていたためです。FSB流の訓練を受けたクビンカ-2では独立と個人主義が重んじられたとされますが、これは軍隊的な集団主義を重んじるセネーシュからは苦々しくみられていました。例えばあるセネーシュ隊員は、クビンカ-2についてこんなふうに語っています。

「アルファ(筆者注:FSB対テロ・センター所属の特殊部隊)では何もかもが違う。連中は作戦の現場まで車で行き、50m走ってヒーローになる。ゲートルを巻いて山を這い回り、戦闘員を探し出そうなんて奴はいないんだ」

 KSSOの設立は、こうした特殊作戦部隊同士のカルチャー対立を解消することに一つの目的があったと見られており、その初代司令官に任命されたのがデューミンであったわけです。デューミンはあまり我の強くない調整型の人物であったから、という説明もありますが、コレスニコフとのインタビューを見るといかにも癖の強そうな人物で、ちょっと本当かなぁという気もします。しかし、組織運営者として有能であるとはみなされたのでしょう。
 そのデューミン率いるKSSOに最初の実戦の機会が回ってきたのが2014年2月。ウクライナの首都キーウで起きた政変(マイダン革命)後、ヤヌコーヴィチ大統領をロシアへと脱出させるとともに、クリミア半島を占拠するというのがその任務でした。投入されたのはセネーシュで、国籍マークを一切外してロシア軍であることを否定しながら活動したため、通称「緑の小人(リトル・グリーンメン)」などと呼ばれたことは有名です。
 デューミンはKSSOの活動に関して答えることをコレスニコフに対して一切拒否し、ヤヌコーヴィチとは会ったこともないと否定しました。ただ、デューミンはその後、陸軍第一参謀長に任命され、短期間ながら国防次官も務めました。KSSO司令官としてよほど大きな功績を上げたのではないか、という推測は成り立ちそうです。
 ここまでならば軍人の立身出世物語なのですが、2016年1月、デューミンは辞任したトゥーラ知事の代理として何故かプーチン大統領から指名を受け、同年9月のトゥーラ知事選で正式に知事に就任しました。以降、現在に至るもデューミンはこの職に留まっています。

プーチンの後継者候補?

 プーチンがお気に入りのボディーガードを特殊部隊の司令官に任命し、国防省内で出世させてから今度は知事としての政治経験を積ませようとした---とすると、デューミンがプーチンの後継者候補なのではないかという観測も当然のように持ち上がってきます。ただ、ロシアでは地方の知事経験だけで大統領になった例はなく、次に注目されるのはモスクワの中央政界で何らかのキャリアを積ませる動きがあるかどうかでしょう。
 これについては、2010年代中に多くの観測がありました。中でも2018年には、独立系ラジオ局「モスクワのこだま」のベネディクトフ編集長が「ショイグ国防相が近く辞任する可能性がある」と述べ、後任にデューミンの名前を挙げたことは有名です。

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