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「ひびかなてーてー」という話ーー「スイートプリキュア♪」6話と7話

はじめに

 『創世記』によると、神は6日で世界を創造し、7日目には安息したという。もちろん、これはノンフィクションではなく、一つの物語である。しかし、神の全能性を端的に示す秀逸な物語であるように感じられる。

 もしも現代に『創世記』と比肩する物語があるならばそれは何か。筆者は、それは「スイートプリキュア♪」であると信じて疑わない。北条響と南野奏は6話まで衝突を繰り返したが、7話にして揺るぎない目標を共有する。7話目にして視聴者である筆者の胸に安寧と秩序と平穏が訪れた。

 ひびかな。それは慈悲である。彼女たちの声は加音町の調べとなり、私の胸に潤いをもたらす。

 ひびかな。それは安逸である。春眠から覚めたまどろみのように心地よく、私の胸に平穏をもたらす。

 ひびかな。それは尊厳である。てーてー。ひびかなてーてー。

◇  ◇  ◇

 筆者は現在、「スイートプリキュア♪」(以下、スイプリ)を視聴している。まだ7話までしか観ていないが、すでにひびかなに持っていかれた感がある。

 7話はスイプリにおいてエポックメイキングな話であったように思われる。なぜなら、いつも喧嘩ばかりしていた二人が、戻るべき理想としての「あの頃」を共有したからである。もちろん、6話までの喧嘩でも彼女たちは何かしらの合意に達し仲直りをしていた。しかし、それはネガトーンに対処するためであったり、レポーターの仕事を断るためであったり、総じて手段的で、場当たり的な仲直りであったように思われる。ある種の停戦協定とでもいえば良いだろうか。

 一方、後に詳述するが7話の仲直りはやや毛色が異なっている、そして、6話は7話に対する伏線として機能している。筆者は、6話、7話の物語展開は、私たちの現実の人間関係を省察するにも非常に有効な教材になると考えている。そこで、スイプリ6話、7話では何が描かれているのか、これについて筆者が思うところを説明するのが本稿の目的である。

スイートプリキュア6話ーー分かりあえない苦しみ

 人が人間関係において感じる苦しみは何か。これは一つに絞ることができるものではない。しかし、思いが通じず、誤解され、空回りすることは社会的動物たる私たちにとって根深い苦しみを与えるように思われる。

 スイプリ6話は奏の弟、奏太が中心であった。彼はいたずら好きで、言うことを聞かない、典型的な「悪い子」である。しかし、実は姉を想い、同級生を想う「優しい子」でもある。「悪い子」としての側面は彼の処世的な側面にすぎず、人間としての本質は「優しい子」の部分に根ざしている。そんな印象を与える男の子である。

 奏太はその悪さゆえにいつも奏から叱られる。しかし、彼はいつもケロッとしている。なぜなら「悪い子」としての側面は彼の表面的な部分でしかないから。いたずらをして叱られることは一つのゲームでしかない。そこでは何も損なわれない。奏が奏太を愛し、奏太が奏を愛しているという自明性に支えられたゲーム。

 奏太の「優しい子」として側面はカップケーキに象徴されている。確かに、そこにはワサビといういたずら心も添えられているが、いたずらだけでキッチンをあんなにするほど頑張ったりはしないし、響に協力を頼んだりしない。カップケーキは奏太が抱く奏への想いのあらわれに他ならない。

 なのに、なぜ。

 奏が奏太を厳しく叱った時、何かが損なわれた。このカップケーキに奏太の「優しい子」としての側面が詰まっているならば、カップケーキを作る過程は奏太の本質的な側面の表出過程としてみることができる。奏はそれを否定した。奏太の「優しい子」としての側面を。奏太の奏に対する想いを。

 確かに、それは奏が意図したことではない。しかし、奏太は泣いている。ゲームの自明性は崩れ、これまでの叱りの蓄積が間欠泉のように溢れる。判断は過去へと遡行する。あの時のあれはゲームではなかったのではないか。お姉ちゃんは俺のことが嫌いなんだ。

 もちろん、物語は無事収束する。「悪い子」と「優しい子」の区別は温存され、ワサビの辛みを知覚することでゲームは再開する。思いが通じず、誤解され、空回りすることは苦しみであるという教訓を私たちに示し、南野姉弟は損なわれたものを修復したのである。

スイートプリキュア7話ーー分かりあう歓び

 分かりあえない苦しみを描いたのが6話だとすれば、7話は分かりあう歓びへと至る過程を描いたといえるだろう。

 物語は奏の日記をもとにした回想形式として進行する。大人の配慮から一日を二人で過ごすこととなったひびかな。人形を音吉さんに返すという共通の目標があるはずなのに、なぜかいがみ合ってしまういつものひびかな。

 なぜ彼女たちはこれほどまで喧嘩を繰り返すのだろうか。「安心して喧嘩ができる」と奏はいう。そう、彼女にとってこれもまた一つのゲームなのだ。信頼感にもとづいたゲームなのである。

 しかし、彼女たちはあまりにも表現が下手すぎるように感じられる。そこに信頼感があるのは確かだが、信頼感を喧嘩という形でしか表出できない。拳を交えなければ分かりあえない戦闘狂的姿勢はあまりにも痛々しく、青い。

 昔はそうではなかった。好きを好きとして、嬉しいを嬉しいとして表現することができた。公園で二人の奏でるピアノの遊具が和音を響かせたとき、二人は「あの頃」を思い出す。あまりにも輝いて、愛おしくて、瑞々しい幸福に包まれた「あの頃」。

 二人は「あの頃へ戻りたい」と望む。それはいままでの場当たり的な停戦協定としての合意ではない。恒久的に求められるべき理念として措定された「あの頃」。二人がお婆さんになっても一緒にピアノを弾くために不可欠な「あの頃」。願望が共有された時、二人は分かりあえたのではないだろうか。

 でも、どうやって? どうやって「あの頃」に戻ればいいのだろう。

 なんでも話す。これが二人が出した結論であった。3本目の桜の木にあなたが来なかった日からのことを話せばいい。好きな人のことを、夢を、嫌いなところを、おんぶして欲しいということを話せばいい。あまりにも凡庸な結論ではあるが、それは確かに「あの頃」へと至る道だ。

 スイプリにおいて、二人の試みが成功するかどうか筆者にはまだ分からない。しかし、二人の人間が願いや想いを共有し、そこへ至ろうとする姿勢はあまりにも尊い。「ひびかなてーてー」である。

 奏は記す。この日が大切な日であったと。「二人にとって」大切な日であったと。筆者は首肯することしかできない。人と人が関わり合うことの意義を示す一日である。

おわりに

 神は一日目に「天に光あれ」と唱えた。言うまでもないが、「光」とは「ひびかな」のメタファーである。

 スイプリ7話は分かりあう歓びを謳う福音であった。しかし、それは6話で分かりあえない苦しみを描いたからこそ、より強い輝きを発しているのではないだろうか。

 他者は苦しみの根源かもしれない。しかし、厳然として他者はそこに存在している。であるならば、他者がいるがゆえの歓びを志向しよう。語り合い、分かりあおう。

 繰り返す。スイプリ7話は福音である。ひびかなは他者地獄を変革する一条の光に他ならない。

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