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「お婆ちゃんの宝物」とは何だったのかーー『スマイルプリキュア!』27話について

はじめに

 『スマイルプリキュア!』27話はみゆきのお婆ちゃんの宝物をめぐるお話でした。

 みゆきのお婆ちゃんの家にお泊まりに行くプリキュアメンバー。お婆ちゃんが住む場所は交通が不便で、家に着くまであかねがへばってしまうほどの道のりを歩かないといけません。

 こんなところに住んでいて、もしお婆ちゃんの身に何かあったら大変です。だから、ここを離れて一緒に住もうよ、とみゆきはお婆ちゃんに提案します。

 みゆきが言うことはもっともです。病院までどうやって行くのか、身の回りのお世話はどうしたらいいんだろうか。農山村に住む高齢者をめぐる問題としてはとてもリアルなものです。

 お婆ちゃんはみゆきの提案を断ります。「ここには私の宝物があるから」と言って。しかし、その宝物の正体を教えてくれることはありませんでした。

 濃密な人間関係、先祖代々の屋敷や田畑、美しい自然。「お婆ちゃんの宝物」とはこうしたものかもしれません。しかし、もしそうならば別にみゆきに秘密にすることはないでしょう。

 「お婆ちゃんの宝物」とはいったい何でしょうか。

河童と天狗

 お婆ちゃんが住む村には綺麗な沢があります。野菜やスイカを冷やすのに適していることから、湧水地からほど近いのでしょう。また、このことはお婆ちゃんが山村に住んでいることを示唆しています。

 綺麗な沢ですが、何やら物騒な言い伝えがあるようです。曰く、「河童に引っ張られるよ」とのこと。どうやらこの沢には河童が出没して、遊んでいる子どもを水中に引きずり込むというではありませんか。

 ですが、河童も話がわかる奴です。きゅうりをあげればそんな悪戯はしないようです。物語冒頭、お婆ちゃんに促されてみゆきがきゅうりを沢にながし、河童に呼びかけました。

 「河童なんて本当にいるのか」という疑問があるのかもしれません。この点はとても重要ですが、一旦ここでは棚上げにします。この河童をめぐる描写で私が注目したいのは、みゆきやお婆ちゃんが「河童がいるかのようにふるまっている」という点です。

 また、物語終盤では天狗の存在にも言及されています。スーパーアカンベェがお婆ちゃんの家に火球を放つのですが、その時、突風が山から吹き(「天狗風」)その火球を消してしまうのです。

 みゆき曰く、「天狗風」は天狗が団扇をあおぐことで吹いたもののようです。そしてその話もお婆ちゃんから聞いた、とのこと。

 繰り返しますが、ここでも「天狗が居るのか」ということは一旦置いておきます。重要なのは、突風に対して「天狗の存在」を感じとる心性なのです。

 ひとまず、ここでは「みゆきのお婆ちゃんは河童や天狗の存在を信じている」ということを確認しておきましょう。

 ただし、河童や天狗の存在は多くの人にとって信じられるものではないでしょう。それなのにお婆ちゃんは信じている。それはなぜでしょうか。

「百姓は米を作らず田を作る」

 お婆ちゃんの家の庭先には菜園があります。プリキュアシリーズには珍しく、面積もそれほど大きくなく、なんとか手作業で手入れができそうな大きさです。

 ところで、農業とは何を作っているのでしょうか。米、野菜、果実、花卉。答えは色々あるかもしれません。しかし、本当に農家は米を「作っている」のでしょうか。それとも、米は自ずと「育つ」のでしょうか。

 もう少し説明しましょう。宇根豊という人はこんなことを言っていました。「百姓は米を作らず田を作る」と。宇根さんが言いたいことは、「米」とはあくまでも自然の恵みを受けて「自ずと育つ」ものであって、人間は「田」を作ることで「米」が育つ環境を整えることしかできない、ということです。ここには農作物を「生産物」と捉えるのではなく、「恵み」として捉える視点が示されています。

 作物を「恵み」と捉える視点が後退するようになったのは、農業基本法成立以後、農業の効率化やそれに伴う兼業化が大きな影響を与えているのですが、ややこしい話なので置いておきます。とりあえず確認しておきたいのは、「恵み」という視点は、自然と人間が濃密に交わっていたからこそ成立していたということです。それは、スイカを冷やすのに冷蔵庫ではなく、沢の水を使用するような、そんな自然と人間の関係性のことです。こうした自然との関係性のなかで生活していたからこそ、自然の背後に「『恵み』をもたらすものの存在」を見出すことができたのです。

 こうした点を踏まえると、みゆきのお婆ちゃんが自然の中に河童や天狗の存在を見出していることは、彼女が自然と濃密な関係性を持ちながら山村で生活していたことを示唆しているように思えてなりません。

「生命の歴史」と「神」

 お婆ちゃんは立派なお屋敷に住んでいます。一人では持て余しそうなお屋敷ですが、きっと先祖代々受け継いできたものなのでしょう。

 説明するまでもないことですが、「ご先祖様」とはもう亡くなってしまった私たちの親族のことです。ところで、「ご先祖様」はどこにいるのでしょうか。

 よく言われるのが人は死んだら「山の方に登っていく」というものです。人が亡くなり、年季法要が行われ、「弔いあげ」という段階を経ると死者の魂は山の方に登って行き、他の「ご先祖様の魂」と合流する、というものです。つまり、「ご先祖様」とは一人一人の死者を指すのではなく、一人一人は区別がつかない「集合体」なんです。こうした集合体としてのご先祖様を「祖霊」と言ったりもします。

 柳田國男という民俗学者は、山に登った祖霊は山の神となり、春になると山から下りてきて田の神になると言っています。そして冬になるとまた山に戻って山の神になるとのことです。この点を踏まえると、農山村に住まう人々は、自然に包絡されていると同時に、「ご先祖様(=祖霊)」にも包絡されている世界で生活しているのです。

 「祖霊に包絡された世界」というのは一種の歴史性の存在を示唆しているものですが、内山節という哲学者は「生命の歴史」という歴史観を提唱しています。曰く、歴史には①客観的事実を連ねた「知性の歴史」、②「技」をはじめとした身体技法を継承する「身体の歴史」、③「魂」や「霊」という言葉に仮託され受け継がれる「生命の歴史」があり、近代化は「知性の歴史」が優位になり、「身体の歴史」と「生命の歴史」が衰退する過程であった、と。

 「生命の歴史」とは捉えることが難しいものです。なぜならば、「生命」は目に見えるものではないからです。だから人々は「生命の流れ」をいろいろなものに仮託してきました。「祖霊」を「山の神」や「田の神」として崇めるのもその一つと言うことができるでしょう。

 お婆ちゃんがいう河童や天狗も「生命の歴史」が仮託された対象の一つなのではないでしょうか。自然とともに生きた「ムラ」という共同体における日常生活の時間的蓄積が「河童」や「天狗」の物語を織りなしたのではないでしょうか。

 さて、準備が整いました。そろそろ「お婆ちゃんの宝物はなんだったのか」という話をしましょう。

お婆ちゃんの宝物は何か

 お婆ちゃんの宝物とはなんでしょうか。私はそれは「生活に裏打ちされた世界へのまなざし」だと思います。内山節の言葉を使って説明すれば「自然との濃密な関係性から生まれ、河童や天狗に仮託された『生命の歴史』が蓄積した世界を見出すまなざし」とでも言えばよいでしょうか。

 みゆきはお婆ちゃんにとっての宝物は村の豊かな自然、そしてそこで営まれる生活ではないか、と予想していました。これはきっとその通りでしょう。

 しかし、お婆ちゃんにとって村での生活が宝物である理由は、豊かな自然があるということに尽きるものではなく、その自然のなかに「河童」や「天狗」の存在を見出す「心性」であり、「世界観」であり、「世界へのまなざし」が重要であるように思われます。そしてこうした「世界へのまなざし」は沢や山で育まれた自然との相互作用を前提としているように思われます。

 内山節の議論を援用するならば、「河童」や「天狗」は「生命の歴史」が仮託された対象なのではないかということは先に指摘しました。これを踏まえると、「河童」や「天狗」を見出すお婆ちゃんの「世界へのまなざし」は、「生命の歴史」を捉えるまなざしに他なりません。彼女のまなざしが捉える村の世界の全体像、それこそが「お婆ちゃんの宝物」なのではないでしょうか。

 お婆ちゃんはみゆきに宝物について秘密にしていました。しかし、もし彼女の宝物が「生命の歴史」に関わるものなのであれば、それは「秘密」にする以前に、言語化不可能なものです。なぜならば、言語はそれ自体が「知性」に属すものであり、「生命の歴史」は「知性」では捉えることが難しいからです。

 しかし、それではお婆ちゃんはその「宝物」を誰にも伝えることができないのか、といえばそうではありません。共同体が「神」や「河童」や「天狗」に「生命の歴史」を仮託するように、お婆ちゃんは「河童の物語」や「天狗の物語」に彼女の「世界へのまなざし」を仮託しているように思えます。そして、みゆきがきゅうりを沢に流すのをみても分かるように、彼女の「宝物(=世界へのまなざし)」は確かにみゆきに受け継がれています。

 「河童」や「天狗」が居るのかどうか。今話に対してこうした問いを投げかけるのはあまり意味があるものではないでしょう。それは「知性」に属することがらです。むしろ、私たちが今話から受けとるべきは農山村という生活空間を背景に成立した世界認識、「知性」の外側に存在することがらが存在しているということであるように思われます。

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