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黄瀬やよいの「聖なる時間」

 『スマイルプリキュア!』19話「パパ、ありがとう! やよいのたからもの」は「記憶」を巡るお話でした。

 今話の主役、黄瀬やよいはパパを5歳のときに亡くしています。今ではパパとの生活のことを覚えていません。ママが「パパはあの性格でしょ」といっても、それがどんな性格か、いまいち実感を持って想起することができません。

 「記憶」というのは困ったもので、どんどんなくなります。たとえば、私は2週間前の晩御飯に何を食べたか覚えていません。ラーメンを食べたような気もするし、麻婆豆腐のような気もする。ハンバーガーだったかも。覚えていません。

 覚えていないとはどういうことか。思い違いをすることができます。たとえば、本当は3週間前の晩御飯だった麻婆豆腐を、2週間前の晩御飯と思うことができます。私が「2週間前の晩御飯は麻婆豆腐だった」と言い、誰もそれを訂正しなければ、本当の晩御飯はラーメンかもしれないのに、麻婆豆腐ということになります。

 また、本当は3週間前には「麻婆豆腐とレバニラ」を食べたかもしれないのに、「レバニラ」の存在が欠落してしまう可能性だってあります。

 すなわち、「客観的事実」としては「3週間前の晩御飯は麻婆豆腐とレバニラ」、「2週間前の晩御飯はラーメン」が正しいのに、「私の主観的事実」としては「2週間前の晩御飯は麻婆豆腐」と思いこむことができます。このように、「思い違い」や「欠落」を経て、「客観的事実」は似ても似つかない「主観的事実」に化けることがあるのです。

 私たちが普段「記憶」と呼んでいるものは必ずしも「客観的事実」とは限らない「主観的事実」に過ぎないのです。(「客観的事実」とは「本当にあったできごと」を意味しており、「主観的事実」とは「『本当にあったできごと』と思っているできごと」を意味しています。)

 さて、やよいはパパのことをほとんど覚えていません。そこで彼女は不安になります。「パパは私のことをどう思っていたのかな」と。つまり、ここでは、「パパと私の関係性」が忘却され、空白の状態になっているのです。

 今話の中心的な物語は「やよいがパパの記憶を思い出す」ということにあります。そして、彼女はそれを果たします。二人だけの秘密の結婚式と、彼女の名前の由来とともに、パパから愛された記憶を鮮烈に思い出すのです。

 しかし、先程も説明したように、「記憶」とはあくまでも「主観的事実」であって、「客観的事実」とは異なります。

 やよいは思い出します。パパとの日々を。肩車して歩いたことを。ベンチで食べたソフトクリームを。これらは「ゴツゴツした大きな手」という、記号化された「パパ像」とは質的に異なる、彼女とパパとの固有の経験を示すひと時です。そして、二人だけの結婚式と、ママである「千春」と関連した「やよい」の由来を思い出します。

 しかし、これらのできごとは「やよいが思い出したこと、やよいの記憶(=やよいの主観的事実)」であって、「客観的事実」とは限りません。彼女が思い出したパパの言動は「実際にはそんなことはなかった」のかもしれません。少なくとも、原理的にはその可能性は否定できません。

 それでは、やよいが思い出したパパとの記憶は客観的事実とは限らないから疑わしいものであり、無価値なものなのでしょうか。

 んな馬鹿な話があってたまるか。

 やよいにとって「私とパパとの関係性」は空白でした。しかし、彼女は「パパは私たちを愛していた」ことを「やよいの主観的事実」として認定し、「愛し、愛された私とパパ」という関係性を見出します。

 物語で描かれたパパの言動はやよいの記憶にのみ依拠しているがゆえに「客観的事実」としての強度はそれほど持ちません。しかし、丘の上の教会のできごとが「主観的事実」としてやよいの前に立ち現れるとき、彼女とパパの関係性は変容するのです。「パパは私のことをどう思っていたのかな」という問いは雲散霧消し、「パパは私のことを愛していた」と断言することができます。空白だった関係性に「愛情」が注ぎ込まれるのです。

 さて、今話のやよいと彼女のパパのエピソードは何を物語るのでしょうか。私は「『記憶』を媒介した死者との交感」を見出すことができるように思いました。「記憶」はとどのつまり主観的事実に過ぎず、思い違いや欠落という欠点があります。しかし、こうした欠点を有するからこそ、客観的事実とは異なり、可変的なものになります。

 誰かが亡くなったとき、その人と私たちの間には金輪際「新たな客観的事実」が蓄積されることはありません。しかし、過去の「客観的事実」は「思い違い」や「欠落」を経て、「新たな主観的事実」へと生まれ変わることができます。死者と私たちの間に「新たな主観的事実」がたち現れるとき、死者と私たちの関係性は変容し得るのではないでしょうか。

 かつて、宗教学者であるエリアーデは「聖なる時間は本質的に逆転可能である」と述べました。今はなき死者との関係性が変容する瞬間は、ある意味では時間が逆転した、「聖なる時間」と言うことができるでしょう。

 教会のチャペルの音を聞いたとき、やよいはパパとの関係性を紡ぎなおす「聖なる時間」を経験していた。そう思えてなりません。

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