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「ヒーリングっど♥プリキュア」42話感想ーー主体と関係

はじめに

 ヒーリングっど♥プリキュア(以下、ヒープリ)42話は数々の論争を巻き起こした。ここでは、筆者が42話を視聴した感想を述べる。ここでは特にAパートに限定して感想を述べる。というのも、Bパートについてはさんざん論じられ尽くしている感があるからだ。また、Bパートの展開を踏まえて論じられた「のどか像」に対して筆者が若干の違和感を抱いており、その違和感を表明するために今一度Aパートについて感想を述べようと思ったしだいである。

 なお、筆者はそのすべての論争を網羅しているわけでもないし、一つの論点に関してすら十全に把握しているわけではない。ゆえに、すでに出ている議論の繰り返しになるかもしれないし、既存の議論に対して誤解があるかもしれない。その点はご指摘いただきたい。

「規範」と「理想」からの逸脱

 42話を巡ってなぜ論争が生じたか。簡潔にまとめると「グレースがダルイゼンを救わなかったから」である。これは主人公が敵を救わないということを超えている。なぜなら「プリキュアは最後には敵を赦す」というのが暗黙の伝統として存在しており、42話はその伝統とは異なる展開を見せたからだ。

 この展開は一部では大きな称賛を呼んだ。すなわち、「いままで虐げてきたものを赦す必要はない」「自分を犠牲にしてまでも赦しを与える必要はない」と。

 確かにそうだ。あの場面でダルイゼンを救うことは再びのどかが病魔に蝕まれることを意味しており、はっきり言ってそこまでしてやる義理はない。その意味では、のどかの選択は「正しい」。こと、女性が献身・自己犠牲といった従属的な位置に甘んじてきたという本邦のジェンダー間の権力勾配を踏まえると、女児アニメでこの展開を描いたことは意味のあることだ。

 しかし、のどかを「ポリティカル・コレクトな主体的女性」として祭り上げる議論には筆者は戸惑いを覚える。言葉を選ばずに言えば、それはやや近視眼的ではなかろうか、と。

 Aパートでのどかはふさぎ込んでいた。彼女は自己嫌悪を抱いていた。なぜか。「自分はダルイゼンを助けなかった。優しくなんかない」という旨のセリフから分かるように、「優しくあるべきだ」という規範からの逸脱に苦しんでいた。

 ポリティカル・コレクトの立場からはこんな慰めがかけられるだろう。「誰にでも優しくある必要はない」と。すなわち、のどかや私たちが飲み込まれている規範そのものに対して疑義を呈するあり方。

 確かに、この立場は重要だ。女性の権利向上運動、公民権運動、レインボー・アクション、多くのアイデンティティ・ポリティクスは社会的な「常識」に再検討を促すものだ。こうした動きがあったからこそ、不平等が少しずつ是正されてきた。

 しかし、これらの運動は人員を始めとした「資源」が存在するから運動として成立し、「常識」に対して挑戦状を突きつけることができる。多くの人は日常生活の中では、いかにそれが理不尽なものであっても「常識」に巻き込まれ、そこから逸脱する自分を見つけたとき自己嫌悪に陥る。のどかのように。

 また、のどかにとって「優しくない自分」を見つけることは、社会的な「規範」からの逸脱にとどまらない。なぜなら彼女自身、優しくなりたいと願っていたから。それは「規範」をフォローするだけではなく、彼女自身の体験から出た願い。「優しい自分」はのどかの理想像でもあった。

 つまり、のどかは決して「常識」や「規範」に対して正面からノーを突きつけたわけではない。彼女自身、規範に飲み込まれ、そこから逸脱する自分を嫌悪していた。また、「優しくない自分」を見つけることは現在の自分と理想の自分との隔たりを見つけることでもあった。

 ここで思う。

 のどかは叶うのならばダルイゼンを助けたかったのではないか?

 病魔への恐怖もダルイゼンを助けたいという想いも、どちらも本心ではないのか?

 ダルイゼンを助けるという「規範」と代償を天秤にかけ、助けないという選択をした。打算的な計算のために「理想」に殉じることができなかった自分を嫌悪しているのではないか(打算すら乗り越えて「理想」に殉じる選択をしたならば、それはそれで大いに主体的な選択であるように思われるがここではこの論点は措いておく)。

 さて、ここで確認しておきたいことは一つだ。

 のどかはダルイゼンを助けないという選択で傷ついていた。

 では、なぜのどかはBパートのような振る舞いができたのか。言い換えれば、彼女はどのように自己嫌悪を乗り越えたのか。ご承知のように、ラビリンが重要な役割を果たした。

ケア/承認

 ダルイゼンを救うための代償を恐れるのであればそれでいい。たとえ、それがいかに「規範」から逸脱していようとも、いかにのどかの「理想」を損ねるものであってもそれでいい。ガタガタ言うやつはぶっ飛ばす。

 過激なのどかフォロワーであるラビリンはそういう。このラビリンの態度こそが、のどかが自己嫌悪を乗り越える契機になった。

 先に述べたように、のどかはダルイゼンを助けないことで傷ついていた。そして、その背景には「病魔への恐怖」と「ダルイゼンを助けたい」という二つの相反する本心があったからではないかと考えられる。(「ダルイゼンを助けたい」が本心である故に自己嫌悪に陥る)

 二つの相反する本心が同居するということはよくある話だ(例えば、ダイエットとビッグマック)。ビッグマックを食べれば罪悪感が芽生えるし、ダイエットを選べばフラストレーションが溜まる。どちらを選んでも、なんらかの代償を払わなければならない。

 上記した卑近な例なら大したことではないが、のどかの場合、「自分の身体を選べば規範・理想からの逸脱者になる」、「規範・理想に殉じれば自分の身体を損ねる」というかなりハードな二択である。どちらを選んでも代償は大きい。だが、どちらかを選ばねばならない。

 ここで「規範そのものがおかしい」「自己犠牲を強いる理想像は歪んでいる」なんて言っても仕方がない。なぜなら、すでにそういう問いを突きつけられているからだ。そんな高所からの意見は届かない。

 であるならば、問いの形式を批難するのではなく、どちらを選ぶにせよ、選択に伴う代償を軽くすることが建設的ではないだろうか。それは、選択に伴う傷をケアし、選択を承認することにほかならない。ラビリンはその役を担っていたように思われる。そして、ラビリンのケア/承認ゆえに、のどかは自己嫌悪を乗り越え、Bパートのように「吹っ切れる」ことができたのではないだろうか。

エンパワーメント/主体/関係/レジリエンス

 筆者は、上記した点を踏まえ、「のどかは主体的な女性像を提示した」という見方に戸惑いを覚えている。少なくとも、「周囲の意見に流されない強い主体」という意味で「主体的な女性像」を理解するならば、それは少なくとも筆者ののどか理解とは異なる。

 なぜなら、すでに述べたように、のどか自身も傷ついていたからだ。献身や自己犠牲といった、一般に「女性的価値」と呼ばれるものも「本心」としてのどかの中に存在しているのだ。

 このような「女性的価値」は「呪い」とも呼ばれる。無論、「呪い」を解くことも大切だ。社会意識を変革しなければならないだろう。しかし、社会意識の変革を声高に叫んでも、「いま、ここで」傷ついた人がどれだけ救われるのだろうか、という疑念はある。

 傷にはケアが必要だ。たとえそれが場当たり的なものでしかなかったとしても、とりあえず必要だ。そしてケアとは、社会意識に投げかける言葉ではなく、目の前にいる「個人」に投げかけられる言葉なのではないかという気がする。いかに、あなたが逸脱していようとも、私はあなたの味方である。こうした言葉が必要であるように思われる。あなたを逸脱者たらしめる社会意識を変革しよう、という言葉はケアの後に必要なのではないだろうか。

 プリキュアシリーズと女性のエンパワーメントは切っても切り離せない。そして、42話への喝采は「主体の自己変革」としてエンパワーメントが描かれたことにあると感じられる。「規範」や「理想」を超えて、現に自分に大切なもの(42話の場合は身体)を優先する。確かに、エンパワーメントである。エンパワーメントは、「かくあるべし」という外部の批難に動じない、強い主体を志向する。

 しかし、筆者は、ヒープリ42話は「強い主体」よりも、「ケアする関係」を描いた話として読めるのではないだろうかと感じている。「傷つかない主体」ではなく、「傷を修復できる関係」である。ここではエンパワーメントよりもレジリエンスという言葉がしっくりくるように思われる。

 奇しくも、ヒープリのキーワードは「お手当て」であった。「お手当て」は可傷性を前提としている。「傷つかない主体」には「お手当て」は不要なのだ。

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