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青木れいかという人

はじめに

 スマイルプリキュア(以下、スマプリ)は前年に発生した東日本大震災の影響を受けて、一話完結が中心となる構成でした。そして、そのテーマもまた、震災の影響を感じさせるものです。

 それでは、どのようなテーマだったのでしょうか。それは、32話のキュアハッピーによるキュア問答が如実に体現しているように思われます。彼女は言います、「辛いこともある、しんどいこともある『しかし』私たちは前を向いて生き『たい』」と。

 打ちひしがれるような現実を前にしてもなお、自身の「願望」に従って未来を切り開こうとする意志。それこそがスマプリのテーマだったのではないでしょうか。過酷な現実は厳然としてそこに存在しています。しかし、それに対して「逆接」を用いて自己の欲望を提示する姿勢こそが、スマプリが1年かけて描いてきたものだったように思われます。

 さて、ここに青木れいかという女の子が居ます。眉目秀麗、才色兼備、歩く姿は百合の花。スーパー中学生を体現したような彼女。しかし、自身の「願望」については無頓着な女の子でした。

 いや、ある意味では彼女ほど意志が明確な人はいないとも言えるかもしれません。「道」フリークたる彼女にとって、願望とは「道を極める」ことに他ならないのですから。

 しかし、問題はその具体的な位相です。「道」とはなんなのでしょうか。逆に、「道」ではないものとはどのようなものなのでしょうか。どのような生き方が「道」に適っているのでしょうか。作品を見る限り、「道」と「正しさ」は概ね重複している概念のように思われますが、「正しさ」と「道」は同じなのでしょうか

 求道者たる青木れいかにとって「道」とは何だったのか。この問いを、スマプリのテーマたる「逆接」と「願望」に関連させながら考えたいと思います。

(以下では、れいかの主役回である16話、37話、43話を題材とします)

16話ーー「道」を探す

 なんで勉強をしないといけないのでしょうか。多くの人が一度は考えたことがあるような問いが16話では取り上げられていました。まぁ、それは主に彼女たちが勉強しないことを正当化するためではあるのですが。

 「将来困るからです」。れいかはこともなげに言います。そうです。勉強しなかったら将来困るんです。みんなそう言います。

 しかし、それは本当でしょうか。みんな納得してくれません。だって数学とか化学とか何の役に立つのかわかりませんし、学校の勉強ができなくても困っていないように見える人はたくさんいますから。

 それを踏まえてもう一度質問してみましょう。どうしてれいかはそんなに勉強を頑張るのでしょうか。彼女は答えられませんでした。

 れいかは「良い子」です。朝の日課のジョギングは欠かしませんし、お母さんのお手伝いもします。弓道部でも一生懸命練習をしますし、副会長としての役割も果たします。もう一片の曇りもなく「良い子」なのです。

 こうした取り組みが「道」に適うのであればよいでしょう。しかし、どこか彼女に不満が残ります。だって、全部人に言われて始めたことなのですから。「自分がやりたいから」ではないのです。こうした取り組みは「正しい」かもしれませんが、コンクリートで舗装された道のようで面白みがありません。

 だから、全部やめてみることにしました。でも、それもお爺さまに言われたからなんですよね。れいかさんにとってはお爺さまはとても大きな存在です。だから、そのお爺さまが言うようにやめてみました。

 16話で描かれる「道」とは、れいかさんにとっては外部の基準によって形作られるものでした。社会通念やお爺さまや周囲の勧め。一般的な「正しさ」が「道」としてれいかに提示されていたと言えるでしょう。

 もちろん、16話の戦闘中に暗誦した高村光太郎の「道程」のように、こうした「道」のあり方は相対化されます。勉強には進学やテストとは異なる、他の使い道や他の意味があることに気づきます。

 しかし、今話では彼女は従来の「道」を相対化したに過ぎません。必ずしも「正しさ」が即「道」になるわけではないと気づいたに過ぎません。これは大いなる一歩ですが、オルタナティブな「道」を提示するには至りませんでした。

 そして、この弱点が露呈してしまうのが37話でした。

37話ーー「道」を伝える

 とんてもない生徒会長候補が現れました。勉強廃止、飲食自由、ゲームやり放題。とんでもなく魅力的なマニフェストを掲げる人びとが立候補したもんです。

 こうしたマニフェストは魅力的です。実現可能性は置いても、求心力は凄まじいものです。実際、生徒たちは狂喜乱舞しております。

 しかし、そこに待ったをかける人がいます。青木れいか、その人です。

 こうした公約は魅力的ですが、「正しい」ものでしょうか。きっと「正しい」とは言えないでしょう。こうした公約は「学校は何をする場所なのか」とか、「宿題は意味があるのか」とか、そんな高尚なことを考えなくても、直感的に「マズイ」とわかるようなものです。だかられいかは反対します。「いけません!」と。

 こうしてれいかも生徒会長に立候補するのですが、彼女は「道」を提示することができません。それもそのはずです。だって16話では、従来の「道」を相対視することはできましたが、確固たる「道」を掴むところまでには至ってないのですから。だから、「何がいけないか」は直感的に分かったとしても「これが正しいのです」、「これが道なのです」ということを積極的に提示することができません。

 そんな彼女が捻り出したものが「清く、明るく、美しく」です。具体的には校内清掃の徹底、あいさつ活動、花壇のお手入れだそうです。確かにこうした活動は「正しい」のかもしれません。ウルフルンたちの公約が直感的に「正しくない」と理解できるように、れいかの公約も直感的に「正しい」気がします。

 なぜれいかの公約が直感的に「正しい」と理解できるのでしょうか。それは、「清く、明るく、美しく」は、私たちが無意識的に従っている「正しさ」に準拠しているからです。しかし、無意識的に従っているということは、ある意味では「当たり前」と言えるでしょう。れいかはここでは「当たり前」をなぞることしかできていないのです。

 彼女の演説を聞いている生徒の反応は芳しくありません。れいかはここで何を伝えなければならないのでしょうか。それは、「なぜそれが『正しい』と思うのか」という彼女自身の気持ちに他なりません。何も突飛な「正しさ」を提示する必要はないのです。なぜそれが「あなた」にとって「正しい」のか。その切実さを伝えることが大切なのです。その「正しさ」を「正しさ」たらしめる「願望」こそが伝えなくてはならないものなのです。

 「皆さんとの学校生活を豊かなものにしたい」。れいかは演説でそう述べます。これこそが彼女の「願望」に他なりません。迂遠な要因連関かもしれませんが、この「願望」に適うから「清く、明るく、美しく」は「正しい」のです。一見するとレディメイドな「正しさ」に見るかもしれませんが、その背景には「正しさ」を自分が決めようとする姿勢が見え隠れします。何が「道」であるかを自分で基礎づけようとする志向が垣間見えます。

 そして、43話ではこの志向が、最高潮の形で結晶化されるのです。

43話ーー「道」を拓く

 れいかがイギリスに留学するようです。あっちじゃ買えないかもしれないから味噌や醤油を持たせないといけませんね。お兄さんも果たせなかった留学が決まるなんて素晴らしいことじゃないですか。でも、どこか彼女の表情は晴れやかではありません。

 そもそも、どうしてれいかは留学したいのでしょうか。「自分の可能性を試したい」のだと言います。「そういう経験が宝物になる」とお爺さまも言ってくれています。だから、留学したいのです。だから、それが「夢」なのです。

 そしてその夢が叶いました。みんな喜んでくれました。家族も、先生も、友達も。「光栄です」といいます。とても浮かない顔で。弓道の調子もあまり良くありません。全然「サン! サン!」してません。

 なぜ? お爺さまも後押ししてくれてるし、自分も留学したいし、みんな喜んでるし、なぜそんなに浮かない顔をするのですか? それがあなたのやりたいことだったんじゃないですか? それこそがあなたの「道」なのではないですか? ここにきてみんなを裏切るのですか? それこそあなたの「道」に悖るのではないですか? なにを迷う必要があるのですか? みんなもきっと悲しいのに、友達を応援するためといってあなたを笑顔で送り出そうとしているのですよ? あなた一人が「正しさ」から逸脱して良いのですか?

 ジョーカーが言うことはもっともです(ジョーカーが上記全てを言ったわけではないですが)。留学するのが「正しさ」であり、「道」に適うのであればれいかはそこまで悩む必要なないはずです。「道」フリークらしからぬ態度を見せます。みんな気丈に振る舞っているのですから、それに応えるべきなのではないでしょうか。

 さて、少しれいかからみゆきたちに視点を移してみましょう。この場合、みゆきたちはどのように振る舞うのが「正しい」のでしょうか。それは問うまでもありません。れいかが留学したいならそれを笑って送り出すのが友達の役目です。それは「ふたりはプリキュア」の時代から変わっていません。

 ですが、ここに一人、駄々をこねる子が居ます。

そんなの嫌クル! キャンディはれいかと一緒に居たいクル! みんなはそれでいいクル!? キャンディは嫌クル!

 それがキャンディの「願望」です。そして、「願望」の発露は伝染します。

そう、友達だから。私たちが笑って送り出してあげなきゃ

 みゆきは友達としての役目を全うしようとします。

笑って…。笑って…

 みゆきは友達としての「正しさ」に従おうとします。

ごめん…。やっぱ無理…。

 っっっっっったりめーだろ!!!!

 失礼。

 これがみゆきの「願望」です。笑って見送ることが友達としての役目だと知っていても、そんな「正しさ」には従うことができません。嫌なものは嫌なんです。

 これを「別の正しさ」として称揚するつもりはありません。そりゃそうじゃないですか。留学メンバーに選抜されたという経歴を棒に振ってほしい、という欲望がどうして「正しい」のでしょう。

 でも、でも、です。それが「正しくない」ことだとしても、「正しさ」に従うよりかはよっぽどマシです。これが「正しくない」のであれば、私は「正しくなさ」に殉じる。それが「願望」です。前論理的な話なのです。

 さて、檻の向こうではみんなが欲望を垂れ流しにしています。次はれいかの番です。

私も…行きたくない…

 れいかが少しずつそれまでの「道」から外れようとしています。

私も…行きたくないです…

 れいかが少しずつ新しい「道」を拓こうとしています。

私も、行きたくない! もっとみんなと一緒に居たい! みんなと別れて離れ離れなんて、そんな、そんなの、そんなのやだ!

 言えたじゃねぇか…(恍惚)

 失礼。

 これがれいかの「願望」です。そしてこれは大いなる一歩です。

 16話では社会通念に沿った「正しさ」を相対化する視点を得て、37話では社会通念と合致する「正しさ」を「正しさ」たらしめる「願望」に気づくことができました。

 しかし、43話は違います。明らかに社会通念上の「正しさ」とれいかの「願望」は合致していません。そして、彼女は後者を選択しました。「正しさ」から逸れたのです。

 さて、実はここまでの記述では「正しさ」と「道」はほとんど同義の語彙として使用してきました。だって、作品でも両者はかなり近い概念として使用されていますからね。

 だから、「正しさ」から逸れたれいかに向かってジョーカーは問います。「道を見失いましたか!?」と。周囲の人びとの喜びを裏切り、輝かしい経歴を棒に振る。そんなの普通に考えれば「正しくない」です。なんだか「道」からも逸れているように見えます。

 しかし、「正しさ」と「道」は本当に同じなのでしょうか。そんなことはありません。

いいえ、見つけたのです

 上述のジョーカーの問いかけに答えます。

寄り道、脇道、廻り道。しかしそれらも全て「道」

 自分、涙いいすか…?

 失礼。

 脇道に逸れに逸れてもとの道に戻って来れないことがあるかもしれません。廻り道ばかりしてたら行き止まりになることもあるかもしれません。その意味で、「正しくない『道』」は世の中にたくさんあります。

 しかし、正しくなくとも「道」は「道」なのです。「道」を「道」たらしめるのは「正しさ」でないのです。その一歩を踏みしめる強靭な意志と、その意志の軌跡こそが「道」なのです。すなわち、「それは『正しくない』かもしれない、『しかし』、私はこの方角に進み『たい』」。これが「道」を「道」たらしめるのです。

私が歩く私の道。私が決める私だけの道。たとえそれが、遠回りだとしても。これが嘘偽りのない、私の想い、私のわがまま、私の「道」です

 「想い」や「わがまま」という「欲望」を携えて、彼女はまさに「道」を拓きました。

おわりに

 そういえば、彼女はどうして変身したんでしたっけ。5話でれいかがキュアビューティに変身した際のセリフを引用しましょう。

私は、この七色ヶ丘中学校生徒会副会長、青木れいか。あなたがたの校内での乱暴な振る舞い、生徒会副会長として見過ごせません。いいえ、私、青木れいかが許しません!

 生徒会副会長として、校内で暴れるマジョリーナを止めようとしたから彼女は変身できたのでしょうか。

 いいえ、違います。みんなの思いが詰まった人形劇を足蹴にするマジョリーナが許せなかったのです。その怒りは「生徒会副会長」ではなく、「青木れいか」の名のもとに発せられたものです。

 なにやら、キュアビューティになったこと自体が青木れいかの「願望」と切り離せないような気がしてなりません。

 さて、青木れいかにとって「道」とは何だったのか。その問いに対する結論はここまでの記述を読んでいただければ何となく分かると思います。あえて簡潔にまとめるとするならば、「『願望』に殉じた生き方」と言えるのかもしれません。そして、こうした「道」のあり方が輝くのは、社会通念に「逆接」を叩きつける場面に他なりません。

 これは安易な相対主義ではありません。だって「正しくない道」もあり得るのですから。「道」に殉じることは必ずしも「正しい」とは言えないのです。しかし、社会通念に航してまで自身の「願望」に殉じようとする姿勢は、それが他者に危害を加えない限りにおいて尊い実践のように思われます。

 かといって、個人主義でもありません。みゆきの「願望」に触発されてれいかが自身の「願望」を発露することができたように、他者とつながる回路は存在しています(もちろん、こうした回路が常に存在しているわけではないかもしれませんが)。他者に触発されて見つかる「道」もあり得るのです。

大切なもの それはあなたの 心が持っています愛する その気持ち 忘れないでください (「あなたの鏡」)
明日へつづくこの道 時に険しいけど 歩いてゆきましょう 痛みは強さへの結晶 みんなで乗り越えてゆく (「明日へつづく道」)

 私たちの「道」を切り拓く原動力が「心」に存しているというのは言い過ぎでしょうか。逆境に瀕してもなお歩いてゆく時、「道」が輝きを増すというのは間違っているでしょうか。

全く意味が分かりませんけど…分かりました!

 ああ……。そうですか…。

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